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幕末の和歌山

幕末の紀州藩は将軍(家茂)を出し、最後の藩主茂承(もちつぐ)は第二次征長戦の先鋒総督を務めた。市立博物館館長のお話によれば、紀州藩は御三家であるので佐幕だが、地理的に京都に近く、朝廷の動きに敏感にならざるをえなかった。このため、鳥羽伏見の戦いでも旧幕軍の味方につくかどうかで議論が定まらなかったが、ようやく旧幕軍につくと決まったのが1月4日。旧幕軍の敗走が始っており、紀州藩は戦に藩兵を送ることはなかった。新政府軍側についた紀州藩は朝廷側に対して、藩境を封鎖して敗走する旧幕軍を一兵たりとも和歌山に入れないと報告したが、実際は匿い、ひそかに脱出させていた。

◆ 佐々木只三郎墓所/紀三井寺

紀三井寺(精浄水・揚柳水・吉祥水という紀州で有名な霊泉−井戸−が三つあるので紀三井寺)は西国33所観音霊場の一つ。10世紀創建。国重文の楼門から本堂までは石段230余・・・かなりキツイ^^;。

      

本堂裏山をさらに登ったところ(滝の坊)に、坂本龍馬暗殺を指揮したといわれる見廻組隊長佐々木只三郎の墓所がある。佐々木は会津藩士の次男であり、幕臣に養子にはいった人物である。会津藩公用人手代木直右衛門は長兄にあたる。

佐々木只三郎の略年譜
天保4(1833) 1 会津藩士佐々木源八の三男として誕生
嘉永6(1853) 21 会津藩の房総警備に参加
万延1(1860) 28 遠縁の御家人佐々木家の養子になる
講武所剣術師範になる。
文久3(1863) 31 浪士組取締並として上洛。東帰組とともに江戸に戻る。清河八郎を暗殺。
元治1(1864) 32 見廻組隊長に就任・上洛
慶応3(1867) 35 近江屋に潜伏の坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺を指揮。
慶応4(1868) 36 鳥羽伏見の戦いで負傷、紀州に落ちるが死去。
(参考:『会津人物事典武人編』ほか)

鳥羽伏見の戦いで負傷した佐々木は、敗走兵200名とともに、葵の紋入りの長持ちで運ばれて、紀州入りした。紀州は御三家である上、佐々木の妻が紀州藩士の娘である縁から頼ったのだといわれている。死んだら祀ってほしいと金100両を持参していたが、敗走兵は博打や女遊びでほとんど遣ってしまい、みかねた僧侶がお金を集めて永代供養をしたという。墓碑は土に埋もれていたので掘り起こし、故郷の会津に返したので、現在建っているのはレプリカである。

なお、手代木が死の直前に佐々木の長女に語ったとことによれば、佐々木が龍馬を暗殺したのは公務であり、上様(松平容保)が命じたのだという。

◆和歌山城

    

天正13年(1585)に紀州攻めの後、弟秀長に築城させたものが前身で、慶長10年(1600)、関が原の戦いの後、浅野幸長が紀州藩主として入国し、増改築して城のかたちが整った。元和5年(1619)に徳川頼宣(とくがわ・よりのぶ)が入り、以来、御三家紀州徳川家の城であった。現在の天守閣は戦災で焼失したものを昭和33年(1958)に再建したもので、鉄筋コンクリート製である。


本丸御殿跡。文久3年3月から翌年10月まで14代藩主徳川茂承夫人(倫宮則子)が住んだため、宮様御殿とも呼ばれた。実は倫宮則子は家茂の許婚だったという。現在は上水道貯水池になっている。



野面積(のづらづみ)の石垣

◆勝海舟寓居後

勝海舟は軍艦奉行時代の文久年に、海岸防備ための砲台建設を命じられ、一時和歌山に住んだ。霊山歴史館の木村さんによれば、藩邸住まいを嫌った勝は清水家の一室を借りたという。勝はここから砲台建設候補地まで約20キロの道のりを毎日馬で通ったとか。坂本龍馬も立ち寄ったことがあるという。碑は昭和15年10月1日に建立された。

紀州藩では文久元年9月に英国船が来航し、地元の少女二名を船に連れ込んで二日間軟禁したという事件があり、外国船渡来に敏感になっていたという背景があったという。

◆陸奥宗光生誕地・陸奥宗光銅像

    

海援隊隊員であり、維新後は外相を務めた陸奥宗光は紀州藩勘定奉行の家に生まれた。

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