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月真院お泊りオフ

◆12月15日(土)−京阪東福寺駅→戒光寺(伊東ら墓所)・泉涌寺→音羽屋(柿餅ゲット)→(バス)→JR京都駅松山閣(湯葉料理)→不動堂屯所跡→本光寺(伊東暗殺場所)→油小路→天満屋事件跡→東本願寺別院渉成園(一橋慶喜本陣)→音羽屋→地下鉄五条駅→今出川駅→薩摩藩二本松藩邸跡(衛士残党が潜伏)→御所西門→とらや(甘味)→(バス)→京大農学部前→土佐藩白河藩邸・陸援隊屯所跡(衛士残党が保護を求める)→(バス)→祇園→月真院→祇園鳥せい(飲み屋)→月真院
@泉涌寺塔中戒光寺
幕末ファンには伊東らの墓所として有名な戒光寺だけれど、皇室とゆかりのふかい由緒のあるお寺です。戒光寺長老堪念は御陵衛士拝命に力を尽したひと。戒光寺は油小路事件後、土佐藩邸に保護を求めて断られた阿部・内海が匿ってもらった場所。さすがの新選組も戒光寺には踏み込めなかったもよう。また、油小路でなくなった衛士の毛内はつねづね、自分たちは孝明天皇の衛士なので死んだら戒光寺に埋葬してほしいといっていたそうです。近藤らは戒光寺の度重なる頼みを断って遺体を放置したあげく、新選組の粛清された人々の眠る光縁寺に埋葬したんですね。だから、新選組退京後、衛士の生き残りは戒光寺に改葬したんです。葬儀の費用は新政府の大物大原三位がもった・・・ここでも朝廷と衛士の関わりを感じます。

墓ノートは数は減っていましたが新選組イラストの表紙のノートがありました。もうガックリですね・・・。藤堂ファンですが・・・。きいたところによると、お墓参りをしていた藤堂ファンが、なんと伊東の墓の前で伊東の悪口をいっていたことがあるそうです。かなしいなぁ。

伊東らの墓参をしたあと、戒光寺で身代観音を拝観。仏様の首筋に血の流れたような跡があるんですよ。後水尾天皇が幕府に暗殺されそうになったところを身代わりにたったのだそうです。

A泉涌寺孝明天皇御陵
訪れるひともほんとうにいない御陵です。幕末のキーパーソンで、彼の死は政局に大きな影響を与えたのに・・・時の流れというものを感じますね。

B京都伊勢丹松雲閣(湯葉料理)
湯葉づくしのコース(2700円)を。汲み上げ湯葉、湯葉たきあわせ、湯葉さしみ、湯葉デザートなど、なにを食べてもおいしく、京都ぐるめを満喫・・・大満足^^。

C不動堂屯所跡→本光寺(伊東絶命場所)→油小路(毛内・藤堂・服部絶命場所)
不動堂屯所の近くに近藤妾宅があったはずなのだけれど・・・伊東が斬られた場所とは本当に近い。護衛を連れずに酔ってそぞろ歩きをした伊東・・・危機感ゼロですね^^;。本光寺・油小路では、わたしはいつも重苦しい気分になります。ほんとうに・・・無益な闘いだったとしか思えなくて。

C天満屋跡
油小路を上ると天満屋事件(紀州の三浦を龍馬暗殺犯とする土佐系浪士が潜伏する三浦を襲って護衛の新選組と戦闘になった事件)の天満屋跡があります。しばし黙祷。

D渉成院(一橋慶喜本陣)
お庭がとてもきれいでした。桃・桜・藤・新緑・紅葉・雪・・・すべてきれいだろうなぁ・・・。行った時期が時期だけに散紅葉の色もあせていて残念でしたが、また行きたいお庭です。慶喜はこんなところに陣をはってたのかぁ・・・。

E薩摩藩今出川藩邸跡
同志社大学です。碑を冬湖さんがみつけてくれました^^。油小路事件後、ここへは富山・鈴木・加納が逃げ込んでいます。最初、門番はあけてくれず、押し問答の末、中村半次郎(桐野利秋)がでてきて入れてくれたそうです。下のスレッドにもあったけど、わずか数日前に保護を求めたときは断られているんですよね。伊東が殺されて嫌疑が晴れたということです(T_T)

F御所九門西側
蛤御門の弾痕などをみながら・・・冬湖さんに禁門の変を語っていただきました。なんでも禁門の変には薩摩藩が出撃していなかったという説があるとか(でしたよね)???

Gとらや
甘味で有名なとらやですけれど、食事ができるのは全国でほんの数ヶ所。おしるこ、京都限定の湿紛羹・嵯峨野という珍しい御菓子など。おしるこの御餅が香ばしくおいしかったです〜^^。

H陸援隊屯所跡
京大理学部です。でもね、碑もなにもないんですよ。いくらなんでもそれはないんじゃない???って感じですね。京大さん・・・あるいは京都市さん・・・立看板でもいいから立てておいて〜。陸援隊屯所には、伊東が中岡を訪ねたことがあります。また、油小路事件後、阿部・内海が保護を求めて訪ねています。土佐藩邸には断られた彼らですが、陸援隊屯所には、中村がきていて、護衛しながら薩摩藩邸に連れていってくれたそうです。

I月真院
お寺の長谷川さんが、へーベル銃、白虎隊生き残りの飯沼貞吉のかいたという血達磨の絵などをみせてくださる。隠し部屋(泊まったお部屋ね)でしばしおしゃべり。亀・バク墓ネタの情報交換など^^。

J祇園鳥せい
伏見鳥せいの支店。食べ物すべておいしく、なかでも鳥せいけいはん(ご飯に鶏肉・錦糸玉子・お漬け物などをのせ、鶏スープをかけて食べる)は絶品♪・・・いろいろなお話で盛り上がりました^^。

K月真院
くじらさん差し入れのルミナリエ・ワインと、メリーさん差し入れの日本酒を飲みながら、1時半ごろまで盛り上がり、それからお風呂にはいって就寝でした^^。


2日め:伏見&長楽寺

◆12月16日(日)−月真院→京阪四条駅→京阪伏見桃山駅→御香宮神社→伏見奉行所跡→寺田屋→大倉記念館→黄桜カッパ天国→京阪中書島駅→京阪四条駅→枡屋跡→長楽寺(水戸藩士鵜飼父子・原市之進・大場一真斎、頼山陽父子ら墓所)→凱旋門(飲み屋)
さてさて、オフ2日めは、月真院→京阪四条駅→京阪伏見桃山駅→御香宮神社→伏見奉行所跡→寺田屋→大倉記念館→黄桜カッパ天国→京阪中書島駅→京阪四条駅→枡屋跡→長楽寺(水戸藩士鵜飼父子・原市之進・大場一真斎、頼山陽父子ら墓所)→凱旋門(飲み屋)というルートでした。

@月真院:前日、鳥せいで食べて飲んだあと、月真院まで戻ってまたおしゃべりしていたので朝起きたのは8時すぎ。それからコンチネンタルな朝食(ごま豆腐に煮物のときもあるんですけれど)・・・宿坊で洋風とはなかなかできない経験ですよね^^。お寺の長谷川さんといろいろお話ししたので、お寺を出たのが11時近くになってしまいました。

A御香宮神社:鳥羽伏見の戦いのとき薩摩が宿陣したところです。丘の上になります。最初、旧幕軍が陣をはるつもりで立看板してたんだけれど、吉井幸輔が看板を薩摩に代えてさっさと薩摩軍が入ったらしい・・・。くじらさんの調査によれば、この神社には東照大権現(家康)が祀ってあるそうで・・・家康さんも不本意だったでしょうね^^;。神社内には伏見義挙の碑(農民一揆の碑)があるんだけれど、勝海舟が揮毫しているようです。

B御香宮神社から丘をしばらく下ると伏見奉行所跡。団地になっていて碑がたっているだけです。団地がなにげに和風なのがおもしろいけど。石垣が残っている部分もありました(当時のものかは?)。まあ、地の利は旧幕軍にはなかったよね・・・ってかんじです。ドラマでもバンバン大砲打ち込まれてますもんね^^;。新選組は伏見でいろいろ問題を起こしていて、薩摩藩とも衝突してにらみあったり、幕府にとっても邪魔者・・・ままっこでした。慶喜には「新選組が命令無視して勝手に進んだので戦いが始まった」なんていわれる始末ですから・・・。このへんに関心のあるかたは「覚え書」の「王政復古と新選組」をどうぞ〜。

B寺田屋
寺田屋事件の寺田屋だけれど、龍馬ものばかりでした。複製が多いんですよね。薩摩藩士が上意討ちで戦った場所はおみやげコーナーに^^;。悲惨すぎるからかな・・・。ただ、この部屋を幕末のひとたちが実際に使ったのかと思うと感慨深かったです。そのままに残しておこうという寺田屋さんの努力はやっぱりすごい。しかし「裸のおりょうさん」を売り物にするのはやめてほしいなぁ^^;。おりょうさんのお風呂もあるんだけれど、そこから外をのぞくと前庭がまるみえでした(おりょうさんの視点で写真とりましたのであとでアップしますね)。ここには伊東も泊まってるんですよ〜^^。それから、以前は寺田屋は宿泊もできたそうですが、なぜか桂小五郎がぶつぶつ言いに夢枕に立つそうです(笑)。なぜ???

C大倉酒造記念館・黄桜カッパ天国
きき酒のできる記念館ではお酒ももらえます^^。カッパ天国は地ビール3種が飲み比べられるらしい。バーベキューもできます。時間がなかったので、バーベキューにはしなかったけど、もってくるのが遅かった^^;。でも、稲庭うどんには、どこかお酒の香りと味がしました。麺に麹をまぜているのか・・・お湯にお酒がはいっているのかは不明のままでしたが。

D枡や跡:四条に戻って古高俊太郎寓居跡へ。来年の「今日」で詳しくやるつもりですが、実は、古高、池田屋よりずっとまえに、自分ちに浪士の幕府批判文を貼ってるんですよね(貼らせたのかな?)。それでかえって疑いを招いたのかもなぁ・・・って思っちゃいます。現在は志る幸というみそしる屋さん。いつか食べたいです^^。

E長楽寺:めりーさん&疾風さんとお別れし、仁吉さんと合流して東山の長楽寺に。水戸担当?のくじら&ヒロのコンビなので、水戸ゆかりの史跡を選びました(笑)。亀墓があるかチェックしたかったし。長楽寺の素晴らしさは下で語ってるのでパスしますね^^。ただ、うす茶紅葉庵というのが階段下にあったのに17時で店じまいでチェックできなかったのが心残りでした。

F木屋町に戻って冬湖さん、仁吉さん、堅之助さんらのサークル「維新夢くらぶ」さんの忘年会に合流。長州系のサークルさんです^^。容保や伊東に手厳しい意見がでたりして、思わず、防戦しちゃいました^^。堅之助さんの「幕末どんじゃら」試作品も拝見。完成が楽しみです^^)



コースは、伏見御香宮神社(鳥羽伏見戦い薩摩陣営)→東福寺即宗院(鳥羽伏見の戦い薩摩陣営・幕末薩摩藩墓地)→昼食(がんこ二条苑・旧山県有朋別邸)→高瀬川一の船入り・佐久間象山・大村益次郎遭難地・桂小五郎寓居→霊山歴史館(大久保利通特別展)→相国寺(薩摩藩邸跡・薩摩戦死者墓地・山岡鉄舟寓居)→東寺(鳥羽伏見戦い指揮所)でした。

オフで何度か訪ねた場所も混じっているのですが、木村さんの裏話やお寺の方のお話などが聞けて面白かったです。あとでレポートは写真とともにまとめたいと思いますけど、とりあえず、かんたんにご報告しますね。

●御香宮神社(史跡の伏見もご参考に^^!)
−薩摩軍が大砲を据えたのは、神社の西の善林寺(字は不確か)。そして、伏見奉行所は、なんと、大手筋をはさんだ真向かいにあった!(団子屋さんのあるあたりですね)。伏見奉行所跡碑が、神社を南に下った桃陵団地にあるので、そこが奉行所だとばかり思っていたけど、なんと、道数メートルをはさんで対峙していたのでした・・・びっくり。

−新選組本では、土方指揮のもと、新選組が薩摩本陣に銃をうちこんだことになっている(らしい、最近読んでないので忘れてます^^;)が、宮司の三木(そうぎ)さん(三木さんの曽祖父の宮司さんは勤王派で、幕府が神社に本陣を置こうとして表札を置いたのを薩摩軍に通報し、薩摩の吉井幸輔が薩摩の表札に置き換え、薩摩藩本陣になったとか)によれば、当時の遺構や当時から残る建物を調べても、小銃のあたった痕跡がまるでなく、新選組・幕軍が効果的な攻撃をしかけたというのはかなりあやしい・・・実はやられっぱなしだったのではないかとのこと。

●東福寺即宗院
東福寺即宗院には、薩摩藩戦死者の碑がある。碑文は西郷隆盛によるが西郷の実書の楷書では唯一のもの。また、奈良原喜左衛門(寺田屋事件で上意討ちをしたひと)等の墓所もある。奈良原の常夜灯には、西郷・大久保・吉井・大山などそうそうたるメンバーの名が刻まれていました。即宗院は薩摩寺と呼ばれたほどの薩摩と縁の深い寺。5代藩主が、薩摩から官長を連れてきて開山したらしい。西郷が月照もしばらくここに潜んだ(西心院というらしい、今は朽ちてない)。

●霊山大久保展
ごまじゃこさんの教えてくださった、懐中時計、みてきました。素敵でした^^!ネタばれになるので、展示品リストはここでは挙げませんが、木村さんが教えてくださった、展示品のエピソードをご紹介しますね。

明治天皇からもらったおわん:よくよくみると、左のおわんに赤いものがついています。大久保の奥さんた使用したもので、口紅の跡なのだとか。

大久保の使用した椅子:現在も、ご当主が食事時に使用されているらしい。

:大久保がたたみの上で書いたので、墨跡に畳のあとがうかがえる。

●相国寺
薩摩藩邸(今出川屋敷)・・・実は、同志社大学に薩摩藩邸跡碑が建っているけれど、同志社は薩摩藩邸跡ではなかった!幕末当時は徳大寺家があったんですって。碑は目立つから同志社大学に置いているだけだそう。相国寺(大きなお寺、由緒あり、御所のすぐ近く)に薩摩藩が入れた理由:77万石という大藩。また島津家は近衛家(関白を出す家柄)と関係が深いので近衛家から話をつけてもらったのでは?

●東寺
西郷隆盛が、五重の塔から戦況をみていて、錦の御旗を出すタイミングをはかったんだそう。錦の御旗は、大久保の愛人、おゆうの帯を使って作ったもの。もちろん、にせものです。新政府軍が錦の御旗をもって行軍したとき、関門の旧幕府兵は錦の御旗が何か知らなかった。「天皇の行軍のしるし」というと「じゃあ、自分たちは賊軍が?」「そうだ」という会話があったとか・・・。それから、旧幕軍に錦の御旗の件が伝わり、総崩れになった・・・。

おまけ1:西本願寺近くをバスで通りかかっているときの雑談で、木村さんが、「あの店の御当主のおばあちゃんは、久坂玄瑞の愛人だったんだよ」と!!!おたつさんのことでした。久坂ファンのかたはとうにご存知の有名なことなんでしょうか。わたし、ひとり興奮してました。

おまけ2:当時の瓦版売りは、覆面をしていた。版元もナイショ。すべて、反対者に身元がばれないようにという配慮から。


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