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久保バスツアー(よみうり文化センター)

伏見御香宮神社(鳥羽伏見戦い薩摩陣営)→東福寺即宗院(鳥羽伏見の戦い薩摩陣営・幕末薩摩藩墓地)→昼食(がんこ二条苑・旧山県有朋別邸)→高瀬川一の船入り・佐久間象山・大村益次郎遭難地・桂小五郎寓居→霊山歴史館(大久保利通特別展)→相国寺(薩摩藩邸跡・薩摩戦死者墓地・山岡鉄舟寓居)→東寺(鳥羽伏見戦い指揮所)
オフで何度か訪ねた場所も混じっているのですが、木村さんの裏話やお寺の方のお話などが聞けて面白かったです。あとでレポートは写真とともにまとめたいと思いますけど、とりあえず、かんたんにご報告しますね。

●御香宮神社(史跡の伏見もご参考に^^!)
−薩摩軍が大砲を据えたのは、神社の西の善林寺(字は不確か)。そして、伏見奉行所は、なんと、大手筋をはさんだ真向かいにあった!(団子屋さんのあるあたりですね)。伏見奉行所跡碑が、神社を南に下った桃陵団地にあるので、そこが奉行所だとばかり思っていたけど、なんと、道数メートルをはさんで対峙していたのでした・・・びっくり。

−新選組本では、土方指揮のもと、新選組が薩摩本陣に銃をうちこんだことになっている(らしい、最近読んでないので忘れてます^^;)が、宮司の三木(そうぎ)さん(三木さんの曽祖父の宮司さんは勤王派で、幕府が神社に本陣を置こうとして表札を置いたのを薩摩軍に通報し、薩摩の吉井幸輔が薩摩の表札に置き換え、薩摩藩本陣になったとか)によれば、当時の遺構や当時から残る建物を調べても、小銃のあたった痕跡がまるでなく、新選組・幕軍が効果的な攻撃をしかけたというのはかなりあやしい・・・実はやられっぱなしだったのではないかとのこと。

●東福寺即宗院
東福寺即宗院には、薩摩藩戦死者の碑がある。碑文は西郷隆盛によるが西郷の実書の楷書では唯一のもの。また、奈良原喜左衛門(寺田屋事件で上意討ちをしたひと)等の墓所もある。奈良原の常夜灯には、西郷・大久保・吉井・大山などそうそうたるメンバーの名が刻まれていました。即宗院は薩摩寺と呼ばれたほどの薩摩と縁の深い寺。5代藩主が、薩摩から官長を連れてきて開山したらしい。西郷が月照もしばらくここに潜んだ(西心院というらしい、今は朽ちてない)。

●霊山大久保展
ごまじゃこさんの教えてくださった、懐中時計、みてきました。素敵でした^^!ネタばれになるので、展示品リストはここでは挙げませんが、木村さんが教えてくださった、展示品のエピソードをご紹介しますね。

明治天皇からもらったおわん:よくよくみると、左のおわんに赤いものがついています。大久保の奥さんた使用したもので、口紅の跡なのだとか。

大久保の使用した椅子:現在も、ご当主が食事時に使用されているらしい。

:大久保がたたみの上で書いたので、墨跡に畳のあとがうかがえる。

●相国寺
薩摩藩邸(今出川屋敷)・・・実は、同志社大学に薩摩藩邸跡碑が建っているけれど、同志社は薩摩藩邸跡ではなかった!幕末当時は徳大寺家があったんですって。碑は目立つから同志社大学に置いているだけだそう。相国寺(大きなお寺、由緒あり、御所のすぐ近く)に薩摩藩が入れた理由:77万石という大藩。また島津家は近衛家(関白を出す家柄)と関係が深いので近衛家から話をつけてもらったのでは?

●東寺
西郷隆盛が、五重の塔から戦況をみていて、錦の御旗を出すタイミングをはかったんだそう。錦の御旗は、大久保の愛人、おゆうの帯を使って作ったもの。もちろん、にせものです。新政府軍が錦の御旗をもって行軍したとき、関門の旧幕府兵は錦の御旗が何か知らなかった。「天皇の行軍のしるし」というと「じゃあ、自分たちは賊軍が?」「そうだ」という会話があったとか・・・。それから、旧幕軍に錦の御旗の件が伝わり、総崩れになった・・・。

おまけ1:西本願寺近くをバスで通りかかっているときの雑談で、木村さんが、「あの店の御当主のおばあちゃんは、久坂玄瑞の愛人だったんだよ」と!!!おたつさんのことでした。久坂ファンのかたはとうにご存知の有名なことなんでしょうか。わたし、ひとり興奮してました。

おまけ2:当時の瓦版売りは、覆面をしていた。版元もナイショ。すべて、反対者に身元がばれないようにという配慮から。


山特別講演会(大久保と西郷)オフ

三条小橋→(史跡数ヶ所)→維新庵→霊山特別講演会→大久保展見学→長楽寺(水戸藩士墓所)→高杉が都都逸をうたった店→飲み会→お茶
講演会からは維新夢クラブの方々、飲み会では幕末らぶオフ会の方々と合流しました。

あさみさん、きたこさん、ponpokoさん、冬湖さん、楽しかったです。堅之介さん、仁吉さん、お世話になりました^^。

◆三条小橋
高札がよく立った場所で、わたし的にはメジャー史跡だったのですが、みなさん、検索して場所を探されたようで・・・まるでオリエンテーリングのような待ち合わせになって、失礼しましたm(_ _)m。無事にお会いできてよかったですっ(><)。

◆高瀬川沿いの史跡(武市半平太寓居跡、吉村寅太郎寓居跡、大村益次郎・佐久間象山遭難地)

◆維新庵(桂小五郎寓居跡の料亭「幾松」別館)
ランチに維新関係の人物の名前がついていて・・・値段は、安い順に、桂小五郎、佐久間象山、大村益次郎、坂本龍馬、西郷隆盛、幾松なのですが(謎のランキング)、一番安い桂小五郎ランチも十分おいしくいただけます^^。ここでひとしきり盛り上がり、御池通りを東に向かって鴨川を越えて、八坂神社、石塀小路を抜けて霊山へ・・・。八坂では、神事をやっていましたが、見る時間なし。ザンネン!(でも、写真はとりましたよ〜)

◆講演会
石田孝喜さんのお話(幕末の石碑):

石碑の主な設立者は京都市教育委員会、京都史蹟会、三宅清治朗、史跡のいしぶみ整備事業(京都市観光課)。京都市教育委員会では、大正4年の事業として、370箇所の石碑建設候補があげられたが、そのうち建てられたのは67箇所(幕末20数ヶ所)。このとき洩れたもの(幕末百数ヶ所)で、建てられたものもあり、いまだに建てられてない(とわたしが思うだけ、見たことないだけかも)ものもあり。

大正4年に候補にあがったもの、建てられたもの、後に建てられたものをみていくと面白いと思います。主なものはピックアップして表にしますネ。

*その他:
・坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地はほんとうは一軒横。
・新選組屯所跡は本来は前川邸に建つはずだった。
・池田屋石碑の寄贈者は佐々木フサ(石碑の裏側にある)。池田屋は維新後、佐々木氏に買い取られて旅館として営業されていた。その佐々木さんである。昔は池田屋の写真を撮ろうとすると縁起が悪いからやめてくれといわれたくらいの場所だった。
・石田さんは東京のひとで、50年くらい前に京都に引っ越してきたが、引っ越して10年くらいは回覧板もまわってこず、町内会にも入れなかった。京都のひとは、よそからきたひとを「流れ者」と呼んでいた。都を支配しようと様々なひとがやってきては去っていった頃からの意識か。江戸からきた新選組(に限らないと思うけど)も同じような目でみられたことだろう。いようにという配慮から。

◆木村さんのお話「大久保と西郷」:

勝海舟は「西郷は江戸を救い、大久保は東京をつくった」と評しており、木村さんがこの言葉を知ったのが、大久保展企画のきっかけ。大久保は人気がない。地元では「陽の西郷・陰の大久保」と呼ばれている。普通なら講演タイトルも「西郷と大久保」だが、今回は大久保中心なので大久保が先。阪神巨人戦のタイトルが関西では阪神巨人・関東では巨人阪神みたいなもの(笑)。

大久保はO型(ポマードに付着した毛髪から)、西郷はB型(月照との入水失敗でひきあげられたときの衣服に付着した毛髪より←「なんでそんなもん残ってんねん?」とツッコミたくなる・・・・なぜ?)

銅像ネタ
戦争時、銅像は供出されたが、西郷は残った。(高山彦九郎・坂本龍馬像は供出された)。

上野の西郷像:犬の名前はツン。モデルの犬があり、寄贈した村がある。その村ではツンの銅像をつくって観光誘致をしている。

城山(鹿児島)の銅像:戦争中、刀の部分が盗まれた。古物商の密告で捕まり、留置所?にいれられたが、翌朝、泥棒は血まみれ。西郷の腰のものを盗むとはなにごとだ!と収監されていたほかのひとに殴られたのだった。

西郷像には、幼稚園児・タクシー運転手など、帽子をとって挨拶する。城山公園のあたりはだからいつも渋滞(ほんと?)

西郷は島津斉彬のお庭番で直接会話をするシーンがよくでてくるが、身分差からみてそんなことはありえない。

大久保と西郷の短歌
大久保はあまり挫折をしらないんで(おゆら騒動のときの6ヶ月免職くらい)、過去をふりかえらず未来志向。西郷は人生の浮沈を味わってきたので過去をふりかえる歌がある(苦労人の歌・日本人にうける)。大久保は即答・すぐ実行という実務肌でそれだけに他人とのあつれきもある。西郷は即答せず熟考する。

大久保と木戸
大久保は頭がいい。新政府の役職がきまったとき、大久保・木戸は参議にならなかった。顧問である。顧問といえば「もうこなくていいよ」という意味の職。木戸は不満だった。木戸は小心者なのである(!)。大久保は木戸に、「自分たち権力のあるものが参議になるのはいやらしい。ここは参議にならず、後から誰かに乞われて参議になるほうがいい」というようなことを言った(ほんと?)。大久保の思惑通り、岩倉から乞われて、大久保・木戸は参議になった。

外遊:
大久保は笑わない。それでは外国では受けないので、回りから笑えといわれて、笑う練習をしたという。

佐賀の乱
江藤新平はきれるが、人を育てないので断罪したという説がある(ほんと???それにしては、裁判なしとか、江藤が動くまえに軍隊動かしたとか、死罪にできない地方裁判所で死罪にしたとか、生首写真をばらまいたとか・・・やりかたが・・・^^;)

暗殺
大久保は当時、西郷弁明の草稿をかいていて、のち東大教授になった「しげのやす(漢字わかりません)」に依頼して出版してもらうことにしていた。それをしげのに渡そうとカバンにいれていた。そのカバンを暗殺者に盗まれ、大久保の西郷擁護草稿は幻のものとなってしまった。

大久保と伊藤
大久保暗殺後、外国から帰ってきた官僚が内務省に戻ってきた。そのころは伊藤が大臣である。大久保のころとまったく違ってびっくりした。省内は騒がしく、品がない。大臣執務室では、昨夜の芸者の話ばかり。明治維新はあやまりだったと思ったそうである。



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