文久3年2月23日(1863年4月10日)、尊皇攘夷を本旨とする将軍上洛の警衛として募集された浪士組総勢約240名が、将軍に先立って京都入りしました。彼らは京都のはずれの壬生に入り、新徳寺、村会所、壬生郷士の八木源之丞、南部亀次郎宅など9軒に分宿しました。 浪士組の大半は清河八郎の建言を受けた朝廷の命令により東帰しますが、これに反発して残留した者もいました。芹沢鴨、近藤勇らです。彼らは壬生の八木邸・前川邸を屯所としたため壬生浪士と呼ばれました。後の新選組の母体となったグループです。このあと、元治元年に屯所を西本願寺に移転するまでの約2年間、壬生は新選組の活動拠点となりました。 関連ページ: 新選組かけあし事件簿文久3年 |
交通機関:阪急電鉄京都本線「阪急大宮駅」、京福電鉄嵐山本線「四条大宮駅」、京都バス(71、72、73系統)「四条大宮」
光縁寺の過去張には文久3年12月27日の野口健司から慶応3年12月8日の宮川延吉まで合計25名の新選組関係者(一橋家臣の大石造酒蔵を含む)の埋葬が記録されているそうです。そのうち9名は墓碑に名前が刻まれていません(伊東甲子太郎・藤堂平助・服部武雄・篠原泰之進ら新選組に殺害された高台寺党、また茨木司・佐野七五三之助・ら幕臣取り立てに反発して新選組脱退を申し出、会津藩邸で殺害された4名は、最初、光縁寺に埋葬されましたが、鳥羽伏見の戦いで新選組が退京した後、生き残りの高台寺党同志の手によって東山戒光寺に改葬されています)。新選組関係者の墓碑は3基(1基は大石のもの)あり、当時は土台石が三重にあったといいます(ちょうど戒光寺の伊東の墓のようなものなのでしょうか)。
光縁寺は壬生から少し離れていますが、新選組関係者の墓所とされた理由として、寺の紋である「丸に右離れ三つ葉立ち葵」が山南敬介の紋と同じであり、その山南敬介の縁から光縁寺が壬生寺の墓所になったのではないかという説があります(光縁寺パンフレットより)。
1(山南敬介の墓):
謎の切腹を遂げた、新選組副長あるいは総長であった山南敬介(脱走は必ずしも謎ではありません。創作の可能性もある、一つの説にすぎないからです)の墓碑です。光縁寺の過去張によれば山南の命日は元治2年2月23日。墓碑が「慶応元年」とされているので、墓碑が建立されたのは慶応への改元後、すなわちこの年の月日以降だということがわかります。山南の墓は、現在の京福鉄道の線路の東の南面に位置しており、立葵とアジサイに囲まれる墓であったそうです。鉄道建設のときに墓碑だけが移されたといいます。
山南の墓は剥落が目立ち、墓参するたびに剥落が進んでいるようです。同じ砂岩で作られ、同じような時期に建てられ、同じような気候条件の下にあったた松原忠司らの墓と比べると、なぜ山南の墓が・・・と不思議です。Kristiさんが屯所井戸端に書きこんでくださったことによると、ひびがいったりするお墓は「無念墓」というのだそうです。
なお。山南の墓の左側面には施山多喜人・石川三郎(慶応1.6.21没)、右側面には河合喜三郎(慶応2.2.12没)・柴田彦三郎(慶応2.6.23没)の名が刻まれています。
<関連ページ:山南の間。特に山南の切腹については「山南敬介の事件簿元治2年」−「居酒屋新選組」にも関連投稿がありますので、データ検索で「山南」「切腹」「脱走」などのキーワードを入れて検索してみてくださいませ)>
2(松原忠司・櫻井勇之進・小川信太郎・市橋謙吉・田内知の合同墓碑)
*なお、光縁寺の本堂には新選組全隊士の慰霊のための壇が設けられていますのでそちらもお参りしてみられてはいかがでしょうか。また、本堂には貴重な絶版本などを含めた新選組関係の資料本や小説もあります。光縁寺の方が用意された墓参ノートもあり、追悼の気持ちを記すことができます。
新徳寺は取締役や世話役並目付方の宿泊する上洛取締役本部でした。このほか、五番隊山本仙之助組、七番隊宇都宮左衛門組も宿にしていました
*新徳寺の中は一般の立ち入り禁止ですが、元旦は本堂の御本尊を拝観することができます。本堂へは渡り廊下を通っていきますが、意外と狭くてびっくりしました。ドラマなんかではすごく広いんですけど。御本尊のある間が板敷きが5畳くらいで、その正面が15畳くらいの畳敷き。15畳の左右が12畳ずつくらいなんです。奥行きが狭くて横に長いんです。15畳に続く板敷きの張り出し廊下みたいなところを含めても(本堂写真の出っ張った部分にあたります)。御本尊脇の部屋には、清河・近藤・土方の肖像画がおいてありました。
京都に着いた日の夜に、新徳寺に浪士全員を集めて清河が倒幕の演説をし、それに近藤・芹沢らが反対して席を立ったというのは事実ではなく、到着当夜は主立ったものを集めたんです。内容も倒幕ではなく、朝廷に尊皇攘夷の建言をすることでした。そのときの清河の「威勢というものは鬼神のごとく実に非常なるもので、誰も恐怖して物をいうことはできなかった。出し抜けにおもだったものを呼んで、御所に建言をするが異論はないはずであるが、と満座を睨みまわしたる権幕驚く計であったそうでござります。ところが異論がない」(『史談会速記録』41)
主だった者というから、道中目付、世話役、取締役付、各組小頭かしら。これで40数人になります(「尽忠報国勇士姓名録」より計算)。壬生浪士組結成メンバーでは小頭の近藤とか新見、取締役付の芹沢さんくらいは呼ばれたかも。40人くらいだと新徳寺の本堂の御本尊さんのあるお部屋につめることができる感じです。
浪士組一統240余名が集まったのはその6日後で、そのときに江戸帰還が話合われて、芹沢・近藤が反対したそうですが、240余名を集めたら、ふすまをとりはらってもほんとにぎっしりという感じです。奥行きがなく横に広がった場所で演説するのは難しいだろうなあと思いました。
(2000.1.1)
準備中 |
jじゅんびちゅう
左:壬生寺-表門
右:壬生塚全景 (2000.3.19)
(向かって左より芹沢・平間の墓、阿比留らの墓、河合の墓、近藤の遺髪塔、近藤の銅像、同好会寄贈の絵馬掛け
壬生寺は勅願寺という格式のあるお寺です。ここが新選組屯所であったというのは誤りですが、屯所の置かれた八木邸・前川邸に近いからか、新選組隊士数名が埋葬されています。昔は広い墓地に埋もれるように建っていた新選組関係のお墓だったそうですが、現在では、壬生寺に入って右側の「壬生塚」の隅に墓碑が集められています。墓碑だけが移されたので、空墓です。
壬生寺の境内では新選組が隊士の調練を行って大砲を打ち、寺側が朝廷に抗議したとの記録も残されています。沖田総司が稽古をさぼって子供たちと遊んでいたとのほのぼのした逸話(創作の可能性あり)もありますが、実際は、新選組は迷惑このうえない存在だったのではないでしょうか。
壬生塚には墓碑の他、近藤勇の遺髪塔、近藤勇の胸像が建立されています。新選組ファンの交換ノート(壬生ノート)も置かれており、ファン交流の場となっています。2年ほど前には新選組同好会の寄贈で絵馬掛けが建てられました。また、最近、壬生塚の手前に三橋美智也の歌った「ああ新選組」の歌碑が建てられ、100円を入れれば歌を聴けるようになっています。(2000.1.1)
壬生塚1(芹沢鴨・平山五郎の合同墓碑/文久3年9月18日没):
現在のお墓は当時のものが風化したため新しく建てられたものだそうです。墓碑はとても小さいです(右横の隊士合同墓と比べても)。墓碑の小ささが近藤勇ら暗殺者の本心を端的に物語っていると思います。葬儀こそはカモフラージュで盛大に行ったようですが、墓碑の建てられた頃には、近藤の勢力は揺るぎないものとなっており、故筆頭局長への見かけ上の礼儀すらも払う必要がなかったということなんでしょう。芹沢暗殺が大義名分によるものではなく、近藤らとの派閥闘争の結果であったことがうかがえる小ささです。
<関連ページ:芹沢鴨の事件簿文久3年>
壬生塚2(阿比留栄三郎・田中伊織・野口健司・奥沢栄助・安藤早太郎・新田革左江門・葛山武八郎の合同墓碑):
阿比留(文3/4/6):上洛まもなく死亡した人物で病死といわれる。田中(文3/9/13):近藤勇に同意しなかったのを憎まれて殺害されたという。芹沢派NO2で局長/副長を務めた新見錦と同一人物説あり。野口(文3/12/27):芹沢派で芹沢・平山襲撃のときは不在で難を逃れたが、のちに原田左之助に殺害された(切腹説あり)。墓碑は壬生寺だが埋葬は光縁寺だという。奥沢(元1/6/5):池田屋事件で近藤・沖田らと池田屋にのりこみ、死亡。安藤(元1/7/22):池田屋事件で近藤組。重傷。それがもとの死亡とされる。新田(不明):池田屋事件で近藤組。重傷。死亡日が刻まれていない。葛山(元1/9/6):永倉新八らと近藤批判の上書を会津候に提出。手打ちをしたが、永倉が近藤と江戸に出発して不在中に切腹させられる。<関連ページ:永倉の事件簿元治元年>(カッコ内は墓碑に刻まれた没日)
側面には「魂魄帰天地 此生奈有涯 定知泉下鬼 応是護皇基」という漢詩が彫ってあります。山南が詠んだとの説もありますが、根拠はありません。
壬生塚3(河合喜三郎の墓/慶応2年2月12日没):
河合は高砂の米問屋の息子で新選組勘定方を務めていたが、近藤が伊東らとともに長州出張中に隊費不算の罪をもって切腹させられました。斬首だったともいいます。河合の処断は土方の単独判断です。近藤が島原の太夫を身請けする500両のうち50両が不足して隊費で充当しようとしたときに不算が発覚したともいいます。家族からの不足分の送金を待ちわびながらの死だったとか。遺族と新選組の間に確執は実際にあったようで、河合の墓碑は新選組隊士のその当時の埋葬場所であった光縁寺にありますが(山南の墓碑の側面)、この壬生寺に遺族の建立した墓碑があります。大きく立派な墓です。光縁寺には埋葬記録がないそうで、遺骸は壬生寺に埋葬されたらしいです。
右:すっかり観光化された壬生塚。正面が近藤の胸像。芹沢らの墓は端っこ。
壬生塚はやはり、新選組広場で、墓所はおまけという位置付けなのかも・・・。
左:銅像の近藤、トミーズの雅に似てますよね〜(笑)?
壬生塚4(近藤勇の遺髪塔&胸像):河合の墓の横に近藤の遺髪塔があります。寺に埋葬された人々を殺害した人を称える記念碑を、殺された人々の目の前に建てるというのが・・・ちょっとやりきれないなあ(>_<)。
絵馬&壬生ノート:
芹沢らの墓に向かいあうように絵馬掛けが建てられ、以前はその下に壬生ノートが置かれていましたが、今は近藤の銅像の下にノート用のスペースが設けられています。ノートは新選組ファン(特にネットにアクセスのない方?)交流手段になってきましたが、最近ではノート反対運動なども存在するようです。
ノートは一時よりかなり減ってました。管理されてる有志の方がかなり整理されたみたい。昔は衣装ケース2個分くらいありましたけど・・・。反対運動ゆえなのでしょうか。絵馬ができたというのもあるのかもしれないです。
絵馬を初めてみたときはショックだったけど(だって、墓所のある芹沢らを殺した側の土方・沖田らぶのオンパレードなんですもん(T_T))、土方のコスプレ写真を貼ってあるのをみたときはショックを超えてクラクラしました。ここが彼ら人気者に殺された隊士たちの墓所でもあり、彼らを悼みに墓参に来ている人もいるんだってこともちょっとは考えてほしいなあ・・・。鴨さんらも浮かばれないよお(T_T)。維持管理されてる壬生寺が収入源のためにされたのなら仕方ないと思ってたら、同好会の方の寄贈なんですねえ。う〜ん、ファンのありよう、さまざま・・・。
歌碑:
歌碑ができたときいたときは、かなりびっくりしました(;;)。壬生塚もここまで来たか!!って感じで(笑)。三橋美智也さんの後援会が建立されたのですね。「ああ新選組の歌」は100円入れればフルコーラス流れますが、まあ、一部でも壬生寺の収入となってお墓の維持管理に役立てていただけるのなら、いいのかなあと達観です(笑)。三橋美智也ファンの建てた歌碑をどうこういうなら、新選組や近藤・土方に恨みを抱いて亡くなった人達のお墓の前に、殺害者である近藤の胸像があったり、絵馬かけがあったりするのも同じことだと思うのです。
じゅんびちゅう
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