HPトップ 京都編トップ


洛東A(中部:東山界隈)

明保野亭跡

画像準備中

明保野亭事件の起きたところ。明保野邸は当時、料亭であった。
明保野事件:池田屋事件直後、浪士集合の情報をきいて駆けつけた新選組が同所を捜索した。浪士は集合していなかったが、居合わせた武士1名が逃げようとしたため、新選組応援のために配属されていた会津藩士柴司が槍で逃亡を防ごうとし、相手を傷つけた。相手は実は土佐藩士麻田時太郎であった。会津と土佐の争いに発展することを恐れた会津藩は見舞いの使者を送ったが、土佐藩では麻田を自刃させた。これを聞き、柴は自ら自刃し、両藩の関係悪化を防いだ。<行き方:産寧坂上>

奥田万次郎自刃地

準備中

月真院(高台寺塔中)

  

御陵衛士が慶応3年6月以降屯所とした高台寺塔中。隠し部屋など月真院の詳細はこちら。  <行き方:京都駅、四条駅、河原町駅から市バス東山安井停下車>

<関連>とことん御陵衛士

高台寺

津和野藩本陣が置かれた。文久3年の禁門の政変前、上洛の予定される前越前藩主松平春嶽の宿所とされ、尊攘派により放火された。慶長11年(1606年)に豊臣秀吉の菩提を弔うために正妻ねね(高台寺院湖月尼)が開いた。庭園の美しさが有名。

<行き方:京都駅、四条駅、河原町駅から市バス東山安井停下車>
<関連>文久3年7月20日−尊攘浪士による高台寺放火事件

城安寺

画像準備中

慶応3年3月20日、7日前に新選組分離を承諾させた伊東ら御陵衛士は、分離後の宿舎がみつからず奔走していたが、城安寺に宿舎をようやくみつけることができ、新選組屯所を出た。しかし、三条城案寺は仮の宿で、翌日には五条善立寺に移っています。その後、6月に東山にある高台寺の塔中月真院に移るまでの1ヶ月余、彼らは善立寺(長円寺とも)を屯所とした。

<関連>慶応3年3月17日−伊東、分離後の宿舎が決まらず途方にくれる

春光院

安政2年〜3年まで月照が暮らした。月真院の方によると、月真院が衛士の屯所となったのは、幕末の春光院の住職が戒光寺から頼まれて紹介したからではないかという。

<行き方:京都駅、四条駅、河原町駅から市バス東山安井停下車>

翠紅館跡

画像準備中

文久3年1月27日、長州藩世子毛利定弘も臨席のもと、長州・水戸・肥後・津和野藩士ら尊攘派が会合を開いた。さらに、同年6月17日、長州藩桂小五郎、真木和泉らが集会を開いた(翠紅館会議)。

<行き方:京都駅、四条駅、河原町駅から市バス清水道停&東山安井停下車。霊山護国神社の参道上>

坂本龍馬・中岡慎太郎像(丸山公園)

準備中

知恩院

文久3年に薩摩藩が本陣を置いた。また、前尾張藩主徳川慶勝&英国公使パークス宿所ともなった。

長楽寺

延暦24年(805年)桓武天皇の勅命によって開かれた勅願寺。一時期、月照が暮らした。尊攘苑に、頼山陽・頼三木三郎、水戸藩関係者−松平昭訓(水戸藩徳川慶篤・徳川慶喜の弟)、原市之進(慶喜側近)、大場一真斎(在京水戸藩責任者)、鵜飼幸吉父子(戊午の密勅に絡み、安政の大獄で処刑)等の墓所がある。ほか、赤穂藩侍医の寺井玄渓の墓所も。明治の廃仏棄釈までは境内も広く、丸山公園まであったという。そのほか、建礼門院徳子の遺宝、後水尾天皇勅額、徳川歴代将軍の慰霊牌等。お庭もきれいです^^。<行き方:市バス祇園停下車>


    




 

    


  


<関連>安政6(1859):戊午の密勅と安政の大獄 志士詩歌

 

西大谷墓地

準備中

<行き方:京阪四条、阪急河原町から徒歩>

東大谷墓地

準備中

<行き方:市バス祇園停下車>

霊山護国神社

画像準備中

明治元年、太政官布告によって「維新の先覚者」約1,400柱が祀られた。第二次世界大戦後、荒れていたが、昭和43年(明治100年)に整備・復旧し、新たに1,800柱を合祀した。

<行き方:京都駅、四条駅、河原町駅から市バス清水道停&東山安井停下車>

霊山歴史館

昭和45年に、霊山護国神社の側に設立された幕末資料館。常設展示のほか、春・秋には特別展や講演会が開催される。

<行き方:京都駅、四条駅、河原町駅から市バス清水道停&東山安井停下車>

HPトップ 京都編トップ