エピローグ
山崎さん率いる警官隊が河原にやってきて、彩子を桜川署へ連れていくと同時に、私と幸広くんで掘り出した物を「証拠品」として持っていった。
そうして警官隊が引き上げてからも、私たちふたりは、河原から動けずにいた。
どんなことがあっても、ここは私たち3人の想い出の場所……。
幸広くんがこの町にいられるタイムリミットまで、1時間を切った。
彼の実家に置いてある車のところまで行く時間を考えると、ここにいられるのは、あと30分くらいしかない。
それでも私たちは、ぎりぎりまでここにいるのだろう。
お互いに時間についての話はしなかったけど、それはわかっていた。
「……ねえ、最後にひとつだけ聞いてもいい?」
私は、幸広くんにたずねた。
「いいよ。何でも聞いてくれ」
「私ね……あの記念日に久しぶりにあなたと会ってここで話したとき、あなたが何かに疲れてるんじゃないかって感じたの。思い過ごしかもしれないけど……大丈夫?」
大丈夫だよ、と笑ってほしかった。
……でも、私の直感は当たってしまった。
「やっぱり、君には隠し事はできないな……。その通りだよ」
彼は足元の石をひとつ手に取って川に投げ込むと、そのまま私を見ずに話し出した。
「……君は競馬界に詳しいからわかると思うけど、ジョッキーってのは、自分の努力だけじゃどうにもならない限界がある仕事なんだよな。2年半やって通算7勝。こんなはずじゃない、もっと上に行けるはずだ、そう信じてがんばってきたけど……今年デビューした2年後輩に追い抜かれたとき、ぼくは自分の限界をはっきり感じた。先生にも『こんな成績じゃ、減量が取れたらやっていけないぞ』って言われて……いつしかぼくはこの町のことを、君や彩子ちゃんと遊んだ日々を思い出す回数が増えていたんだ。記念日が来れば君たちに会える……そればっかり考えるようになっていた」
彼はまた石を投げ込んだ。
「彩子ちゃんは昔から、ぼくがジョッキーになることに反対だった。だから、ぼくがちょっと弱音を吐けば、彼女は『じゃあジョッキーなんかやめてこの町で暮らせばいいじゃない』って言ってくれるかもしれない。つまり、彼女の責任で競馬界から逃げ出すことができるかもしれない……。そんなことも少なからず考えながら、ぼくは記念日を迎えてこの町に帰ってきたんだ」
言いつつ、また石を投げ込む。……彼は、自分の何かを棄ててしまいたいんだろうか……。
「……でも、ここに来てくれたのは君だけだった。ぼくがジョッキーになりたいって言ったとき『がんばってね』と笑ってくれた君だけ。彩子ちゃんが失踪してたって知ってもちろん悲しかったし、こんなこと言っちゃいけないのはわかってるけど、もしあのとき昔のままの彼女に会えてたら、ぼくは騎手としての人生をあきらめて、二度と競馬界へ帰らなかったかもしれない。彼女が事件を起こしたためにあきらめずにすんだっていうのも、何だか皮肉な話だけど……」
「……待って」
4つめの石を手にした幸広くんを、私は止めた。
「私、思うの。彩子はきっと、いなくならないでこの町で記念日を迎えたとしても、あなたに『ジョッキーをやめて』とは言わなかったと」
「なんでだ……?」
「あの子、あなたのサポーターとしてお店を開いたくらいだもの」
今ひとつわからないという顔をして振り向いた彼に、私は言った。
「ジョッキーとしてのあなたを応援する気がないんなら、『摩耶めぐみ』としてあなたのファンを自称したりしないわ。自分の正体を隠す以上、『つながりがあるんじゃないか』って疑われそうなことは、普通ならしないはずよ。それなのに、あなたと一緒に写真撮って、サインもらって……あのときの喜び方、覚えてるでしょ?」
「うん……」
「あの子は、自分が彩子だってことを隠していたからこそ、素直な気持ちを出せたんじゃないかしら。寂しいからずっとこの町にいてって言ってたあの子も、いつしかジョッキーとしてのあなたを応援するようになっていたのよ」
「そうか……」
幸広くんは、持っていた石を河原に落とした。
「顔も名前も変わってて、あのときは気付かなかったけど……確かにぼくは、記念日に彩子ちゃんに会ってたんだ。5年前の約束通りに。そして彼女は、今のぼくに会えたことを、あんなに喜んでくれた……」
「そうよ」
私は、さっきまで石を握っていた彼の手を、柔らかく包んだ。
「私も彩子も、今のあなたが大好きよ。もちろん、昔のあなたもね。どんなに時間が流れても、平賀幸広はただひとり、あなただけだもの」
照れて苦笑いした彼の顔を、風になびいた髪が半分隠した。
気付かないうちに大人になっていた彼……。
でも、その大人びた顔の奥の精神に刻み込まれた想い出は、決して色褪せることはないのだ。
「ありがとう……理絵ちゃん、彩子ちゃん。そして、この想い出と故郷」
そして、しっかりと言う。
「実績が伴わなくて、いつしか応援されるのも苦しくなっちゃってたけど……何だか、もう一度、新しい気持ちで歩き出せそうな気がする。みんなのおかげで、ぼくは自分の選んだ人生から逃げ出さずにすんだんだ」
その表情は、控えめながら強い夢を抱き続けていたあの頃の面影を、充分に残していた。
「……そろそろ、時間かな……」
やがて幸広くんは、寂しそうにつぶやいた。
「そうね。……ねえ、次はいつ帰ってこられる?」
私がたずねると、彼は少しだけ考え、そして……思いきったように笑った。
「よし、来年の記念日、火曜日に帰ってくるよ」
「えっ……? 大丈夫なの? そんなに毎年」
今回の帰省だってお師匠さんに渋られたんでしょ? ……と言おうとしたのも束の間、彼の答えはもっと早かった。
「大丈夫だよ。これから1年で、誰にも文句言われないほど活躍してみせるから」
「まあ。じゃ、期待して待ってるね」
自分の努力だけじゃどうにもならない限界がある、そう言っていたのは彼自身だ。
でも……昔好きだった歌の歌詞にもあった。人は、自分の限界を知るために生きてるんじゃないと。
目標をひとつ決めて、それに向けてがむしゃらに羽ばたいてみるのも、いいことかもしれない。
幸広くんは、必ずまた帰ってくる。
そしていつかは、彩子も帰ってきてくれる。
大切な想い出は、決して色褪せない。
この場所が特別だということも、永遠に変わることはない。
時が流れ続け、記念日が毎年めぐる限り……。
記念日 -ANNIVERSARY-
完