「……平賀、幸広くん……」
その名前を口にするのは、絶望にも等しかった。
あまりにもよく知っている名前。
自分の名前の次くらいに覚えた名前。
大切だったから、好きだったから、何とか信じようとがんばってきた名前……。
……だが、沈んでいる暇はなかった。
水銀灯の影から、その名前の主が飛び出してきたからだ。
「ちょっと待ってくれ! ぼくは犯人なんかじゃない!」
長い髪。
大人びた顔。
ブランド物の洋服、靴……。
「もう、いいのよ……。今のあなたが昔のあなただとは思ってない。人は誰しも、幼いままではいられないんだわ」
「理絵ちゃん……」
彼が、恐ろしそうな顔をして一歩下がる……。
私は息を吸い込み、話を始めた……。
「……火曜日の夜のことよ。私はあの日、『Happiness』からここへ向かった。行き先を聞いてきためぐみさんにただ一言『想い出の場所です』とだけ答えてね。それなのに私はここで襲われたわ。ここが『想い出の場所』だということを知っているのは、私と彩子……そして、あなただけのはず。つまり、あのとき私の行き先を正確に理解してブロードファームの人に襲撃を指示することができたのは、あなたしかいないのよ……」
……幸広くんは黙ってしまった。私は話を続けた。
「動機は充分よ。あなたは、昔から彩子のことが好きだったんでしょう。彼女を失ったあなたが復讐を企てる気持ちはわかるわ。……当時競馬学校にいたから、彼女を『行方不明』にしたのだけはあなたではありえないけど、それはいくらでも説明がつく。例えば、国道に倒れて事切れていた彼女をひいてしまった車のドライバーが、自分が死なせたと思い込んで証拠隠滅をはかったとかね」
彼は答えない。
「……あなたは、何らかのきっかけで彼女の死とその理由を知って、あのいじめグループへの復讐を計画した。ブロードファームも、実際は今回の事件のためだけに作らせた牧場……いいえ、犯罪組織だった。あなたは中央競馬のジョッキー、資金も人脈も豊富。それくらいのことはたやすかったはずよ。彼女の家や私の家も狙わせたのは、いわばカムフラージュね。そうやって、自分も被害者の側に置こうとしたんだわ」
彼は答えない……。
私は、何を思っているのかわからない彼を見つめて、小さく続けた。
「……私は、あなたを裁こうとしてるんじゃないの。私が話したのは、ただの状況証拠……ううん、単なる当て推量でしかない。これで『はい、ぼくが犯人でした』なんて言葉が聞けるとは思ってないわ。でも……でもね……」
冷静に話していたつもりが、涙が一筋……。
「どうしても、この推理以外浮かばなかったの。あなたを信じたい気持ちは当然あるけど、信じられなかった……」
遠い想い出が、楽しかった日々が、滲んで消えてゆく……。
「私は変わっちゃったのよ。もう、あなただからという理由だけですべてを信じられたあの頃には、戻れない……」
「……ジョッキーになんか、なるんじゃなかったかな……」
やがて、彼は不意につぶやいた。
視界を拭って見ると、彼の瞳からも涙が……。
「正直に言うよ。ぼくは事件の黒幕じゃない。それはぼくの何を賭けても本当だと断言する。だけど……まるっきり無関係でもないらしい」
「らしい、って……」
意外な方へ話が転んだ。
「ぼくには、その黒幕の正体も、動機も、事件の真相も……すべてわかっている。おそらく、間違ってはいない。……ぼくがジョッキーにならないでずっとこの町にいれば、当歳馬の盗難事件も起きなかったし、彩子ちゃんだって今ぼくたちと一緒にいただろう。ぼくは犯人じゃないけど、ぼくこそがすべての引き金だったんだ……」
「この町にいれば、彩子を守ってあげられたってこと?」
私はたずねた。本当はその「黒幕の正体」を聞くのが普通なのかもしれないけど、知るのも怖かったし、聞けなかった。
「そうかもしれないし、違うかもしれない……」
彼は私に背を向け、続けた。
「ぼくがこの町に帰ってきたのには、君や彩子ちゃんとの約束の他にもうひとつ、仕事に行き詰まって逃げ出してきたって理由があったんだ。……この町で、いろんなことを知ったよ。自分が事件の中心にいたことや、あの人が今のぼくを必要としていたこと……」
「今のあなた……あの人?」
「もう、事件を追うのはやめてくれないか」
彼の背中は、そう強く言った。
「ぼくには、あの人を警察に突き出すようなことはできない。叶うなら、このまま解決しないでほしい」
「幸広くん、あなた……」
「後悔だらけだけど、ぼくはジョッキーを続ける。……この町には、もう帰らないよ。君のことも、忘れるかもしれない。それじゃ……」
……何も言えなかったし、何もできなかった。
何も……。
ただひとつ……。
彼は泣いていた。
最後まで。
最後の言葉は真実ではない、と信じ込むことは、かろうじてできる。
でも、自信はなかった。
彼の無実さえ信じられなかった私に、そんなことができるのかどうか……。
……海から、ゆっくりと風が上がってきた。
想い出の場所から、楽しく懐かしい記憶を運び去ってゆく。
これからの記念日、きっと私はずっとひとりだろう。
そして、やがては「記念日」という言葉すら、特別ではなくなってしまうのかもしれない……。
『理絵ちゃん、彩子ちゃん、もうすぐ桜が咲くよ……』
……幸広くん……。
記念日 -ANNIVERSARY-
終