「……わかったわよ」
悔しいが、やはり私は女で僚は男だ。手のひっぱり合いをしてかなうはずはない。
「よし」
僚はすぐにうなずき、出てきたばかりの私を再び大仲部屋にひっぱり込んだ。

……父が、複雑な視線で私を見る。
私はそれを受けながら、引き戸を後ろ手に閉めた。一刻も早くどこかへ消えたかったが、吹き込んでくる真冬の風には勝てなかった。
「僚くんか。話は真奈のことか?」
そして、父が聞く。
「はい、こんにち……」

――異変は、僚の言葉が終わる前に起こった。

「きゃああああああああ!!」

悲鳴とともに、部屋中の物を手当たり次第に壁にたたきつけたような音が連続する。
「真理子!」
父が叫んで立ち上がったとき、母の姿が視界に入った。自分の見たものしか信じない私も、姿を見せられては疑う余地もない。
母は、階段を転げ落ちてきたのだ。
「真理子……真理子!」
例によって、父はなりふり構わずに母に飛びつき、体を抱き起こした。僚も私の手を放して飛んでいく。
……私は、僚につかまれていた腕を眺めた。真っ赤になっていた。
本当に、自分のことでもないのに、この情熱はどこから来るのだろう。
「うう……」
「大丈夫ですか!」
母のうめき声に、僚の叫びが重なる。
私はその場に立ったまま、階段の下の3人を眺めた。
僚はふたりの間に、何の違和感もなく溶け込んでいた。正直なところ、私よりずっと本物の親子らしく見える……。
「ああ……平気よ。ちょっとつまずいて転んで……」
「理由なんかどうだっていい。無理しないで。すぐに診療所に連絡を……」
「俺がやります!」
僚は叫び、こっちを振り返った。……その視線が、私とぶつかる。
「おい、真奈! お前も少しは何か手伝ったらどうなんだ!」
――そんなこと、できるわけないじゃない。
僚から視線を外すと、右足を押さえて顔を引きつらせている母が見えた。
私は言った。
「……普段の行いが悪いからよ。天罰だわ」

「貴様!!」

僚が飛びかかってきたかと思うやいなや――左の頬に火花が散った。
私の体は、その衝撃に耐えかねて床にくず折れた。

私は、僚に殴り倒されたのだ――。

「僚くん! やめるんだ!」
叫ぶだけで、決して母のそばから離れようとはしない父。
そして……瞳から不自然な輝きがこぼれ、歪めた顔にそのかけらを伝わせている、僚……。

負けたくなかった。
私は頬の痛みも心の痛みも振り切り、自力で立ち上がった。
「……バカみたい。自分のことでもないのに泣くなんて」
そしてそれだけ残し、そっと引き戸を開けると、今度こそ篠崎厩舎を去った。

風が、冷たかった――。

 

 

……長いこと、私はトレセンの中をさまよっていた。
不思議だが、僚に殴られたのが意外にショックだった自分に気付いていた。
私は、ひとりになった自分を強く感じていた……。

私には、僚の気持ちはわからない。
どうして私の問題に関わろうとしたのか。
どうして母の味方をしたのか。
そして、どうしてあんなに怒り、涙まで流したのか……。

階段から落ちた母のことも、まったく気にならないわけではなかった。
だが、母は父さえいれば幸せで、父は母さえいれば幸せなのだ。そこに私の居場所はない。
言うなれば、私は間違って生まれてきた身。
私が母を気づかったところで、感謝などされないだろう……。
そう思うと、考えが僚のところに戻ってきてしまう。

――もしかしたら。
私は、不意に気付いた。
家族に大事に思われていないからこそ、ほぼ唯一の味方だった僚に殴られたことが、これほどまでにショックなのかもしれない。

僚……。
今まで意識したことはなかったが、思い出してみれば、彼だけは本当にどんなときも、私の味方だった。
一緒に遊んでくれた。
いじめっ子からかばってくれた。
私にだって落ち込むことがあったけど、そんなときは慰めてくれた。
結果的には私が面倒を見るようなことの方が多かったのは事実だけど、僚がいなければ――相手が僚でなければ、私は「面倒を見る」などということをしただろうか?

……想い出の糸をたぐって、私はトレセンのほぼ中央にある公園にたどり着いた。
そして、そこに立つ椿の木の下へと歩いていく。

小学校に入った頃だっただろうか。僚はこの木に登り、そして下りられなくなって泣いた。
下で見ていた私は、自分ではどうすることもできず、公園の端で別の子供と遊んでいた伸おじさんを呼んできた。
そして僚はおじさんに助けられ、情けなくガタガタ震えてまた泣いた。
今見ると、一番下の枝は私の頭のすぐ上にある。
いつから、私たちはこんなに大きくなってしまったんだろう。
あの頃に、何かを置き忘れたまま……。

木の幹、かなり下の方を見る。
――まだ残っていた。
あれと同じくらいの時期に僚とふたりで刻んだ「りょう」「まな」という落書き。
私は、その「まな」の上に、指で「真奈」と書いてみた。
でも、「りょう」の上を「僚」となぞってくれる人は、ここにはいない――。

そのとき、バッグの中から携帯の着信音が響いた。
僚……?
当たらない直感でそう思いながらバッグを開け、携帯を取り出す。
ディスプレイ表示は「五十嵐先生」だった。
五十嵐先生……。
放ってもおけず、私は電話に出た。

「はい」
『ああ、真奈か? ……実は、真理子が厩舎の階段から落ちたそうだ』
「ええ」
やはり五十嵐先生も知っていた。今頃なら母は診療所に連れていかれているはずだ。そこから連絡がまわったのだろう。
『知っていたか。じゃあ、そのケガが思ったより深くて、何週間か騎乗できないことも知っているな?』
「そうなんですか……?」
『なんだ、それは知らないのか。……ともかく、ロマネスクに彼女を乗せるプランは白紙に戻さざるを得なくなった。すると誰を、と考えると……やっぱり、本来の主戦騎手である君にということになる』

「ああ……そうですか。わかりました」
……望んでいたことのはずなのに、私の声には力はこもらなかった。

『……どうかしたのか?』
五十嵐先生はたずねてきた。違和感を覚えたのだろうか。
「先生」
その「違和感」を与えるものをごまかすためか、それとも本当に疑問に思っていたためか、私は聞いた。
「なぜ、私に決められたのですか? さっき、あれほど私にはまかせないとおっしゃいましたのに」
すると先生は、答えた。
『真理子に決まってるだろう。『真奈のお手馬に乗れなんて、例え私が無事でも、そんな申し出は絶対に受けられません』と、きっぱり言われた。ああもはっきり断られては、話にも何にもならない』
「母が……?」
自分が何を思うべきか、それさえもわからない。
『彼女だけじゃない。僚もその問題について私に抗議に来たんだ。君が来たすぐ後に』
「僚まで……彼は何と?」
『真理子にG1をと考える気持ちはわかるが、その犠牲になるのが君ってのは気の毒すぎる、と熱心に語っていたよ』
すると彼は、あの私道で会った後に、五十嵐厩舎へ行ったんだわ。
だけど、どうして……。
そこまで動いたって、彼には何の得もないのに。
それに、あのときは「譲ってやれ」なんて言ってたのに……。
『そんなわけだから、あとでお礼を言っておきたまえ。特に僚には』

――五十嵐先生の声が、遥か彼方に飛び去っていった。

 

 

私は篠崎厩舎の前まで戻ってきた。
それは、ここに僚がいると思ったためかもしれないし、それ以外の理由だったかもしれない。
だが――声をかけたり入口の引き戸をたたいたり、あるいは直接ここを開けたりといったことは、ためらってしまった。
私は、本当にここに踏み込んでもいいのだろうか。
邪魔でしかないのに。
望まれてもいないのに。
あんな態度を取ったのに……。

――しかし、世界は私の意思と無関係に動いていく。
目の前の引き戸はいきなり引き開けられ、そして――。

「……真奈!」

「……」
さっき私がここから出ようとしたときとはまったく逆の構図で、僚が顔を出したのだ。
僚が……。
「おい、真奈……」
どこか泣き出しそうにも見える表情の僚の後ろには、並んで椅子に座った父と母。
母は体の両側に松葉杖を置き、右足には痛々しい包帯が巻かれている。
3人は3人とも、それぞれの瞳で私を見ていた。その奥に込められた気持ちは、私にはわからなかったが――。

「真奈」
不意に、母が私を呼んだ。私には作ることさえできない、極上の笑顔とともに。
「お母さんは、そんな大きなケガじゃないのよ。心配して来てくれたんでしょ? こっちへいらっしゃい」
そして、その言葉を証明するように自分で立ち上がり、松葉杖を持った右手を私に向けて振ってみせる……。

――突然、自分の立場が崩れた。

私は、なんでここにいるの……。
誰に呼ばれたわけでもないのに。
誰が喜んでくれるわけでもないのに。
いない方がいいのに……!

最後の一節が、私の足を逃げの形に動かした。

「あっ、真奈!」
父と呼ぶべきではない父の声は、私を引き止めるどころか、背中を押した――。

 

 

……私の望みは、ロマネスクを返してもらうことだった。
それは、いろいろあって叶った。
それだけで、私は納得がいくはずだった。
なのに……。
なのに、この満たされない気持ちは何なの?

情けなかった。
いろんな人に疎まれて、追い出されて、あるいは自分から逃げ出して……気がつけばたったひとり。
孤独に慣れて、それでもいいと思っていた私なのに、今はそれを情けなく感じている。

どうして?
やっぱり……やっぱり私も、本当は誰かにそばにいてほしいの?
いつも一緒にいてくれた、僚みたいに。

僚……。

 

 

――私の足が向いた先は、さっきの公園だった。
そして、まっすぐにあの椿の木の下へ歩いていってしまう。

それで、ひとつのことが確実にわかった。
母がことあるごとに父を頼るように、私にも、僚に寄りかかっている生きているような部分がどこかにあるのだ。
今の僚を怒らせてしまった私は、昔の僚を求めてここへ来た。
ひとりだけでどうにかできるなら、絶対にこんなところへは来ないはず……。

少しだけ顔を上げる。
あの枝の上に、遠い日の幻影。

……そうだわ。
思い出した。
あの日、僚が助けを求めていたとき、自分の手がこの枝に届かないのがもどかしくてたまらなかった。
伸おじさんが助けてくれて、僚はおじさんにすがりついて泣いて……私は、自分だけ放っておかれたような気持ちになった。
醜い想い出だ……。

今なら簡単に手が届く、この枝。
でも、僚はもうここに登ることはない。
時の流れは歪まない。
どんな過去も、自分が感じてしまった気持ちも、変えることはできない――。

……私を、ひとりにしないで……。

私は、あの日の僚になっていた。
高い枝の上で、下りることもできずに、ただひとり震えている。

 

 

……助けて……。

 

 

――その願いは、どこまで飛んだのだろう。
気がつくと、私は背後に気配を感じていた。
そして、低い声が耳に届いた。

「真奈……」

私は振り返った。
「僚」
僚がいた。過去から抜け出してきたのではない、現在の僚が。

……来てくれた喜びを感じる余裕はなかった。
ただ表情を見られたくなくて、再び僚に背中を向けた。
そして、過去にすがるように椿の幹に右手を当て、ささやく。

「私は……惨めだわ」
「惨め? なんでだ」
「お母さんがあんなことになって馬が戻ってきたって、惨めなだけ。私の努力を認められたわけじゃないもの。『代役』でしかないんだもの」
……私にはわかっていた。
一番惨めなのは、こんな言葉しか出てこない自分だ。
ここまで来てもなお、心の奥底を知られるのを恐れている自分。
仕事にしか興味がないように思わせたがる自分。
僚の有馬参戦も「代役」なのをわかっていながらそんなことを言って、彼の感情を動かそうとする自分……。

「……お前さ、さっき篠崎厩舎へ来たとき、おばさんがお前に手を振っただろ。あれ見て、何も気付かなかったのか?」
だが、僚が口にしたのは、私の想像とはまるで違う一言だった。
「え……?」
思わず疑問の声を上げた私に、彼は答えを述べ始めた。
「おばさんは、右足を捻挫して2、3週間の安静ってことだった。馬に乗れないばかりか、歩くのにも松葉杖が必要なくらいだ。なのにおばさんは『立ち上がって右手を持ち上げて』お前に振った。右は不自由な側だから、立ってたらそっちには松葉杖がなきゃいけない。あのときはつい利き手の右手が出ちまったんだろうな。そしておばさんは、痛がる素振りも見せなかったし、よろけることもなかった」

……!
私にも、その意味は理解できた。
じゃあ……じゃあ、母は……!

「わかるか? ……わかるだろ?」
「……」
わかる。わかるから言葉も出ないし、振り返ることもできない……。
「そう。……おばさんは、きっと本当は馬に乗れるんだと思う。階段から落ちたのは事故だったにしても、せいぜい足の打撲くらいで、乗れなくなるほどのケガじゃなかったんだ。たぶん、医者に『乗れないことにしといてください』とでも言ったんだろ」
「なんで、そんな……そんなことしたって、やっぱり私は惨めな代役にしかなれないじゃない」
口が開いても、やっぱりそんなセリフしか出てこない……。
「お前も知ってるだろうが、五十嵐先生はまだおばさんに乗り替わりの話をしてなかった。今言ってもおばさんは絶対にその申し出は受けないだろうから、ぎりぎりまで言わずにおこうとしたらしい。だが、お前が抗議に行ったことで、おばさんはその話を知った。その後、偶然にも事故に遭った。おばさんはチャンスだと思ったに違いない。……結果的に気持ちのすれ違いがあったとしても、おばさんは五十嵐先生をだましてまで騎乗を辞退しようとしたんだ。それは、お前への思いやり以外の何なんだ? お前は、もっと人の心を理解するべきだな」
「僚だってお母さんだって、私の気持ちをわかってなんかいないわ!」
私は叫んでいた。それが、どうしようもない悲しみを引き起こす……。
「そうよ……あなたもお母さんも、私の悔しさをわかってない」
すると僚は、静かに言ったのだった。

「『悔しさ』じゃなくて、『寂しさ』じゃないのか?」

「何ですって……?」
足元が揺れたようだった。
僚は……僚には……私の気持ちが見えるの?

「剛士おじさんに聞いたが、お前はおばさんに、自分が生まれてこなければふたりっきりでずっと仲よく暮らせてよかったのに、とか言ったらしいな」
「言ったわ。あのふたりの人生には、お互いしかいない。私はいないのよ」
「そんなことはない。互いもいて、お前もいるんだ」
「でも、ふたりとも私よりお互いの方が大事なのよ。ふたりが幸せなのはいいことだけど、その影で小さい頃からずっと孤独を感じていた私のことは、誰がわかってくれるっていうの……」
不本意ながら弱音を吐いてしまった私に、僚は優しく、こう言ったのだった。

「お前には、俺がいるさ」

そして、私の肩に手をかけ、私を自分の方へと振り返らせる――。

僚は、私を見つめていた。
そのまっすぐさに耐えかねて私が視線をそらそうとしたとき、彼は右手を伸ばしてきた。
右手は、痛みが刻み込まれたままの私の左頬にそっと触れた。
氷のような冷たい手だったけど、それがかえって心地よかった。
手の冷たい人は心が温かい――そんな俗説を思い起こさせるように。
「痛かっただろ……ごめんな」
「……」
私は僚を見上げた。
頼りない弟みたいな存在だとばかり思っていた彼が、いつしかこんなにたくましくなっていたなんて……。
それとも、最初から私の方が子供っぽかったの?
……きっと、そうなのだろう。

私には、僚が今回の私の騒動に関わろうとした意味が、少しずつわかってきた。
木の上で泣いた少年は大人になって、同じようにひとりで泣いていた私を、助けに来てくれたんだわ……。

「俺さ……今まで、人間が『ふたり』でいることの意味なんて、考えもしなかった」
私の頬から手を放さないまま、僚は語り出した。
「人間って、みんな孤独にはなりたくないんだよな。中にはひとりがいいなんて言うやつもいるけど、そいつは自分の気持ちを理解できないやつに人生をひっかきまわされたくないってことで、本当に自分を理解してくれる相手なら、一緒にいてほしいに決まってるんだ」
それは間違いない、と思う。この私でさえも――。
「ガキの頃からずっと孤独だったって、お前は言った。それを考えると、俺は単に昔っから『物理的にお前のそばにいた』ってだけで、お前にとっては何の意味もない存在なのかもしれない。だがな……俺は、お前に必要とされる存在でありたいと、心から願う」
「どうして……」
私は聞いた。僚は答えた。
「俺が、お前と一緒にいたいと思うからさ」

一緒に。
僚が、私と一緒にいたいと願ってくれている……。

「……どうだ。お前は、こういう俺を孤独にしておきたくないと願ってくれるか?」
「僚……」

――長い年月を経て、私はやっと、枝の上から助け出された。
地面に足をつけてほっとすると、顔が緩んでいく……。

「ありがとう……」

……そして私は、あの日の僚のように震え、知らず知らずのうちに彼にしがみついていた。
あの日の彼は情けなくすがりついたように見えたけど、自分でこうしてみると、それが間違いだったことに気付く。
人のぬくもりは、穏やかな気持ちにさせる。
それを感じたいと思うのは、情けないことではないはずだ……。

僚は、私をしっかり抱きしめてくれた。

 

 

人が「ふたり」でいることの意味。
私も考えたことのなかったそれを、僚から教えてもらった。
自分で気付けなかったのは悔しいけど、意地を張る気持ちにはならなかった。
言葉よりも、こうして……ぬくもりで教えてくれる僚がいるから。
今、自分のことを、とても幸せだと思うから。

私たちはふたりでここにいる。ひとりじゃない――。

 

 

ふたり

(エンディング No.2)

キーワード……う


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