やはり僚の方が気が楽だ、そう思った私は伸おじさんの申し出を断り、寺西厩舎の外に出た。
そして、おじさんに言われた通り、僚の携帯を鳴らす。

……。

『おう、真奈。何か用か?』
いつも通りの僚の力強い声が、頼もしく聞こえる。
「ちょっと、あなたに相談したいことがあるの。いいかしら」
『お前が俺に相談? おいおい、今度の日曜に雪降らすなよ』
思えば、私が有馬に乗れなくなった話さえ知らない僚だ。そんなことを言ってくる。
「……だめ?」
が、慣れない悲しみに包まれた私には、それに反発する元気もない。
『なんだなんだ、妙にしおらしいじゃないか。……あ、だから俺に頼ろうってんだな。わかった。何の話だ』
都合のいい感覚かもしれないが、こういうときには「幼なじみ」のありがたさを実感する。
「ありがとう。……ねえ、今どこにいるの?」
『寮の自分の部屋』
「じゃあ、今からそっちへ行ってもいい?」
『よし。待ってるぜ』
僚は快くそう言ってくれた。私はもう一度「ありがとう」を言ってから携帯を切り、その足で若駒寮へと向かった。

 

 

――僚の部屋へ来ると、私は持ってきたCDロムを彼のパソコンで立ち上げ、すべての事情を話した。
彼は、最初こそ大げさに驚いたものの、私が話していくうちにどんどん冷静になっていった。無関係な人は気楽でいいものだ。

「信じられないな。もしかしたら、誰かのワナって線は考えられないか? お前の活躍をよく思ってないやつの嫌がらせとかさ」
「……僚。ファイルの作成日時を見たでしょう?」
「お前、動揺してるだろ。落ち着いて考えろ。そんなもん、パソコン本体の日付そのものをいじってからファイル作ればどうってことないじゃないか」
「あ……」
そうだ。まったく、今日の私は頭が働かない。
「つまり、こいつが偽造された物だって可能性も否定できないわけだ」
「でも、私の活躍をよく思ってない人って……こんな手の込んだことをして、私みたいな小物をわざわざ狙う必要があるの? 私より活躍している騎手はたくさんいるのに」
「お前個人を憎んでるやつだったらどうすんだ? お前が意図的に悪いことはしてなくても、人の恨みなんてどこで買ってるもんかわからないからな。……とりあえず、ちょっと考えてみろよ。お前に対して動機を持ってるやつがどれだけいるか」
僚に言われて、私は素直に考えてみた。
もしこのCDロムが偽造された物で、内容が事実に反する場合、それを企むような動機を持つ人は?

真っ先に浮かんだのは、普段から折り合いが悪い上に、今回はロマネスクの取り合いまでしている母だった。
だが、いくら母でも、自分まで巻き込んでこんな嫌がらせをするとは思えない。この「長瀬先生の日記」は相当にスキャンダラスな内容で、公表されたら母も無事ではすまない。仮に母が私を憎んでいたとしても、少なくともこんな手段には出ないだろう。
よって、母犯人説は却下。

次に浮かんだのは、五十嵐厩舎所属の騎手、城泰明くんと谷田部弥生さんだった。泰明くんは私と僚の同期生で、弥生さんは4年先輩になる。
競走馬は管理厩舎に所属する騎手がレースで騎乗するのが一般的だが、ロマネスクは泰明くんでも弥生さんでもなく、他の厩舎の私が乗って有馬まで駒を進めてしまった。彼らはふたりとも争いを好まないタイプだが、チャンスを摘み取った私を心の奥底で憎んでいたりはしないだろうか?
しかし、仮に彼らのどちらかがこのCDロムを偽造したとしても、彼らにはこれを長瀬先生の机の引き出しに入れておくチャンスはなかった。

すると、まさか長瀬先生や厩舎スタッフの誰かが……?
犯人の視点に立って考えてみれば、このCDを最初に見つけて内容をチェックするのは私でなければならないはずだ。特に、先生に見られてはまったく意味を成さなくなってしまうので、引き出しに入れっぱなしにしておくのはリスクが大きすぎる。つまり、犯人は私がそろそろ先生にCDロムの整理を命じられそうだと知っていた人間の可能性が高い。
やはり、スタッフの誰かか、あるいは長瀬先生本人……。
が、彼らには動機がない……。

「……どうだ?」
僚の声が、思考を遮断する。

私は、思いついたことをすべて彼に話した。
「なるほど」
彼は短く言い、それで終わりかと思ったところで、ふと続けた。
「……なあ、真奈。このCDロム、今日明日と俺に預からせてくれないか?」
「預かる? 預かってどうするの?」
「決まってんじゃないか。俺がこの件について、ちょっと調べてやる。お前は静かに待ってろ」
「調べるって……あなたが? 待ってよ、それは私の役目だわ」
「今のお前には無理だ。そんな悲しそうな顔しちまって」
「悲しくなんか」
「強がるな。こういうときのために俺がいるんだ。まかせとけ」
――そう言う僚の表情は、一見何でもなさそうだが、本当はとても傷ついているように感じられた。
彼には、自分に関係ないことにも首を突っ込んで、その悲しみまで共有してしまう傾向がある。それを「優しさ」と呼ぶのかもしれないけど、私にはそれが逆につらかった。
あなたには関係のないことなのよ、気にしないで――そう言えたらどんなによかっただろう。
だが、この優しすぎる幼なじみに寄りかかることを選んだのは、他ならない私なのだ。ここはプライドも何もかも棄てて、彼にまかせるべきだろう。
「……ええ。おまかせするわ」
私は静かに答えた。

 

 

――翌々日。
僚から連絡を受けた私は、再び彼の部屋をたずねた。
「どれくらいのことがわかった? あのCDは誰かが偽造した物なの? それとも……本物?」
「まあ、落ち着いて聞け。早く結果を知りたいのはわかるが、話には順序がある」
「わかったわ」
私はうなずき、完全な受け身体勢に入った。
そして、僚の口から調査結果が語られる……。

「……まず俺が調べたのは、この日記の文章が本当に長瀬先生のものかどうかだ。文章ってのは人によってすごく特徴が違うもんだからな。で、そいつを調べるのに、これを使った」
僚はテーブルの上の本を手に取った。
『遠い分岐点』――長瀬先生の自伝だ。私も持っていて、何度も何度も読んだ。実にためになることが書いてある。
「長瀬先生は『分岐点』とか『選択』って言葉を多用する傾向があるみたいだな。……11月15日付の日記に『できるものならば、あの分岐点に還りたい。選択を変え、篠崎に奪われるよりも早く、真理子をさらってしまいたい』とある。このあたりが本物っぽいかなとも思った。だが、自伝なんてはっきりした手本があるだけに、他人が真似をすることも不可能じゃないだろう。よって、この方面からは行き詰まっちまった」

「じゃあ、次は何をしたの?」
「一昨日も言ったと思うが、作成年月日は本体をいじれば簡単にごまかしが利く。だからそいつも証拠にはなりえない。……てなわけで内部チェックの限界を感じた俺は、このCDそのものを調べてみたんだ」
と言って僚は、今度は私が預けたCDロムをケースごと見せた。
「こいつは、確かに20年以上前に主流だった型だ。だがな……俺は、妙なことに気付いたんだ」
「妙なこと?」
私がたずねる前に、僚はケースからCDを取り出していた。そして、ひっくり返して裏側を私に見せる。
「お前が生まれた頃からデータの保存に使ってたにしちゃ、綺麗すぎるとは思わないか?」
……確かに、裏側は買ってきたばかりのCDのように輝いていて、傷ひとつない。
「そうね……」
「お前、知ってるか? CDには寿命があって、普通に使ってたら、別にやばい扱いしてなくたって10年ちょいでガタが来るって話」
「聞いたことはあるけど、詳しい理屈は説明できないわ」
「データが記録されてる層とそいつを保護するプラスティック層との間にすきまができてきて、レーザーの光を正確に弾かなくなっちまうんだ」
僚は意外にも、こういう雑学的なことに強い。彼いわく「寺西先生が詳しくて、いつも聞かされているうちに覚えてしまう」そうだ。
「そうなの」
「……つまり、未開封のまま相当厳重に保管でもしとかない限り、20年以上前の型がこんな綺麗に残ってるわけはない。てことは、少なくともこの日記みたいなやつが、お前が生まれた年にリアルタイムで書き込まれたファイルだって可能性は低い。誰かが――長瀬先生か陰謀計画者かはともかく、誰かがつい最近、未開封のままのこいつをどこかから入手して、パソコン本体の年月日をいじってセーブしたんだろう」
……。
このCD内のファイルは、つい最近作られたものらしい。
だが、それだけでは、中の日記の内容が偽りだという証拠にはならない――。
「で、俺は考えた。年月日をいじってまでこいつを作り上げた何者かは、この20年以上前の型のわりには保存状態のいいCDをどこで手に入れたのか。まさか、今回のために昔から取っといたなんてことはないだろう。……とすると、考えられるパターンはひとつ。こういうのを専門に扱う店で買ったに違いない。そこで俺は昨日、土浦のジャンク屋にこいつを持ってって調べたんだ」
「ジャンク屋?」
「だから、こういった古いアイテムとか、雑多な物を売ってる店だ。俺の知る範囲じゃ、この近辺にはそういった店は俺が行ったところしかない。そしたら……だ。そこの店員が、ちょっと気になる話を聞かせてくれたぜ」
「気になる、話……」
私はほんの少しだけ、顔を僚に近づけた。彼も同じように近づけ、声を小さくして言った。

「……1ヶ月くらい前に、こいつとまったく同じ物を、若いような若くないような女が買ってったらしいんだ」

「女!?」
――瞬時に私の頭に浮かんだのは、悲しいのかそうでないのか、母の顔だった。
「ああ。しかも、こいつはもともと店にひとつしか残ってなかったらしい。店員にこいつを見せたら、断言はできないが、おそらく自分がその女に売ったやつそのものだろうと言っていた」
「そんな……」
頭の中で、母が悪魔の微笑みを浮かべる――。
「1ヶ月前っていえば、ちょうどお前の誕生日……11月12日がある頃だろ。月日が同じなら、パソコンの日付をいじったり直したりするにも都合がいい。つまり、やっぱりこいつはお前を陥れようとしたワナで、その犯人の女はお前の誕生日のちょっと前にこいつを買って、1ヶ月かけて毎日ちょっとずつ『長瀬先生の日記』風に偽造してったんじゃないかってのが、俺の推理だ」
「それで、その犯人の女っていうのは……?」
いよいよ、話は佳境に入ってきた。
……と思ったら。
「そこまではわかんねー。悪いけど」
いきなり腰を折られた。どうやら僚の話は、ここで終わりのようだ……。

 

 

――私は、自分で考えてみた。
一昨日ここで、犯人の可能性がある人をあれこれ思い浮かべた。あの中に女性は何人いるだろう。
少し数えてみよう。

母。
弥生さん。
私を除けば長瀬厩舎で唯一の女性スタッフ、きっかさん。
さらに疑えば、動機を持つ泰明くんととても親しい、私たちの同期生の星野レイラ――。
これだけでも4人だ。

……ジャンク屋の店員さんは、CDロムを買っていった女のことを「若いような若くないような女」と言ったらしい。
これには4人とも当てはまってしまう。
母は50歳目前だというのにいまだに30代に間違えられる。弥生さんは25歳、きっかさんは28歳で、どちらも年齢相応の顔をしている。レイラは私や僚と同い年だが、アメリカ人の母親譲りの大人びた顔だ。

しかし……。

「……真奈。まだ犯人探しするのか?」
不意に、僚がつぶやいた。考えながらうつむいていた私は、顔を上げて彼の表情を見る。
真顔だった。
「本当は、もうつらいんじゃないのか?」
……その通りだった。彼には、私の心なんかお見通しなのだ。
「ええ……」
ほんの少しだけ私がうなずくと、僚はささやいた。

「忘れちまえよ」

「え……」
「犯人が存在するらしいってことは、お前はきっと長瀬先生の娘じゃないんだ。それがわかっただけでも充分じゃないか。これ以上突っ込むと、今度はお前自身が傷つくことになるぜ」
それは、正しい意見なのだろう。
「誰かを疑うよりも、信じて生きた方がいい。……何があっても、俺がいるからさ」
「僚……」
僚の両手が、テーブルの上で私の両手を包み込む……。
――そのぬくもりの中に不本意な悲しみのようなものを感じたとき、ふと、ひとつの考えが脳裏をよぎった。

もしかすると僚は、本当は「日記は本物で、私は長瀬先生の娘だった」という結論を出していたのではないだろうか。
それで、私を沈ませないように、あたかも一生懸命調べたような推理をでっち上げた……。

その可能性は高いと思われた。
人をだますのはよくないが、時にはそれが優しさということもある。
僚ならば、そういうことも考えるんじゃないかしら……。

「……ありがとう。もう、考えないようにするわ」
私は僚の優しさを受け止め、だまされながらうなずいた。

 

 

優しさ

(エンディング No.12)

キーワード……ト


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