長瀬先生は私の父親などではないし、もちろん私を陥れようとした犯人でもない。
それは確信というよりは「信じたい」気持ちに近く、その不確かさと弱さに揺らぎは隠せない。
でも――私にはどうしても、騎手としてここまで自分を育ててくださった長瀬先生を疑うことはできなかった。
それなら、不特定多数のスタッフを疑う方がまだ気が楽だ。
そんな考え方も情けないが、私はそっちを選んだ。

しかし、これからどうする?

ふと、ひとつの考えが浮かんだ。
このCDロムを偽造した誰かは、これの内容を長瀬先生に見られることだけは避けたいはずだ。つまり、気付かなかったふりをしてこれをまた先生の机の引き出しにしまっておけば、その誰かが近いうちに回収に来るのではないだろうか。
ファイルの作成日時にある時間は「22:24」。普通、年月日まではいじっても、時間はいじろうとは考えないだろう。これの場合、狂わせたのは年だけと推測されるだけに余計そうだ(パソコンの内蔵時計が合っていた件については、狂わせた年を犯人が直すとき、悟られる恐怖心から自分の腕時計を見てしまったというあたりが真相だろう)。ということは、午後9時あたりからここを見張っていれば、あるいは……。
その時間なら、すでに厩舎スタッフたちは若駒寮や自分の家に帰り、厩舎には2階で暮らすきっかさんしか残っていない。彼女に見張りを頼むのが一番楽ではあるが、彼女こそが犯人だという可能性もある。やはり、自分の目で見ないことには解決はしないだろう。

やるわ……。
私はそう決めると、問題のCDロムを取り出して元の引き出しに戻し、本体の履歴も消した。
そして、長瀬先生に命じられた整理作業を進めていった。

 

 

その日の、夜9時。

大仲部屋はすでに消灯され、きっかさんも2階の部屋へ消えた。
私は長瀬厩舎の外、入口が見える位置に陣取っていた。事情が事情だけに、寒いなどとは言っていられない。
――闇の中、2階のきっかさんの部屋の窓からもれる明かりだけが、周囲を照らす。
厩舎の鍵はスタッフ全員が持っている。犯人がここへ来たら、まず鍵を取り出して大仲のドアを開けるだろう。そして明かりをつける。
そのときが、犯人の運の尽きだ。私は勢いよく大仲へ飛び込み、その人物と対決する――。

 

 

――長い時間が過ぎた。

誰も現れない。
私の推理は根本的に間違っていて、どれだけ待とうが誰も来ないのかもしれない――そんな不安も芽生え始める。
だが、少なくとも今夜だけは、徹夜をする覚悟でここにいた。例えその結果、風邪をひいて寝込むようなことになったとしても、有馬に乗れなくなった私には何の問題もない――。

と思った、そのときだった。
いきなり大仲部屋の明かりがつき、その光が入口のすりガラスを通して外に射した。
誰も入っていかなかったのに、明かりがついた――きっかさんが犯人なのか、犯人がずっと厩舎内に潜んでいたのか。
いや……まだ断言はできない。きっかさんに何らかの用事があって、彼女が下りていっただけなのかもしれない。
どちらにしても、もう少し様子を見るのが正解だろう。

――が、事態は急展開を迎えた。
突然、私とは別の方向から誰かがドアの前に走っていき、鍵を取り出して開けたのだ!

そして、その誰かはドアを全開にして、中に向かって叫んだ――。

「何をしている!」

「長瀬先生!」
その声を聞いただけで、私は自分のいた場所から飛び出して走っていった。
「……真奈!」
大仲からの明かりに照らされて、長瀬先生の整った顔が視界に飛び込んでくる。
「まさか、お前もあれを見つけていたのか? それで見張りを……」
「ということは、先生も……」
私たちは同じことを考え、同じ行動に出ていたのだ。
そして、私たちにそれをさせた犯人は――。
私は室内を見た。

――そこには、例のCDのケースを持ったまま恐ろしい形相で私たちを見ている、きっかさんの姿があった。

「お前の仕業だったんだな」
長瀬先生は大仲へ入っていった。私も続いて入る。
「……」
きっかさんは私たちを見るばかりで、何もしゃべろうとはしない。
「今日、真奈が整理を終えて帰った後でそいつを見つけた。その中身のとんでもなさに、誰がこんなことをしたのかを突き止めようとした。俺の推理では、自分の母親をよく思ってない真奈か、俺をスキャンダルに巻き込んで厩舎をつぶそうと考えそうなお前、そのどっちかだった」
きっかさんが、この厩舎をつぶそうと考えた……?
それは、私にはどうにも理解できなかった。スタッフによる長瀬先生へのちょっとした嫌がらせ、という推理はしていたものの、それがきっかさんに限定される理由は、私にはわからない。
「……」
「俺が気付かないとでも思っていたのか? お前が俺を憎んでいることくらい、とうの昔に知っていた。俺に対する世話女房みたいな態度はそれをごまかすためだったんだろうが、あいにくだったな」
「先生……」
私は声をかけた。
「いったい、どういうことなんでしょうか。なぜ、きっかさんが……」
「説明してやろう。……俺は、きっかの祖父に当たる高遠敏久先生の弟子としてデビューした。彼には非常にお世話になり、俺はジョッキーを引退するまで高遠厩舎に所属し続けた。それは真奈も知っているな?」
「ええ」
「ジョッキーを引退した俺は、調教師に転業した。……ところが、その影響で調教師への道を永遠に断たれた人がいる」
「永遠に……? そんなはずは……」

「あるのよ。それはあたしの父さんよ」
黙っていたきっかさんが、不意に口を開いた……。

「きっかさん……」
「続きはあたしが話す。先生なんかにあたしの家族の話をされたくない」
きっかさんは持っていたCDをケースごと机の上にたたきつけ、先生の話を引き継いだ。

「あなた、競馬界育ちなのに何も知らないのね。最近の調教師試験ってのは、免許持ってる人と同じラインの人間は絶対に合格できないようになってんのよ。昔は兄弟で調教師やってるような人たちもいたけど、同じつながりばっかりで固まるのを防ぐためなのか何なのか、10年くらい前から、調教師と深いつながりがある人には一切免許をくれなくなったの。お祖父さんの厩舎で厩務員をしてたあたしの父さんは、長瀬先生より5つ年上。同じ世代だから、ふたりが両方調教師になることはできなかった……」
きっかさんはうつむき、下唇をぎゅっとかんだ。
「……父さんは昔から、絶対に自分が後継者になるんだって言ってた。毎年ぶっちぎりでリーディングトレーナーになる高遠厩舎は、高遠家の人間が継がなきゃいけないって。それがうちのプライドだってね。あたしも当然そう思ってた。……なのに!」
顔を上げ、カッという音が出そうな勢いで長瀬先生をにらみつけるきっかさん――。
「お祖父さんの定年に合わせて父さんが調教師試験を受けようと決めた年に、所属ジョッキーの長瀬健一も調教師転向を宣言したのよ! 当然知ってると思うけど、ジョッキーとして1000勝以上した人は、一応試験は受けるけど扱いは別格で、ほとんど確実に調教師免許をもらえる。ましてやこの男は1000どころか2000以上も勝ってたんだから、将来は約束されたようなもんよ。……わかる? この男は他人、しかもジョッキーの分際で、高遠家の未来とプライドをずたずたにしたのよ! おまけに、卑怯にも父さんにはない武器を使ってさ!」
きっかさんは、長瀬先生の机に両手を打ちつけた。
「闘わずして負けた父さんには、もう何も残されてなかった。ある夜、酒を浴びるほど飲んで、車に乗って県道を時速100キロ以上で突っ走って……そのまま、二度とあたしのもとへ帰ってはこなかった。今度は、あたしがすべてをなくした……」
――背中に水を浴びせられたようだった。きっかさんのお父さんが事故で亡くなったことは知っていたけど、それにそんな事情があったなんて。
「あたしはその日から、長瀬健一への復讐だけを考えて生きるようになった。この男を追い落として、いずれはあたしが――高遠家最後のあたしが調教師試験に合格して、再びこの美浦トレセンに『高遠厩舎』の看板を掲げる。それがあたしの人生設計だった。そのチャンスをうかがうために厩務員になったけど、まさかここに配属になるなんて思ってもみなかった。……そこまではラッキーだったのにね」

「……なぜだ?」
きっかさんの話が一区切りしたところで、長瀬先生が一言たずねた。
「なぜって……」
動機のほとんどを話し終えてからそんなことを聞かれるとは思ってなかったのだろう、きっかさんは一瞬にして、さっきまでの彼女とはまるで違う表情になった。
「俺を追い落とすのが目的なら、覚醒剤中毒だとか八百長に荷担してるとか、もっと別のネタがいくらでもあるだろう。それなら許されるってわけじゃないが、なぜこんな、何の関係もない篠崎母娘まで巻き添えにするようなネタを使った?」
先生の言葉を聞いて、私は初めて、本来自分が怒るべき立場だったことに気付いた。この計画が成功していたら、私も母も多大な迷惑を被っていたはずなのだ。
「……先生にはそれがわからないから、あたしはこのネタを選んだのよ」
きっかさんは、私でも長瀬先生でもない方を向いて小さく答えた。
「私にもわかりません。なぜなんです?」
私はたずねた。黙っているだけでは、私の立場が弱くなってしまう。
きっかさんは私を見た。……その瞳は、憎悪のような悲しみのような光をたたえていた。
「真奈ちゃんには、はなっからわかんないよ。わかんないからこそ……」
彼女は続けた。
「……許せない」

そして彼女は、横に置いていた自分のバッグから何かを出して、長瀬先生に差し出した。
――それには「辞表」と表書きがしてあった。
「バレたらそこまでだって最初っから決めて、用意しておいたの。クビだって言われる前に出てくよ」
「きっか……」
辞表を受け取る手も伸ばさず、今度は長瀬先生が「すべてをなくす直前」のような顔をしてつぶやく。
が、彼女の決意は固かったようだ。

「……さよなら。例えこの後あたしが父さんと同じことして同じ目に遭ったとしても、悲しみのかけらさえ見せてくれない、長瀬先生」

こうしてきっかさんは、長瀬厩舎を去っていった――。

 

 

――翌日。
私と長瀬先生は、きっかさんが使っていた2階の部屋で、彼女が残していった荷物をまとめていた。
先生が本やCDなどを、私がタンスの中身を。先生も男性なので勝手にタンスを開けるには問題があり、それで私が呼ばれたのだった。
もちろん、まとめ終わった荷物は、彼女を探し出して返すつもりだ。

「毎年調教師リーディング1位が当たり前だった高遠家に生まれ育ったきっかにとっては、俺が後継者になって『高遠』の名前が途切れるのは、耐え難い屈辱だったんだろう。一番の動機は親父さんの復讐だろうが、あいつが今回の計画を立てた背景には、一度つかんだ地位を手放す悔しさを俺に思い知らせたかった、ってのもあったのかもしれないな」
「そうですね……」
私たちは手を動かしながら、昨日のことについて語り合っていた。
「競馬界ってのは勝負の世界だから、そこで暮らすやつは多かれ少なかれ利己的になる。自分のためなら他人を押し退けてでも……って気持ちが働くんだ」
「……私も競馬界に生まれ育ち、そこで暮らす人間です。私にも利己的な面はあるのでしょうか」
不安になって聞くと、長瀬先生は静かにおっしゃった。
「お前は、篠崎真理子を押し退けてゴールドロマネスクに乗ろうとしていただろう」
「でも、あれはもともと私の騎乗馬だったわけですし……」
「そうだ。一度手にしたものを手放すのを異様に嫌がる。それが馬でも、地位でも。そいつが競馬界人の特徴だ」
そう言われると、黙ってうなずくしかない。
すると――長瀬先生はふと手を止め、窓の外を虚ろな瞳で眺めた。

「……俺にも覚えがある。自己主張と略奪の繰り返しの日々。いろんな厩舎をまわって自分を乗せてくれと頼んで、時には向こうの先生を上手いことおだてて期待馬をまわしてもらったり――奪われる方の気持ちなんか考えちゃいなかった」
「私も……そういう営業をしていたかもしれません。その厩舎で一番走りそうな馬を調べて、上手く根まわしして自分を使ってもらえる形に持っていって――思えば、ロマネスクもその手段で手に入れた馬でした」
今まで何とも思っていなかったことが、重く私にのしかかってくる。
「それができないお人好しは、大成もできない。ジョッキーなんて罪な仕事さ。そして、その罪深さの延長上に、今の俺がいる」
「今の先生が……」
「きっかの親父さんがそんなに調教師にこだわっていたとはその頃は知らなかったが、高遠先生の定年直前に俺が計画的にジョッキーを引退したのは事実だ。先生の後を継げば、最初から厩舎経営が軌道に乗るからな。……その選択が人を死なせることになるとは思ってもみなかった。彼の死の責任が自分にあるとわかったとき、俺は彼と同じように酒をあおって車を走らせようとまで思った。だが、俺にはそれ以上の償いの選択肢があることに気付いて、思いとどまったんだ」
「それ以上の、償いの選択肢……?」
「俺は独身で子供もいない。ってことは、俺の厩舎で子供と弟子が後継争いをする心配はない。俺は俺の意思で後継者を選ぶことができるわけだ。……その頃、きっかが競馬学校の厩務員課程に入学した。あいつが高遠の名前を取り戻すためにいずれは調教師試験に挑戦するだろうということは、誰もが承知していた」
「わかりました。先生は、もしきっかさんが本式にその道を選んだら、彼女を後継者にされるおつもりだったのですね」
私は言った。先生は「ああ」とうなずいたが……その顔を上げることはなかった。
「だが、俺の気持ちは届かなかった。あいつが俺に抱いたのは、最初から最後まで憎しみばかりだった……」
「先生……」
私も作業の手を止め、先生の隣へ行った。行ったからといって何をすることもできなかったが――。

「……でも、私にはまだ、きっかさんの気持ちが完全にはわかりません」
沈黙を破るため、私は自分の疑問を言葉にした。
「なぜ彼女は、私や母を巻き込もうとしたのでしょう。彼女は私に『許せない』と言いましたが、私の何が許せなかったのでしょう……」
「それは俺にもわからない。俺がやがてお前を後継者にするものと思い込んだんだろうか……」
おそらく長瀬先生のおっしゃる通りだろうとは思うが、それにしては最後の彼女は悲しそうだった。私はそれが気になっていたのだ。
が、考えて答えの出る問題ではない。
忘れるしかない、と私は作業に戻った。先生も同じように動き出した。

少しして――。
タンスの奥に、透明なファイルに入れられた1枚の写真を見つけた。普通のサイズの4倍ほどに大きく引き伸ばしてある。
……それは、長瀬厩舎のスタッフの集合写真だった。中央は長瀬先生で、彼の左隣に私、右隣にきっかさんが写っている。私にはできないようなおどけたポーズを取り、本当に楽しそうなきっかさんが――。

「先生」
私は先生を呼び、その写真を見せた。
「これは……」

「……何か、少しだけわかったような気がします」
私は言った。
「彼女は、この厩舎で仕事をするのが好きだったのかもしれません。本当はここを失いたくなくて、自分の過去を忘れさせてくれる人や計画を止めてくれる人を求めていたのかも……」
「そうだな。そう考えないと悲しすぎる。……でも、誰もそれに気付かなかった。あいつは計画を実行し、もう二度とここには帰ってこない……」
先生は、袖で目をこすって男泣きをした。
――その姿が、私の心を痛いくらいに締めつけた。

 

 

今も、わからない。
きっかさんのことを、自分の中でどう受け止めればいいのか。

「競馬界人」の話を、長瀬先生はしてくださった。
それを考えると、この競馬界が続く限り、今回みたいな悲劇はまたどこかで起こりうるのかもしれない――。

――だが、それを防ぐ可能性を持っているのは、私たち若い競馬界人に他ならない。
私ひとりの心がけも、そのための力になれるだろうか。

そう思って、私はロマネスクを母に譲ることを承諾した。
母はまだその話を五十嵐先生から聞かされていなかったらしく、「とんでもない」と驚いていたが、私の説得で受けてくれた。

私の乗り替わり問題は、きっかさんも知っていたはずだ。
彼女は、どこかで母の騎乗を見てくれるだろうか。
そして、そこに隠された私の気持ちに気付いてくれるだろうか――。

有馬記念まで、あと5日だ。

 

 

後継者

(エンディング No.16)

キーワード……う


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