長瀬厩舎の大仲部屋では、長瀬先生がスポーツ新聞を読んでいた。
今日は月曜日ではないので、きっかさんを初めとして他のスタッフたちも大勢いる。

「おはようございます」
「おはよう、真奈。今朝のスポーツ紙はもう見たか?」
「いいえ、まだですが?」
「だったらこいつを見てみろ。お前のことが載ってるぞ」
長瀬先生は上機嫌で、持っていたスポーツ紙を私に差し出した。
そういえば昨日、私は事件に最初に気付いた人間として取材を受けた。どんな記事になっているのだろう。
私は期待のような恐れのような気持ちでそれを受け取り、トップの記事――例の事件の記事に軽く視線を走らせた。
有馬記念出走予定馬の中にも2頭、爆破装置が仕込まれていた馬がいて、彼らの出走取消が確定的になった――そんなことがスキャンダラスに書かれている中に、確かに私の名前が入った部分があった。

『異変に最初に気付いたのは、篠崎真奈騎手(21歳・長瀬健一厩舎所属)だった。篠崎騎手は同厩舎所属馬のサンシャイン(牡6歳)の右前脚に触れてみたところ違和感を覚え、同馬の担当厩務員(28歳)と長瀬調教師(48歳)に相談。長瀬調教師が獣医に診せ、レントゲンの撮影を頼んだところ、爆破装置の発見に至ったという』

「……まったく、あたしだけ名前なし。端折るんなら名前じゃなくって年にしてほしいよ。厩務員なんて仕事がいやになるなあ」
きっかさんがぼやきながら苦笑いすると、大仲部屋のスタッフも全員笑った。

 

 

「先生。おたずねしたいことがあるんです」
笑いが一段落すると、私は持っていたスポーツ新聞を長瀬先生に返し、ここへ来た本来の目的を果たすことにした。
「どうした、改まって」
「先生は昨日、私の発言に対して『それは本気で言っているのか』とおっしゃいましたね。あれの本当の意味を教えていただきたいんです」
「それは自分で気付け」
先生の答えは短かった。それ以上のことは、私がフォローしなければならないようだ。
「もしかすると、『器物損壊未遂』という言葉に問題があったのでしょうか。馬を器物扱いするのは冷たすぎると……」
馬が器物なのに間違いはないし、それに異議を唱えるのは五十嵐先生くらいだろうが、思いつくことといえばそれくらいしかない。
「その通りだ。わかっているじゃないか」
「え……それでいいんですか」
情けなく口を半開きにする私をちらりと見ながら、長瀬先生は煙草に火をつけた。
「……本気で愛し、大切にしていれば、例え物でも愛着が湧くのはごく自然なことだ。それが動物ならばなおさらな。もちろんいろんな人間がいるから、お前はどれだけ馬を愛そうと物にしか見えないのかもしれない。だが、世の中には馬に情を持って接しているやつもいる。そういうやつらにも理解を示して発言内容を選べ、と言いたかったんだ」
煙とともに、重い話が吐き出される。
「そうですね……」
私はうなずき、そしてひとつの疑問に行き当たった。
「馬に対して愛着が湧かないのは、やはり本気で仕事をしていないからなのでしょうか」
「そうじゃない。お前がいつも一生懸命なのは、俺が一番よくわかっているつもりだ。お前は確かに馬に厳しく当たるタイプだが、それが武器になることも少なからずある。女のジョッキーの取り柄は当たりの柔らかさだけだ、なんて言われてた時代はもう終わった。その厳しさはプラスだから、なくさずに大事にしておけ」
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。

「そういえばお前、ゴールドロマネスクを降ろされたらしいな」
と長瀬先生。
「ええ」
「お前のことだから、納得はしてないんだろう?」
「当然です。先生は乗り替わりの理由をご存じですか?」
「知ってるからこの話をしてるんだ」
先生は強く言い、煙草を灰皿に押しつけた。
「……五十嵐さんは五十嵐さんなりに最善の方法を選んだ。だが、それはお前にとっては最悪の方法だった。じゃあどっちが間違っているのかというと、どっちも間違っちゃいないんだ。そこにあるのは、単なる価値観のずれでしかない。どんな方法を選ぼうと、必ずどっちかが納得のいかない思いをするはめになる。お前と五十嵐さんはそんな関係だ。そうなったら、立場的に下のお前が貧乏くじを引くことになっても、とりあえず文句は言えない。仕方のない話だな」

「……納得はできませんけど、少しだけならわかる気がします」
私はそう答えた。
私が見ている世界と他の人が見ている世界は、同じとは限らないのだ。
私が大嫌いなものを大好きな人もいる。私が大好きなものにまったく興味を示さない人もいる。
今まで私は、それを認めようとせず、自分の考えに他人を従わせようとしてはいなかっただろうか?

 

 

「じゃあ先生、あたしはサンシャインの様子を見てきますね」
きっかさんがそう言って、馬房の方へと向かった。
サンシャインは爆破装置を取り除かれたが、手術の傷が治るまでレースには使えない。これからしばらくは厩舎での安静の日々が続く。

……。

「私も行ってきます」
私は座っていた椅子から立ち上がり、きっかさんを追って馬房へと入っていった。

 

 

価値観

(エンディング No.26)

キーワード……ぶ


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