五十嵐厩舎の大仲部屋にいたのは、五十嵐先生ただひとりだった。
「こんにちは。他の方々はどうなさったんですか?」
「みんな、昨日の事件の関係で東奔西走だよ。泰明はレイラの見舞いに行ったが……君も一緒じゃなかったのか?」
ということは、しばらくは誰も戻ってこないだろう。チャンスだ。
「泰明くんはまだ病院にいます。私だけ先に病院を出て帰ってきたんです。……先生と、お話をするために」
「私と……か?」
やはりどこかに心当たりを感じたのか、五十嵐先生は一瞬だけ恐ろしい表情になった。私はそれを見逃さなかった。
「ええ。お時間、よろしいでしょうか」
「構わんよ。そこに座りたまえ」
言われるままに、私は例の豪華な花をはさんで、先生の向かいに座った。
そして、静かに話を始める……。
「……まずお聞きしたいのは、アイスバーンの騎手についてです。なぜ先生は先週土曜のレースで、前走まで乗っていた弥生さんではなくレイラを起用されたのですか?」
「……」
五十嵐先生は答えなかった。が、私の話もまだまだ終わってはいないので、気にせずに続ける。
「正直に申し上げまして、レイラより弥生さんの方が障害騎手としてはずっと技術的に優れていると思います。しかもアイスバーンは調教の動きもレースの内容や結果もよくなってきていて、障害初勝利は間近というところでした。レイラから弥生さんに替えるのならまだわかりますが、その逆をしなければならなかった理由とは、いったい何なのです?」
「アイスバーンは斤量泣きする馬だったからな。確実に勝つためには少しでも斤量が軽い方がよかったんだ。弥生は減量なしだが、レイラなら1キロ減の恩恵がある。それで起用した」
「……先生、墓穴を掘られましたね」
私が返すと、先生は脅えて体を震わせた。
「減量騎手を起用したいなら、通算31勝以上していて1キロ減のレイラではなく、まだ通算21勝以下で3キロ減の泰明くんがいたはずです。彼はここの所属で、しかも先生は弟子を非常に大事にされる方です。減量目的ならば、先生が彼を起用しないはずはありません」
「……」
黙る五十嵐先生に、私はついに自分の推理を話し始めた。
「障害レースの人気馬が次々と不幸な事故に巻き込まれていたことは、誰もが知っていました。先生はそれを恐れて、弥生さんや泰明くんを危険にさらさないように予防線を張ったのではありませんか?」
「……」
先生はそれでも口を開かない。
私は、もうひとつの推理をも話すことにした。
「……長瀬厩舎には、高遠きっかさんという厩務員さんがいます。菊花賞の日に生まれたから『きっか』。昨日彼女と話をして、そのことを思い出したときに、あれっと思ったんです」
私は、自分の行動を五十嵐先生に主張するように大仲部屋を見まわした。
テーブルの上に3つの花瓶。ダンボールの上にテディベア。食器棚の湯飲みの隣にティーカップ……。
「弥生さんの誕生日は先週の14日。つまり12月14日です。でも、『弥生』が旧暦の3月のことだというのは、中卒以上の学歴を持つ日本人ならば誰でも知っている常識です。それなのに、なぜ12月生まれの彼女が『弥生さん』という名前なのでしょう。先生はどう思われますか?」
……先生は何も言わない。
「私の出した結論は、こうでした。……彼女の名前は、実の父親の名前から1文字取って名付けられたのではないかと」
私は先生をまっすぐに見た。
「先生は25年前に奥様を亡くされていますね。お子様も助からなかった、と先生はおっしゃいますが、実際には助かっていたのではないですか? そして、おそらくは『片親では子供が不幸になる』などの考え方からお子様を養女に出し、引き取った先のご夫婦は、実のお父様の名前から1文字取って命名を……」
「やめてくれ!」
突然、先生は悲痛に叫んだ。
「確かにその通りだ……。どうして気付いたのか不思議だが、君の言葉に間違いはひとつもない。だが、それは誰にも知られてはならない秘密だ。頼むから、誰にも言わないでくれ……」
「甘えないでください」
だが、私はきっぱりと言った。
「ではお聞きしますが、レイラが先生に何をしたというんですか?」
「……」
「何もしていないでしょう。それなのに先生は、実の娘や愛弟子は危険な目に遭わせたくないけど、彼女なら構わないとお考えになった。それは許されることではありません。どうしてもレースでの故障や落馬が多いように思えて不安なら、出走を見合わせて、ご自分で真相をお調べになるべきだったのです。それが調教師としての責任ではないでしょうか」
「レイラ……」
五十嵐先生は頭を抱え込んだ。私は言葉を続けた。
「私は思うのです。もし先生が25年前、弥生さんをご自分の娘さんとしてお育てになる道を選んでいれば、もう少し違う結果になっていたのではないかと。寂しさや自分が父親だと名乗れないもどかしさを紛らすために周囲の人間だけを大事にし、その反動でそれ以外の人たちはどうでもよくなっていたのでは?」
「……そうだな。真理子は『周囲の人間』で、君はその範囲から少し外れていたかもしれない。だからロマネスクも……」
「そのことはもういいんです。少なくとも私は、ロマネスクを返していただく目的で今の話をしたわけではありませんから」
それは本当だった。
「ただ……先生もご存じでしょうからあえて誰とは言いませんが、私にも生まれてすぐ母親を亡くした友人がいます。でも彼は、母親がいないのをコンプレックスに思うこともなく、たったひとりで自分を育ててくれた父親を心から尊敬する、素晴らしい人間に成長しました。逆に、実の両親がそろっていても、その両親に愛されない人間もいるのです。先生には、25年前にそれに気付いていただきたかった。先生はその頃も、今の私より年上だったはずですから」
「……厳しい言葉を、ありがとう」
不意に、五十嵐先生はつぶやいた。
「先生……?」
「今まで誰も私にそんな風に意見したりはしなかった。誰もが私の命令に無条件で従い、平和なムードを好んだ。それはそれでいいが……結果的に私ひとりが身勝手になっていたのかもしれん。君がそれに気付かせてくれた」
「先生」
私はそっと微笑んだ。
先生も、長年積み重なっていた何かを振り切ったように、笑っていた。
「ただ、ひとつだけ言わせてくれ」
先生は息を吸い直し、私を見た。
「何でしょう」
「君は『実の両親に愛されない人間もいる』と言ったが、もしそれが自分のことを言っているなら、それは間違いだと」
「間違い……」
確かに私は、自分のことのつもりでその話をしたが……。
「君の名前も母親から1文字もらったタイプだろう。そういう命名をする親が、子供を大事に思わないはずはない」
――そうだ。母は「真理子」で、私は「真奈」。
あの母でも、私が大事だったりするのだろうか――。
そうだといいな、と私は思った。
「……ともかく、本当にありがとう」
五十嵐先生はもう一度笑った。
「弥生に本当のことを話すかどうかはまだ決められないが……私なりの償いはすると約束するよ」
「ありがとうございます」
私もそう言い、深く頭を下げた。
「ただいま戻りました」
そのとき、厩舎のドアが開けられ、弥生さんが入ってきた。
「おお、お帰り」
「あら、真奈ちゃん。いらっしゃい」
「お帰りなさい。私はもうおいとまします」
私は椅子から立ち上がった。
「そう……。今度はゆっくりしていってね。あなたはトレセンの救い主さんですもの。ね、先生」
「あ、ああ」
……大したことはしていないのに、それを言われると恥ずかしい。
「それでは、失礼いたします」
私は五十嵐先生と弥生さんを残し、五十嵐厩舎を出た。
――外は、冷たい風が心地よかった。
秘密
(エンディング No.28)
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