「僚、ちょっと待って!」
私は僚を止め、その理由を言った。
さっきは炎を消せと言ったものの、それで彼が動けなくなってしまってはどうしようもないと思い直したこと。
だから、隣の部屋のファイルを持てるだけ持って逃げるべきだと思ったこと――。
「そうか……サンキューな。わかった、じゃあそうするか!」
僚が言い、私たちは全員その部屋から廊下に飛び出した。
いや――ただひとり、弥生さんが香先生のそばについたまま出てこない。
が、それを気にするのは本当に脱出する段階になってからでいい。
「あたし、あっちの廊下を見に行ってくる! 泰明いるかもしれないから!」
レイラがそれだけ残して走っていった。
普通なら「危ないからよしなさい」あるいは「大急ぎでね」などと声をかけるべきだが、そんな余裕もなかった。

私と僚は、ファイルを片っ端から抱えた。中身を確認している時間がないので、とにかく全部持っていく。
どんなにがんばってもひとり10冊が限界だ。ファイルの総数は50冊ほど。ということは……レイラが泰明くんを連れ帰ってきてくれれば、何とか全部持ち出すことができそうだ。
――その期待は現実のものとなった。足音が聞こえたかと思うと、廊下にふたりの人影が現れた。それはレイラと……髪を真っ白にした泰明くんだった。病状が気になるが、自分の足で立って歩いているのだから問題はなさそうだ。
「泰明! 無事だったか!」
僚が声をかける。
「無事だよ! 向こうの部屋に閉じ込められてた!」
レイラが答える。
「心配かけてごめん……」
白い髪を揺らしながら、泰明くんは頭を下げた。
「謝ってる暇なんかないよ! ほら、あんたもここのファイル持って逃げるんだよ! きっとどっかに治療法が書いてあるはずだから!」
「わ……わかった!」
ふたりは残っていたファイルを分けて抱えた。

「弥生さんは?」
4人でも持ちきれないとわかった僚が、ようやくそれを気にした。
「香先生のところよ! 出てこないの!」
「何やってんだ!」
私が答えると、僚は先輩相手に舌打ちし、ファイル10冊を軽々と抱えたまま部屋を飛び出し、さっきの部屋へと戻った。私もファイルの山を抱えながら彼についていく。

弥生さんと香先生のいる部屋は、すでに炎が天井まで届いていた。こうなると後はとても早いはずだ――。
「弥生さん! そこは危ないですよ! 早くこっちへ来てください!」
僚が炎の勢いに負けない大声で叫ぶと、弥生さんではなく香先生の声が返ってきた。
「……その通りよ、谷田部さん。私を連れて逃げようなんて考えるものじゃないわ」
「いやです! 絶対に見捨てられません!」
そして弥生さんは、床に倒れたままの香先生の腕を懸命にひっぱっている――。
事態が把握できた。香先生は自分を見捨てて逃げろと言い、弥生さんがそれに反対しているのだ。
「あなたって本当にお人好しね。私はあなたを利用したのよ? 裏切ったんだからね? わかるでしょう?」
「あなたはそんな人じゃありません! それにも理由があるんでしょう? それなら私……」
弥生さんは色の抜けきった髪を乱しながらなおも香先生の腕を引いたが、先生は動こうとはしない。

「……弥生さん、もう行きましょう。彼女は覚悟を決めているようです」
私は落ち着いて言った。それが結果的に一番だと判断した。香先生にはこの場から動く気は微塵もなさそうだ。このままだと確実にふたり以上死んでしまうが、弥生さんを強引に連れ出せば犠牲者はひとりですむ。全員無事がベストなのは当然わかっているが、この状態ではその結末に持っていくのは無理なようだ……。

「……わかりました。では……」
弥生さんはうつむきながら立ち上がった。
そして、私たちの指示通りにファイルの残りを抱える。
――最後に香先生に何かを残していくかと思ったが、それはしなかった。
こうして私たち5人は、ファイルの山を抱えて地下通路まで大移動した。

 

 

先頭のレイラが地下への床板を開け、飛び込む。
続いて泰明くん、僚、私、最後に弥生さんが……?
不意に違和感を覚え、私は振り返った。

――違和感は的中した。そこに彼女はいなかった。
ただ、彼女の持っていたファイルだけが、あたかも身代わりのようにそろって床に置かれていた――。

「弥生さんがいないわ!」
私が叫ぶと、地下から僚が駆け上がってきた。
「なんてこった……さては、香のところへ戻ったな。まったく、何を考えてるんだ……」
ぼやきながら、床のファイルを地下に持ち込む僚。これでとりあえずすべてのファイルが炎から守られることになるが……当然、ファイルより人間の方が心配だ。
「ぼくが見てくる!」
「やめなよ!」
地下から飛び出そうとした泰明くんを、レイラがひっぱって止める。
「放してくれ! 彼女が無事じゃないと、五十嵐先生が悲しまれる!」
「だからってムチャしてあんたまでどうにかなっちゃったら、先生余計に悲しむよ!」
レイラがそう説得した直後――あのT字地点の上から燃えた丸太が落ちてきて、床を一瞬のうちに火の海に変えた……。

「弥生さーん……!!」

……泰明くんの悲痛な大声が空気を震わせたのか、ログハウスのあちこちから炎が吹き出し始めた。
私たち4人は、もはやなりふり構わず地下通路を使って逃げるより他になかった……。

 

 

――結局、弥生さんも香先生も助からなかった。
焼け跡からは、仲のいい姉妹のように寄り添った、ふたりの女性の遺体が発見されたそうだ……。

地下通路にあった鉄のドアの向こうからは、今まで行方不明になっていた6人の遺体が出てきた。
その中には、東屋先生もいた……。

私たちが持ち出したファイルの山は、確かな証拠品となった。
また、幸いなことに中には治療法の書かれたファイルも入っており、それを参考に僚と泰明くん、そして入院中の他の患者たちも治療された。
「謎の奇病事件」としては解決したわけだが、当然納得のいく終わり方であるわけはない。

香先生がこんな恐ろしい手段を選んだ本当の理由は、ついに謎のままだった。
そして、弥生さんがあそこまで香先生を慕った理由……。

――後者に関しては、泰明くんが納得のいく説を教えてくれた。弥生さんは、香先生が優しい人だと最後まで信じていたのでは、というのだ。
泰明くんは弥生さんと似たタイプの人で、彼女の心理は今までもそれなりにわかったらしい。
彼は香先生と個人的に話をしたとき「研究ばかりでなく普通の恋がしたい」というような言葉を聞いたことがあるそうだ。彼にはそれがどうしても自分の同情を引くためのセリフだとは思えず、ずっと気になっていたらしい。
だから、同じ理由で弥生さんも香先生の思いがけない部分がずっと気にかかっていて、それで最後の最後まで信じることにしたのでは――泰明くんはそう語ってくれた。
もっとも、これも想像にすぎないけど――彼はそうつけ加えて話を終えた。

裏切られても、実験台にされても、不意に見せた優しさや寂しさの破片を信じ続ける……。
悲しい結末になってしまったが、弥生さんは後悔はしていないのだろう。
そして香先生も、きっと嬉しく思っていたはずだ。

――美談には到底ならない悲劇だが、私はそう信じることにしたのだった。

 

 

破片

(エンディング No.62)

キーワード……と


読むのをやめる