「先生。……双子座の伝説というのを、ご存じありませんか?」
厩舎の大仲部屋にひとりでいらっしゃった長瀬先生に、私はそう聞いた。
「双子座の伝説? 星座の話か?」
「はい。双子座はなぜ双子座と呼ばれるようになったのか、その由来です。訳があって少々調べているんです。先生なら知識が豊富でいらっしゃいますし、ご存じではないかと思ったのですが」
私がたずねると、長瀬先生は首をひねった。
「うーん、その手の話は専門外だからな。ただ、双子座かどうかはわからないが、兄弟が出てくる星座の伝説をひとつ知っているには知っている」
「教えてください! きっとそれだと思います!」
夜空にどんな星座があるか細かいことまでは知らないが、兄弟が出てくるのはたぶん双子座だけだろう。
「そうか。それでよければ話そう」
先生は煙草に火をつけると、話し始めた。
「……昔、とても仲のいい兄弟がいた。ところが兄弟の父親に悪い女が近づいて、母親を追い出しちまった。その女はさらに兄弟をも殺そうと企んだ。それを知った母親は、何かの動物……何だったかな。とにかく動物を兄弟のもとへ差し向けて、そいつらを乗せて逃げるように指示した。動物は指示通りに兄弟を乗せて逃げ出したんだが、途中で弟だけを落としちまったんだ。でも、もう戻れなくて……兄弟は離れ離れ、って話さ」
「……」
今ひとつピンと来ない。一度聞いたことのある話なら「そういえば……」と思い当たりそうなものなのに、それがないのだ。
だが、人の記憶など曖昧なものだ。確かに過去にこの話を聞いていたか、別の話を双子座の伝説だと勘違いしていたか、どちらかだろう。
ともかく、双子座の伝説はわかった。
あの新谷ツインズをこの話の兄弟に置き換えたとすると……豊さんは、稔さんに置いていかれてしまったと思っているのだろうか。
それを判断するには私はあまりにも彼らのことを知らないが、もしそうならば、私にも似ていると思った。
私も家族に置いていかれ、たったひとりで生きてきた人間だ。
寂しいなどとは思いたくないが、その不本意さはとてもよくわかる。
「……どうした、黙っちまって。お前の探してる話じゃなかったか?」
長瀬先生は煙草を灰皿に押しつけ、私の顔をのぞき込んだ。
「いえ……おそらくそれです。すみません、聞いたことがあるような気がしていたんですが、記憶違いだったみたいです」
暗い顔をした豊さんを想像から追い払うと、私は答えた。
「そうか、ならいい。……ところでお前、さっき携帯鳴らしたのに、なんで出なかったんだ?」
「……え?」
私は目を見開いた。
「あの……携帯は鳴りませんでしたが」
「鳴らなかった? そんなはずない。電源が切れてるメッセージじゃなくて、ちゃんとコール音がした。それなのに、何回呼んでも出なかったぞ」
「そんな……」
私はポケットに手を突っ込んだ。
――何の感触もない――。
「あ!」
瞬時に理解する。
「すみません! 出かけた先に携帯を忘れてきてしまったみたいです!」
あのゲーセンのスタッフルームで豊さんと番号を教え合ったとき、携帯に彼の番号を登録した。そして、それをポケットに戻すことなく帰ってきてしまったのだ――。
「忘れてきた? お前らしくもないミスだな」
自分でもそう思う。
「本当にすみません……。どうも今日はぼんやりしてまして」
「まあいい。そういう事情なら仕方ない。ただ、鳴ってるのをわかっていて無視するのだけは許さないぞ」
「はい、わかりました」
厳しくおっしゃった長瀬先生に、私は答えた。
……そういえば、彼の自伝にそんなエピソードが載っている。騎手時代、気分が優れないというだけの理由でお師匠様からの呼び出しを無視したら、その連絡は「厩舎の馬がケガをして応急処置の人手が足りないから来い」という内容だったそうだ。自分がすぐ行かなかったことでその馬の状態を余計に悪化させてしまった、と彼は悔やみ、それ以来「自分が周囲に与える影響」を考えてから行動するようになられたという。
そして、やはりその経験が尾を引いているのか(失礼かもしれないが)、この長瀬厩舎では、馬1頭の具合が悪くなっただけで手の空いているスタッフ全員が集められる。私も、長瀬先生からの携帯が鳴ると、馬に何かあったのではとつい心配するようになってしまった。
先生からの連絡――。
「そういえば……先生、私に何の用事だったんですか?」
私はたずねた。私の携帯を鳴らしたということは、私が必要だったはずだ。
「大したことじゃない。出かけたいんだが、留守番してくれるやつが誰もいなくてな。お前は手が空いてるかどうか聞きたかっただけだ」
「もうお出かけになったんですか?」
「まだだ。それほどの用事でもないからな」
「どうぞ行ってらしてください。私、ここでお留守番していますから」
それは弟子の心がけだ。
「でも、忘れてきた携帯を取りに行かなくていいのか?」
そういう気づかいをしてくださる先生を、私は心から尊敬している。
が、甘えるわけにはいかない。それも弟子の心がけだ。
「構いません。信頼できる人のところですから、大事に持っていてくれると思います」
信頼できる人――私は豊さんを思い出して、ほんの少し笑った。
「そうか。じゃあ、ちょっと行ってくる」
「どうぞ、行ってらっしゃいませ」
そして長瀬先生は外出し、厩舎は私ひとりになった。
30分も経った頃だっただろうか。
大仲部屋の引き戸が、外からノックされた。
「はい、どうぞ」
私が言うと、ドアは開けられ――。
……そこには、ひとりの警官が立っていた。
「失礼いたします。警察の者ですが……こちらに、篠崎真奈さんという方がいらっしゃいませんか?」
「え? 私ですけど……」
私は驚いた。警察が私をたずねてくるなんて……?
「そうですか。では、これはあなたの携帯電話ですね?」
警官はそう言って、ポケットからそれを取り出した。
――確かに、私の携帯だった。
「は、はい……。しかし、それは外出先にうっかり忘れてきてしまったはずですが……まさか、届けに来てくださったんですか?」
警察がそんな親切なわけはない。偏見かもしれないが、私はそう思っていやな予感を覚えた。
案の定、警官は渋い顔をした。
だが、その口から出た言葉は――。
「そうではありませんよ。……実は、これをあなたに届けようとした男性が、そこの道でバイク事故を起こして、亡くなったんです」
「な……!!」
亡くなった、と叫ぶことさえもできなかった。
そんな……これを届けてくれた人……まさか、まさか!
「そ……その方のお名前は!?」
「あなたのお知り合いでしょう。新谷豊さんです」
――世界が暗転した。
豊さんが、死んだ。
豊さんが。
私のせいで。
私が、忘れ物などをしたせいで――。
豊さん……!!
――私には、もう何をすることもできなかった。
立っていることも。
声を出すことも。
涙を流すことも。
悲しむことさえも――。
悲報
(エンディング No.78)
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