俺は篠崎厩舎へ向かうことにした。
真奈は「真理子おばさんが自分を踏み台にした」ようなことを言っていたが、俺にはそれがどうしても信じられなかった。おばさんが五十嵐先生からの申し出を断らなかったのは、本当に「G1を勝ちたい」という思いに負けたためなんだろうか。そうは思えない。何か、俺も真奈も知らない事情でもあるんじゃないだろうか……。
そう思いながら、また、そうであってほしいとも思いながら、俺はさっき真奈と会った中心部のイチョウ並木まで戻ってきた。
篠崎厩舎は、ここから北に入ってすぐのところだ。
「あら、僚くん!」
篠崎厩舎の前に出るやいなや、俺は頭上からの声を聞いた。
見上げると、厩舎の2階の窓から真理子おばさんが俺を見ていた。
「あ、おばさん。こんにちは。……実は、ちょっとおばさんに話があるんですが、いいですか」
「え? ……ええ、いいわよ。今、下に行くから、中に入って待ってて」
やはり心当たりを感じたんだろう、おばさんは一瞬戸惑ったようだったが、すぐ笑顔に戻って窓辺から姿を消した。
そのときだった。
ガラッと音がして、突然、目の前の引き戸が開いた。
そして、そこから……。
「僚……!?」
なんと、真奈が顔を出したのだった。俺はもちろん、冷静が売りのこいつの方も驚いている。
「……失礼するわ」
が、真奈は真奈。すぐに態度を一変させ、俺がここにいる理由を問うこともなく去っていこうとする。
「ちょっと待て。俺はおばさんと話をしに来たんだ。お前も一緒にいろ」
俺はそう言って真奈を引き止めた。
真奈がここにいた理由はわかる。例の乗り替わりの抗議を五十嵐先生に却下されたから、今度はおばさんに文句をつけに来たのだ。その交渉が上手くいったかどうかは別として、用事がすんだ以上はさっさとここから離れたいってのが、こいつの本音だろう。
しかし、こいつは事件の当事者だ。こいつがいることで逆にこじれる可能性も高そうだが、基本的に他人の俺ひとりってわけにもいくまい。
「いやよ。さよなら」
「待てってば!」
強引に去ろうとした真奈の腕を、俺はぐっとつかんだ。
……。
真奈が振り返る。
いつしか笑うことのなくなった綺麗なふたつの瞳が、俺の表情をとらえる。
胸を熱くする余裕もなく見つめ返していると、真奈は小さく言った。
「……わかったわよ」
「よし」
俺は短く答えると、真奈の気が変わらないうちに、開いたままだった引き戸から身を滑り込ませた。
ふたりが入り、真奈が引き戸を閉める。
大仲には、篠崎先生がひとりだけでいた。真理子おばさんはまだ下りてきていないらしい。
「僚くんか。話は真奈のことか?」
「はい、こんにち……」
そうして、まずはありきたりなあいさつをしようとした、まさにそのときだった。
「きゃああああああああ!!」
突然、2階から絶叫が飛んだかと思うと、バタバタと大きな音が大仲に響いたのだ!
「真理子!」
篠崎先生が慌てて椅子を立ったと同時くらいに……階段の下に、真理子おばさんが倒れた状態で落ちてきた。
「真理子……真理子!」
先生が素早く飛んでいっておばさんを抱き起こす。俺も、真奈の手を振りほどいて大急ぎで駆け寄った。
「うう……」
おばさんは右の足首を押さえてうめいていた。意識はあるが、相当痛そうだ……。
「大丈夫ですか!」
「ああ……平気よ。ちょっとつまずいて転んで……」
「理由なんかどうだっていい。無理しないで。すぐに診療所に連絡を……」
「俺がやります!」
放ってはおけず、俺はそう申し出て振り返ったが、そのとき、入口の前に突っ立ったままで駆け寄ってこようとさえしない真奈の姿が視界に入ってきた。やつはその場から一歩も動かず、冷ややかな瞳でただこっちを見ているだけだ。
「おい、真奈! お前も少しは何か手伝ったらどうなんだ!」
俺がいらついて叫ぶと、真奈は言った。
「……普段の行いが悪いからよ。天罰だわ」
「貴様!!」
……俺はキレた。
抜け殻のような真奈に飛びかかり、その表情のない彫刻のような顔に拳を振り下ろす……。
「僚くん! やめるんだ!」
篠崎先生の声で我に返ったときには……真理子おばさんと同じような体勢で床に倒れ込む真奈の姿があった。
……その姿が、次第にぼやけていった。
俺が真奈を。
俺が、真奈を……。
涙があふれ出した。
意地でもおばさんと同じになんかなるものかという気持ちがそうさせたのか、真奈は俺が大声で泣く前にすっと立ち上がり、つぶやいた。
「……バカみたい。自分のことでもないのに泣くなんて」
そして、そのまま静かに引き戸を開け、外へ出ていってしまった。
「真奈……真奈、真奈……!!」
おばさんのために診療所に連絡しなければならないのはわかってる。とんでもないことをしたのが自分だってこともわかってる。
でも、俺はただそうして大仲の床に突っ伏し、号泣するしかできなかった……。
……その後。
俺は、篠崎先生と並んで診療所の待合室の椅子に座り、真理子おばさんの診察が終わるのを待っていた。
真っ赤に腫れた両まぶたが重い。手で押さえて少しでも元の状態に戻そうとしていると、不意に先生がたずねた。
「僚くん。なんで、あんなことをしたんだ?」
「……すみません」
「謝ってほしいんじゃない。ぼくは、君があそこまで取り乱した理由を知りたいだけだ。問題はひとりで抱え込まない方がいい」
先生の手が俺の肩に伸びる。……その優しさが俺の中で、先生をひとりの調教師ではなく、昔の「剛士おじさん」に戻していく。
それに甘えて、俺は答えた。
「俺……今朝、初めてお袋の写真を見たんです」
「そうか……そうだったんだ」
それしか言わなかったのに、剛士おじさんは俺の複雑な気持ちをわかってくれたみたいだった。
「真奈も、君や真理子みたいな感受性を持っていれば……」
その「真理子みたいな感受性」という言葉が気になって、俺はまぶたから手を放して聞いてみることにした。
「……そういえば、なんで真理子おばさんは『真奈からの乗り替わり』なんて申し出を受けたんでしょうか。俺は、おばさんなら絶対『真奈を乗せ続けてほしい』って言うと思ってたんですが。実は、さっき厩舎へ行ったのも、それをおばさんに聞きたかったからなんです」
すると、今度はおじさんの方が顔に手を持っていって答えた。
「それなんだが……真奈が抗議に来るまで、ぼくも真理子もその話を知らなかったんだ」
「知らなかった!?」
それは意外な話だったが、納得のいく理由ではあった。
「ぼくの想像だが、五十嵐さんにしてみれば、ぎりぎりまで伝えずにおきたかったんだろう。君の言う通り、真理子は必ず真奈のために辞退するだろうから。……五十嵐さんの気持ちも、わかるんだ。彼は昔から真理子を妹みたいに大切にしていたから、30年も現役を続けてG1を勝てなかったなんてかわいそうだ、最後くらい……って考えたっておかしくない。だから、厩舎で一番の期待馬を与えようとしたんじゃないかな。まだ未来がある真奈を犠牲にしてでも」
「おじさんはいったい、おばさんと真奈と、どっちが大切なんですか!?」
つい大声になってしまい、まずかったとすぐに口をつぐむ。
ところが剛士おじさんは、その言葉に意外なほど鋭く反応した。
「……両方大事だ、なんて今さら言ったところで、誰も信じないんだろうな」
「おじさん……」
「さっき真奈がうちの厩舎に来て、2階で真理子相手に抗議していたとき、あいつはこう言った。『私が生まれてこなければ、ふたりきりでずっと仲よく暮らせてよかったのにね』と。……ぼくはそれを聞いたとき、追い出されて1階に下りる途中だったから、それに真理子がどう答えたかはわからない。だが……正直、ものすごくショックだった。生まれてこない方がよかったなんて思ったことは一度もないけど、ぼくは真理子を大切に思うあまり、真奈と真理子が対立したとき、いつも真理子の味方をしていたかもしれない……それに気付いたんだ」
俺の心の中で、私道で会ったときの真奈の言葉がはじけた。
……娘を大事にしない母親を、どうして大事にしてやる必要があるの……。
「ぼくにはもう、よくわからないよ。どうやれば真奈の心を取り戻せるのか。……真理子のケガが騎乗に影響するほどひどいもので、五十嵐さんがあきらめて真奈を乗せ続けると言ってでもくれない限り、無理なのかもしれない。そんなことで戻ってきても、それはそれで悲しいけど……」
……俺は、おじさんに自分の気持ちのすべてを話そうと思った。
「そんなことになっても、真奈の根本的な部分は何も変わらないと思います」
「そうだろうか……」
「はい。真奈が本当の意味で求めているものは、乗り馬でも名誉でもなく、自分の心を理解してくれる人ではないでしょうか。……本人は認めないと思いますが、真奈はきっと寂しいんです。昔から今まで、ずっと……」
「……」
剛士おじさんは顔を上げ、窓から外を見た。
「ぼくにも君くらいの頃、寂しくてたまらなかった時期があった。その寂しさを埋めてくれたのが真理子だったわけだが……自分にあったことが自分の娘にないなんて、どうして言い切れるものか……」
「……俺は、自分以外の存在の心を理解できる人間でありたいと思います。例え、それがジョッキーとしてはマイナス要素だったとしても」
俺の背伸びした発言に、おじさんは顔をこっちに向け直した。
「君は……やっぱり片山の子だな。あいつも昔からそういうやつだった。他人のために尽くすのが一番いい生き方だって」
「親父、今朝俺に『自分のためにがんばれ』なんて言いましたけど」
「いや、君の……君や片山の生き方は間違ってない。……真奈にもそういう気持ちを教えておくべきだったな。誰かに自分の心をわかってもらったり優しくしてもらったりするのは、すごく嬉しいことだから」
「そうですか」
俺は自信を持った。ためらいが勇気に変わった。
「俺は思うんです。人はみんな寂しがり屋で、だからひとりでいるよりふたりでいたいと願うんだと。それで先生は……おじさんは真理子おばさんを選んで、俺は真奈を選びました。……俺は、真奈が好きです。そばにいてやりたいと思います」
「ありがとう。その気持ちは昔からわかっていたよ。君はいつも真奈の方を見ていたからな」
剛士おじさんは、ここへ来てから初めて微笑んだ。
「……あ、もちろんこれは、真奈がそれを望むならですが……」
「きっと、望むさ。……真奈はぼくによく似ている。他人の親切を素直に受け入れられないようなところも。でも……こういうぼくも、真理子に『あなたが好きだから、そばにいてあげたい』って言われたときは、ひねくれた気持ちなんかまったく感じないで喜んだものだよ」
……それに対する答えを考えていたとき、診察室のドアが開いた。そして、そこから……右足首に包帯を巻かれ、両側に松葉杖をついた真理子おばさんが出てきた。
「真理子……」
剛士おじさんが心配そうに声をかけると、おばさんの後ろから続いて出てきた医者が言った。
「……捻挫ですね。大きなケガではありませんが、騎乗は2、3週間控えた方がいいでしょう」
「それじゃ、有馬は……」
どんな気持ちからか、俺はそうたずねていた。
「無理ですな。五十嵐先生にはこれから連絡します」
それだけ事務的に言って、医者は診察室に戻ってしまった。
「……何か、ほっとしちゃった」
「何を言ってるんだ」
微笑む真理子おばさんに、剛士おじさんは顔をしかめて返す。
そんなふたりを横から見ながら、俺は考えていた。
……五十嵐先生は、ゴールドロマネスクに真奈を乗せ続けることを選ぶだろうか。
そして、選ばれたとしたら、真奈はそれを喜ぶのだろうか……。
俺は、剛士おじさんとふたりで真理子おばさんを両側から支えながら、篠崎厩舎へ帰ってきた。
「どうもありがとう、僚くん」
ゆっくりと椅子に座り、真理子おばさんは俺に微笑みかけた。
「いえ、大したことはしてません」
俺がそう答えたとき……携帯の機械的な音がポケットの中から自己主張を始めた。
「おっと、俺だ……失礼します」
ひっぱり出してディスプレイを見ると、五十嵐先生だった。……きっと有馬のゴールドロマネスクの件だ。俺も、抗議に行ったりしてまったくの無関係ではないからな。
「はい」
『ああ、僚か? 五十嵐だが、真理子が厩舎の階段から落ちてケガをしたそうだ』
思った通りだ。
「ええ、知ってます。その場に居合わせてましたから」
『そうか。ともかく、そうなったら仕方がない。君の気持ちを考えて、有馬も真奈にまかせることにしたよ』
「あ……は、はい、どうも」
真理子おばさんが目の前にいる以上、大きく喜ぶわけにもいくまい。
それより、俺は俺の疑問をはっきりさせておこう。
「先生。その話、もう真奈にはしたんですか?」
『ああ、君の前に、携帯で』
「……真奈、どんな様子でした?」
『どうって……いつもと同じだ。ああそうですか、わかりました、といった感じで、悲しんでいるとも喜んでいるともわからない』
「そうですか……」
やはり、真奈は真奈だったのか。
俺があれほどの感情を込め、実力行使と涙で訴えたところで、何も変わりはしないのか……?
……いや、そんなことはないと信じたい。
俺は、昔のあいつの笑顔を忘れない。
態度に出すことはなくても、心の中にはきっと、おばさんを心配するような気持ちが残っているはずだ……。
五十嵐先生からの電話を切ると、俺はおじさんとおばさんにその内容を説明した。
「そう……五十嵐先生も認めてくれたのね。真奈はどう思ってるのかしら……」
診療所でおじさんに話した内容を繰り返す気にはなれず、俺はどう返していいものやらと考え込んでしまった。
「……?」
そのときおじさんが、入口の方を見て首を傾げた。
振り返って見る。冬だから当然、風が入らないように引き戸は閉まっているが、そのすりガラスの向こうに人影が見える。
「誰か来たみたいだな」
「俺が出ます」
立ったままだった俺は、直接ドアの前に行って引き開けた。
「……真奈!」
「……」
外に立っていたのは、なんと真奈だった。俺が殴ったときの頬の赤さが痛々しい。
「おい、真奈……」
……俺の頭の中を、いろんな思いがめぐった。
やっぱり、おばさんが気になったんだ。それ以外にここまで来る理由なんてないだろう。……いや、この真奈に限ってあるかもしれない……違う、なんてこと考えてんだ。俺がこいつを信じなくてどうする。
どうしよう。来た理由を聞くべきだろうか。謝るべきだろうか。それとも……。
真奈は、俺たち3人が全員存在に気付いても、逃げることはしなかった。ただ、無言で無表情のまま、石像のようにそこに立っている。
「真奈」
そのとき、真理子おばさんがそっと、外に向かって呼んだ。俺は振り向いてその表情を見る。
……優しい微笑みが、そこにはあった。
「お母さんは、そんな大きなケガじゃないのよ。心配して来てくれたんでしょ? こっちへいらっしゃい」
そしておばさんは自力で椅子から立ち上がり、松葉杖ごと右手を高く挙げて振ってみせた。
……。
俺の頭に、ひらめくものがあった。
「あっ、真奈!」
後ろからの足音とおじさんの叫びを聞いて再び振り返ったときには、もう真奈はその場から駆け出していた。
「俺、追いかけます!」
俺はそれだけ残して、篠崎厩舎を飛び出した。
自分の選択とその結末には、自信があった。
……俺は、思い出していた。
親父によると、俺の名前は、仲間とか友達とかって意味らしい。
今になって、親父が俺にそういう名前をつけた気持ちがわかる気がする。
ずっとふたりでいたかった相手を亡くしちまった親父は、俺にはそんな悲しみが降りかからないようにと願ってくれたんだろう。
自分から孤独を求める人間なんか、いるものか。
寂しいときには、大事な誰かにそばにいてほしいんだ。親父もお袋も俺も、剛士おじさんも真理子おばさんも、真奈も。
親父の心には今でもお袋がいて、おじさんにはおばさんが、おばさんにはおじさんがいる。
俺には真奈がいる……と、自分では思う。
それならば、真奈には……。
見えなくなるかならないかの距離を保って真奈を追いかけること数分。
やつは、中心部のイチョウ並木に近い公園に入っていった。そして、1本の木の下で立ち止まった。
あれは……。
忘れることもない。昔、俺が登って下りられなくなってしまい、下で待っていた真奈に助けを求めた想い出を持つ木だ。
あのとき真奈は、すぐに俺の親父を呼んできてくれた。今なら「自業自得よ」とでも言って助けてはくれないだろうが……。
そんな想い出も、古いものとなった。こうして遠目に見てみても、あのとき俺が下りられなくてすくんだ枝は、せいぜい今の俺の背の高さくらいでしかないが、あの頃は「落ちたら死ぬ」と本気で思ったものだ。
……真奈が今あそこにいる理由の中に、俺はいないのかもしれない。ただの偶然なのかもしれない。
だが……それでも、俺は行かずにはいられなかった。
「真奈……」
ゆっくりと近づき、後ろから声をかける。
逃げたら、また追うつもりだった。……が、真奈は逃げず、振り向いて俺を見ただけだ。
「僚」
そして……再び俺に背を向けて、木の幹に触れてささやいた。
「私は……惨めだわ」
「惨め? なんでだ」
「お母さんがあんなことになって馬が戻ってきたって、惨めなだけ。私の努力を認められたわけじゃないもの。『代役』でしかないんだもの」
真奈はまだ、自分の気持ちをガードしたままだった。おばさんの「あれ」にも、どうやら気付かなかったらしい。頭いいのを自慢にしてるくせに、意外に鈍いな。
仕方ない、教えてやろう。
「……お前さ、さっき篠崎厩舎へ来たとき、おばさんがお前に手を振っただろ。あれ見て、何も気付かなかったのか?」
「え……?」
「おばさんは、右足を捻挫して2、3週間の安静ってことだった。馬に乗れないばかりか、歩くのにも松葉杖が必要なくらいだ。なのにおばさんは『立ち上がって右手を持ち上げて』お前に振った。右は不自由な側だから、立ってたらそっちには松葉杖がなきゃいけない。あのときはつい利き手の右手が出ちまったんだろうな。そしておばさんは、痛がる素振りも見せなかったし、よろけることもなかった。わかるか? ……わかるだろ?」
「……」
真奈の背中が、無言のまま肯定する。
「そう。……おばさんは、きっと本当は馬に乗れるんだと思う。階段から落ちたのは事故だったにしても、せいぜい足の打撲くらいで、乗れなくなるほどのケガじゃなかったんだ。たぶん、医者に『乗れないことにしといてください』とでも言ったんだろ」
「なんで、そんな……そんなことしたって、やっぱり私は惨めな代役にしかなれないじゃない」
真奈は、今度は言葉にしてそう言った。俺は答えた。
「お前も知ってるだろうが、五十嵐先生はまだおばさんに乗り替わりの話をしてなかった。今言ってもおばさんは絶対にその申し出は受けないだろうから、ぎりぎりまで言わずにおこうとしたらしい。だが、お前が抗議に行ったことで、おばさんはその話を知った。その後、偶然にも事故に遭った。おばさんはチャンスだと思ったに違いない。……結果的に気持ちのすれ違いがあったとしても、おばさんは五十嵐先生をだましてまで騎乗を辞退しようとしたんだ。それは、お前への思いやり以外の何なんだ? お前は、もっと人の心を理解するべきだな」
「僚だってお母さんだって、私の気持ちをわかってなんかいないわ!」
珍しく、真奈が感情を見せる。大きめの声とともに、背中が少しだけ震える。
「そうよ……あなたもお母さんも、私の悔しさをわかってない」
「『悔しさ』じゃなくて、『寂しさ』じゃないのか?」
「何ですって……?」
真奈が驚きの声を上げる。
「剛士おじさんに聞いたが、お前はおばさんに、自分が生まれてこなければふたりっきりでずっと仲よく暮らせてよかったのに、とか言ったらしいな」
「言ったわ。あのふたりの人生には、お互いしかいない。私はいないのよ」
「そんなことはない。互いもいて、お前もいるんだ」
「でも、ふたりとも私よりお互いの方が大事なのよ。ふたりが幸せなのはいいことだけど、その影で小さい頃からずっと孤独を感じていた私のことは、誰がわかってくれるっていうの……」
「お前には、俺がいるさ」
俺は言って、真奈の肩をつかんで振り向かせた。
……真奈の顔には涙の跡こそなかったが、向かって右の頬がいつしか腫れ上がっていた。俺は、そこを右の手の平でそっと包んだ。
「痛かっただろ……ごめんな」
「……」
真奈の瞳が、俺を見上げる。……そこに冷めた光はなく、寂しさの中にも温かさが見えた気がした。
「俺さ……今まで、人間が『ふたり』でいることの意味なんて、考えもしなかった。人間って、みんな孤独にはなりたくないんだよな。中にはひとりがいいなんて言うやつもいるけど、そいつは自分の気持ちを理解できないやつに人生をひっかきまわされたくないってことで、本当に自分を理解してくれる相手なら、一緒にいてほしいに決まってるんだ」
真奈の瞳が、何かに揺らぐ。
「ガキの頃からずっと孤独だったって、お前は言った。それを考えると、俺は単に昔っから『物理的にお前のそばにいた』ってだけで、お前にとっては何の意味もない存在なのかもしれない。だがな……俺は、お前に必要とされる存在でありたいと、心から願う」
「どうして……」
「俺が、お前と一緒にいたいと思うからさ」
真奈の瞳が、少しずつ変わっていく。
「……どうだ。お前は、こういう俺を孤独にしておきたくないと願ってくれるか?」
「僚……」
その瞬間、俺たちは不意に、この木に登って下りられなくなったあの日に還った。
真奈の瞳が、水面を跳ねる光のように、優しさをたたえ始める。
そして、もうどれくらいぶりになるのか、その顔全体に微かな笑みが……。
「ありがとう……」
……突然、真奈は俺の首筋に抱きついてきた。
ただ、目の前にいる相手を自分のものにしたい……そんな衝動だったように俺は思ったし、そうであってほしかった。
泣くことはなかったが、その腕は強かった。離れたくないと願ってくれているかのように。
俺は、真奈の細い体を思いっきり抱きしめた。
何も言わない。何も聞かない。このままでいられればいい……。
人は、生きている限り何かに迷い、何かにぶつかって苦しむ。
そんなとき、大切な誰かがそばにいてくれたら、どれだけ心が安らぐだろう。
だから、人は誰かを愛し、『ふたり』でいたいと願うのだ。
孤独をふさいでもらうために。大切な誰かの孤独をふさいでやるために。
真奈。
俺はお前のそばにいる。だから、俺のそばにいてほしい。
……お前が、好きだから。
ふたり
(エンディング No.1)
キーワード……と