俺は寺西厩舎へと向かった。親父の顔が見たかった。
それは親父を放っておけなかったせいかもしれないし、五十嵐先生の気持ちを変えられず、真奈の望みを叶えてやれなかったせいかもしれない。後者だとしたら、俺は自分の無力さを散らすために親父に甘えるんだろうか。
……そんなことはしたくないな。
いろいろ考えながら五十嵐先生の過去と今朝の親父を比べていると、自分のとんでもない失言に気付いた。
何はともあれ、あれは謝っておかなければ……そう思いながら、俺は足を速めた。
寺西厩舎の大仲には、上手い具合に(?)親父ひとりがいた。物思いにふけっているような顔を上げて、俺を見つける。
「僚か。どうかしたのか?」
「親父……謝ることがある」
俺はそう言って、親父の向かいに座った。
「どうしたんだ、いきなり」
親父は、その物思いの顔を崩さないまま疑問の表情になった。
「今朝のことだ。俺は、親父と俺はたったふたりの家族だって言って、お袋を家族の一員に入れるのを忘れた。あれは……あれだけは、親父には絶対に言っちゃいけない一言だった。親父がどれだけお袋を大事にしてるか、それは知ってたはずなのに……」
「気にするな」
思った通りの返事だ。……だが、その言葉の短さが、逆に「気にしている」ことを表しちまっている。それが親父という人間だ。
「そんなわけにいかない。俺は悪かったんだ。素直に謝らせてくれよ」
「……」
黙る親父に、俺はさらに続けた。
「親父はいつだって、自分ひとりで重いものを背負い込んでる。今朝だって、俺が親父のために有馬をがんばるって言ったら、『そんなことは言うな、お前はお前のためにがんばれ』とか答えた。『ありがとう』とは、絶対言ってくれないんだよな」
言葉を紡ぎながら、自分が逆に親父を責めている形になっているのに気付いた。が、俺は言葉を止めなかった。今朝は「まだ若すぎる」と思った、親父への的確な気づかい……あれから何時間も経ってはいないが、今ならそれができるんじゃないかと感じていた。
「なんでだ? なんで親父は、俺に気づかいのひとつもさせてはくれない?」
「……俺は、気づかわれるような立場じゃないからだ。そんな価値もない……」
「価値がないなんて勝手に言うな! 親父は俺にとっちゃかけがえのない存在だ! ……なあ、親父だってそうだろ? もし俺と親父の立場が逆だったら、親父だってこんな風に怒鳴るだろ? 親子だろって……」
「僚……」
半ば泣きの入った俺の叫びに親父はうつむき、そして……ぽつりと言った。
「……やっぱり、お前が3人めか……」
「3人め……?」
「俺が自分に誇りを持てなくなった理由……それを話してもいいと思ったやつが、3人めということだ」
親父は顔を上げた。そこには、何か絶望的とも呼べる表情とほっとしたような表情とが同居していた。
「ひとりめは長瀬だった。ふたりめは沙穂だった……」
お袋はともかく、そこに長瀬先生の名前があったのは意外だった。だが、だからこそ俺は、その「3人め」になることを望んだ。他人の長瀬先生には負けたくない、って気持ちがどこかにあったのかもしれない。
それに……これは俺の直感だったが、たぶん親父はその理由を「話してもいい」んじゃなくて「話したい」んだろうと思った。
だから俺は、言った。
「話してくれよ、その理由ってやつを。お袋と、長瀬先生と……ふたりに話してもそんなに苦しそうじゃないか。俺なら絶対、何とかできる」
「……ありがとう」
親父はついに、俺にそう言った……。
親父はジョッキー候補生の頃、真理子おばさんのことが好きだったらしい。
ところがその頃からおばさんは篠崎先生が好きで、先生の方もおばさんが好きだった(もっとも、その頃は互いに相手の気持ちに気付いてなかったらしいが)。
焦った親父は、ふたりの仲の進展を妨害するために「決して許されないこと(親父の言葉を借りると)」をした。しかも、その犯人が自分だとは絶対にわからない方法で。
それは成功してしまい、ふたりはデビュー後の夏まですれ違いが続いた。
……結局、親父は自分の罪の重さに耐えかねて、夏の終わりに自らふたりの仲介役を買って出た。決して自分の想いや「犯行」を悟らせずに。
卑劣な行為は、自分の悲しみで償うしかない……そう思ったのだろうか。
時は流れ、ふたりが恋人同士となり、親父もお袋と出会った。
だが……どれだけ過去が風化し、新たな幸せがめぐってこようと、一度ついた前科は消えない。
ことあるごとに親父は、自分の愚かさを痛感し、自己嫌悪に陥ってしまうという。
親父はそれを「自分に与えられた永遠の罰」だと思っているようだ……。
「……話しちまえよ」
すべてを聞き終えた俺は、真っ先にそう言った。
「話しちまえって……誰にだ?」
「篠崎先生と真理子おばさんに、に決まってんじゃないか。昔ならあのふたりの関係を壊すかもって不安もあっただろうが、もう30年以上前の話だろ? とっくに時効だ。あのふたりだって、そんな古いことを今さら気にしやしないさ」
「……沙穂も長瀬もそう言った。お前も、同じことを言うんだな……」
親父は腕組みをし、うつむいた。
「誰だってそう言うぜ。気の毒で見てらんねーよ」
「気の毒……?」
親父は顔を上げ、今度は苦笑いのような表情をする。
「言うのが気の毒ならわかるが、言わないでいるのが気の毒だって? おかしなことを言うもんだな」
俺は答えた。
「俺が気の毒だって言ってるのは、あのふたりじゃなくて、親父の方だ」
「何……」
「俺は思う。親父は、あのふたりに本当のことを話さない限り、一生救われない。親父だって、お袋や長瀬先生に言われて、そのことはわかってるはずだ。それなのに、結局実行せずに自分を責めてばっかりいる。そうやって自分を追い込み続けて、いったいどこへ行こうってんだ? 行く先には死しかないって感じに見えるぜ。そんな人生、楽しいか?」
「……」
「俺、世界でたったひとりの親父、不幸なままでいさせたくない。親父だって、世界でたったひとりの息子、大事にしてくれるじゃないか……」
「僚……お前……」
……親父の表情が変わり始めた頃、ポケットの中で携帯が騒ぎ出した。
誰だ、と思いながらひっぱり出してみると、ディスプレイには「五十嵐先生」。真奈の一件を考え直してくれたんだろうか。
「はい」
『ああ、僚か? 五十嵐だが、真理子が厩舎の階段から落ちてケガをしたそうだ』
「何!?」
俺は吹っ飛んだ。
「そ……それで、有馬はどうなるんですか!?」
『医師の診断では、右足首の捻挫。2〜3週間は安静にとのことだ。騎乗はできんだろう。仕方がないから、また真奈にまかせることにしたよ。君は熱心だったし、一応報告をと思ったわけだ』
「そうですか……」
喜んではいけないし、喜ぶつもりもなかった。それはきっと真奈も同じだろう。
それより、聞いておかなきゃいけないことがある。
「それで……先生、真理子おばさんは今どこに?」
『ああ、入院するほどのケガじゃないそうだから、今頃は篠崎厩舎へ帰っていることだろう』
「わかりました。教えてくださってありがとうございます」
俺は例を言って電話を切ると、親父を見た。
「親父、一緒に篠崎厩舎へ行こう。真理子おばさんがケガをしたらしい」
「そうか……」
長年の間に、驚くことさえ封じられてしまったらしい親父。俺は、そんな親父を促して立ち上がらせた。
俺は、親父とふたりで篠崎厩舎を訪れた。
大仲には松葉杖を持った真理子おばさんと、その隣に篠崎先生が並んで座っていた。真奈の姿はない。
「あら、どうしたの、ふたりして」
「親父から、おふたりに話があります」
俺はそれだけ言って、後のすべてを親父にまかせた。
……親父は、やっと肩の荷を下ろしてくれた。
「そうだったのか……。不思議すぎる想い出だとは思ってたけど、やっと謎が解けたよ」
「怒らないのか? 謎のままでいたかったとか、なんてことしてくれたんだとか……」
「怒るもんか。むしろ、お前がそんなの30年以上も抱え込んでたことの方がとんでもないよ。一言でも言ってくれれば……」
「そうよ。無理しちゃだめよ、片山くん」
「ありがとう、すまなかった……」
これ以上、俺の出番はないな。そう思って、俺は誰に断ることもなく大仲を出た。
……外で冷たい風を受けながらひとつの疑問を抱いて、約30分。親父が清々しい顔で厩舎から出てきた。
「ああ、まだいてくれたのか」
「一緒に帰ろうと思ってな。それと、聞きたいこともある」
「聞きたいこと?」
「親父さ……俺が過去を気にしたとき『やっぱりお前が3人めか』って言っただろ。何が『やっぱり』なんだ?」
「ああ、それか。……遠い昔、そういう夢を見たことがあるんだよ」
「夢……?」
俺が問いかけると、親父は中心部のイチョウ並木がある方向をまっすぐに見て、話し出した。
「本当に、遠い夢だ。今くらいの時期だったな。俺にそっくりの男が現れて、例の話を気にするんだ。俺はそいつに自分の罪を話した。所詮夢は夢、心が晴れることはなかったが……お前の顔が俺に似てきた頃から、何となく考え始めたんだ。いつかこいつも、俺の過去を気にしてくれるんじゃないかとな。だから、やっぱりと思った」
……俺は親父の隣に立ち、思いっきり笑って言った。
「俺からもひとつ、やっぱりと言わせてくれ。……やっぱり俺と親父は、親子なんだな」
「僚」
俺と親父は、今さらながら握手なんかを交わしてみた。
職業柄か、手の大きさもほとんど変わらず、まるで親友同士の握手のようだった。
帰ろうと思って歩き出すと、最初の角で真奈に出会った。
「お、真奈。おばさんのケガのこと、知ってるか?」
「知ってるわよ。顔出すかどうかはまだ決めてないけど」
実に真奈らしい。俺はどうやってこいつを篠崎厩舎へ向かわせようかと考えたが、結論が出る前に親父が言った。
「真奈ちゃん。行ってあげるといい。子供に優しくされて喜ばない親はいないんだ。君だって、親の笑った顔を見るのは嫌いじゃないだろう? それが『親子』っていうものなんだから」
「え……ええ。わかりました。おじさんがそうおっしゃるのでしたら。失礼いたします」
まるで俺なんか眼中にない言いまわしを残して、真奈は厩舎の方へと歩いていってしまった。……まったくあいつらしいが、終わりよければすべてよし、だ。気にしないでおこう。
真奈の背中を見送りながら、俺は不意に、有馬での対決を思った。
……俺は負けない。誇り高き親父のために。
親子
(エンディング No.3)
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