「わかりました。……田倉さん、野々村彩夏という女の子を知っていますね」
俺がそう言うやいなや、田倉さんの表情は変わった。話はしてみるものだ。
「あ、ああ……。だけど、それがどうかしたのか?」
「彼女が、寺西厩舎であなたを待っています。会ってあげてください」
田倉さんの表情は、またしても変わった。今度は……気分の悪そうな顔だ。
「片山くん。……どこで彩夏ちゃんの名前を聞いたかはわからないけど、それは冗談じゃすまないよ。そんなわけはないんだ」
そう残して、さよならも言わずに去ろうとする。よっぽど気分を害したらしい。
が、帰らせるわけにはいかない。馬になってまで彼に会いたがった、あの健気な彩夏のためにも。
「待ってください! 最初から説明します!」

俺は彼を強引に呼び止めると、事情を細かく説明した。
案の定、ウィローズブランチが彩夏だったという話を、彼は信じようとはしなかった。俺はそれでも、例の柳のエピソードなどを出して、彼の心に懸命に訴え続けた。
それが、理屈にこだわるタイプの彼にどれほどの効果を示したかはわからない。結局、最終的に彼を動かしたのは、俺の「だまされたと思って来てください」の一言だった。
「じゃあ、だまされたと思って行くよ」
カチンと来たが、そんなことに心を揺らしている場合じゃない。俺はすぐに、田倉さんを寺西厩舎までひっぱっていった。

 

 

「彩夏、田倉さんだぞ!」
俺は叫びながら、ブランチの……彩夏の馬房の前まで駆けていった。半信半疑(一信九疑くらいか)の田倉さんがついてくる。
「まさかとは思うけど……彩夏ちゃん、なのか?」
と田倉さん。俺は続けた。
「彩夏、そうなんだろ? うなずいてみせてくれよ」

ところが。
彩夏はうなずかなかった。無関係そうな顔をして、俺と田倉さんの間をぼんやりと見るばかりだ。
「おい、彩夏? すねてんのか? じゃあ、それで自分の名前を示してくれよ」
俺は床に置きっぱなしになっていた「会話装置」を指差した。が……彩夏はそれにも反応しない。

「……片山くん。これはいったい、どういうつもりなんだ」

隣の田倉さんが重く言った。恐る恐る隣を見ると……彼は冷ややかな瞳で俺をにらんでいた。
「あ、いえ……こんなはずじゃ……」
俺はしどろもどろに弁解を試みたが、もはや遅すぎたようだ。
「言っておく。……君が言った彩夏ちゃんの話は間違ってない。俺にはそういう知り合いがいたし、1年前に彼女は死んだ。だが、それはどこから仕入れた情報なんだ? 大方、俺をよく知る誰かに聞かされて、俺が後悔するように仕向けたんだろうけど、あいにくだったな」
「違います! 俺は本当に、こいつからその話を聞いて……」
「現代の人間がそんな話を信じると思うなんて、ずいぶんな夢想家だね。とにかく、依頼主に言っておいてくれ。俺は後悔なんかしない、その作戦は失敗した、とな。……君のことも、残念だと思うよ。得体の知れない誰かの手先になって働くような男だったとは」
「違うってば! 俺は……」
「もういいだろう。失礼するよ」

……去ってゆく田倉さんを止めることは、俺にはできなかった。
できたのは、目の前に立つ彩夏に、この不可解な結末の責任を負わせることだけだった。
「おい、彩夏! どういうつもりなんだよ! せっかく田倉さんを連れてきてやったのに!」
彩夏は無反応だった。

「……彩夏?」

――異変に気付いたのは、まさにそのときだった。
「まさか……彩夏、お前、もうお前は彩夏じゃないってのか?」
首を動かして答える代わりに、やつは右前脚で「会話装置」をくしゃくしゃにしてしまった。まるで、もう俺の質問に答えることはないと伝えるように。

「彩夏……おい、ウソだろう?」
俺の言葉には、何の説得力もなかった。

俺が田倉さんを探しに出ている間に、彩夏はどこかへ行ってしまったのだ。
事情はわからない。人間でいられるタイムリミットが来たのか、それとも田倉さんに会えると安心して本当に死んでしまったのか、あるいは――最初から、俺が夢を見ていただけだったのか。
ここにいるのは、3歳牝馬のウィローズブランチ。
野々村彩夏は、もういない――。

 

 

……日曜日。
俺は、モニターで有馬を観戦していた。
ブランチが彩夏だった、と騒いだ俺の話は、あれから1日としないでトレセン中に広まった。それでもなお「あの馬は人間だったから強かった」と繰り返す俺に、周囲は「気味が悪い」系の不信の目を向け、ついに寺西先生も、ブランチの鞍上を俺にまかせることをやめてしまったのだ。
でも、後悔はしなかった。ブランチは確かに彩夏だった。そのことを、俺は忘れてはいけない。

ファンファーレが鳴った。
……俺がターフの上であの音を聴く日は、果たしてやってくるのだろうか……。

 

 

不信

(エンディング No.5)

キーワード……う


読むのをやめる