「お前……あと1時間したら、お前はいったいどうなるんだよ」
いてもたってもいられなくなり、俺はすぐに聞いた。
彩夏の右手が動く。
『もう、かえってこられない。このうまはふつうのうまになって、ちゃんといきていけるけど』
帰ってこられない……。
要するに、完璧に過去の人間になっちまうってわけか。
ブランチが今のまま馬として生きられるなら、この競馬界に影響はない。
だが、彩夏は――。
「……わかった。それなら、俺にできることはただひとつだ。ちょっと待ってろ」
悲しみを乗り越えて俺は言い、今度こそ厩舎を飛び出そうと体を翻した。
――が。
「いてっ!!」
なんと、彩夏はまたも俺の袖にかみついてきたのだ!
しかも、さっきはブルゾンだけだったが、今度はその中身に当たる腕までしっかりかみつかれ、俺は大声を上げてしまった。
「おい……何すんだよ! いてててて……放せってば! 時間ないんだろ!? 早く田倉さんを探さなきゃ……」
しかし、それでもなお、彩夏は俺の腕を束縛し続ける……。
「わかった、まだ何か話があるんだろ。もうちょっとここにいるから、放して教えてくれ」
ようやくそこまで頭がまわった俺がそう言うと、彩夏はすぐに俺の腕を放した。
そして、どこか乱暴にも見える手つきで、「会話装置」をたたく。
その指先が紡ぎ出した言葉は――。
『いかないで、あたしのそばにいて』
「彩夏!?」
俺はその言葉を、にわかには信じることができなかった。
「お前……だってお前は、わざわざこんな場所へ来るくらい田倉さんのことを……それなのに……」
自分の顔が赤くなるのがわかった。
――そんな俺を知ってか知らずか、彩夏は右手を動かし続ける。
『しょうたさんのことは、ちょうきょうにでかけるときになんどかみかけた。そんなときあたし、あばれてめだとうとしたり、ときにはのっていたあなたをふりおとしてはしりだしたこともあった。おぼえてるでしょ? ……でも、しょうたさん、あたしのことわかってくれなかった。あたしがちかづくとにげた。あなたはいつもそばにいてくれたのに……』
「彩夏……」
『もっとこのままでいたい。あなたに、ありまきねん、かたせてあげたい。さいきんは、そんなことばっかりかんがえてた。でも、やなぎのえだのまほうは、まってくれない……』
「彩夏!」
胸が熱くなり、俺は彩夏の首を思いっきり抱きしめた。
涙がこぼれた。次から次へと……。
「お前、いい女だな……。もっと早く、お前の正体に気付けばよかった。叶うなら、生きてるうちに会いたかった……今、心からそう思う」
そんな言葉は余計だったかもしれない。でも、俺はそれだけは伝えて、後はずっとその体勢のままでいた。
ずっと……。
……しばらくして、奇妙な違和感を覚えた。
俺が抱きしめた腕を放すと、「ブランチ」は頭を大きく左右に振り、そしていなないた。
「行っちまったのか、彩夏……」
不意に馬房の天井を見上げると、そこにはあの柳の枝が下がっていた。
彩夏が消えても、こいつは残ってるのか……。
俺は背伸びしてそれを取ると、ひとつ結び目を作り、また天井に戻した。
自然にできた柳の枝の結び目は、縁結びのまじないになる――どこから仕入れたかわからない、寺西先生の話。俺が手を加えたところでどれほどの効果があるかはわからないが、何もせずにはいられなかった。
俺は涙を拭い、顔を上げた。
そして、ひとつの決意をする。
……有馬は、絶対に勝つ。
親父のために。そして――彩夏が望んでくれたから。
「協力してくれるだろ? ウィローズブランチ……」
奇跡と同じ名前をささやいて、俺はそっと瞳を閉じた。
柳の枝
(エンディング No.13)
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