俺は泰明をそこに置いて、走っていったレイラを必死で追った。
ようやく背中が見えたとき、レイラはある部屋へと飛び込むところだった。そこはどうやら、受験生の親たちが待機しているところらしい。
「受験票!」
さらに走って追いつく間に、レイラは室内に向かって大慌てでそう叫んだ。
ほどなく、室内からひとりの中年男が出てきた。こいつの親父さんだ。
「ああ、悪い悪い。……ん、そこはどうかしたのか」
親父さんは、レイラが右手で押さえたままの箇所を気にした。やはり親は、娘の状態には敏感だ。
「壁にぶつかったんだよ! そんなことより早く!」
レイラは手を放しながら、なおも叫ぶ。壁、ってのはちょっと泰明に失礼じゃないかとも思うが、詳しく説明してる暇がなかったんだろう。
「血が出てるぞ。これで何とかしとけ」
娘とは違って冷静なタイプらしい親父さんは、持ってきたカバンから、騎手課程の受験票と一緒にティッシュも出してレイラに差し出した。やつはそれらをまとめてひったくる。
……なるほど、理解できてきた。こいつは受験票を親に預けっぱなしのまま会場に行っちまって、それを取りに戻ってきたんだな。
レイラは、額の傷を拭うこともせずに再び駆け出した。
俺も走って追った。この慌てようだと、試験の開始も近いだろう。
受験票の番号を確認しつつ、レイラが会場の教室に入る。俺も一緒に入り、やつの後ろに陣取った。
思った通り、もうほとんどの受験生が着席している。
レイラは自分の席に着くと、ようやく親父さんからもらったティッシュで額を押さえた。かなりの傷ができている。
泰明の方は大丈夫だったんだろうか、と俺は教室を見渡した。同じ教室にいる保証はないが、いる可能性もあるのだ。
――探すまでもなかった。レイラの席のすぐ左隣に、あの鮮やかな空色が座っていた。
レイラもそれに気付いたらしかった。同時に泰明も振り返り、ふたりは一瞬だけ顔が合う。……そのときに見えたが、泰明は顔にあざができているものの、血は出ていない。意外に石頭なのかもしれないな。
レイラはすぐに顔をそらした。のぞき込んで表情を見てみると、実に不機嫌そうだ。自分に傷を負わせた泰明のことを怒っているのかもしれない。
……最悪の出会いだな。
俺はそう思った。これがいったい、どういういきさつであの仲のよさに発展していくんだろう。否が応にも興味が湧く。
そのとき、教官が入ってきた。いよいよ試験の始まりらしい。
試験の時間中は、事態の進展はないだろう。俺は教室の後ろへ行き、そこにあった余りの椅子に、終了の時間まで座っていることにした。
筆記試験が終わった。俺は再びレイラのそばに立つ。
今日の時間割が俺のときと同じなら、これから30分の休憩があり、その後に着替えて体力テストのはずだ。
この休憩時間ってのも、過ごし方が結構重要だったりする。大半のやつは会場に知り合いなんかいない(俺は真奈が同じ会場にいたが)。そこで近くのやつに適当に声をかけたりできるならいいが、そうでないと、30分間をただ緊張しながら待つしかなくなるわけだ。休憩にも何にもなりゃしない。
レイラはこの通りだし、泰明は自分から声をかけられるようなやつじゃない。こいつらも孤独な組か――と思ったそのとき。
「あの……」
何!?
なんと、あの泰明が、隣のレイラに声をかけたではないか!
あんなことがあった後じゃ、泰明でなくても声をかけるのなんかためらいそうなものなのに。
「……何さ」
例によってぶっきらぼうに答えるレイラ。振り向きはしたが、目が泰明を見てない。無視しなかったのは、やっぱりこいつも孤独と緊張に勝てなかったからなのか。
「さっきは、本当に申し訳ございませんでした。不注意だったことをお詫びいたします」
泰明は、丁寧すぎるほど丁寧に頭を下げた。……あれはどっちの不注意ってんじゃなくて、単なる偶然の事故だったと思うけどな。
「いいよ、そんなこと。試験には間に合ったんだから」
レイラは、俺が思ったほどあからさまに怒ってはいないようだった。試験を受けているうちに、少しは冷静になったってことだろうか。
「何か、相当に慌ててらしたようですが」
「ああ、あのときはね、受験票を親に持たせたままこっちに来ちゃったことに気がついて、取りに戻る途中だったんだ。まったく、時間の無駄さ」
グチをこぼしながらも、レイラがここまで詳しく説明するとは意外だった。俺はてっきり「そんなのあんたに関係ないでしょ」とか言っただけで終わりにしちまうと思ったのにな。
「すみませんでした」
「……あんたにぶつかったことを言ったんじゃないよ。忘れ物のこと言ってんの」
「ごめんなさい。ところで、さっきから気になってたんですが、その傷はもしや、ぼくとぶつかったために……?」
泰明が言うと、レイラは額に触れた。さすがにもう血は止まっているが、顔をしかめたところからして、まだ痛むらしい。
「まあね。でも、どうってことないよ」
「よくありません。ちょっと待ってください」
泰明はそう言い、自分のカバンを膝の上に乗せて中を物色し始めた。そして制服と同じような色の青い袋を取り出す。そういえば、青い色が好きだとかこいつから聞いたことがあったな。
その袋の中身は、救急セットだった。見ていると、消毒液、脱脂綿、絆創膏、そしてゴミを入れるためのビニール袋まで出てきた。それでも青い袋の中にはまだまだたくさんの物が入っているようだ。……用意がいいやつだ。何か、昔のマンガにあった「何でも出てくるポケット」みたいだ。
泰明は脱脂綿をちぎり、消毒液をかけた。
「ありがと」
レイラは素直に手を伸ばした。……が、泰明は消毒液つき脱脂綿をこいつの手ではなく、額の方に持っていく。
「ちょ……いいってば。それくらい自分でやるよ」
泰明の腕をつかみ、脱脂綿を奪い取って自分の傷を拭うレイラ。そんな様子を見ながら、泰明は絆創膏をレイラの机の上に置いた。
「……それにしても、あんたっていつもこんなの持ち歩いてるわけ?」
やっぱりレイラも気になるらしい。絆創膏を額に貼りながらそうたずねる。
「ええ。ぼく、結構頻繁に傷を作っちゃうんですよ。転んだりどこかにぶつけたりして。だから、手放せないんです」
「へえ……意外だね」
「よく言われます」
汚れた脱脂綿と絆創膏の屑をレイラから取り返し、ゴミ袋に入れながら、泰明は苦笑いした。気がつくと、レイラの方もいつしかしっかり泰明を見て話をしている。
……何か、いいムードになってきた。なるほど、昨日の敵は今日の友、ってわけか。
だけど、これくらいなら俺にしゃべってくれたっていいのにな。まだ先があるんだろうか。
「これでも、休みの日に1日中家に閉じこもってることってないんですよね」
「そりゃさらに意外だ。趣味聞いたら、掃除に洗濯に料理とか答えると思ってたよ」
「まさか。ぼくの趣味は野球ですよ」
「野球かあ。マネージャー……じゃないんだろうね、きっと」
「ええ、選手です。ショートで2番。でも、試合のときに差し入れを持っていくと、『お前、選手よりマネージャー向きだな』って言われますけどね」
「……悔しい?」
「いいえ。ぼくを必要としてくれるなら、何の役でもやります」
確かに泰明はそういう男だ。どんな言いつけにも逆らわず、にこにこ笑いながら自分の役割をこなす。命令されるのが好きなんじゃないかって気になるときさえある。
「偉いなあ……」
「それしか取り柄がないからですよ。ぼくは、その他の面ではてんで弱い人間ですから」
「……そんな風に言わない方がいいと思うけどな。弱気なんて何の武器にもなんないんだからさ」
妙に説教じみたことを、レイラは言った。説教をするってことは、相手をひとりの人間として真剣に見るようになった証でもある。
「え……ええ、そうですね。ありがとうございます」
泰明がそう言って頭を下げたところで、休憩時間は終わりを告げた。
次は体力テストの時間だ。レイラと泰明は互いに健闘を誓い、それぞれ女子更衣室と男子更衣室に指定された教室へと行った。
俺はまたレイラについていった。姿が見えなければ更衣室の中にも入れてしまうが、さすがにそんな卑怯なことはしたくない。男の悲しい性が生み出す欲望にふたをし、俺はひたすら外で待った。
そして、体力テストの会場。
騎手課程という性質上、体力テストにも男女差はない。レイラが入った会場にもたくさんの男がいた。
が、泰明はいないようだった。あんなに席が近かったのに、どうやらあのふたりの間の列で会場が区切られちまったらしい。
……レイラは順番を待っている間、ずっと窓の外を見ていた。
空は相変わらず青く、宇宙の彼方まで見通せるように透明だった。
ここの教室からも、あのポプラはよく見える。ちょうど金色が深まってきた時期で、その輝きが空の青さを背にして実にまぶしい。
視線を追うと、どうやらレイラもポプラを見ているようだった。時にはまじめな表情になり、時には苦しそうな表情にもなり――まるで、あのポプラがひとりの人間ででもあるかのように、心を込めて(俺にはそう見えた)ずっと眺めていた。
よくはわからないが、ポプラに想い出でもあるんだろう。
「次、星野レイラさん」
試験官が呼んだ。
ところが――レイラは外を見ていて、その呼びかけに気付かない!
おい、やばいぞ!
自分のことでもないのに、俺は焦った。「取り決め」を無視してレイラの肩でもたたくべきかと考えたとき、試験官が声を大きくした。
「星野さん……星野レイラさん、欠席か?」
「えっ!?」
ようやく、レイラは背中を震わせながら振り返った。
「す、すみません! あたしです!」
「……困るんだよね、時間が限られてるんだから」
「あ、はい……」
レイラは声を落とした。――それはそうだろう。名前を呼ばれたのに気付かないほどボーッとしてたなんて、大きなマイナスポイントにされちまう。合格する未来を知っている俺でさえ不安になる。知らないこいつは、穏やかじゃいられないだろう……。
――体力テストの数々を終えてからのレイラの姿は、痛々しいばかりだった。
怒りのような、悔しさのような、悲しみのような……そんな表情が顔に浮かんで隠せなくなっている。
着替えを終えて更衣室から出てきたレイラは、まるで自分の進むべき道がまだそこにあることを確認するかのように、下だけを向いてゆっくりゆっくり歩いていった。
第一次試験はこれですべて終了。あとは付き添いの親と合流して帰るだけだ。
試験の出来に関わらず、予定は平等にやってくる。レイラもそれはわかっているのか、足が向く先はさっきの親の控室らしい。
俺は、レイラと並ぶ形で歩いていた。もうすぐ、泰明とぶつかったあの曲がり角に差し掛かる。
そして、いよいよ曲がったと思った矢先だった。
「あ、あんた……!!」
角の向こうには、その泰明がいたのだ。レイラとは対照的に表情は明るい。試験が上手くいったんだろう。
「どうも。一緒に外に出ようと思って待っていたんです。試験、いかがでした?」
……!!
「おい……! 何するんだ!!」
俺は、この時代に来て初めて、声に出して叫んでしまった。それがふたりに届くことはなかったが、叫ばずにはいられなかった。
なんとレイラは、いきなり泰明の頬に強烈なビンタを食らわせたのだ!
乾いた音が廊下にこだまし、出会いのときとは逆に、今度は泰明の方が顔を押さえて倒れ込む。
「よくも……よくもそんなこと言えたもんだね!」
レイラは言葉で泰明を踏みつけた。
「うう……いったい、どうしたんですか……」
泰明の方は何もわかっていないらしい。当たり前だ。こんなのレイラのわがまま以外の何物でもない。
確かに泰明の言葉は、失敗した相手には絶対に言っちゃいけないことだっただろう。だけど、こいつはレイラが失敗したことなんか知ってるわけがないのだ。おまけに、レイラの失敗はこいつのせいでも何でもない。それなのにこいつに当たるなんて、勝手すぎる。
「しらばっくれんじゃないよ! この卑怯者!」
「……」
泰明は反論はしなかった。こういうとき事を荒立てないように黙っちまうのもこいつの特徴だが、すでに事が荒立ってる以上、単なる沈黙の意味しか成さない。
そんな泰明を見下ろして、レイラは続けた……。
「あたし、あんたのことはいいやつだって思ってた。ケガの手当てもしてくれたし、話してて楽しかったし……自分からあたしに近づいてきた男なんか今までいなかったから余計にね。……だけど! あんたのこと考えてたら、名前呼ばれたのに気付かなくて大失敗やらかしちゃったじゃないか! それでわかったよ、あんたの狙いは最初っからそれだったんだって! 優しいふりしてあたしの集中力奪って、ライバルひとりでも減らそうってことだったんだって……!」
誰が聞いても考えすぎだ。失敗の責任を泰明に押しつけていることの言い訳にしかなってない。
「ちょっと待ってください! ぼくはそんなつもり、全然ありません!」
泰明はようやく顔を上げて返したが、それだけだった。このレイラと闘うには、全然言葉が足りない。
「まだそんなこと言うの!? 卑怯者! 卑怯者……卑怯者! あんたは世界一の卑怯者だよ! ……ああ、さぞ嬉しいだろうね、あたしをこんな状態に追い込むことにまんまと成功してさ! 簡単だっただろうね、優しさに免疫のない女をだますのはさ! お返しだよ!」
倒れたままの泰明の背中に蹴りをたたき込み、レイラは走っていってしまった……。
泰明が気になったが、俺はそれでもレイラを追った。
レイラは、親の控室には行かず、そのまま昇降口から外に飛び出した。
そして――人気の少ない場所まで走ってくると、そこのベンチに座って顔を手で覆った。
泣いていた……。
俺には、だんだんこいつの気持ちがわかってきた。
こいつは昔(だから今くらいの時期か)、理由はわからないが人間不信気味だったことがあったらしい。これは以前こいつ本人が「そんな頃もあったって程度だよ」と笑いながら話していたことだが、実際はものすごく重い過去だったんだろう。
そんなレイラにとって、初対面が最悪だったにも関わらず傷の手当てまでしてくれるような泰明は、それまでにいないタイプの「仲間」だった。それでこいつは泰明に心を許し、親しくなることを望んだのだ。
が、心のどこかにまだその気持ちを認められない部分があって、名前を呼ばれたのに気付かないほど泰明のことを考えていた自分が許せなくなった。だから、泰明を責めることで自分を守ろうとしている……。
おそらく、そんな感じじゃないだろうか。
そのとき、校舎の中からひとりの中年男が出てきて、こっちに近づいてきた。
あの服はレイラの親父さんだ。たぶん、レイラが走って飛び出すのを窓から見て、気になって飛んできたってあたりだろう。
「レイラ……どうした?」
親父さんはレイラの前に立って呼びかけた。それでようやく彼の存在に気付いたらしいレイラは、手を放して顔を上げる。
「パパ……」
「何があったというんだ」
欧米式なのか、親父さんがレイラの頭を抱きしめると、やつは悲しみの代わりに怒りをあらわにした顔になった。
「許せない……あいつが許せない。信じてたのに……信じてあげたのに……!」
「だから、誰のことが許せないんだ。話してみなさい」
親父さんがたずねると、レイラはその話を始めた。
泰明にぶつかったこと。やつがそのときの傷を手当てしてくれたこと。話が楽しくて友達になりたいと思ったこと。やつのことを考えていて名前を呼ばれたのに気付かず、大きなマイナスにされちまったこと。帰りに待っていたやつに笑いかけられ、自分の失敗を狙っての「優しさ」だったと気付いたときの怒りと悲しみ……。
ところが。
「何を言ってるんだ! それはお前が全部悪い!」
――親父さんは、有無を言わさずそう叫んだ。泰明は決して言わず、俺も言葉が届かなくて言えなかったことを。
それを受けたレイラは、雷に打たれたように体を震わせた。
「だ……だって、パパ……」
「だってじゃないだろう! その男は何も悪くないじゃないか! 自分からぶつかったのに謝りもしない無礼者のお前にそんなに優しくて、傷の手当てまでしてくれたんだぞ! しかも、自分がぼんやりしていて失敗したのを、邪推してそいつのせいで片づけるとは何事だ!」
「……」
何も言えなくなったレイラに、親父さんはさらにきつく言った。
「今からでも、そいつを探して謝ってこい! それがすむまで帰ってくるな!」
親父さんの言葉が終わる前に、レイラはベンチを立って走り出していた。
――こいつも、心の中では「謝りたい」と思っていたんだろう。その迷いを親父さんに吹き飛ばしてもらったわけだ。
俺は、またしてもレイラを追って走り出した。
レイラはまっすぐ校舎に飛び込み、例の曲がり角を目指して階段を駆け上がった。
ところが、そこにはすでに泰明はいなかった。レイラが親父さんとあれこれ話しているうちに、外に出てしまったらしかった。
……それからレイラは、学校中を駆けまわった。
親の控室、筆記試験会場だった教室、更衣室の前……。
だが、どこにも泰明の姿はない。
「帰っちゃったのかな、あいつ……」
再び外に出たとき、レイラは小さくつぶやいた。そして、不意に空を見上げる。
50メートルほど先に、例のポプラが見える。レイラはそのてっぺんを見ているようだった。青い空と金のポプラとが出会うあたりを。
――風が流れた。
ポプラの木からいくつもの葉が落ち、その風に乗って舞う。まるで、深まる秋を惜しんで涙を流すかのように。
「あたし、一生孤独なままなのかな」
レイラはつぶやき、そして――その場に膝をついて、また顔を手で覆った。
「もう、二度と会えないのかな……」
そんなはずはない。今日がこいつらの想い出の日なら、泰明はまだこの競馬学校の敷地内にいるはずだ――。
と思った、まさにそのとき。
視界の端に動くものを見つけ、そっちを向くと――。
……泰明だ!
上ばかり見ていて気付かなかったが、あのポプラの下から泰明が走ってきている!
レイラにあれだけのことをされてまだ近づいてくるのは意外な気もしたが、そんなのはどうでもよかった。
がんばれ、レイラ、泰明!
何ががんばれなのか自分でもわからなかったが、俺は心で強く応援した。
泰明がレイラの隣まで来る。物音か気配か、レイラもそれに気付いて顔を上げる。
「あ……!」
瞳が合い、ふたりは互いの表情を理解する。
その直後、泰明はレイラと同じように地面に膝をついて、自分のカバンを開けた。そしてあの何でも出てくる青い袋を取り出し、その中から――またしても空の色をしたハンカチを出した。
「どうしたんですか……?」
柔らかくそうたずねつつ、泰明はハンカチごとレイラの頬に触れた。
今度は、レイラもそれを拒絶しなかった。ただ泰明の優しさに身をまかせ、まっすぐにその表情を見る。
「ごめんね……」
そして、ついにその言葉を口にする。
「いいんです。それより、なぜ泣いているんですか? ぼくでよろしければ、お話をお伺いしますよ」
……泰明、お前っていいやつだなあ。傍観者の俺まで泣けてくる。
「……もうあんたに会えないって思ったら、悲しくてたまんなかった」
「ぼくに……?」
レイラが素直に言うと、泰明は意外そうに目を見開いた。……こいつ、これだけ親切なのに、他人に好かれたことがないとでもいうんだろうか?
「うん。あんたはあたしに優しくしてくれただけなのに、あたしは自分勝手な理由であんたを突っぱねてばっかり……。謝ってなかったことももちろんだけど、もうずっとひとりぼっちのまんまなのかなって思ったら、寂しかった。あたしに親切なやつなんて、あんた以外に絶対いないもん……」
「ぼくも悲しかったですよ。あなたがぼくのせいで怒ってる、って思ったら」
「あんたのせいじゃないよ。あたしのせいだよ……」
「……もう、そういう話はよしましょう。笑顔になれないですから」
泰明は言って、微笑んでみせた。そして続ける。
「ぼくにはあなたの事情はわかりませんから、うかつなことは言えません。ですが、もしぼくがいることであなたがひとりぼっちにならずにすむなら、いつでもあなたのそばにいますよ」
……すごいセリフだな。俺には到底言えそうにない。
俺は苦笑いした。
「あんた……もしかして、あたしの友達になってくれるっての?」
「ええ。あなたが、それを望んでくださるのなら」
「ありがとう! あたし、すっごい嬉しい!」
レイラは泰明の両手を取り、はじけるような笑顔になった。
今が、こいつらの間に友情が成立したその瞬間、ってわけか――。
「ねえ……あんたの名前と住所を教えといてよ。あたし、きっと合格できないと思うから」
レイラが言うと、泰明はまたしても笑った。
「だめですよ、そんなことを言っては。弱気は何の武器にもならないって教えてくれたのは、あなたじゃないですか」
「あ……そういやそうだったっけ」
「でも、名前は教えます。ぼくは城泰明です。ここから2キロほどのところに住んでいます」
泰明は言いながら、青い袋からメモ帳とペン(またしても青)を出して、名前と住所を書いてちぎってレイラに渡した。
「へえ……近いんだ。あ、あたしにもこれ貸して」
そしてレイラはメモ帳とペンを受け取り、そこに自分の名前と住所を書いて返した。
「レイラさんとおっしゃるのですね。どうぞよろしくお願いいたします」
「……そのしゃべり方、やめてくれないかな。何か、あんたのこと見下してる気分になっちゃう。あたしの呼び方も、レイラ、でいいよ」
「わかったよ、レイラ」
……もう、帰ろうかな。
俺は思った。
知りたかったことはみんなわかった。確かに、誰にも内緒にしときたくなる気持ちがわかる話だ。やっぱり、この時代に来たのは野暮以外の何物でもなかったみたいだな。
苦笑いしながら、俺はそっとその場を後にした……。
……現代に戻って数時間後、俺はレイラに会った。
「お、今日は泰明は一緒じゃないのか?」
「僚、あんたねえ……あたしだっていっつもいつも泰明とくっついて歩いてるわけじゃないんだよ」
ついそう聞いた俺に、レイラは笑いながら答えた。何だかんだ言ってこいつは、泰明の話題を出されるのが好きなのだ。
だから俺は、あえてたずねてみることにした。
「なあレイラ。お前、競馬学校の入試の日に泰明と会ったんだろ? そのときのこと、ちょっとくらい教えてくれよ。抽象的な話でもいい」
「よーし、思いっきりわかりにくく話してやる」
レイラはその気になってくれた。
「……あいつはさ、壁だったんだ」
「壁……?」
あの角でぶつかったことを、レイラは親父さんにそう表現した。そのことだろうか。
「そう、空色の壁。雲ひとつない純粋な青空の色をした壁だよ」
「……わかんねー」
俺はわからないふりをした。空色ってのはあの制服の色か、持ってた袋かハンカチの色かな。
「わかんないでしょ。じゃ、もうちょっと教えてやるよ。……あいつとあたしはね、廊下の曲がり角でぶつかって出会ったんだ。あのときはあたしの人生の曲がり角でもあって、あいつは、自分勝手に突っ走りすぎてたあたしを阻んで止めてくれる、そんな優しい壁だったわけさ」
「……」
俺はその言葉を、真摯な気持ちで聞いた。
なるほど、レイラはあの日の出来事をそういう風に受け止めてるのか。こいつも大人になったんだな……。
ひとりの人間の成長過程を見て(頭としっぽだけだが)、俺は何だか、自分も一歩成長できたような気になっていた。
「あ、考え込んでる。やっぱわかんないよね、あんたには。でもこれ以上は教えてやんないよ。じゃあねー」
レイラは風のように去っていった。
俺は、その後ろ姿を広い心で見送った。
空色の壁
(エンディング No.25)
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