俺は、この世界では泰明についていくことにした。
……泰明はしばらくレイラの行方を見ていたが、やがて持っていたカバンから受験票を出し、さっきレイラが走ってきた方角へと歩いていった。
試験会場はそっちにあるんだろう。

 

 

会場は、教室のひとつ。泰明はすぐに自分の席を探し当て、着席した。俺はやつのすぐ後ろに立つ。
試験の準備をすませたあとは、やつは頬杖をついてぼんやりしているだけだった。まあ、特殊な試験だし、参考書を開いて勉強、ってなこともあまり意味がないから、そうやって自分をリラックスさせるのが一番いいのかもしれないな。
席はどんどん埋まっていき、新しく来るやつもまばらになってきた。
……そういや、レイラはどこまで行ったんだろう。あいつの会場はどこの教室なんだ?
まさかここに、と思って教室を見渡してみると、そのまさかだった。しかも泰明の席のすぐ右隣にいる。気がつかなかった。
いつしか戻ってきていたレイラは、ティッシュで額を押さえている。どうしたのかと思って見ていると、手を放したときそのティッシュに血がついているのがわかった。額の方を見ると傷がある。おそらく、さっき泰明とぶつかったときにできたんだろう。
俺は泰明も見てみたが、顔にちょっとしたあざがあるだけで、血が出ているようなことはない。
そのとき、泰明がレイラの方を見た。そして表情が微妙に変わる。ぶつかった相手が隣の席だったことに気付いたらしい。
振り返ってレイラを見ると、やつは泰明の方から顔をそらすところだった。表情には怒りが浮かんでいる。それで、どうもやつも泰明に気付いたようだとわかった。
再び泰明に視線を戻すと、やつはさっきの廊下と同じく、やっぱり悲しそうな顔をしていた。レイラが自分をよく思ってないことを感づいたんだろう。
……しかし、最悪の状態だな。これがどうやってあんなに仲よくなるってんだ?
不思議だった。そして、その一部始終を見るまでは現代には帰らないぞ、と決めた。
そのとき、教官が入ってきた。試験が始まるらしい。
俺は教室の後ろへ行き、そこにあった余りの椅子に座って、筆記試験が終わるまでの時間をつぶすことにした。

 

 

筆記試験が終わると、俺は再び泰明のそばに立った。
俺のときと時間割が同じなら、これから30分間の休憩に入り、それからは更衣室に案内されて体力テストとなる。
……俺は試験を受けたとき、こんな休み時間なんかいらないんじゃないかと思った。休みなんてのは言葉だけで、実際には受験生は緊張しながら30分を過ごすことになるのだ。俺は出願のとき真奈と一緒に願書をここまで持ってきた関係であいつと席が前後で、それで適当にしゃべって緊張は免れたが、そんなケースはごく稀だ。
泰明は、さっきからしきりにレイラを気にしている。ところが、レイラの方は半ば意地のように、こっちだけは見ないことにしているらしかった。いくら互いの存在を知ってても、こんな状態じゃ会話になんか発展するわけがない。
と思った、そのときだった。

「あの……」

驚いたなんてもんじゃなかった。なんと泰明は、戸惑いながらもレイラにそう声をかけたのだ!
どういうことなんだ。あれだけ最悪の出会いをした相手に声をかけるなんて。
……まさかこいつ、レイラに惚れた?
その可能性は充分考えられた。どうも、初めて会ったときから気にしてるような感じがするしな。
「……何さ」
レイラは放り投げるように答え、こっちを振り向いた。が、それでも目だけは泰明を見るまいとしている。それならはなっから無視もしそうなものだが、さすがに顔を知っているやつが相手ではそれもできなかったようだ。
「さっきは、本当に申し訳ございませんでした。不注意だったことをお詫びいたします」
泰明はそう言い、もしここが座敷なら額が畳につくんじゃないかってくらい深く頭を下げた。
……どうもこいつは、自分を悪者にしてトラブルを解決しようとする傾向がある。どっちかといえばレイラの方が悪いと俺は思うけどな。
「いいよ、そんなこと。試験には間に合ったんだから」
「何か、相当に慌ててらしたようですが」
「ああ、あのときはね、受験票を親に持たせたままこっちに来ちゃったことに気がついて、取りに戻る途中だったんだ。まったく、時間の無駄さ」
泰明の態度に少し気をよくしたのか、レイラは渋々ではあるが事情を説明した。聞く耳は持ってくれたらしい。本当に泰明がこいつに惚れたんなら、これは快挙だな。
受験生はみんな中学生で、しかも全国から集まっている。そのため、ほとんどのやつは親同伴で来ていて、その親たちが待機する部屋が別にあるのだ。レイラの実家は確か横浜。ちょっと遠いから親と一緒で無理はないだろう。一方の泰明は、ここのすぐ近くに住んでいるからひとりで受けに来たと、いつか本人から聞いたことがある。
「すみませんでした」
「……あんたにぶつかったことを言ったんじゃないよ。忘れ物のこと言ってんの」
「ごめんなさい。ところで、さっきから気になってたんですが、その傷はもしや、ぼくとぶつかったために……?」
泰明は、気は弱いが根は結構能動的だ。何も恐れず、レイラの傷を気づかってそんな言葉をかける。
「まあね。でも、どうってことないよ」
「よくありません。ちょっと待ってください」
傷に触れて痛そうにしたレイラを見て、泰明は横に置いていたカバンを膝に乗せて中をひっかきまわし始めた。
出てきたのは、青い袋だった。制服のブレザーの色、そして今日の空の色にも似ている。こいつはとにかく青系統の色が好きで、持っている物のほとんどがこんな色だ。
その袋の中からは……脱脂綿に消毒液、絆創膏、ゴミ袋などが出てきた。
競馬学校時代、こいつはジョーク半分に「保健委員のような泰明」と呼ばれていた。誰かが落馬したりケガをしたりすると真っ先に飛んでいき、保健室へ連れていくのだ。そして手当ての手伝いなどをする。それは周囲の連中が「それが泰明の存在理由」みたいに思い込ませて本人もその気になってただけかと思っていたが、この用意のよさを見る限り、どうもこいつは根本的に「手当て好き」らしい。
「ありがと」
泰明が脱脂綿をちぎって消毒液をかけたところで、レイラはそう言って手を出した。……ところが泰明は、その手には目もくれず、自分でやつの額を拭おうとする。
おいおい……それほど親しくもない女に向かって、そりゃちょっと何じゃないか?
「ちょ……いいってば。それくらい自分でやるよ」
案の定、レイラもそれは拒んだ。泰明の腕をつかんで止め、その手から脱脂綿を取って自分で消毒する。泰明もやりすぎに気付いたのか、レイラの机の上に絆創膏を置くだけにした。
「……それにしても、あんたっていつもこんなの持ち歩いてるわけ?」
レイラは絆創膏を額に貼りながらたずねた。まあ、俺でなくても気にするよな、普通。
「ええ。ぼく、結構頻繁に傷を作っちゃうんですよ。転んだりどこかにぶつけたりして。だから、手放せないんです」
「へえ……意外だね」
「よく言われます」
汚れた脱脂綿や絆創膏の屑をレイラから受け取ってゴミ袋に入れながら、泰明は苦笑いした。
……気がつくと、レイラはいつのまにか泰明から目をそらさなくなっていた。最初の悪印象はどこへやら、何やらいい感じだ。やはり、俺には信じられなくても、根本的に相性がよかったんだろうか。
でも、何かこれだけでは終わらないような予感がしていた。俺の予感は、真奈よりはよく当たるって程度だが。
「これでも、休みの日に1日中家に閉じこもってることってないんですよね」
「そりゃさらに意外だ。趣味聞いたら、掃除に洗濯に料理とか答えると思ってたよ」
「まさか。ぼくの趣味は野球ですよ」
俺も最初聞いたときは意外に思ったが、それは事実だった。その経験を生かし、トレセン関係者のソフトボール大会では毎回大活躍している。本来は1番か2番向きなのに4番を打たされるほどだ。
「野球かあ。マネージャー……じゃないんだろうね、きっと」
「ええ、選手です。ショートで2番。でも、試合のときに差し入れを持っていくと、『お前、選手よりマネージャー向きだな』って言われますけどね」
「……悔しい?」
「いいえ。ぼくを必要としてくれるなら、何の役でもやります」
泰明は、本当に嬉しそうに笑った。こいつは、誰かの役に立てることを何より喜ぶ。こういうやつを、本当の「優しい人間」と呼ぶんだろうな。
「偉いなあ……」
「それしか取り柄がないからですよ。ぼくは、その他の面ではてんで弱い人間ですから」
「……そんな風に言わない方がいいと思うけどな。弱気なんて何の武器にもなんないんだからさ」
そういう泰明に感化されたのか、レイラはらしくないことを言った。
「え……ええ、そうですね。ありがとうございます」
泰明はそんな言葉もまっすぐに受け止めた。感謝するように、頭を深く下げる。
そのとき、チャイムが鳴った。休憩時間は終わりだ。

 

 

次は体力テスト。泰明はレイラと健闘を誓い合い、それぞれの更衣室になっている教室へと向かった。
俺はまた泰明についていった。姿が見えない以上、更衣室の中に入るのも簡単だが、当然男の着替えなんかのぞいたって何もいいことはない。俺は着替えが終わるまで外で待った。

 

 

そして、体力テストが始まった。
この体力テスト、女だからってハンデは何ひとつつけてくれない。完全な男女平等だ。
泰明が入った会場の男女比は5:1くらいだった。この年は女の受験生が多かったが、やはり体力的にきついのか、数は増えてもこのくらいだ。それだけに女の顔をチェックするのは楽だった。
レイラはいない。隣の列だったのに、どうもあのふたりの間が会場の境界線でもあったらしい。泰明には気の毒な話だな。

……泰明は、窓の外を眺めていた。
ここの窓からは、あのポプラが真っ正面に見える。もう秋も深まってきているこの時期、校舎の屋上くらいまでの高さがあるそれは全体が金色に染まり、太陽を浴びてまぶしく輝いている。
泰明が見ているのも、おそらくはあのポプラだろう。
やつが何を考えているかはわからなかったが、その表情は穏やかだった。完全にリラックスしている。
そのとき、不意に強い風が吹き、ポプラからいくつもの金色のかけらが舞い散った。
「素晴らしい……」
泰明はささやき声で口にした。すぐそばにいた俺にしか聞こえないような、それでも深い心のこもった、そんなささやきだった。

「次、城泰明くん」
それから何人かが過ぎ、ついに泰明の番が来た。
「はい!」
3人ほど前から顔を室内に向け直して自分の番に備えていた泰明は、しっかりそう答えて前に出た。

 

 

泰明はテストを終えた。いい出来だった。俺はそう思ったし、泰明自身も納得しているんだろう。顔が明るい。
会場を出た泰明は、さっきの更衣室へと戻るところだ。
……戻るところ、といっても、なかなか足は前に進まない。なぜなら、通りかかる教室という教室、すべてをのぞいてまわっているからだ。
レイラを探してるんだろうな、と俺は思った。本当に惚れちまったのか、それとも唯一親しくなった相手が気になったのか。
俺の推理は当たった。とある教室でテストの順番を待っているレイラを見つけると、泰明はそこで完全に足を止めた。
レイラもさっきの泰明と同じように外を見ていた。ここの窓からでは真っ正面とはいかないが、それでもあのポプラは見える。それを遠く見やるレイラの姿は、泰明がそうしていたときとよく似ていた。
当の泰明は、レイラとその向こうのポプラを重ねて眺め、何やら神妙な顔つきになっていった。
……どうもこいつの考えていることはよくわからない。またさっきみたいに「素晴らしい」とでも感じているんだろうか。
ほどなくして、泰明は再び歩き出した。あまりのぞき込んでばかりいて変態と間違えられると困るからだろう。レイラは終始外ばかり見ていて泰明には気付かなかったが、それはそれでよかったかもしれない。

 

 

着替えを終えた泰明は、昇降口の方へと歩き出した。
第一次試験はこれで終わりだ。親同伴でない泰明はそのままひとりで帰るのかと思っていたら、さっきレイラとぶつかった廊下の角で立ち止まり、隠れるようにしてそこの壁にもたれかかった。なるほど、ここであいつを待とうってのか。
――何人もの受験生が通り過ぎていくのをぼんやり眺めながら、俺は頭の中で勝手にストーリーを作っていた。
これから、泰明とレイラの間に何が起きるんだろう。まさかさっきの休み時間にしゃべっただけで終わりではあるまい。それなら話すのをもったいぶったりはしないはずだ。
一番あり得るのは、泰明がレイラをこのへんのどこかに案内するというパターンだった。泰明は地元の人間だから、女が喜びそうなスポットも知っていると思われる。そこへ連れていって、ついでに食事なんかもして……俺は自分の想像に苦笑いした。

あれこれ考えるうちに、向こうからレイラがやってきた。俺は姿が見えないのをいいことに堂々と「隠れない位置」に立っていたので、すぐわかる。
……やつは下を向いて元気なく歩いている。試験の出来がよくなかったんだろうか?
そんな不安に駆られながらも、俺は事態の行方を見守った。
レイラは曲がり角に差し掛かった。
そして――ふたりが出会う。泰明は目を輝かせ、レイラは顔を上げて、恐ろしいような表情で驚く。
「あ、あんた……!!」
「どうも。一緒に外に出ようと思って待っていたんです。試験、いかがでした?」
泰明が友好的に言ったそのときに、それは起こった――。

……!!

俺は言葉を失った。
なんと、泰明がレイラから受けたものは、歓迎でも笑顔でもなく、強烈な平手打ちだったのだ!
泰明は頬を押さえて倒れ込む。……それは、痛みというより、精神的ショックだったように俺には思えた。
「よくも……よくもそんなこと言えたもんだね!」
そして、レイラがそう叫ぶ。
「うう……いったい、どうしたんですか……」
泰明と同じく、俺もこの非常事態を飲み込めてなかった。
「しらばっくれんじゃないよ! この卑怯者!」
「……」
泰明は黙るばかりで、反論はしなかった。
……卑怯者?
俺はその言葉が気になった。泰明は何か、レイラに不利になるようなことをやらかしたんだろうか?
いや、そんなことはありえない。俺はこいつらふたりがここでぶつかって出会ったときから、ずっと泰明を観察していたのだ。そんなことをしていたら、絶対に気付いている。
レイラは怒りの形相のまま、泰明を見下ろして続けた……。

「あたし、あんたのことはいいやつだって思ってた。ケガの手当てもしてくれたし、話してて楽しかったし……自分からあたしに近づいてきた男なんか今までいなかったから余計にね。……だけど! あんたのこと考えてたら、名前呼ばれたのに気付かなくて大失敗やらかしちゃったじゃないか! それでわかったよ、あんたの狙いは最初っからそれだったんだって! 優しいふりしてあたしの集中力奪って、ライバルひとりでも減らそうってことだったんだって……!」

……。
事情はわかったが、俺は当然、納得できなかった。
レイラ、それは泰明のせいじゃないだろ? それに、ちょっと邪推しすぎだ。泰明がかわいそうじゃないか。
口に出したところで届かないので、心の中だけでそう思う。
「ちょっと待ってください! ぼくはそんなつもり、全然ありません!」
さすがの泰明も、これには反論する気になったらしい。倒れたまま顔だけを上げて、そう返す。
だが――レイラには効果はなかった。
「まだそんなこと言うの!? 卑怯者! 卑怯者……卑怯者! あんたは世界一の卑怯者だよ! ……ああ、さぞ嬉しいだろうね、あたしをこんな状態に追い込むことにまんまと成功してさ! 簡単だっただろうね、優しさに免疫のない女をだますのはさ! お返しだよ!」
泰明は、背中に蹴りを食らった。
そしてレイラは、あたかも自分が被害者ででもあるかのように走っていく……。

俺は当然その場に残り、泰明のそばにいた。
何もしてやれないのは気の毒だが、放っておくわけにもいくまい。

泰明はレイラが去ると、壁に背をつけて座った。
どうしようもない、悲しい顔をしていた。泣いちまいたいのに泣けない……そんな顔だ。

……俺は、自分なりにこの事態を整理してみた。
どうやらレイラは、泰明のことを考えていて、試験で実力を発揮できなかったらしい。そして、その怒りを泰明本人にぶつけたのだ。
確かに、失敗して落ち込んでいたときに「試験、いかがでした?」なんて聞いちまった泰明も、間が悪いと言えば悪い。だけど、この場合、誰が考えてもレイラの方に非がある。泰明には悪気はなかったのだ。むしろ、傷の手当てなんかをしてくれたくらいだから、感謝するべきじゃないのか。
で、その泰明の方はというと……このしょげ具合、間違いなくレイラに好意を持ってたはずだ。それでいろいろ優しくもしたのに、結局それがあいつの邪魔になっちまった。そんなところだろう。
レイラだって泰明のことを考えてたんだから(それも、名前を呼ばれても気付かないほどに)、誤解さえ解ければ前みたいな関係に戻れそうなものなのに、なんでこう上手くいかないんだろう。
……あ、そうか。これから何らかの形で上手くいくんだな。それで「想い出のエピソード」の完成だ。
結末を知っていると、どうも感動が薄れるな。
でも、いいか。このまま別れて終わっちまうよりは、遥かにいいのだ。

泰明はゆっくり立ち上がり、とぼとぼと昇降口の方へと歩いていった。
俺は、やつに速度を合わせてついていった。

 

 

外に出た泰明は、あのポプラの下にやってきた。
この木は、おそらく泰明の中で、今日のシンボルツリーにでもなったんだろう。ここに来ればレイラのことを身近に感じられる……そんな風に思ったのかもしれない。
ポプラの下にはベンチがある。そこには、ひとりの受験生らしき男が座っていた。

……純也! 藤原純也じゃないか!

こいつは、この試験で合格し、俺たちの同期生となる運命の男だ。
そして、俺たちが2年生になる頃、とある事件に巻き込まれて退学処分になる運命の男でもある――。
どうして忘れてたんだ。タイムゲートを見つけたとき、こんな興味本位の時代なんかじゃなくて、あの事件の時代へ行くべきだった。あんな事件、濡れ衣に決まってる、そう信じてたのに――。
しかし、それをここで悔やんでも仕方がない。純也の件は再び機会があればということで割り切り、俺は泰明に視線を戻した。

「……どうかしたのか? 君」
そのとき、純也が泰明に声をかけた。突然予想外の相手から声をかけられた泰明は、驚いて顔を上げる。
「あ……あなたは……?」
「君と同じ受験生さ。一緒に来た友達が出てくるのを待ってるんだ。それより、何か元気ないみたいだけど?」
「……ぼくを助けようとしないでください。人に寄りかかって生きるのはいやなんです」
泰明は言った。そのセリフは似合わない強がりのようで、実際はこいつらしいものだった。こいつは人の役に立とうとする気持ちが強い分、自分が人に甘えるのは大嫌いなのだ。
「わかった。何も聞かないよ」
ところが、純也がそう答えると、泰明は途端に申し訳なさそうな顔になった。
「……すみません。気づかってくださった方に対して、少々失礼が過ぎました」
そう言って、純也の隣に座る。自分のプライドより他人が気になっちまうのも、またこいつらしさだった。

――そして泰明は、何も聞かないと言った純也に、自ら事情を説明し始めた。
レイラとの出会いや教室での会話のことを経て、さっきのトラブルのところまで話し終えたとき、純也がふと言った。
「もしかして、その女の子って、赤いスカートをはいた外国人っぽい顔の子じゃないか?」
「お知り合いなんですか!?」
泰明は弾かれたように声を上げた。俺も、この時点で純也がレイラを知っていたのが意外で驚いていた。
「いや、そういうわけじゃないよ。ここへ来る途中で見かけただけだ。何か、父親らしい人と話をしてたんだけど、その内容が君の話にそっくりだったから、そうかなと思って」
なるほど。
「それで……彼女は、ぼくのことをどう……?」
「俺だって聞き耳立ててたわけじゃないから、そこまでは。ただ、信じてたのに……とか聞こえたな」
「信じてたのに……」
泰明と一緒に、俺も頭をひねった。
レイラは泰明を信じていた。それが、どうしてああなっちまうんだ?
「そう。そしたらその父親が突然怒り出したんだ。お前が悪いとか何とかさ。そこで会話は聞こえなくなったけど、気になって振り返ったら、彼女は校舎の中へ走っていくところだったよ」
「校舎の中へ……?」
「君の話と合わせると、おそらく君を探しに行ったんじゃないかな」
俺もそう思った。レイラだって泰明を気にしていた。このまま終わらせるのには耐えられなかったに違いない。
「ぼくを……」
「行ってあげるといいよ」
純也は言った。――しかし泰明は答えた。
「できません。そんなこと、ぼくには……」
「なんでだ?」
俺が聞きたいことを、純也が代わりに聞いてくれる。
すると泰明は、足元に舞ってきたポプラの落ち葉を2枚拾って、つぶやいた。

「……彼女はぼくに、弱気なことなんか何の武器にもならない、と言ってくれました。それで開き直れて体力測定のときに緊張せずにすんだぼくは、試験の後に考えました。自分が話したことやした何かも、彼女の力になれているだろうかと。そう思いながら、ぼくは彼女を待ちました。ところが……結果はああでした。ぼくは、彼女を後押しする風にはなれなかったんです。それが悔しい……」

泰明は持っていた葉を手放した。そいつらは瞬く間に風に流され、多くの仲間のもとへと還っていく――。

「あっ……」
純也が遠くを見て声を出した。泰明もそっちを見る。
俺も、レイラでも来たかと思って見てみたが、向こうにいたのは見慣れない男だった。純也と同じ制服を着ている。どうやら、こいつの「連れ」が帰ってきたらしい。
「ああ……どうぞ、ぼくには構わずに行ってください。ぼくは大丈夫です」
泰明も服でそれを判断したんだろう。やつがそう言うと、純也は申し訳なさそうに立ち上がった。
「そうか、それじゃ……」
「お気をつけて。どうもありがとうございました」
純也は泰明に頭を下げ、その連れのもとへ走っていった。

泰明は、またひとりになった――。

 

 

それから、どれくらい経っただろう。
泰明は相変わらず、ベンチに座ったままだった。レイラを探しにこそ行かないものの、立ち上がって帰ろうともしない。それはやはり、あいつにもう一度会いたいと思っていることの証だ――などと考えていたとき。
……あいつは!?
50メートルほど向こうに、見覚えのある赤いスカートが立っている。
レイラだ!
遠すぎて、こっちに気付いているのかどうかまではわからない。だが、俺はその姿から目を離すことはできなかった。
そうこうしているうちに、泰明もレイラの存在に気付いた。
しかし――何とも言えない目で見つめ続けてはいるものの、腰は上がらない。
またあいつを怒らせたらどうしよう、と思っているのかもしれない。どうせ自分は役に立たない、と思っているのかもしれない。
が、俺にはわかっていた。それは両方とも間違いだ。さっきの純也の話が本当なら、レイラは泰明を探しているはずだ。こいつと再び会える瞬間を待ち望んでいるはずだ――。
「泰明、立て! あっちへ走れ!」
俺はこの時代に来て初めて、自分の言葉で叫んだ。届かないとわかっていても、応援の気持ちがそうさせた。俺には当然そんな経験はないが、自分が馬券を買った馬に向かって「がんばれ!」と叫ぶのは、きっとこんな気持ちなんだろうな。
案の定、その叫びは泰明には届かなかったものの――意外な変化が起きた。
遠くのレイラが、不意にその場に膝をついたのだ。そして、よく見えないが、両手で顔を覆っているような――。

……まさかあいつ、泣いてるのか?
そう思ったときだった。

「……泰明!」
それを見た泰明が、ついに立ち上がってレイラのもとへと走り出したのだ!
よし、よくやった!
当然、俺も一緒に走ってついていった。

泰明がレイラの隣に到達すると、やつは顔を上げた。
「あ……!」
そう声を出したレイラの顔は……涙で歪んでいた。
その直後――泰明は、本来の泰明に戻った。
レイラと同じ体勢で地面に膝をつき、カバンを開ける。そしてあの救急セットの青い袋を取り出し、その中から真新しいハンカチを出した。その色もまた、清々しい青空の色。
「どうしたんですか……?」
泰明は、まるで今までのことなど何もなかったかのように、ハンカチでレイラの頬を優しく拭った。
レイラはそれを拒まなかった。今度は強がることもなく、まっすぐに泰明を見て、そして純也や俺が思っていた通りの言葉を紡ぐ……。
「ごめんね……」
「いいんです。それより、なぜ泣いているんですか? ぼくでよろしければ、お話をお伺いしますよ」
そういえば、俺にもよくわかってない。俺はレイラの答えを待った。
「……もうあんたに会えないって思ったら、悲しくてたまんなかった」
「ぼくに……?」
泰明だけでなく、俺もその言葉には驚いた。謝りたかった、というだけでなく、会えないと思ったら悲しかった、ってのは……。
「うん。あんたはあたしに優しくしてくれただけなのに、あたしは自分勝手な理由であんたを突っぱねてばっかり……。謝ってなかったことももちろんだけど、もうずっとひとりぼっちのまんまなのかなって思ったら、寂しかった。あたしに親切なやつなんて、あんた以外に絶対いないもん……」
そうか。何だかんだ言ったって、泰明はこいつの味方になろうと一生懸命だったんだもんな。
「ぼくも悲しかったですよ。あなたがぼくのせいで怒ってる、って思ったら」
「あんたのせいじゃないよ。あたしのせいだよ……」
らしくなく自分を責めるレイラに、泰明は微笑みながら言った。

「……もう、そういう話はよしましょう。笑顔になれないですから」

いい言葉だなあ……。
「ぼくにはあなたの事情はわかりませんから、うかつなことは言えません。ですが、もしぼくがいることであなたがひとりぼっちにならずにすむなら、いつでもあなたのそばにいますよ」
さらに泰明は、そんな風に続けた。誰かの一部でありたい、こいつの永遠の願いが込められたセリフだった。
「あんた……もしかして、あたしの友達になってくれるっての?」
信じられないといった感じで、レイラが恐る恐るたずねる。泰明の答えはもう決まっていた。
「ええ。あなたが、それを望んでくださるのなら」

「ありがとう! あたし、すっごい嬉しい!」
レイラは泰明の両手を取り、やっと同じように笑ってくれた。
なるほど。こうしてこいつらは、俺や真奈でも入り込めないほどの友情を手に入れたのか――。

「ねえ……あんたの名前と住所を教えといてよ。あたし、きっと合格できないと思うから」
しばらくして、レイラが言った。すると泰明は、苦笑いしながら答えた。
「だめですよ、そんなことを言っては。弱気は何の武器にもならないって教えてくれたのは、あなたじゃないですか」
「あ……そういやそうだったっけ」
レイラも、いつものレイラに戻ったらしい。頭をかきながら笑う。
「でも、名前は教えます。ぼくは城泰明です。ここから2キロほどのところに住んでいます」
泰明はさっきハンカチを出した袋から今度はメモ帳とペンを出し、名前と住所を書いてちぎってレイラに差し出した。
「へえ……近いんだ。あ、あたしにもこれ貸して」
今度はレイラがメモ帳とペンを手にし、自分の名前と住所を書く。
「レイラさんとおっしゃるのですね。どうぞよろしくお願いいたします」
「……そのしゃべり方、やめてくれないかな。何か、あんたのこと見下してる気分になっちゃう。あたしの呼び方も、レイラ、でいいよ」
「わかったよ、レイラ」

……これで、ハッピーエンドかな。
俺はそう思った。
確かに、他人に説明するにはちょっと複雑すぎる話だった。
それに――他人には内緒にしておきたいほど大切、そういう気持ちがわかったような気もする。幸せな話で他人を幸せにするのもいいが、しまっておきたいタイプの幸せもあるんだな。
そろそろ帰ろうか、こいつらが仲よく暮らす時代に。
俺は、そっとその場を後にした……。

 

 

……現代に戻って数時間後、俺は泰明に会った。
「お、レイラは一緒じゃないのか?」
「今日はまだ会ってないよ」
ついそう聞いた俺に、泰明は何のためらいもなく答えた。今日はまだ、という言いまわしが、会わない日はないってことを表していて微笑ましい。
俺は、ちょっと意地悪な質問をしてみたい気持ちになった。
「なあ、泰明。お前にとって、レイラってどんな女だ? 例えば、弱気な男に勇気を吹き込む荒っぽい風みたいだとかさ」
「え……」
泰明はさすがに驚いたようだったが、いくら何でも俺が過去を知っているわけはないと思ったんだろう、笑いながら話し始めた。

「いいこと言うね。そう、ぼくは彼女を風だって思ってるよ。輝く風」
「輝く風……?」
こいつは純也に、レイラに勇気づけてもらったのに自分はお返しができなかった、自分は風にはなれなかった、と言った。それならレイラのことを「風」と表現するだろうとは思っていた。しかし、「輝く」ってのはどういう意味だ?
「ああ、やっぱりわからないよね。詳しく話すよ」
泰明は、楽しそうに話し出した。
「風っていうのは、見えないけどいつも何かに動力を与えている。それはぼくの理想の生き方でもあるんだ。人の役には立ちたいけど、いかにも『ぼくはいいことをしてる』って誇示するようなのは、本当の親切とは言えないからね。……その風の役を、彼女は完璧にこなしてるとは思わない? 怒りっぽくて短気で早とちりで誤解ばっかり与えちゃうけど、心の中に優しさを秘めていて、気がつけば誰かの背中を不器用に押している。そういう面を知っているから、例えみんなが彼女の短所を持ち上げて悪口を言ったとしても、ぼくは彼女の輝きを見てあげたい。それで『輝く風』というわけ。今じゃ、本物の風もきっと彼女みたいな色に輝いてるんだろうな、なんて考えたりするよ」

「……」
俺はその言葉を、まっすぐに受け止めた。
なるほど、泰明はレイラに強い尊敬と憧れを抱いてるのか。こういうのを、本物の「友情」と呼ぶんだろう。
……俺も、かわいくないかわいくないって言ってばかりいないで、ちょっとは真奈の長所でも探してみようかな。

「……わからなかった? もっと詳しく説明しようか?」
「いや、もういい。サンキューな」
「そう。じゃあ、またね」
泰明は堂々と去っていった。
こいつも結構強くなったよな……やつの後ろ姿を見送りながら、俺はそう思ったのだった。

 

 

輝く風

(エンディング No.27)

キーワード……つ


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