「幸せを祈るよ」
「うん、私もがんばる。これからもアドバイスよろしくね」
「もちろん!」
俺には、ようやくわかってきた。
きっと親父は、こうして真理子おばさんの恋愛のアドバイザーを務めてきたんだろう。
おばさんが篠崎先生と結婚して、真奈が生まれて……俺の時代になるまで、ずっと。
真奈……。
その名前を思い出したとき、俺はふと考えた。
あいつはどうも、自分の家庭に不満があるらしい。俺の記憶では、ジョッキーになるために競馬学校に入った後は、実家には一度も帰ってないはずだ。仕事の上で篠崎厩舎にはよく顔を出すが、そこに真理子おばさんがいると、用事を早めに切り上げて出ていってしまう。
何が気に入らないんだろう。
真奈が生まれ育った家庭は、紛れもなくこの真理子おばさんと篠崎先生がこれから作り上げる家庭だ。この時代から30年が経過してもなお仲のいい夫婦に、たったひとりの娘。普通なら理想的な家庭が出来上がりそうなものなのに、どこで歯車が狂うんだろう……。
俺は考え、そして気付いた。
今なら――この時代なら、歯車が狂わないように俺が導くこともできるのだ。
よし、やろう。真奈を幸せにしてやるんだ。
「……真理子ちゃん、ひとつ聞いてもいいか?」
「あ、何かしら」
「将来、もし篠崎と結婚するとしたら、どんな家庭を持ちたいと思う?」
「え……やだ」
真理子おばさんは、口を両手で押さえて真っ赤になった。そりゃそうだよな。俺だって恥ずかしい。
「いや、あんまりリアルに考えなくてもいいんだ。例え話なんだからさ。ちょっと幸せな夢でも見てると思って答えてくれよ」
リラックスさせるように俺が軽く言うと、おばさんはようやく口から手を放して、そしてちょっと考えて答えてくれた。
「そうね……やっぱり、お互いを尊重できる家庭が理想かな。あなたは私の旦那さんなんだからこれくらいのことはやってよ、みたいに言う人がいるけど、私はああいう風にはなりたくないわ。相手を大切にしてないもの。大切にして、大切にされて……そうやって、どこまでもふたりで歩いていくのに憧れるかな」
「ふたりだけで……?」
疑問を感じ、俺はたずねた。
「もちろん、まわりの人のことも考えるわよ。ふたりっきりなのは家庭の中だけ」
「……子供ができたら、どうすんだ?」
「えっ……」
予想外の言葉を聞かされたように真理子おばさんは驚き、そしてやっぱり真っ赤になった。
が、今度は俺のフォローを待たずに答えが来た。
「そんなの、考えたこともなかったわ。でも私、結婚しても子供は生まないかな。あなたも知ってると思うけど、私、50歳までジョッキー続けるつもりだから、子供がいても構ってあげられないし」
……わかった。わかりたくないような答えがわかってしまった。
真奈はきっと「望まれない子供」だったんだ。
もちろん、この真理子おばさんだったら、真奈が生まれた時点で「まあ、かわいい」とでも言ってそんな認識は棄てるだろう。でも――物心ついた真奈が、もし「生まれる前は望まれていなかった」ことを、何らかのきっかけで悟ったとしたら?
それは、充分に考えられる可能性だった。
「……どうかしたの? 私、何か変なこと言った?」
おそらく神妙な顔つきになっていただろう俺をのぞき込み、真理子おばさんはたずねた。自分が言ったことの残酷さにも気付かずに。
ここは、俺が何とかするしかない。
「また余計な世話を焼かせてもらうが、もし将来、子供ができた日が来たら……例えそれが予想外でも、絶対に間違いだなんて思わないで、その瞬間から喜んでやれ。そうじゃなきゃ、子供がかわいそうだ」
「片山くん……」
おばさんは、俺の顔をまっすぐに見た。そして。
「今日のあなた、いつもの片山くんじゃないみたい。何か、私の遠い未来を見て帰ってきた、そんな感じ」
……!!
「ま、まさか! 俺はいつもの俺だよ。ただ、そんな風にちょっと思っただけだ。気にすんな気にすんな」
大慌てで手を顔の前で横に振り、否定するしかない俺。実に恰好が悪い。
「そう、ならいいんだけど」
真理子おばさんはそう言い、続けた。
「でも、あなたが言った話は覚えておくわ。いつか私の気持ちを受け継ぐ存在ができたなら、その人も幸せにしてあげなくちゃいけないものね」
「そうだよ!」
俺は大きく笑った。
「ありがとう。あなたには今日、ずいぶんお世話になったわね」
「いや、いいって」
「……あら、もうこんな時間。じゃあ私、五十嵐先生に呼ばれてるから、またね」
話が長かったわりには最後はあっさり、真理子おばさんは去っていった。
……真奈は、幸せになっただろうか。
俺はそれが気になった。
もう、元の時代に帰るかな。
親父を見つけられなかったのは心残りだが、また今みたいに親父を知る人間に会うと困ったことになる。いくら顔がそっくりでも、やはり俺と親父は別の人間、なりすますのは意外に難しかった。ボロが出ないうちに退散した方がよさそうだ。
俺は、さっきの林に向かって歩き出した……。
……そして、元の時代へと帰ってきた。
林から抜けて、見慣れた景色、そして違和感のない景色を見る。
やっぱり、俺が生きる時代はここなんだ――そんな当たり前のことに、感動だ。
30年前から変わらないイチョウ並木の道を、ゆっくり歩く。
全長の半分ほどまで来ると、何だか、過去に飛んだことも夢だったみたいに思えてきた。
目覚めちまった今となっちゃ、あの出来事もほどなく忘れる運命にあるのか……。
そう思ったときだった。
「僚! おはよう!」
向こうから、手を振りながら走ってくる女がいる。
あれは……。
あれは、真奈!
真奈が俺の目の前まで到達する。
そして、その表情は――今までに見たこともないほど、輝いていた。
そう、まさしく、過去で見たあの真理子おばさんにそっくりだ。
あれは夢じゃない。おばさんは俺の話を聞いて、生まれる前から真奈を愛し、明るくまっすぐに、そして幸せに育て上げたんだ――。
望んでいたことのはずだった。
だが――俺は、一抹の寂しさを禁じえなかった。
脳裏に、真奈特有の冷めた瞳が浮かんで消えない。
あの瞳を持った真奈は、どこへ行っちまったんだろう。
――答えは簡単だ。もう、どこにもいないのだ。
もしまだどこかに残っているとすれば、ただ1ヶ所、俺の記憶の中だけに――。
「……僚? どうしたの? 元気ないよ」
真奈は俺を見上げた。同情心のあふれた、優しい瞳で。
「真奈……お前、家族は好きか?」
俺は聞いた。真奈は答えた。
「何、当たり前のこと聞いてるのよ。それも突然に。あなた、何か変なものでも食べたんじゃないの?」
「当たり前って……好きなんだな?」
「もちろんよ。私、いつも言ってるじゃない。責任感が強くて冷静で的確な判断ができるお父さん、明るくて優しいお母さん、どっちも大好きだって。だから、今回の話も、喜んで譲っちゃった」
「今回の話? 譲った……? いったい何のことだ」
それは完全な初耳だ。
「あら、話してなかったかしら。実は昨日、五十嵐先生から連絡があってね、今回の有馬だけゴールドロマネスクにお母さんを乗せるっておっしゃったの。お母さん、もう30年もジョッキーやってるのに、まだG1勝ちがないでしょう。だから引退前にどうしても、って」
「それで……お前、勝てそうなお手馬、譲っちまったのか?」
「ええ」
……信じられない話だった。
だが……俺にもわかる。
それが真奈の「当たり前」なのだ。真奈は、明るく優しい女としてこの世界に生まれ、そしてこれからも親しまれていくのだ――。
記憶の片隅で、何かが微かに痛んだ。
そして――不意に思った。
もしかしたら。
もしかしたら俺は、あの冷めた瞳の真奈を愛していたのだろうか?
かわいくないと言い続けていた、あの真奈を――。
……後悔するのは、やめにしよう。
これは俺が望んだ結末。
そして、真奈はこの世界にたったひとり、幸せな姿でここにいる。
幸せならば、それでいいじゃないか。
「そうか……。有馬、勝てるといいな。真理子おばさん」
「ありがとう。でも、僚もウィローズブランチで参戦するんでしょう? 私も応援してあげたいけど、今回は勘弁してね」
「まあ……互いにがんばれば、なるようになるだろ」
俺は苦笑いした。
真奈は、そんな俺を見て微笑んだ。
いつものように――。
記憶の中の瞳
(エンディング No.29)
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