「気持ちを棄てる必要はないと思うぜ」
「えっ……」
俺の言葉に、親父は実に驚いたような声を出した。
「可能性がなくなっても、気持ちはそんなに簡単に消せるもんじゃないだろ。それを無理に消そうとすると、今度は自分にウソをつくことになる。そいつはすごく苦しいことだ。俺は、お前に苦しんでほしくない」
「……じゃあ、今のままがいいってことか?」
「俺はお前の『今』を知らないからな。ただ、俺が思うのはこういうことだ。叶わない恋があって、その気持ちが止められない……その状態の解決法は、恋を無理に叶えようとすることと自分の気持ちを殺すことだけじゃない。想いは想いのままで、大切にしまっとく道もあるってことさ」
我ながら生意気な意見だが、こいつが俺の偽りのない「恋愛論」だった。

「……」
親父は、しばらく黙っていた。
そして――その沈黙が破れたとき、こう言った。

「リョウ……お前には、何か、どんなことでも話せそうな気がするよ。お前は俺の『今』を知らないって言ったけど、お前になら詳しいことを話してもいい。……いや、俺が聞いてほしいんだ。頼まれてくれるか?」

「当然さ。俺はそのためにここにいるんだ」
俺は笑った。
過去へ行ったら、親父の若い頃を見たい。それが俺の望みだった。それが叶い、さらに親父の力になれるんなら、これほど嬉しいことはない。

「ありがとう。……まず、何から話そうか……」
「じゃ、叶わない恋の理由を教えてくれ。その相手も」
俺はそう聞いた。まず気になっていたのはそれだ。叶わないったって、それは親父が勝手にそう思い込んでるだけかもしれないのだ。長いこと歩み寄れなかったカップルが、ふたを開けてみればずっと両想いだった、なんて例は無数にある。
それを判断するために、相手が誰かはどうしても知っておきたかった。俺のお袋なら絶対に叶うはずだ。もっとも、そうじゃなかった場合は「叶わないのが宿命」ってことになっちまうが……。

「……お前はここに来る前、真理子ちゃんに会ったはずだ。そうだろう?」
「ああ」
「彼女は、お前を俺だと思ってしばらく話をした。それも間違いないな?」
「間違いない」
「そのときに、彼女がした話は? クリスマスにどうとか……」
「彼女は篠崎剛士が好きなんだろ。イブに一緒にいてくれないかって誘いをかけて、彼がそれを受けてくれたって喜んでた。告白もするつもりだってさ。それがどうかしたのか? あ、そういえばそれはお前が勧めたことなんだってな」
「……そうだ。俺が勧めたんだ。あのふたりのためだけに、ね」
そう語る親父の口調は、話の内容の幸せさとは裏腹に、絶望感に満ちていた。
なぜだ、と考えて、俺は弾かれたように親父を見た。

――親父という人間の不器用さ。
それを計算に入れれば、謎は簡単に解けるじゃないか――。

「まさか……お前が好きなのって、あの彼女なのか?」
「その通りさ」
皮肉ったように、親父は苦笑いをした。
……確かに、叶わない恋だ。あのふたりは結ばれる運命にある。真奈の存在がその証だ。ある意味では、俺の存在もその証になりうる。
「お前は知っているか? あのふたりが実は両想いだってことを」
親父は聞いた。俺はうなずくしかなかった。
「お前の言った通り、想いは想いのままで大切にしまっておく、それが一番いい道だと俺も思うよ。何も問題はないさ」
そして親父はまた、不器用な心で不器用に笑う……。

俺には、どうしてもわからないことがあった。早速、それを聞いてみることにする。
「教えてくれ。お前は仮にも彼女のことが好きなんだろ。それなのに、どうして彼女と篠崎を結びつけるような真似をする? 彼女の幸せを考えてのことならわかるが、そのわりには納得のいかない、苦しそうな顔してるじゃないか。……なんで、自分の首を絞めるんだ?」
すると親父は、ぽつりと言った。

「その通り、俺は自分の首を絞めてるんだ。自分がやったことへの罰さ」

「罰……?」
「わかった、詳しく話そう」

そして、親父の長い話が始まった――。

 

 

……親父が真理子おばさんを好きになったのは、競馬学校で出会ってすぐのことらしい。
だが、同期生という立場もあり、告白するつもりはなかった。
一緒にいられればそれでいい、そういう気持ちで毎日を過ごしていた。
少なくとも、親父はそう信じていた。

1年生の夏に、サマーキャンプで海へ行った。
そこで、篠崎先生が溺れた。
真理子おばさんが潜って助け、親父は引き上げられた篠崎先生の脈を取ろうとした。
そのとき親父は、篠崎先生の手がひとつのブローチを握っていたのに気付いた。それは真理子おばさんの物だった。
それを見た親父は、瞬間的に事態を理解した。つまり篠崎先生は、自分のミスでそのブローチを海の深いところに落としてしまい、拾おうとして息継ぎを忘れて潜り続け、そのせいで溺れたらしいと。
そして、どうやらブローチの存在に気付いたのは親父ひとりらしかった。

――そこで、親父の心に悪魔がささやいた。
これを今、ここで取って隠してしまえば、篠崎先生はブローチを拾えなかったことになる。彼は自分の命を賭けてブローチを拾った――そんな感動的なシナリオは成立しなくなるのだ……。
親父のジェラシーと焦りは、その誘惑に負けた。

さらにその敗北は、いろんな副作用をもたらした。
篠崎先生は、ブローチを拾えなかった(と本人は信じている)自分を強く責めた。
真理子おばさんは、ブローチをなくしたことに気付かなかった自分を責めた。
そして、根は善人の親父は、自分のしたことの重みに耐えられなかった……。

今年の――この時代の今年の篠崎先生の誕生日、親父はこの話を初めて他人に相談した。その相手は長瀬先生だった。
長瀬先生は「ブローチを返して、すべてを告白しろ」とアドバイスをした。
親父は、一度はそれに納得したものの、誕生日を仲よく過ごすふたりを見たとき、醜い話でその幸せを壊してはいけないと思った。
だから、自分からだとはわからない方法でブローチだけを返し、真実は告げなかったそうだ。

だが、親父はそれでもなお、自分を責めることをやめられなかった。
古傷は消えない――そんな言葉ばかり心でつぶやいて、ふたりをあおっては自分をわざと傷つける日々。
それが、自分の罪を裁くための罰なんだと思っているらしい。

そして、今日――この時代の今日に至っている。

 

 

――俺は親父の話を聞き終えて、気の毒とか悲しいとかよりも、落胆の気持ちが一番強かった。
俺にとって親父は、尊敬すべき人生の大先輩だった。俺のためにすっぱりとジョッキーをやめるような潔さ、ここまでしっかり育て上げてくれた正しさと責任感、自分に厳しく他人に優しく、人情や慈愛の心をも持つ、男の中の男だと思っていた。親父みたいな男になるのが、俺の究極の理想だった。
それが、このざまは何なんだ。
ここにいるのは、自分を責めることにしか生きる理由を見出せないでいる情けない野郎だ。
これが親父の本来の姿で、しかも俺の生きる現代になっても何ひとつ変わってはいないんだろうと思うと、本当にがっかりした。

「……お前はどうして、自分を誰かの脇役にしようとするんだ?」
耐えられなくなって、俺はたずねた。
「今の話を聞いて、俺が主役になんかなれると思うか?」
「なれる」
ネガティブの塊のような親父に、俺はきっぱりと答えてやった。
「人を傷つけた罪は消せないかもしれない。それを責めるのも人間ならではの心だ。だが、だからって幸せになる権利まで失われたわけじゃない。誰かのために生きるのもいいが、自分の幸せを棄ててまでってことになると、ちょっと行き過ぎじゃないのか? それじゃ脇役どころか小道具だぜ」
「だけど……」
「だけどじゃない。脇役になるために生まれてくるやつなんか、この世界にひとりだっていやしない。例え過去に何をしたとしても、自分の人生においては、誰だって自分が主人公なんだ。もっと自分を大事にしろ」

「主人公……」
親父は顔を上げた。
林の彼方から吹いてくる冷たい風に、柔らかな前髪が押し上げられる。
「そうだ、主人公だ。お前は、お前の人生の主人公」
俺が横を向いて念を押すように言うと、親父も俺を見た。
そして、言う。
「俺にも、幸せな結末が待っている可能性があるってことかな。自分の心の持ちようでは……」
「そういうことさ」
俺は笑った。
現代に戻ったら、俺もできる限り、親父に「自分は幸せだ」って思ってもらえるようにがんばらないとな。
それが、俺の喜びにもなる。

「ありがとう、リョウ。……でも、やっぱり不思議だな」
「不思議って?」
「お前の正体さ。何か、俺が持ってないものの塊みたいだ。……お前、自分のことを、俺の心を半分だけコピーして形にした、って言ったよな。もしかすると、俺とは正反対の『鏡』みたいな存在なのか?」
「どうとでも思ってくれ。俺は自分の正体をお前に教えるつもりはない。お前のためには、教えない方がいいんだ」
俺の正体を教えるのは、親父の未来の一部を突きつけることでもある。それはしてはならないと俺は思っていた。未来は自分の目で見るものだ。
「そうか。……でも、いいよな。お前みたいな、明朗快活で物の見方がまっすぐなやつは」
「俺に憧れるくらいなら、似た女でも探せ。俺の性格は、どうやらお袋譲りらしいからな……っ」
……やべっ、言いすぎた!

「お前……お前はまさか……?」
親父が疑問を口にする前に、俺は慌てて立ち上がった。

――焦りが、目の前数メートルのところに空間の火花を散らす。
俺は、そこに駆け込んだ。
「じゃあなっ!」

「リョウ! 待ってくれ!」

――若き日の親父の声は、切り離されていった――。

 

 

現代に帰ってきたその日の夜を、俺は実家で過ごした。
親父は見たところ何の変化もなく、その点ではほっとしたが、やはり気になった。
……あの日の親父は、俺の正体に気付いちまっただろうか?

「どうだ、有馬に乗れることになった感想は」
髪もあちこち白くなり、すっかり老けた親父は、俺にそう問いかけた。
「嬉しいに決まってんじゃないか。そりゃ代打だけどさ、代打には代打なりの責任がある。一生懸命にやって、1着を狙うさ」
「頼もしいな。がんばれ」
「おう! 親父のためだ!」
俺が強く言うと、親父の顔が変わった。

「俺のため? お前のためだろう。お前の騎手人生だ、俺を主人公に祭り上げる必要はない」

……俺は、思わず笑ってしまった。
ああ、やっぱりあの俺の言葉は、親父の心に根付いてたんだな、と。
「何を笑ってる?」
「いや、親父らしくない例えだなって思ってさ」
すると親父は、答えた。
「俺もそう思うよ。実際、ある意味では俺の言葉じゃないしな」
――俺が黙ると、親父は懐かしそうに語り出した。

「昔……今くらいの時期に、不思議な夢を見たことがあるんだよ。俺にそっくりの男が現れて、『自分の人生では自分が主人公、脇役にはなるな』って説教するんだ。訳ありで沈んでたその頃の俺には、強烈な一言だった。それで、覚えてた」
「夢か……」
親父はそう認識しているのか。
俺本人だと気付かれてなくてよかったが……何となく、寂しい気もした。
「夢、と片づけるしかないだろう。その男は突然消えちゃったんだ。現実であるわけがない」
「まあ、そうだよな」
「そうだ、もうひとつエピソードを話そうか。……その男の名前は、リョウといった」
「それじゃ、俺の名前はそいつからのあやかり名か?」
「いや、お前に名前をつける頃には忘れてた。最近になって思い出したんだ。でも、何か運命的な話だろう」
「そうだな」
すべてを知る俺は軽くそう答えるだけにし、最後に今の自分の気持ちを告げた。

「……でも、やっぱり俺は今度の有馬、親父のためにがんばりたい。親父は自分のジョッキー人生をあきらめて、今の俺を育て上げてくれたんだ。親父の後を継いでジョッキーになった今、恩返しのひとつもしたいって思ったっていいだろ? 俺は、そういう物語の主人公になりたい」

――親父は、声を殺して涙をこぼした。
そして、つぶやく。

「ありがとう……僚。俺は、幸せな男だ」
30年の時を超えてようやく聞けたその一言は、俺をもこの上なく幸せにしたのだった。

 

 

主人公

(エンディング No.33)

キーワード……ふ


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