「な……何のことですか?」
俺は慎重になって聞いた。
ここに泰明がいて、香先生の態度が急変したからといって、彼女が事件の黒幕と決まったわけじゃない。何か理由があるだけで、俺たちの味方かもしれないのだ。
「とぼけないで。その髪、染めてるんでしょう。あなたが感染しているという言葉を、他の人からも聞いたわ」
「何!? まさか……」
「そう。あなたが心配して飛んできた篠崎さんよ。といっても、私は彼女とあなたが携帯で話してるのを横から聞いていただけだけどね」
――そうか。彼女は長瀬厩舎で仕事をしていた。そこにいた真奈が「ケーキを食べたから犠牲になった」とか俺に言えば、俺の声が聞こえなくても、周囲の人間には俺の状態がわかっちまう……。
俺は覚悟を決めた。
「……はい。今朝、発病しました。泰明が誰かからもらったケーキを食べて感染したんだと、真奈は推理してます」
「そうよ。あの病気は経口感染するの。よく気付いたわね」
香先生は専門的に言った。それで俺は、ようやく本来の目的を思い出した。
「それより、真奈はどうしたんですか!? 空気感染しないんなら、俺や泰明をこんなところに隔離する必要もないでしょう?」
ところが。
「……おめでたい人ね。それがあなたをここへ連れてくるためのウソだってことに、まだ気付かないなんて」
「ウソ……だと!?」
「ええ。あなたは私から見れば、いわゆる『招かれざる客』よ。城くんだけを狙ったのにおまけについてきて、しかも病気のことを事件としてあれこれかぎまわってるんだもの」

「……貴様!! やっぱり貴様が犯人か!!」
俺は爆発して、香先生を――いや、香を怒鳴りつけた。
ああ、なんて甘かったんだ。こいつが俺たちの味方かもしれないなんて、よくもそんなことを考えたもんだ。俺は大バカ者だ――。

「ええ」
香は余裕の表情で、氷のような微笑を浮かべた。
「泰明にケーキをやったのも……」
「私よ。簡単なことだったわ。あの人は自分に自信がないから、元気づけたりしてちょっと味方になってあげたら、すぐ私を全面的に信用した。それで昨日、彼の誕生日にケーキをあげて食べてもらったの。それがワナだとも気付かずにね。しかも今朝、発病した彼は、真っ先に私に相談してきたのよ。おかげで、何の障害もなくこうして連れてこられたわ」
「貴様……なんでそんなことができるんだ! 泰明は貴様を信じたんだぞ! それをよくも……」
――怒りで声が震える俺とは対照的に、香は感情のない薄っぺらな声で答えた。
「彼だけじゃないわ。思い出してみなさい。失踪した人はみんな、彼みたいな自分に自信のないタイプばっかりだったでしょう? しかも、失踪の直前に誕生日を迎えた人たちが多かったはずよ。私は、理解者として近づいて誕生日のケーキで誘い出す……って方法で何人も手に入れたの」
そうかもしれない。弥生さんもおとなしくて自分を責めるタイプだし、誕生日が先週の14日で、その翌日に失踪している。
……なんて考えてる場合か!
「貴様は最低だぜ! 誰かが誰かを信じる心を、そんな風に利用するんじゃねーよ!」
「信じる方が悪いのよ。それは所詮、優しさが本物か偽物か見分ける目がなかっただけのことだもの」
「なんだと……! 貴様、いったい何考えてんだ! そもそも、何が目的でこんなこと続けてんだよ!」
俺は叫んだ。こうなったら、聞けるだけのことを聞き出してやる。そして無事にここから脱出し、世間に公表してやるんだ!
「目的はひとつよ。この病気に関しての実験をするため。あなたは気付いてないでしょうけど、この病気の患者は、超人的な能力を持っているのよ。私はそれを研究して形にしたいの」
「超人的な能力だと……?」
「ええ。特別に教えてあげるわ。あなた、体温がどんどん下がってるでしょ。特に手なんか、もう凍りそうに冷たいはずよ」
「それがどうした」
突っ張りながら、俺は自分で自分の手の甲を触った。が、やっぱり自分じゃよくわからない。
「その状態の患者にある種の薬を投与するとね、手から凄まじい冷気を吹き出すことができるようになるのよ」
「冷気……だと!?」
「そう。よくファンタジー小説なんかに、そういう魔法を使う魔術師が出てくるでしょう? それになれるのよ。ちなみに、患者が女の場合は、体温が上昇して手から炎を吹き出すの。現実の人間に魔法が使えるなんて、人類始まって以来の快挙だわ。今のところ、ヘッドギアなんかの装置をつけて他の人間がリモコン操作する形しか完成してないけどね」

――魔法。
今の俺には、魔法の素質が眠っている。
が、そのためにこの女に利用され、操作されかかっているのだ。
絶対に許せない!
今まで犠牲になった多くの人間のためにも、ここで実験台にされそうになっている泰明のためにも、もちろん俺自身のためにも――そして、俺の親父や真奈を初めとする、患者たちの無事を祈る他の人間のためにも、俺はこいつを許さない!

……親父?
俺はその言葉が心に引っかかり、そして――恐ろしいことに気付いた。

「おい! 貴様、東屋先生は……東屋隆二先生はどうしたんだ! まさか、自分の父親まで実験台にしたってんじゃないだろうな! もしそうなら、俺はこの手で貴様をぶっ殺すぜ!!」
本気の意気込みだった。
すると――香は目を閉じ、つぶやいた。
「……命乞いをするつもりはないけど、私は父は実験台にしてないわ。正真正銘、本当の話よ。むしろ、父が人前に出られなくなったところから、私のこの研究はスタートしたと言った方が正しいの」
「どういうことだ……?」
俺は落ち着きを取り戻し、考えた。
香は「父が人前に出られなくなった」と言った。死んだとは言ってない。……てことは、まさかこの騒ぎの真の黒幕は東屋先生で、香は父親の研究を手伝ってるだけだとでもいうのか?
……いや、いくら何でも、自分の娘をそんなやばい道に引き込んだりはしないはずだ。東屋先生は妻と離婚して家族は香ひとりだけに、余計その気持ちは強いと思われる。
わからない……。

と思った、そのとき。

「……あなたはそんな答え、知らなくていいの。さて、しばらく眠っててもらうわ」
何だと……!?

――反応したときには、もう遅かった。
俺は香が後ろに隠し持っていた催眠スプレーをいきなり吹きつけられ、そのまま意識を失った――。

 

 

……。

……体が動かない。
なのに、俺は自分の足でどこかに立っている。
捕まって実験台にされて、香にコントロールされてるのか……。
事態を把握するため、何とか動くまぶたを動かして、目を開ける。

……!!
真奈! レイラ!

――そこは、ログハウスの中のようなところだった。
俺のすぐ斜め前に、リモコン装置らしきものを持った香。そして前方3メートルほどの距離に、真奈とレイラが立っている!
ふたりは実験台にされた様子はなく、しっかりした目で香をにらみつけている。
まさかあいつら、助けに来てくれたってのか!?

「……僚は私たちが連れて帰るわ! 例え治らなくても、モルモットにされてるよりましよ!」
真奈、よく言った!
俺は心で叫んだ。
確かに、俺が今のままここから抜け出せたとしても、有馬まで生きられる保証はない。俺自身も、最初はそれだけを恐れていた。
だが、今は違う。例え有馬まで生きられなかったとしても、その前にこいつの悪事を暴ければ本望だと思う。
きっと、親父も俺の気持ちをわかってくれるだろう……。

「残念だけどね、返すわけにはいかないわ。ちょっと調べた結果、片山くんは今まで連れてきた誰よりも強い力を持っているんだもの。信じられないなら、見せてあげるわよ」
香は言って、手に持つ装置を何やら操作した。
すると――俺の両腕が、俺の意思とは無関係に持ち上がった!
やっぱりコントロールされている!
そして――。

「……きゃあ!」

バシュッ! という音を立てて、俺の手の先から冷気が吹き出した。真奈とレイラは間一髪でかわしたが、その冷気が当たった壁は、スキーシーズンのログハウスの外側みたいに真っ白に凍りついた。
……こいつは、まともに食らったら生きてられないぞ!
俺は青くなった。
もし、もしこんなのを真奈やレイラに食らわせちまったら――。

「いかが? ……さて、自力でこんなところまで来たあなたたちの努力は認めてあげたいけど、ここの秘密は守られなきゃいけないの。悪いけど、彼の冷気攻撃を受けてもらうわ」
――その心配が、早速現実味を帯びてきた。
「何ですって……!?」
「ふざけんじゃないよ! あたしたちを甘く見ると、ただじゃすまないよ!」
ふたりは懸命に叫んでいるが、香は容赦なくリモコン操作を始めた……。

――俺の手が持ち上がっては、その先から冷気が吹き出す。
逃げろ! 当たらないでくれ!
俺には、そう願うことしかできない――。

その願いがある程度通じているのか、真奈とレイラは必死に逃げ続けた。
だが、見たところ、やつらは武器らしきものは持っていない。つまり、反撃はできないってことだ。
それでも、どうやら冷気をかわしながら香に近づこうとしているらしいが、それも成功するだろうか――。
次第に高くなっていく「最悪の確率」に、俺は流されそうになっていった。

が、そのとき。

「……僚! 目を覚ましな!」
レイラが、叫びながら俺に飛びかかってきた!
香は懸命に俺を操作するが、生身の人間の素早さにはかなわないのか、遅れている。
そして――。

……!!
レイラは、俺の頬に強烈なビンタを食らわせた。

「あんた……真奈が大事なんでしょ!? 大切な人にそんなことするなんて、悲しすぎるよ! 操られてたって、それくらい気付きなよ!!」
レイラ……!
俺の中から、「最悪の確率」がどこかへ飛んでいく。
「無駄よ。彼にはあなたの言葉なんて届いてないんだから」

……届いてるさ!
届いたからには、俺はそれに応えなきゃいけない!

気力が湧いた。
俺は香のコントロールに懸命に逆らった。
何とか、何とかこの冷気の一撃を、香に当ててやれば……!

香がボタンを押す。俺の手が持ち上がり、その先に冷気がたまっていく……。
……今だ!
俺は――生きるための体力までなくなるほどの力を込めて、香の方を向いた!

冷気が放たれる。
そして、その端が――香の腕をかすめた!
「……いやあっ!」
香はリモコン装置を落とした。
すかさず真奈がそれを拾い、そして思いっきり壁に投げつける。

……ガシャーン!!
凄まじい音を立てて、装置が粉々に砕け散る。
――同時に、俺は床に崩れ落ちた。
操作できなくなったんだ!

「僚……!」
真奈が駆け寄ってくる。
そして、崩れ落ちた俺の前にひざまずき、すがりついてくる……。
……真奈の体は、炎のように熱かった。
それだけ俺が冷たいってことなんだろうが、久々に人間らしい情熱に触れたようで、俺はそのままその熱さを楽しんだ。

「観念しな! あんたはもうおしまいだよ!」
レイラが叫んでいる。
――が。
「あなたたちも私と一緒に終わるのよ! これをごらんなさい!」
なんと香は、同じ装置をもうひとつ取り出した!
「出てきなさい、谷田部弥生!」
弥生……だと!?
俺が思う間もなく、部屋の左側にあるドアがバタンと開いて、そこから髪を茶色くした女が飛び出してきた。
弥生さんだ……!
彼女もまた、この香を信じたがために……。

弥生さんの両手が、彼女の意思とは無関係に持ち上がった。
そして、そこから……。
「うわあっ!!」
火炎放射器のような熱線が飛び出し、俺たちを襲った!
俺はとっさに床を蹴って真奈ごと飛び退き、当たらずにすんだが――その炎はログハウスの壁を直撃し、またたく間に引火した!
「うふふふ……あなたたちもみんな道連れよ。先に地獄で待ってるわ……!」
言うと、香は自ら装置を床にたたきつけて壊し、覚悟を決めるようにその場に横たわった……。

「……ごめんなさい! 私……私、こんなことして……どうしたら……」
束縛から抜け出した弥生さんが、口を両手で押さえながら座り込む。
「後悔している暇なんかありません! 立ってください!」
真奈は弥生さんの手をつかんで強引に立たせた。
「早く逃げようぜ!」
おそらく俺が目覚めたとき真奈とレイラが背にしていたドアが出口に近いだろうと思い、俺はそこに飛びついた。
「待って!」
だが、真奈が止めた。
「何だよ!」
「まずいのよ! さっき見つけたんだけど、この建物内にはこれまでの研究の成果が全部残ってるの! このままここが焼け落ちたら、証拠が全部消えちゃうし、病気の治療法があったとしても闇の中になっちゃうわ!」
それは確かにやばい!
「香を一緒に連れて逃げたところで自白するとは思えないし……何とかしてこの炎を消さなきゃいけないってわけか!」
すでに炎は奥の壁全体を覆い尽くし、黒い煙も上がっている! 早く何とかしないと、俺たちまでやられちまう!

そのときだった!
「……うわっ!」
俺が飛びついていたドアが、不意に外から開けられた。
そして――そこから、俺がさっき放ったのと同じ冷気が吹き込んできた……!
俺も真奈もレイラも弥生さんも、とっさにドアの両側によける。
冷気はとめどなく炎に襲いかかっていく。炎は次第に勢いを失い、やがて――跡形もなく消えた。

……なんだ?
そこでようやくその冷気の正体を気にするところまで頭がまわり、ドアの向こうを見ると……。

「泰明!!」
レイラが叫んで飛びついた先には――その言葉通りの泰明が勇ましく立っていた。髪は真っ白なままだ。
今の冷気は泰明だったのか。操られていなくても使えるんだろうか? 香は「まだそれは無理」みたいなことを言ってたのにな。
ほっとしたためか、俺はそんな呑気なことを考えていた。
「泰明くん……ありがとう……」
泣きそうな声で、弥生さんも近づいていく。
「……いいんです。これが、ぼくに与えられた使命だと思いましたから」
泰明は俺にはさっぱりわからないことを言い、どことなく悲しげに笑った……。

 

 

――警察がやってきて香は逮捕され、俺たちは全員無事だった。
あのログハウスは、トレセンの林の中に建っていた。その存在は俺も含めいろんな人が知っていたが、外から板を打ちつけられていたので、誰もが今は使われてないと思っていた。が、実際には香の父親・東屋先生が自分の診療所から地下トンネルを掘って入り、中を個人的な研究室として使っていたらしい。
その東屋先生だが、残念なことに、すでにこの世にはいなかった……。

真奈やレイラの話(俺も香から聞いた話などをやつらに話した)、そして警察の捜査により、事件の全貌が明らかになった。
発端はこういうことだった。
東屋先生は研究一筋の人間で、食事などで時間をつぶすのを極端に嫌っていた。そのため、腹がふくれれば何でもいいと、常に手近にある馬の餌を口に入れるようなことがたびたびあった。
ところが――その中に「馬が食っても何ともないが、人間が食うと例の病気にかかる」物質が混ざっていたというのだ。
雑学的知識が豊富な寺西先生の話によると、こういう「与える影響が種族によって異なる」物質は結構あるらしい。彼が出した例では、アシビという植物は漢字で「馬酔木」と書き、これは馬が食うと麻痺するところから来ているそうだ。
ともかく、そのせいで東屋先生は発病し、例の病気第1号になってしまった。
自分のかかった病気が未知のものだとすぐわかった彼は、当然のようにそれについての研究を始めた。
その結果、患者にとある薬品を投与することで魔法のような効果を発揮できることがわかった。これは香も言っていたことだ。
しかし、東屋先生の病気は進行していき、1週間後、香だけに見送られて静かに目を閉じたという――。
そして、父親の死を目の当たりにした香は、その死を世間から隠し通し、自分がその研究を継いで完成させることを誓った。
こうして、事件は始まった。

なお、最後に助けに来てくれた泰明だが、やつはログハウス内の別の部屋に閉じ込められていたらしい。違う実験に使う目的で、香が薬で眠らせて外からつっかい棒をしていたそうだ。
真奈とレイラは、俺と香のいた部屋にたどり着く前に、その部屋に入って泰明を発見していた。
レイラは連れていこうと言ったが、真奈は無理だと判断し、外のつっかい棒を外しておくにとどまった。結果的にはこれが大正解だった。
――やがて泰明は目覚め、部屋を出ると、「ここはどこだ」とログハウス内を歩きまわった。
そして、俺たちや香のいた「最後の部屋」から煙が出ているのを発見し、異変を察知して飛び込んだという。
手から冷気を出したことに関しては、「何となくできる気がした」と照れ笑いをしながら答えた。泰明にできたなら俺にもできたはずだが、俺みたいな冷静さに欠ける人間には思いつくはずもない。それがちょっと虚しかった。

研究室から生きて助け出された患者は、俺と泰明と弥生さんだけだった。それ以外の人間は、全員タイムリミットを迎えて死んでいた――。
だが、不幸中の幸いで、治療法は判明していた。
男の場合は90度以上の場所に、女の場合はマイナス10度以下の場所に2時間以上入っていれば、中和されて元に戻るそうだ。気付いてしまえば単純すぎてあきれるような方法だが、ともかく治るってのはこの上なくありがたかった。
俺と泰明は早速、ジョッキーが体重を落とすために使うサウナの中に閉じ込められた。今の俺たちにとっては、こんなところに2時間も入ってなきゃいけないのは地獄に等しかったが、治るなら耐えてやる。
なお、弥生さんはというと、冷凍車の中に缶詰にされているらしい。それもそれで気の毒だな、と俺は思った。

「泰明、ちょっと聞きたいことがあるんだが、いいか?」
サウナの中に並んで座りながら、俺は泰明にたずねた。
「いいよ」
「お前、冷気で炎を消したことについて、それが自分の使命だと思った、って言ったな。あれ、どういう意味だ?」
「……ぼくは、生きている理由が欲しかったんだよ。昔からずっと」
泰明は、黒く戻りつつある髪に指をくぐらせ、頭を抱えながら苦しそうに答えた。
「生きている……理由?」
「そう。言い換えれば、誰かに『お前が必要だ』って言ってほしかったんだ。自分には取り柄らしい取り柄がないのをわかってただけに、余計その気持ちが強かったんだと思う。レイラに『必要とされたいから他人に親切にするなんて偽善だ』って怒られたこともあったけど、必要とされたい望みはどうしても消えなかった」
泰明は顔を上げ、どこともつかない場所を見つめた。
「そんなとき、香先生がぼくに近づいてきた。彼女は、あなたは優しい人だ、今の競馬界にはあなたみたいな人が必要だ、って言ってくださって、ぼくは嬉しくて……彼女の言うことなら何でも信じる気になっちゃったけど……」
そして泰明はうつむき、つぶやいた。
「……でも、それも真実じゃなかった。やっぱりぼくは、彼女に必要となんかされてなかったんだ。されてたとしても、それは実験材料としてで、生きる理由にはなりえない。ぼくは自分の病気を悟った朝、真っ先に彼女に相談したのに……そんな気持ちもみんな、彼女にとっては計算済みのことだったんだ。診療所へ連れていかれて、そこで彼女の本心を聞かされたとき――ぼくは、自分が足元から崩れていくような気がした。もう、自分が生きている理由は何もないんだって思うと……」
「泰明、お前……」
俺が下手な声をかけると、泰明は再び顔を上げた。それが、次の一声は少しはましな内容なんだろうという想像をさせる。
「だけど……あのログハウスの中で目が覚めて、お前たちのいる部屋を開けて炎を見た瞬間、思ったんだ。もしかしたら、ぼくはここで冷気を放って炎を消す、そのために香先生にだまされて病気にかかって閉じ込められていたんじゃないかって。もちろん現実にはそんなわけはないけど、運命のめぐり合わせっていうか、ぼくはそうするためにあの場に居合わせたんじゃないかって、そう考えたくなったんだ」
「ああ……。だから、あれはお前の使命だってわけか」
俺は笑顔になっていた。

「でも、やっぱりわからない。なんで香先生がこんな恐ろしいことをしたのか。いくらお父さんの後を継ぐためとはいえ……」
泰明は寂しそうにつぶやいた。何だかんだ言ってこいつは、香にちょっとでも惚れていたのかもしれない。
「そりゃお前、研究だろ。研究の時間を作るためには馬の餌まで食っちまう東屋先生の娘だぜ。研究のためなら手段を選ばなかったんだろ」
「……ぼくには、そうは思えない」
「泰明……?」
何だか同情的だ。俺は不思議に思って、やつを見つめた。
「彼女とは、いろんな話をした。もちろん、それはぼくを陥れるためだったんだろうけど……1回だけ『叶うなら研究なんかじゃなくて、ごく普通の恋愛をしたい』ってつぶやいたことがあったんだ。それが妙に心に引っかかって……。すべてがわかった今でも、何か、あの一言こそが彼女の本心なんじゃないかって思えてしょうがない」
「……それも、あるのかもな。だが、彼女の心は彼女だけのものだ。俺たちがあれこれ想像したところで無意味さ」
俺は俺の思うところを言った。
いずれ香本人が心情を白状することもあるかもしれないが、どうも俺は、その可能性は低そうだと思っている。彼女みたいなタイプの人間は、自分の本当の心を知られるのを極端に嫌がるものだ。
こいつは、永遠の謎になっちまうだろうな……。
俺は、それを覚悟していた。

 

 

そして時間は流れ、俺たちは汗だくになってサウナから出た。
泰明の髪は、すっかり元の黒に戻っている。
俺も、長く続いていた漠然とした脱力感がなくなっていた。
俺たちは、生還したのだ――。

シャワーを浴び、着替えて外に出ると、そこには真奈とレイラが来てくれていた。
「僚……」
「泰明っ!!」
――真奈のしおらしい声は、レイラの怒声と乾いたビンタの音にかき消された。
「あんた……バカじゃないの! 何、あんな女に引っかかってんのさ! ここにこんないい女がいるってのに!」
レイラは涙ぐんでいた。泰明はたたかれた頬を押さえながら、ただやつの顔を見ていた。
「あんたの考えてたことなんかわかるよ。どうせいつもみたく『彼女が必要としてくれるなら』だったんでしょ? だけどね、あたしだってあんたが必要だよ! そりゃ、はっきり言わなかったあたしも悪かったけどさ……気付いてくれたってよさそうなもんじゃない! 長いつきあいなんだから……」
そしてレイラは、いきなり泰明にしがみついたかと思うと、わあわあと泣き出した――。
俺と真奈は、気を利かせて(?)ちょっと離れた。

「大切な人、ね……」
真奈はレイラたちを見て、そっと言った。
「レイラ、あなたが香先生に操られて私たちに冷気を浴びせようとしてたとき、叫んだのよ。大切な人にそんなことするなんて悲しすぎるって」
「ああ、そいつは聞こえてた」
「聞こえてたの……?」
驚いた表情になって俺を見上げる真奈。……その瞳はとても魅力的だ、なんて一瞬思っちまったりもした。
「体の自由は利かなかったが、意識はあったんだ。それで俺、意地でも冷気をお前らじゃなくてあの女に当ててやろうって気力が出た。あれがなかったら、ひょっとしたらコントロールに負けて最悪の結果になってたかもな」
「じゃあ、僚は……私を『大切な人』だって、思ってくれてるの?」
真奈の声が、心に触れる――。
俺はレイラと泰明をちらりと見て、素直に答えた。

「思ってる。……あいつらが羨ましいくらい、思ってるさ」

その直後、俺は、レイラが泰明にしてるのと同じように真奈も俺に抱きついてくることを、少なからず期待した。
――それは叶わなかったが、真奈は柔らかく笑って、言った。
「私、あなたが病気になったって知ってから、何をしても上の空だったの。何とかして治療法のひとつも見つけないと、あなたは死ぬ……理屈ではそうわかっていたのに、どうしても気力が出なかったわ。……私にとっても、あなたは『大切な人』だったみたい」

俺は無言のまま、真奈の両手を握った。
その温度が自分と同じなのが、たまらなく嬉しい。

「……よかったわ。あなたが元気になってくれて……」

同じことを考えたのか、真奈はそう言って、とても安心した顔になった。
それを見て俺は――自分から、真奈を抱きしめた。

 

 

大切な人

(エンディング No.55)

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