「今週の有馬記念を勝つことです」
夢と呼ぶにはあまりにも近い未来。それでも――今、何よりも叶えたいこと。おもしろみはないが、この答えこそがこの質問に最も相応しい。みゆきならわかってくれるだろう。
「ああ、それはやはりさっきの話でも出ましたように、お父様の夢を継いでG1ジョッキーにということですね」
と進行役の男。
「はい。これだけは、どうしても」
俺は客席に向かって、最大限の笑顔を見せた。

 

 

――そして。
その「一番の夢」は、次の日曜日に叶った。

先頭でゴールを駆け抜けた直後から、俺は泣いていた。
ウィローズブランチから下りてジョッキールームに戻ってくると、みんなが俺を祝福してくれた。
寺西先生、関係者たち、ジョッキー仲間……有馬に乗れなくて悔しがってばかりいた真奈や、いろいろ複雑な気持ちだろう真理子おばさんも、みんなが笑顔で迎えてくれた。
そして、親父……。
今日のためにスーツを着てこの中山競馬場に来てくれた親父は、感無量といった顔で、俺の頭をポンポンとたたいた。
俺は親父に抱きつき、また泣いた……。

やがて、花のレイをかけられてのインタビュー。
「本当に……今日勝てたのは、皆様のおかげです。自分の実力なんか、全体の1パーセントも占めません。一生懸命に走ってくれたブランチ、彼女をベストの状態に持っていってくださった厩舎スタッフの方々、代役にぼくを指名してくださった寺西先生と馬主さん、応援してくださったすべての皆様、そして……身内ですみませんが、志半ばでジョッキーを引退してぼくを育ててくれた父と、ぼくをこの世に送り出してくれた母に、この勝利を捧げます! 本当にどうもありがとうございました!」
俺は大声で答えた。

そして、寺西先生の粋なはからいで、俺と親父は狭い表彰台に一緒に乗り、手を取り合って高く掲げた。
大歓声が、俺たちを包み込む――。
それらがこの冷たい風に、輝きと色をつけてくれている。
そんな風に、俺は思った。

 

 

――翌日の午後。
「お届け物でーす」
取材攻勢も一段落した頃、寺西厩舎の前に1台のトラックがやってきた。
「はいはい。……おお! ご苦労様!」
そこに積まれていた物を一目見た寺西先生は、大げさにおどけてみせた。

運ばれてきたのは、俺あての祝いの品々だった。
特に花束が多く、大仲のテーブルの上は一気にフラワーガーデンと化した。
「これは全部、お前のものだ。よくやったな……」
今はこの厩舎で調教助手をやっている親父が、本当に感慨深そうにつぶやく。
「いや、何度も言うが、親父あっての俺なんだ。せめて、この花のいくつかは実家に飾ってくれ」
と、テーブルの上のありがたい花の山を眺めたとき――その中に、ひときわ目立つ花束がひとつあるのに気付いた。
白いバラ10本ほどの中に、ピンクのバラがただ1本。引き立て役のかすみ草も何もない、それだけで構成された花束だ。
祝ってくれたってのに非常に失礼な言い方になるが、他の花束は単に花屋に金を渡して「これで作ってください」とまかせた感じなのに、この花束からだけは、他のにはない個性っていうか、そういうのが感じ取れる。
俺はその個性的な花束を手に取った。
「おお、それが気に入ったか。ちょっと変わってるな、それ」
およそ調教師らしくないしゃべりで、寺西先生が花束を見た。
「先生もそう思いますか」
言いながら、花束を眺める。

……ん?
包装紙に薄いピンクの封筒がついている。
俺はそれを外し、開けようと裏返した。
そこには、名前が書いてあった。

佐川みゆき――。

「みゆきだ!」
俺は、つい叫んでしまった。
「なんだ僚、知り合いか?」
寺西先生が冷やかすような声を上げる。
「あ、いえ……俺のファンの人です。いつも、こういう色の封筒で手紙をくれるんですよ」
「今時、封筒で手紙を送ってくるのか?」
「はい。だから印象に残ってるんです」
答えながら、俺は封筒を開け、中の便箋を取り出した。
――例によって、封筒と同じ色のそれには、綺麗な文字で控えめな文章が短く綴られていた。

 

 

『一番叶えたい夢――有馬記念制覇を成し遂げた片山さん。
本当におめでとうございます。
お父様も、とてもお喜びのことでしょう。
ありきたりな言葉しか浮かばないのがもどかしいですが、せめて自分の気持ちを花言葉に託して贈ります。
お父様思いの素晴らしい片山さんを心より尊敬して、白いバラを。

追伸
私は来年結婚しますが、片山さんのファンとしての活動は今後も続けていきます。――佐川みゆき』

 

 

今までもらったどれよりも、嬉しい手紙だった。
結婚する、という一文でちょっと複雑な気持ちにもなるが、今度は俺が「おめでとう」を言う番だな……。

「なんて書いてあった?」
寺西先生が聞く。
俺は、是非読ませようと便箋を差し出した。
先生はそれを受け取り、親父も気になったらしく席を立って先生の隣に行く。

――ふたりは便箋の文字を黙って目で追い、やがて先に顔を上げた親父が言った。
「花言葉か。素敵なことを考える女の子もいるんだな……。俺まで嬉しくなってくるよ」
「それでいいんだ。きっと彼女も、それを望んでるさ」
俺が言うと、親父は微笑みながら俺の手から花束を取った。
「しかし……」
そして、不意に顔を疑問の形にしてつぶやく。
「1本だけピンクが入っているのには、何か意味があるのかな。全部白だとあまりにも地味だからとか」
それは俺も気になっていた。花屋が間違えた……なんて無粋な想像はしたくない。必ず意味はあるはずだ。
「たぶんだけど、彼女はピンクが好きだから、つい1本混ぜてみたくなったんじゃないか?」
俺は自分の見解を述べた。

「いや、きっと違うね。……そうだろ? 君」
そのとき寺西先生が、親父の手にある花束の中のピンクのバラを人差し指でちょいと突っついて、いたずらっぽく言った。
ピンクのバラは、肯定でもするかのように縦に揺れる。
「違うって……?」
俺にはどうもわからない。聞くしかなかった。
すると先生は、持っていた便箋を俺に返して説明した。
「ここに『自分の気持ちを花言葉に託して』ってあるだろ? ピンクのバラの花言葉、知ってるかい?」
「ピンクのって……色で花言葉が違うんですか?」
「当然。バラは特にその違いが有名だよ」
……こう言っちゃ何だが、寺西先生は「フォロー屋」だ。どこで仕入れたのか雑学的な知識に異様に詳しく、誰かが1を聞くと、4から5くらいの解説つきで答える。それは今回も例外にはなりえなかった。
「白いバラの花言葉は『尊敬』。これは彼女も書いてることだな。で、赤は『熱愛』、黄色は『ジェラシー』、そしてピンクは『恋』だ」
「恋……!?」
どこをどういじったらそんな言葉が出てくるんだ、ってなタイミングだ。
「そう、恋。きっとこの花束全体が、今の彼女の心なんだろうな。尊敬の気持ちで一杯だけど、心のどこかにちょっとだけは恋心もある……って、密かな自己主張さ。花言葉で気持ちを伝えようなんて子が、意味も考えずに別の花を混ぜるはずはない」
「だけど……彼女、結婚するみたいじゃないですか。それなのに、なんで……」
何だかわからないが、俺は慌てている。
「そのへんはわからないよ。お前にちょっとでも惚れてたことをただ伝えたかっただけなのか、それともその結婚ってのが実はあんまり乗り気じゃないのか。もしお前が彼女のもとへ行ってここまでさらってきたら、案外喜ぶかもな。やってみるか?」

「……やりませんよ、そんなことは」
落ち着きを取り戻した俺は、苦笑いしながら答えた。寺西先生も半ば冗談だったんだろう、同じような表情だ。
「周囲のことを何ひとつ考えずに女をさらってくるような俺だったら、彼女はファンにはなってくれなかったと思いますから。年が明けたら、彼女に結婚祝いでも贈ります。それが一番喜んでもらえる形じゃないでしょうか」
「立派になったなあ……お前」
先生はそう言ってくれた。

親父が花束を再び俺に差し出す。
俺はそれを受け取ると、ゆっくり眺めた。

……これ全体が、みゆきだ。
真っ白な尊敬の気持ちの中に、ピンクの恋心を混ぜてくれたことを、俺は嬉しく思う。
だが、花はいずれ枯れるもの。
俺に恋をした彼女は、来年には俺の知らない男と一緒になる。
そして俺も、いつかはどこかの誰かと恋に落ちる――。

「親父のために有馬を勝つ」という夢を叶えた今、次はあの有馬フェスティバルでインタビュアーが言った通り、甘い恋を夢見るのもいいかもな。
俺は花束をテーブルの上に戻し、遠い未来に想いを馳せた。

 

 

花言葉

(エンディング No.75)

キーワード……と


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