「とにかくもっともっと成績を上げて、ジョッキーとして成功したいです」
「それは頼もしいですね。それ以外の夢は何もない、と」
「はい。何ひとつありません」
進行役の男と会場の客たちに――もちろんみゆきにも向けて、俺はそう断言した。
――それが、運命を決定づける一言になるとも知らずに。
今にして思えば、あの答えは俺の本当の夢でも何でもなく、単なる「照れ隠し」だったんだろう。
インタビュアーの女に「恋をしたいと答えたらどうか」と言われ、とっさにしのぐために出ただけの、俺の本心とは何ひとつ関係のない言葉。
……あの直後の有馬を、俺は見事に勝つことができた。
みゆきはどんな言葉で祝ってくれるだろう――そう思っていた俺のもとに届いたのは、想像通りの嬉しいメッセージと、想像もできなかったショッキングな知らせだった。
『事情により、これ以降、片山さんの応援に行ったり手紙を書いたりすることができなくなりました』――そう書かれていたのだ。
女がこういう文章を書く理由は、ひとつしかない。
みゆきは嫁に行ったのだ。俺の知らない誰かのもとへ、俺を置き去りにして。
祝いのメッセージでも送るべきだったのかもしれない。
だが、俺にはそれすらできなかった。
喜べない自分を悟ったとき、やっと気付いた。
俺はいつしか彼女が――直接会ったことのない、顔さえ知らない彼女が、親父よりも誰よりも大事になっていたことを。
彼女がそれから俺の応援に来たり手紙をくれたりすることは、本当に二度となかった。
まるで死んでしまったかのように、その後の消息は一切不明だ。
俺はどうしても、こう考えてしまう。
もしあの有馬フェスティバルのとき、俺が「ジョッキーとしての成功だけが自分の夢」みたいな答えをしなければ、彼女は俺が自分の気持ちに気付くまで待っていてくれたんじゃないか、と。
あそこで俺がはっきり「恋愛には興味がない」系の返答をしちまったから、俺という夢にすがるのをやめて、現実の身近な男と一緒になることを選んだんじゃないか、と――。
……皮肉なものだ。
あれから何年かして、俺を気に入ってくれた馬主が現れたおかげで、ジョッキーとしての成績と名声はどんどん上がっていった。
だが、それらを誰よりも捧げたかった相手は、もういない。
あの日のあの答えを覚えている人は――おそらくみゆきもそうだろう――俺が夢を叶えて嬉しくてたまらないんだと思っているに違いない。
が、実際にはこのざまだ。
名誉なんてものは、所詮お飾り。心の慰めにはならないのだ。
もっと早く、それに気付いていれば――。
――2054年、2月。
俺は今月限りで、28年間のジョッキー生活に別れを告げる。
親父の10倍以上の通算勝利数を稼ぎ、ジョッキーとしては大成功を収めた俺は、例の馬主に引退パーティーを開いてもらった。
この馬主は結婚式場を運営する会社の社長。そのビルにある披露宴用の宴会場のひとつが、パーティーの舞台となった。
……俺は46歳になった今でも独り者。結婚式場で主人公になったことはない。誰のどういう影響でこうなったかは、言わずもがなだ。
俺以外のやつは、誰も詳しい事情は知らない。こうして結婚式場に立つことに、単に独身だからってだけじゃ説明がつかないほど気後れを感じる心も、何もわかっちゃいない。
「長い間、お疲れ様でした」
パーティー終了後、親父と同じ世代の社長が俺に声をかけてきた。
「どうもありがとうございました。しがない若手ジョッキーだった私にずいぶん目をかけてくださった社長のおかげで、私は今日という日を迎えられました。心から感謝しております」
俺は頭を下げた。感謝の気持ちは事実だ。俺の心に空いた穴は俺の責任で、社長は何も悪くないんだから。
「あの、それは……」
が、俺の言葉を聞くと、社長は苦笑いをして声を止めた。
「どうかなさいました?」
「いえ。私が反対していたという意味には取らないでいただきたいんですが、実は、なるべく片山さんを起用するようにというのは、私ではなく会長である女性の意思だったんですよ」
「会長……女性?」
そういえば、会社には社長の上に会長ってのがいるんだった。
しかし……。
「会長さんが、私を指名されたんですか?」
「ええ」
「なぜですか?」
もしや、という心を胸のどこかに置いて、俺は聞いた。
俺に対して思い入れがなきゃ、わざわざ俺を指名なんてことはしない。しかも会長は女性だという――。
「なぜとおっしゃられましても……。会長はほとんど人前には出ませんので、本当のところはわからないんです」
「会長さんは、どういう方ですか?」
「それも詳しくは……。結婚もせずに若い頃からずっと会社の運営に力を注いできたということくらいしか知らないのです」
「独身で仕事に……そこは私と同じですね」
本当の気持ちから目を背ける癖はまだ直っていない俺。だが、やはり内心がっかりしていた。女性だってところでちょっとは期待を持ったが、結婚歴がないなら、少なくともみゆきではないのだ。
こんな日にこそ、彼女に会いたいのに――。
……っと、いけないいけない。
「ともかく、私を起用してくださったのが会長さんなら、彼女にもお礼を言わなければなりません。是非一度はお会いしたいものですが……」
「あ、今なら最上階の会長室にいますよ」
「行っても、よろしいでしょうか?」
「少々お待ちください」
社長は携帯を取り出して、会長に許可を取ってくれた。
俺はそれに甘え、ひとりでエレベーターに乗って最上階まで上がった。
俺に思い入れのある、独身の女会長。どんな人だろうと考えながら、明かりの消された暗い廊下を歩く。窓の外には鮮やかな夜景が広がるが、それをゆっくり眺める余裕もなく、考える。
社長の上に立つんだから、失礼ながら相当の年だろう。それを思うと、遠い昔に親父のファンだった、というような理由で俺を起用していたのかもしれない。息子のために潔く引退した親父の生き方を尊敬していた、という線もありうる。
……まあいい。すべてはその会長本人に会えばわかることだ。
そう思ったとき、ちょうど「会長室」と表示のある豪華な両開きのドアの前までやってきた。
遠慮がちに、ノックをする。
『……片山さんでしょうか?』
落ち着いた女の声で、そう返ってきた。会長に間違いない。
「はい」
『どうぞ、お入りください』
「では、失礼いたします」
俺はゆっくりドアを引き開けた……。
……光の中にいた会長は、俺の想像とはかなり違った姿をしていた。
まず、若い。俺と同じくらいの年にしか見えない。女は若作りが上手だとはよく言うが、少なくともあの社長よりは絶対に若い。
そして、女手ひとつで経営を続けてきたということで、情け容赦のなさそうな女だと思っていたのに、見たところ穏やかな感じだ。
さらに、美人だ。外見で人を判断するつもりはないが、独身なのが信じられない。
「ようこそ、片山さん。私たちの馬にいい成績を与えてくださって、ありがとうございました」
会長は俺の前に出てくると、丁寧に頭を下げた。
「あ、いえ……お礼は私が申し上げるべきです。聞けば、無名ジョッキーだった私に目をかけてくださったのはあなただそうですし」
何かよくわからない感情に乱され、かなり失礼な言いまわしになってしまった。
「ええ。確かに、あなたを乗せていただけるように頼んだのは私ですわ」
それを詫びる前に、会長は静かに微笑んだ。ますます混乱する俺に、彼女は続けて言った。
「どうぞ、こちらへいらしておかけください」
そして、来客用のソファーを示す。
自分みたいなやつがそんな場所に座っていいものかどうか一瞬迷う間に、俺の視線は大きな窓の方に飛んでいた。
――廊下で見たのとは反対方向の夜景。が、明かりがついているため室内の様子が映り込んでしまい、よくは見えない。
「まあ、眺めがお気に召しました?」
俺の視線を追ったのか、会長はたずねてきた。
「え、ええ」
「ありがとうございます。それでしたら、窓の前へどうぞ」
「あ、どうも……」
今、わかった。この会長と話していて調子が狂うのは、「お偉いさん」って感じがしないからだ。はなはだ失礼ではあるが、どうも俺の方が優位に立っているように錯覚してしまう。
結局俺は、自分のわがままを通した形で窓辺へ行った。
会長は部屋の照明を落とし、俺のすぐ隣へ来た。
……星が落ちてきたような、幾千もの明かり。それらすべてが、俺の目の高さより下にある。
どこか、涙の屑にも似ているな――なぜか、そんな悲しいことを思った。
「お聞かせください」
少しして、俺は会長に聞いてみることにした。
「ええ、何でしょう」
「あなたはなぜ、私に目をかけてくださったのですか? 私より有望な若手ジョッキーは他にいくらでもいたはずですし、自分が特に馬をまかせていただけるほどの魅力を持った人間だとも思えないのに……」
数秒の後、会長は答えた。
「……私は、あなたの夢を叶えたかったのです」
「夢……」
――遠い記憶が蘇る。俺の一番叶えたい夢を聞いた、あの女のことが。
人間ってやつは、どうしてこう「夢」って言葉が好きなんだ。夢なんか、叶えばいいが、叶わなければ傷つくだけのものなのに。
「あなたはあの頃、騎手としての成功を何より望んでらっしゃったそうですね。私はその向上心を素晴らしいと思い、自分にできる限りのバックアップをしようと決めたのです」
やっぱり、あの日の答えが理由か……。
「私がどれだけ力になれたかはわかりませんが、あなたが思い残すところなく現役生活を終えていただけたなら……」
「私は……」
会長の言葉をさえぎって、俺はつぶやいていた。
彼女には関係のない話だが、黙ってはいられなかった。もう、自分の気持ちを偽るのはいやだった。素直になれなかったために、一番大事な存在をなくしてしまった過去を持つ俺だけに――。
「私は、あなたのお力添えで、叶えたい夢のほとんどを叶えることができました。心から感謝しております。ですが……ジョッキーからひとりの男に戻って考えると、ただひとつだけ叶わなかった夢があるんです。しかも、今にして思えば、何よりも叶えたい夢は他ならないそれでした……」
「まあ……」
会長は哀れんだような声を出し、さらにたずねてきた。
「それは、今からではもう叶わない夢なのですか?」
「ええ。もう叶わないし、仮にあなたが叶えてくれようとしても無理な夢です。決して還らない、若い日の苦い想い出でしかありません」
「……もし差し支えないのでしたら、そのお話をお聞かせ願えませんでしょうか」
「はい。そのつもりで出した話題ですから」
――そして俺は、詳しい事情を会長に話した。
俺の夢を最初に聞いたみゆきのこと。
照れ隠しに「ジョッキーとしての成功、それ以外には何もない」と答えてしまったこと。
そのせいで彼女は結婚してファンをやめ、それっきり音沙汰なしだということ。
その後になって、顔さえ知らない彼女を愛していると気付いたこと。
そして、別れから25年経った今でも彼女を忘れられずにいる、愚かな俺のこと――。
「……片山さんは、今でもその方にお会いしたいとお望みですか?」
会長はたずねた。俺は答えた。
「はい。一度……たった一度だけでいいんです。会ったところでどうなるわけでもありませんし、今さらどうこうしようなんて気持ちもありませんが、それでも、せめて元気で生きている証拠のひとつだけでも……」
――俺の頬を、涙が伝った。
みゆきの代わりを探してたくさんの女を泣かせてきた俺も、女に泣かされたのは初めてのことだった。
そして、それができる女は、昔も今も彼女ただひとり――そんなせつないことを、今さら実感する。
会長は、部屋の隅のクローゼットから何かを出してきて、俺に持たせた。
感触が布だったので、涙を拭うためのタオルか何かかと思ったが、それにしてはちょっと違和感がある。何だろうとそれを窓からのわずかな明かりにかざして見ると――隅に紐穴のようなものがあった。
……まさか!
この暗さでは色こそよくわからないが、これには見覚えがある!
俺は、慌ててその布の端を持って一気に広げた。
その布は縦1メートル、横2メートルほどの大きさがあり、『未来へ向かって 片山僚』と書かれていた。
さらに裏側には、『横断幕掲示許可証 中山競馬場整理本部』というステッカーが、数えきれないほどコレクションされていた――。
これは……。
これは、みゆきが中山で毎週出してくれていた横断幕じゃないか!!
――俺は、会長の顔をまっすぐに見た。
彼女は夜空に輝く月のようにそっと微笑み、そして、言った――。
「私は元気に生きておりました。今日まで、ずっと」
……星屑のような街明かりも俺が落とした涙も天に舞い上がり、失われた時のかけらとなって周囲に降り注いだ。
25年前はつい昨日の出来事に変わり、俺は21歳の若手ジョッキーに戻る――。
「……みゆき! 君は……君はあの佐川みゆきなのか!?」
俺は横断幕を放り投げ、両手を彼女の両肩に置いて前後に揺すった。
「ええ、確かに」
「そんな……まさか……だって……」
驚きと焦りで疑問が言葉にならない俺に、会長は――佐川みゆきは、的確な答えをくれた。
「私は、最後のお手紙に『結婚する』とは書きませんでしたわ」
そうだ。訳あって応援に行ったり手紙を書いたりできなくなった、とあっただけだった。おそらく、会社経営の勉強などで忙しくなるから、という意味だったんだろう。
それを俺は、嫁に行ったと勝手に解釈してたんだ――。
そして、彼女の気持ちがだんだんわかってくる。
「まさか、君は……俺があのとき『ジョッキーとして成功することだけが夢』と答えたから、自分がこの会社の会長になって社長に馬を持たせて、俺を乗せてくれていたのか?」
「はい。……私はもともと、前社長のひとり娘でした。いずれは婿養子を取る運命と思っていましたが、あなたのお返事を聞いて、結婚せずに自分が会社を動かすことを選んだのです。あなたのお力になるのは、ずっと昔からの私の夢でしたので」
「そうか……」
みゆきは、今も変わらずに俺のファンでいてくれた。しかも、俺のために自分の生き方を変えたのだ――。
嬉しかった。
だが、不思議なことがひとつある。
「でも、それならなんでそのことを俺に教えてくれなかったんだ? 自分が佐川みゆきだって、どうして言ってくれなかった?」
言ってくれれば、こんなに苦しい思いをせずにすんだのに――という言葉は飲み込む。
するとみゆきは、申し訳なさそうな顔をして笑った。
「自分のために人生をそこまで曲げた女がいたと知ったら、あなたは辟易してしまったでしょう?」
「そんなことはない」
俺は、はっきり言った。
25年前に言えなかったすべてを、今言ってやる。きっとそのために、俺たちは再会したんだ。
「俺が泣いたのを、君も見ただろう。俺はそれくらい、君が大切だった。ジョッキーとしての成功よりも大事な夢は、君だったんだ」
「片山さん……」
みゆきは俺の頬に手を伸ばし、乾きかけた涙をそっと拭った。
「……あなたは、今でも私を愛していると言ってくださいますか?」
「愛してるさ!」
俺はみゆきを抱きしめた。その一言をずっと言えずにいた俺らしく、不器用に――。
「ありがとう、ございます……」
みゆきは俺の肩に頭を乗せ、つぶやいた。
「実は、私もたったひとつ、叶わない夢を感じておりました。それは、あなたに愛されること。でも、その夢もあなたは叶えてくださるのですね……」
「それは、俺が叶えることじゃない。俺が望むことだ」
そんなことを、本気で言ってみる。
そして。
「これからは、ずっと俺のそばにいてくれるな?」
「はい、喜んで……」
――時のかけらは降り積もり、25年間の空白を埋め尽くす。
唯一叶わなかった夢が、ここへ来て叶った。
どんなに遠く離れてしまったように思えても、一緒になるべきふたりは、こうしてなるのだ。
俺は、幸せだった。
その幸せが、愛する人と同じであることが――。
もう一度、君に
(エンディング No.79)
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