香山さん――彼は、被害者になりかけていたのではないだろうか。
徳永一族の中には詐欺師がいて、そいつは今日子さんの家庭を崩壊に追い込んだ悪党だった。
しかも、香山さんの話によると、徳永一族はヤクザで、他にもいろいろと法に触れるようなことをしていたらしい……。
それを考えると、春子さんが香山さんと結婚して社長夫人となったことにも、何か思惑があったのではないかという疑念が生じてくるのだ。
例えば、最初から香山さんの会社を乗っ取るつもりだったとか……。
もしそうだとすれば、小林さんが春子さんを殺していなければ、今頃は香山さんの会社も何らかの危険にさらされていたかもしれない。
香山さんは、小林さんが春子さんを殺したことで、その悲しみとは裏腹に、助かったとも言えるわけだ。
……待てよ。
ぼくの心に、突然黒い染みが落ちた。
もしぼくの解釈が、まったく逆だったら……?
徳永一族に会社を乗っ取られることを予測した香山さんが、それを防ぐために何らかの手段で元部下の小林さんをだまし、春子さんを殺させたのだとしたら――。
そこまで考えたとき、ぼくの頭にひとつの推理が浮かんだ。
そういえば、田中さん……彼は事件の前、秋に『シュプール』に行った真の目的がまだ謎のままだ。
ひょっとしたら彼は、香山さんに雇われていたのではないだろうか?
つまり、こういうことだ。
「今日子さんは両親を自殺で亡くした」という情報を入手した香山さんは、まず田中さんをひとりで『シュプール』に行かせる。
田中さんは小林さんと親しくなって彼の信頼を得て、上手いこと話題で彼を操って彼から依頼の言葉を出させ、それを受ける。
そして何ヶ月か経った後、今度は香山さんは春子さんを連れて、田中さんはひとりで、それぞれ別々に同じ日に『シュプール』に行く。
田中さんは小林さんに「今日子さんの両親を自殺に追い込んだ詐欺師は徳永一族の誰かだ」という報告をする。
この場合、もちろん実際にその詐欺師が徳永一族の誰かである必要はなく、虚偽の報告をすればいいだけだから、簡単なものだ。
小林さんは逆上し、たまたま来ていた(と彼は思い込んでいる)春子さんを殺す。
さらに田中さんも殺されたが、香山さんはもともと彼を使い捨ての鉄砲玉のように思っていたので気に留めない――。
――ぼくは身震いした。
自分の推理の恐ろしさと、記憶に残る香山さんの温厚な顔が、脳裏で重なったためだ。
……バカなことを考えるな。あの香山さんにそんなことができるはずはない。
それに彼は、そんなちまちました裏工作なんかとは無縁の、強引な押しで物事を進めるタイプじゃないか。
しかし、そう自分に言い聞かせてみても、一度生じた疑念はとても離れていってくれそうになかった。
もしそれが事実だったら――。
どれくらいの的中率かわからないその可能性に縛られ、他のことが考えられなくなってしまった。
香山さんに会って、そのことを問いただしてみたい――ぼくはそんな気持ちに激しく駆られた。
彼は社長だし、「K商事」と会社の名前も覚えているので、探し出すのは容易だろう。
もちろん、不安もある。
本当にこの推理が当たっているのかどうか自信がないし、当たっていたら当たっていたで後が怖い。
最近の中小企業は裏でヤクザと連携しているものもある、と就職活動のどこかで聞いたからだ。
香山さんも、ヤクザ出身の春子さんと結婚していたくらいだし……。
……しかし、放ってもおけない。
ぼくには正義のヒーローを気取るつもりなんかさらさらないが、見過ごしてから香山さんの陰謀が明らかになって後悔するよりも、ぶつかっていって取り越し苦労に終わる方がずっといい。
ぼくは決めた。
香山さんの会社に行って、彼に会ってみよう。
……と張り切ってはみたものの、やはりぼくには、K商事に電話して香山さんに面会の約束をするような勇気はなかった。
この消極性が就職活動の大きな妨げになっているというのは自分でもわかっているが、それはそう簡単に克服できるような問題じゃない。
年が明けてまもなく、ぼくはひとり大阪にやってきた。
今ぼくは、何度着ても慣れないスーツを身に着け、K商事の前に立っている。
面会の予約がない以上、堂々と入るわけにもいかないし、かといって何もしないで帰るわけにももちろんいかない。
ただ、そのあまり大きくはない建物を見上げながら、もし香山さんに会えたら何から聞こうか、そればかりずっと考えていた。
ちょうど昼時なので、社員の出入りが激しい。
誰もが、ずっと建物を見ているぼくをいぶかしげな目で見やりながら過ぎていく。
「何か用ですか?」と聞かれたら返事のしようがないという立場にいるため、ひどく脅えている自分がわかる。
――そうして何十分か経ち、昼休みが終わる時間になった頃のことだった。
「透くん……透くんやないか!?」
あの声、あの関西なまり。
ぼくは、目標の人物を見つけたと喜ぶと同時に、推理による恐ろしさをも感じながら、そっちを振り向いた。
そこに、いた。
紛れもない香山さんが、副社長か秘書かはわからないが若い男を連れ、驚きの表情でぼくを見上げている。
その表情は、すぐあの豪快な笑顔に変わった。
「来てくれたんか! ……いやあ、どないしても君にはもういっぺん会いとう思とったんや! ともかく、中入っとくれや」
そして、いきなりぼくの手をすごい力でぐいっとひっぱる。
「ちょ、ちょっと社長、この人は……?」
隣の男が、怪しい人物でも見るかのような目でぼくを一瞥する。
「ああ、彼は矢嶋透くんや。春子を殺した犯人をひっ捕まえた人やで」
「春子さんを……ああ、わかりました」
その男も、香山さんにそう言われては、ぼくに妙な視線を向けるわけにはいかなくなったようだ。
そういえばぼくは、香山さんにとっては恩人なのだ。
まともに考えれば、彼の言う通り、春子さんを殺した犯人を見つけたということで。
そして、ぼくの密かな推理では、早々と小林さんを捕まえて、香山さんから警察の目を追い払ったことで――。
……結局ぼくは、香山さんにひっぱられるままに社内へ連れ込まれた。
もちろん、それが目的で来たのだから、願ったり叶ったりだ。
ぼくは、小さくて古ぼけた応接室に通された。
そして、向かいに香山さんが座る。
知り合いとはいえ、やはり社長の向かいに堂々と座るのはほんの少し気が引けるものだ。
「久しぶりやな。君には感謝の言葉もあらへんよ」
香山さんは、そう切り出した。
「は、はあ……」
どう答えていいのかわからなかった。
2年経った今でも、彼は人のよさそうな雰囲気を留めていて、とてもぼくが推理したようなことのできそうな人には見えなかった。
しかしそれでも、実はこの雰囲気の裏側に……と考えることを、どうしてもやめられない。
「……ところで、なんで東京に住んどった君がこないなとこにおるんや? こっちに就職したんか?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
そうです、と言ってしまえば都合はよかったのだが、どうもぼくは嘘をつくのが苦手だった。
「ほな就職活動やな。そういや確か君はあのとき大学2年やったから、今は4年のはずや。そやろ?」
「い、いや、あの……」
『シュプール』で香山さんに就職の誘いをかけられたことを思い出し、ぼくは慌てた。就職口がないから彼を頼って来た、などという恰好悪いことは、絶対に思われたくない。
「わかるわかる、その気持ちはようわかるで。不況は相変わらず続いとるしな。……そや! うちで働かんか? 君やったら大歓迎や!」
……しかし、やはり香山さんは香山さんのままだった。
「……あの、ぼくは決して、あなたにすがりつこうとしてここまで来たわけじゃありませんから……」
「ごまかさんでもええんやて。君がそないな恰好でこないなとこまで来る理由なんて、それしかあらへんやないけ」
香山さんは自信たっぷりの笑顔を向けてきた。
……ああ、もっとしっかり推理を組み立ててから来るんだった。
そうすれば、こんな会話に流されないでちゃんと問い詰めることができたのに。
ぼくは、自分の軽率さを今さらながら悔やんだ。
しかし……。
その後悔があまり強いものではないことに、自分でも気付いていた。
きっと、あまりにあちこちの会社に断られたので、この際香山さんのところでもどこでもいいから内定が欲しい、と密かに思っていたのだろう。
こんなチャンス、もう二度とないかもしれない……。
そう考えると、ここで断ってしまうことが、とてつもなくもったいないように思えてきた。
「……ええ、その気持ちもまるっきりないわけじゃ……」
「そう素直に認めたらええんや。ほんでどうなんや? うちに来るんやろ?」
「はい。お願いします」
……ええい、人生なんて勢いだ。
半ばやけではあったが、そんな気持ちの中にもひとつの決意が芽生えていた。
ここで働けば会社の内情もよくわかるだろうし、香山さんの過去だって調べられる。
ゆっくり時間をかけて調査して、そのうち証拠を固めてやるのだ。
あまり出過ぎた真似をして産業スパイとかと間違えられたら困るけど、そのときはそのときだ。
そうしてぼくは、大学を卒業すると、K商事の社員となった。
……時は瞬く間に流れ、ぼくは50歳になった。
勤め始めて28年――あの事件からはもう30年が経っていた。
結局、真理とは二度と会うこともなく、この大阪で新しい恋をして、結婚して――。
香山社長が体を壊して引退したので、今ではぼくが会社を引き継いで動かしていた。
妻は「私が社長夫人なんて何だか変な気持ち」と笑うし、ぼく自身も実感がないのだが、それなりに充実した幸せな毎日を過ごしている。
ただ――。
ぼくがこっちへ来るきっかけとなったあの推理は、物の見事に外れていた。
香山さんは、仕事になると本当にまじめで誠実な人で、やましい過去など何ひとつとしてなかったのだ。
事件のことも、今ではただ、あの頃は若かった――といった感じで思い出すだけだ。
しかし、それでもいい。
過去は過去、ぼくは人とちょっと違った経験と記憶を抱えて、ずっとここで生きていくだけなのだから。
終