啓子ちゃん――ぼくの記憶の中においては、彼女の印象は強くない。
あまりしゃべらなかったのと、田中さんと春子さんの事件のときアリバイが怪しかったものの、それ以外には目立った行動を取らなかったためだろう。

しかし――2年も経った今、なぜか彼女が引っかかる。
……いや、厳密には彼女だけではなく、あのOL3人組全員だ。

眠れなかった彼女たちは、夜中に、美樹本さんが俊夫さんの部屋を調べる音を聞いている。
だが、それなら小林さんが美樹本さんを殺すときの物音や、死体を2階まで運ぶときの足音だって聞こえていていいはずだ。
なぜ彼女たちは、それでもぼくが指摘するまで、小林さんが犯人だと気付かなかったのだろう?

……俊夫さんが犯人で、実は生きていたんだと思った、と可奈子ちゃんは言っていた。
しかし、そんな非現実的な話を、残りのふたりがふたりとも信じたというのもおかしい。
特に亜希ちゃんはわりと現実的なタイプだったし、まず反対を唱えそうなものだが……。

もちろん、そう信じたい気持ちはぼくにだってわかる。
確かフランスかどこかの話だったと思うけど、ホテルを丸ごと借り切ってスタッフの誰かが死体の役をやり、参加者全員でミステリー推理クイズに挑む、というツアーがあるのだ。
もし田中さんも春子さんもスタッフの一員で、俊夫さんと一緒に死体の役をやっていただけだったら。
そして、みんなを散々震え上がらせたあげく、翌朝になって3人ともにっこり笑って起きてきたとしたら――。
悪趣味だ、とみんな怒りはするだろうが、とりあえずは全員無事だったことでほっとするだろう。
実際に殺人が起きたと考えるよりは、そっちを信じていたいに違いない。
ぼくだってそうだった。
が――現実は3つの殺人を覆すどころか、さらにひとつの殺人をも生んでしまったのだ。

……もしかして。

ぼくは、湧き上がる疑惑を必死で抑え込もうとした。
しかし――信じられない、信じたくない心とは裏腹に、どんどんその黒い気持ちは募っていく。

……もしかして彼女たちは、小林さんが犯人だと前々からわかっていたのでは?
わかっていたのに、何らかの理由があって黙っていたのだ。

が、その理由とは?
……わからない。
わからないけど、何かがある。
それを明らかにしない限り、あの事件はまだ未解決ということになるのだ――。

ぼくは、彼女たちのうち誰でもいいから、もう一度会ってみる必要を感じていた。
そのための手段も、ぼくには残されている。
可奈子ちゃんにもらった、あの名刺だ。
2年で住所が変わった可能性は高くないと思うから、彼女に連絡をすればすべてがわかる……かもしれない。

が――ぼくはそれを実行しようとしてためらった。
2年も前にたまたま同じペンションに泊まってちょっと話をした程度でしかない間柄の男がいきなり電話をかけ、しかも「あなたたちはあの事件に関与していたでしょう」なんて言うのは、失礼なことこの上ない。
ぼくの推理が当たっていればまだいいが、もし外れていたら、名誉棄損で訴えられかねない。
確かな証拠がない以上、うかつなことをするべきではないのだ。

ぼくは少し考え、そして決めた。
運命にまかせよう。
これからもずっと、今まで通り生きていく。
そしていつの日か――ぼくが死ぬ日までの間に彼女たちのうちの誰かに会えたら、それを問いただすのだ。

――が、もちろんそんな偶然に期待するなんて甘い話だ。
だからこの決断は、半ば「忘れてしまえ」とあきらめたようなものだった。
そう――その心の奥にはやはり、彼女たちがあんな事件に関与していたはずがない、と信じたい気持ちが働いていたのだろう。

 

 

……しかし、偶然というのはどこに転がっているかわからない。
あのOL3人組の中のひとりと、今日ばったり再会したのだ。
彼女たちをこっそり疑い始めて5年後――事件からは優に7年が経った、ある春の日のことだった。
ぼくは4年間勤めた会社を人員削減のためにクビになってしまい、1週間前から都心の真っただ中にあるこの花屋でバイトをしていたのだが……。
昼休みの時間に、彼女が客としてやってきたのだ。

啓子ちゃん――。
おかっぱだった髪を長くし、近くの会社の制服を着た彼女は、ぼくを見るなりあっと声を上げた。
「透さん……矢嶋透さんじゃない?」
「そうだけど……北野啓子ちゃん?」
「ええ! 覚えててくれたのね!」
彼女はぼくに笑顔を向けてくれてはいたが、そうしながらもあの事件を思い出しているだろうことは、想像に難くなかった。
――そう、そしてぼくも思い出していた。
あの事件の悲しみと、彼女たちへの疑惑を。

「ねえ、いつからここの店員さんなの?」
「1週間前からだよ」
「へえ。あたしここの常連だから、これからもよろしくね」
「常連?」
花屋に常連客が存在するとは知らなかった。てっきり、誰かへのプレゼントで花を買うような、単発の客しか来ないと思っていたのに。
「そうよ。会社の応接室のフラワーアレンジメント、あたしがやってるの」
ああ、なるほど。
「そうなんだ。……そうそう、ところで今日はどういったご用命で?」
店員の態度に戻ってぼくがたずねると、啓子ちゃんは店先にディスプレイされた花をあれこれ眺めまわし、やがて指差した。
「赤と白とピンクのバラをそれぞれ5本ずつに……かすみ草も添えてね」
「はい」
フラワーアレンジメントというより、花束にするためのような組み合わせだ。少女趣味なのは変わっていないらしい。

ぼくは注文の花を全部束ねてピンクのリボンをかけ、彼女に渡した。
「あ……どうせ会社で使っちゃうんだから、こんなに丁寧に包んでくれなくてもよかったのに。資源の無駄だし」
……悪かったな。ぼくは不慣れなんだし、第一そういう言い方ってないじゃないか。
意地になる性格は相変わらずのぼくは、心の中でぶつくさ言いながら、営業スマイルを作っていた。

が、そのとき唐突に思い出した。
そうだ……啓子ちゃんに会えた以上、あのことを確認しなければならない。
会えたら聞いてみる、と5年前に決めたはずだ。
自分自身との間でも、約束は守らなければ。

「啓子ちゃん」
おつりを渡しつつ、ぼくは彼女を呼んだ。
「なあに?」
「……ちょっと、後で個人的に会ってくれるかな。話したいことがあるから」
デートの誘いみたいにならないように気をつけたつもりだったのだが、やはりそんな感じになってしまい、思わず焦る。
「いいわよ。……じゃあ、5時半に会社が終わるから、そのすぐ後くらいに、このお店の隣の喫茶店に行って待ってることにするね」
しかし、彼女の方は別段気にしないような口調で、しかも自分から時間まで指定して承諾してくれた。

この気さくさも演技なのか?
……ぼくは思ったが、事件から7年も経ったのにまだ演技を続ける必要などどこにあるだろう、と考え直してしまった。
彼女に話を聞くこと自体、もう無意味なのかもしれない――。
でも、会えたのだから、約束には逆らわないことにしよう。

「わかった。ありがとう」
ぼくは、訳のわからない自分の気持ちを押し込め、営業スマイルとはまた別の作り笑顔を返した。
「じゃあね」
啓子ちゃんはそんなぼくにそっと頭を下げ、やたらと大きくゴージャスな花束を抱えて、会社の方へと戻っていった。

 

 

5時半になると、ぼくは約束通り、隣の喫茶店に行った。
啓子ちゃんはもうすでに来ていたので、彼女の向かいに座った。
注文を取りに来たウェイトレスに、ふたりともコーヒーとチョコレートケーキを頼み、それでやっと会話を切り出せる雰囲気になった。

「……ぼくと会ったのは、君にとってあまりいいことじゃないんだろうね」
まるで別れた元恋人同士みたいな会話だ。ぼくは、まわりの客や店員たちにそう思われないように、声を小さくして続けた。
「やっぱり、初めて会った場所が場所だから」
「そう考えればそうなのよね。でも、あなたの何が悪いわけでもないし、あたしは気にしないわよ」
啓子ちゃんは笑顔を見せた。
しかしそれも、昼間のぼくと同じような種類のものなのだろう……。

「啓子ちゃん。……7年も前のことで覚えてないかもしれないけど、ひとつ聞きたいんだ」
「7年前……ああ、覚えてるわ。何?」
彼女は少し考えたが、ぼくが事件のことを言っていると理解したのだろう、すぐに顔を上げた。やはり彼女も忘れられずにいたらしい。
……それともぼくの推理通り、彼女は何か事件に関与していたのか?
「……あの日の夜中、君たち3人は、美樹本さんが俊夫さんの部屋を調べる音を聞いていた。それは、眠れなかったからだって言ってたよね」
「そうだけど?」
「それなのにどうして、小林さんの足音や何かは聞こえなかったんだ?」

「……聞こえてたわ」
啓子ちゃんは、そっとつぶやいた。
「あたしたち3人は、美樹本さんの出した物音だけじゃなくて、奥のスタッフルームから誰かが出てきた足音まで聞いたのよ。だから、それは小林さんなんじゃないかって、あのときみんなで思ったわ。……でも、夜中に歩きまわったからには、その人が犯人だって可能性が強くなってくるじゃない。あたしたちには信じられなかったの。あんなに責任感が強くて、いつも率先して行動していた人が犯人だなんて」
なるほど、そういうことだったのか……。
「……可奈子は『俊夫さんが生きていた』とか言い出したけど、そんなこと普通あるわけないでしょ? だから結局、小林さんが犯人なんだろうって結論に行ったんだけど、やっぱりみんな信じられなかったわ。朝になったらお客さんみんなの前で問いただしてみようかと思って、怖いからやめて……。あなたみたいな人がきっと事件を解決してくれる、そう信じることしかできなかった」

……啓子ちゃんの口調には、偽りのかけらもなかった。
彼女たちは確かに小林さんが犯人だと気付いていたけど、それを言わなかったのは、隠してたからじゃなくて、信じたくなかったからなんだ。
冷静に考えてみれば、ごく普通の感情じゃないか。
ぼくは、それすらもわからなかった。
しかも、5年間も彼女たちを疑い続けて――。

「どうしたの?」
苦しそうな表情になっていただろうぼくに、彼女は優しく問いかけてきた。
しかし、素直じゃないぼくは、別の話題に逃げることしかできなかった。
「ううん、何でもないよ。それより……可奈子ちゃんと亜希ちゃんは元気? 同じ会社だったよね?」
が、彼女の表情は、そこで明らかな曇りを見せた。
「……亜希は元気よ。去年結婚して会社は寿退社しちゃったんだけど、幸せに暮らしてるわ。でも、可奈子は……」
そして、口は開かれた。

「……5年前に自殺したの」

ぼくは息を飲んだ。
5年前といえば、ぼくが彼女たちをこっそり疑い始めた頃だ。
あのとき可奈子ちゃんに連絡をしようかと考え、結局やめたわけだが、もしあそこで連絡する道を選んでいれば、そんなことにはならなかったかもしれない――。
自分の責任ではないのに、ぼくは深く悔やんだ。

「どうして……?」
でも、理由は気になる。
「恋人を亡くしてから、もう何をする気力もなくなっちゃったのよ。いつ後を追うかわからない、ってあたしも亜希も心配して、充分気をつけてあげてたつもりだったんだけど……やっぱりやっちゃったの」
恋人を亡くした――。
ぼくの頭の中に何かが浮かびかけたが、それは形にならないまま消えた。

「……透さん。真理さんは?」
啓子ちゃんは、可奈子ちゃんのことを頭から追い払おうとするかのように、唐突にたずねてきた。
「真理は、青木湖のペンションのオーナーになってるよ。小林さんの奥さんの今日子さんと、バイトだったみどりさんと、3人で共同経営なんだ」
「そうなんだ。それで、よく会いに行ったりするの?」
ぼくは首を横に振った。
「いや、行ってない。シーズンになると毎回ハガキを送ってよこすんだけど、どうしても行く気になれないんだ。……やっぱり、ぼくが行くと、みんなあの事件を思い出しちゃうんじゃないかと思って」
「透さんは、今でも真理さんを好きなのね」
今度はうなずいた。すると啓子ちゃんは、はっきり言った。
「行ってあげた方がいいんじゃないかしら」
「どうして?」
「あたし、わかるもの。真理さん、透さんに来てほしくてそうしてハガキを送ってるってことが」
「そうかなあ」
「そうよ」
啓子ちゃんは、そっと微笑んだ。
彼女の言うことが完全に事実かどうかはわからない。でも、女性の気持ちをよく把握できないぼくが考えていたよりは、彼女の意見の方が真理の心に近いと思う。

よし、決めた。
夏シーズンになったら、真理が待つあのペンションに行ってみよう。

「……ありがとう。行ってみることにするよ」
ぼくは、少しでも啓子ちゃんたちを疑ったことを恥じながらそう言った。
すると彼女は、ぼくを元気づけるかのように明るく答えた。
「どういたしまして。しっかりやってね」
今のぼくにとっては、天使の声のようだった。

 

 

 

終 


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