小林さん――あの事件の犯人だ。
彼は逮捕された後、裁判で無罪を主張したりすることもなく素直だったので、もう無期懲役が確定して刑務所にいる。
死刑宣告をされなかったのがせめてもの救いかもしれないが、これであの今日子さんとの約束は、当分叶わないものとなってしまった。
『また私に会えるようになったら、必ず……必ず戻ってきて……!』
その声は、エコーのようにぼくの耳に残っていた。
小林さんは、確かに罪のない人を4人も殺すという許されないことをしたのだが、凶悪犯というわけではないので、もう少し刑が軽くならなかったものだろうか。
……いや、凶悪犯だったら死刑になっていたところを、そうでなかったから無期懲役ですんだということなのか。
しかし、やはりぼくは、今日子さんのために殺人を犯した彼が、その罪のせいでとても長い間彼女と一緒に暮らせなくなった、という事実が皮肉でならなかった。
いつまでも待つと言ってくれた彼女は、今はどこにいるのだろう。
場所を変えてペンションを続けると言っていたが、それは実現したのだろうか。
――ぼくは、小林さんに会いに行ってみることにした。
もちろんぼくは今まで刑務所の面会になんか行ったことはないが、彼の現況が気になるし、もしぼくにできる何かがあればしてあげたい。
彼が服役中の刑務所は知っている。看守の人がぼくをどう見るかはわからないが、友人だと言えば通れるのではないかと思った。
刑務所側は、意外に簡単にぼくを小林さんに会わせてくれた。
映画なんかでおなじみのあの鉄格子を通して見る彼は、ペンションのオーナーだった過去を完全に捨ててしまい、ひどくやつれていた。
彼はぼくの訪れを不思議な表情で迎えたが、話しかけてきたのは向こうが先だった。
「……私に会いに来てくれたのは、君が初めてだ」
ぼくの横にいる看守を気にしてか、少し遠慮したような口調だ。
「ぼくが……初めて?」
今日子さんはどうしたんですか、と聞こうとしてやめた。もし「私は会いたいのに彼女が来てくれない」などという答えが返ってきたらいけない。
「ああ。今日子には、何があっても来るなと伝えてあるから」
しかし小林さんは、自ら今日子さんのことを語った。
「そうなんですか。……でも、どうしてですか?」
「彼女には、私の存在を忘れてもらいたいからだ」
きっぱりとそう言い切った彼の顔を、ぼくはじっと見つめた。
そのセリフは強がりでも恰好つけているのでもなく、本心なのだということがよくわかった。
そして、それは彼なりの責任の取り方なのだとも。
強い人だ――ぼくは心から思った。
「透くん」
「はい」
「君は今、幸せかね?」
突然そんなことを聞かれ、返答に困った。
幸せとは絶対言えない。就職は決まらないし、真理は消えてしまうし。
でも、不幸というわけでもないのだ。真理や今日子さん、そしてこの小林さんが抱えているだろう心の痛みに比べれば――。
「……答えられないだろう。幸せとは難しいものだからな」
ぼくの心を読んだかのように、彼はそうつぶやいた。
「しかし私には、ひとつだけわかっていること、わかっていなければならないことがある。――それは、私が何人もの人の幸せを奪ったという事実だ」
思わずうなずいてしまいそうになり、慌てて首の動きを止める。
「今日子が私を必要としていたかどうかはわからんが、私がここに入ったことで彼女の心に深い傷を負わせてしまったのは間違いない。香山さんからは春子さんを、篠崎くんからは俊夫くんを奪った。そして真理からは君を、君からは真理を……」
「小林さん……知っていたんですか? 真理がぼくの前から消えてしまったことを」
「ああ。彼女も、君に迷惑をかけたくないと言ったらしい」
「そんな! ぼくは迷惑だなんて思いません! できることなら、今すぐにでも彼女のところに飛んでいきたいのに……」
つい叫んでしまい、直後に口を押さえたが、もちろんそんな行為には何の効果もない。
「……そうだろうな。お互いに何も悪くないんだから」
悪いのは自分だけだ、ということを強調するように彼は言った。
確かに彼は殺人を犯した。さらに香山さんとみどりさんには、愛する人を奪われる悲しみを味わわせた。悪くないわけがない。
しかし――どうしても、その事実を否定したくなる。
方法は大いにまずかったが、彼があんなことをしたのは、ほとんどが今日子さんのためだったのだ。
誰かを愛し、一生懸命に守ろうとする心のどこに、悪意の介入する余地があるだろうか。
「小林さん」
ぼくは呼んだ。彼が虚ろな瞳でぼくを見る。
「……真理が今どこにいるか、わかりませんか? 知っていたら是非とも教えていただきたいんですが」
「すまない。私はその手の情報はまったく耳に入れないようにしているんだ。知ったらまた会いたくなるだろうしな……」
……ぼくは自分の発言を悔やんだ。
いくら小林さんが、今日子さんに自分のことを忘れてほしいと思っていても、やはり彼女に会いたいという願望は拭いきれないはずだ。
それなのに、自分だけ真理と会おうなんて。
ぼくでは、何を言っても彼を沈ませるだけだ。ここに来たこと自体、間違いだったのかもしれない――。
「……自分のしたことは、ひどく後悔している」
彼はふと、こんな声が出せたのかと驚くほど小さくつぶやいた。
「今日子には、もう会えないと覚悟しているよ。私は彼女を幸せにしてやれなかったから。今はただ、彼女が平穏に暮らせていることを願うばかりだ……」
「そんな……今日子さんだって、あなたがいなければ平穏なんかじゃないと思います。だから、きっとぼくが今日子さんを……」
またうっかり余計なことを言ってしまい、ぼくは言葉を切った。
しかし彼は、その続きを正確に予測して返してきた。
「いや、それはしないでくれ。私は今日子のそばにいない方がいいんだ」
……今度は、それに答えることをしなかった。答えられなかったのだ。こんなシチュエーションでは、ぼくごときに何が言えたものでもない。
ぼくにできることは、何ひとつない……。
あえて挙げるなら、彼の前から去ることだけだ。
「小林さん。……ぼくは帰ります。もしかしたら、またいつか来るかもしれません」
いつになるかなど、考えていなかった。ただ、もう絶対に来ないというわけではないと伝えるために、そう言った。
……しかし彼は、そこで首をそっと横に振り、2年ぶりに見る微笑みを浮かべた。
「君も、私のことなど忘れたまえ。そして、元気で暮らすんだ」
ぼくは、はいともいいえとも言わず、ただこう答えた。
「小林さんも、お元気で……」
刑務所を出ると、落ちていく夕日がまぶしかった。
昔、どこぞの刑事ドラマでこんな場面があったような気がする。
ぼくはそれをぼんやりと眺めながら、とても無意味な1日を過ごしてしまった自分を強く感じていた。
その気持ちを一生懸命に押し込め、やっと浮かんできたのは、いくつかの疑問だけだった。
いったい、どの歯車が狂ってあんな事件が起きてしまったんだろう。
あまりにも無力なぼくは、このやりきれない気持ちを背負って、これからどう生きていくんだろう……。
――しかし、何を考えても、それらの答えが出てくることはなかった。
終