今日子さん――そうだ。彼女が引っかかるのだ。
俊夫さんが殺された時間にペンションの奥にいたのは、彼女と小林さんのふたりだけだった。
そして、彼女は俊夫さんを殺していないから、彼女にはその時点で小林さんが犯人である可能性が高いことがわかっていたはずだ。
それなのに彼女はその夜、平気で小林さんと同じ部屋で寝ている。
しかも、美樹本さんが部屋をたずねてきたこともわからないほどに、ぐっすりと。
……これは、何を意味しているのだろう?
夫である小林さんを愛し、心の底から信じていたから?
……いや、閉ざされたペンション内で何人もの人が殺され、しかもその犯人がおそらく彼であるとわかっている状態では、いくら愛や信頼があっても不安に勝てるとは到底思えない。
睡眠薬を飲んで寝たのか?
……これも違う。小林さんは春子さんの夕食に風邪薬を混ぜた理由を、「こんなペンションのこと、はっきりした睡眠薬などあるわけもないから」と語った。完全に追い詰められ、犯行の一部始終を告白していたあの場面では、彼が嘘をつく理由も必然性もない。
すると、やはりこういう結論に行く。
――今日子さんは、小林さんが犯人だと知りながらも、彼が自分を殺すことは絶対にないとわかっていて安心できたのだ。
なぜわかっていたのか?
小林さんが春子さんを殺したのは、今日子さんの両親を自殺に追い込んだ徳永一族に対する復讐のためだった。
今日子さんは小林さんの口からそれを聞き、驚いていたようだったが……。
実際は彼が殺人を犯すことも、その動機も、事件の前から知っていたに違いない。
……どうして彼女は、そんな演技をしなければならなかったのだろう?
そして、いつどこで小林さんの殺人計画を知ったのだろう?
ぼくは、今日子さんにもう一度会ってみる必然性を強く感じていた。
しかし、それはもちろん相当難しいことだろう。
何しろ日本の人口は1億2500万人――そんな偶然に期待できるほどぼくは運がいいわけじゃない。
そのとき、不意に思い出した。
……そうだ。今日子さんはペンションを経営しながら小林さんを待つと言っていた。
あれから2年も経っているのだから、あの言葉が本気だったなら、彼女はもうどこかでペンションを始めているのではないだろうか?
確率が高いとは思えなかった。しかし、ぼくは決めた。
彼女のペンションを探してみよう。
翌日、ぼくは近所の大きな本屋で、5センチくらいの厚さがあるペンションガイドを立ち読みしていた。
『シュプール』があった白馬から調べ始め、それから順々に遠いエリアへと移っていく方法を取る。
そして15分後――。
ぼくは青木湖のページで、つい数ヶ月前の秋にオープンしたばかりの『ブルーゼファー』というペンションを見つけ、激しい衝撃の嵐に包まれた。
そこのオーナーは、3人の女性だった。
名前は……。
ひとりは「小林真理」。
ひとりは「篠崎みどり」。
そしてもうひとりは「草薙今日子」――。
真理の居場所がわかったことで少しは嬉しかったが、最後の名前から受けた驚きは、それを完全に打ち消してしまうほど大きかった。
今まで忘れていたが、田中さんの本名は確か「草薙博之」だったはずだ。
そして、今日子さんのこの名字――これはおそらく旧姓だろうが、それが田中さんと同じとは……?
あまりない名字だけに、彼らふたりの間に何らかの関係があったことは間違いなさそうだ。
兄妹なのか従兄妹同士なのか詳しいことはわからないが、たぶん血縁関係だろう。
そういえば田中さんは、免許証を持っていたにも関わらず、いまだに警察に身元を確認されずに「本名不明の通称田中一郎さん」と呼ばれていた。
……少し考えれば、その謎も解けた。
――ぼくは、再び衝撃を受けた。
あの事件の裏に隠れていた、あまりにも恐ろしすぎる真相が見えてきたからだ。
なぜだ、なぜあの人がそんなことをしなければならなかったのか――。
……考えてわかることじゃない。
これはやはり、この『ブルーゼファー』に行ってみるしかあるまい。
放ってはおけないし、それに真理にも会える。
それから3ヶ月近く経った、3月下旬――。
結局フリーター生活となったぼくは、ひとりで車を飛ばして青木湖までやってきた。
ここまで待ったのは、考えをまとめるためだった。
その効果は充分に発揮され、ぼくは自信に満ちていた。
――いや、自信だけではなく、ある種の悲しみにも。
駐車場に入る。
車の数から見て、客はぼくだけだろうと思われた。
スキーシーズンが終わりかけて雪も少なくなっているのと、オープンしたばかりだからだろうが、それならそれで都合がいい。
湖に沿った道を歩き、ペンションの前に来た。
『赤毛のアン』の家の屋根を青くしたような建物は、さすがに建てられたばかりとあって、どこも薄汚れてなどいなかった。
玄関ポーチの階段を上がり、チャイムを鳴らす。
すぐに中で「はーい」と声がしてドアが開けられ、ポニーテールの女性が顔を出した。
みどりさんだ。
「『ブルーゼファー』にようこそ! 矢嶋様でいらっしゃいま……あれ?」
彼女はぼくの顔をまじまじと見つめた。そして、そっとたずねてくる。
「ねえ、ひょっとして……透くんなの? 真理ちゃんと一緒だった、あの透くんなの……?」
ぼくは黙ってうなずいた。――笑顔がどうしても出てこないまま。
「まあ! わざわざ調べて来てくれたのね! 真理ちゃん、ここにいるのよ。あなたに会いたくてしょうがないって、いつも言ってたわ。さ、早く入って」
「……今日子さんは?」
みどりさんが満面の笑顔になったのに油断しそうになったが、こらえてぼくは聞いた。
「今日子さん? 奥にいるわ。それより、早く上がって上がって」
そう急かされては、客として来た以上、断るわけにもいかない。
ぼくは、頭を下げながら、ペンション内に足を踏み入れた。
「透! 透なのね!」
髪をショートカットにし、エプロン姿も似合う真理は、ぼくを見るなり寄ってきて、その大きな瞳を輝かせた。
会いたかったよ、真理――そう言って彼女を抱きしめられたら、どんなにいいことだろう。
しかし、ぼくが今日ここに来たのは、残念ながら彼女に会うためではないのだ。
だからといって無愛想に振る舞う必要はないのだが、それでも笑顔は出てきてくれなかった。
「……透? どうしたのよ、そんな顔して」
「悪いけど、今回はレジャーじゃないんだ。……今日子さんを呼んでくれないか」
「叔母さんを?」
今日子さんの名字が「草薙」に戻り、自分との関係がなくなっても、まだ彼女を「叔母さん」と呼ぶ真理――。
それにはどんな気持ちがこもっているのだろう。
「ああ。ちょっと用事があるんでね」
「……わかったわ。ちょっとそこで待ってて」
昔の真理ならこういうとき「どうしてよ」としつこく理由にこだわり、それを細かく話さない限り今日子さんを出してはくれなかっただろうが、客商売に従事するようになって、少し性格も柔らかくなったようだ。
真理は奥のスタッフルームに向かい、やがて、そこから連れ出したらしい今日子さんと一緒に戻ってきた。
やはり少し老けたのは否めないが、それでも後ろで縛った髪型やエプロン姿などは変わっていなくて、あの頃を充分に思わせた。
……その顔に不敵な笑みが見えるのは、ぼくの気のせいだろうか。
「まあ、来てくれたのね。お久しぶり。私に話があるんですって?」
「ええ。……ゆっくり話したいので、時間をくださいませんか?」
ぼくが言うと、彼女の方もやはり心当たりを感じたのだろう、ほんの少し不安そうな顔になった。
しかし、そこはさすがにぼくをこんなところまでひっぱり出した張本人、すぐに表情を戻して答えた。
「いいわよ。じゃあ……まだちょっと寒いけど、外のテラスに出ましょう。飲み物は何がいいかしら?」
「いえ、結構です。真理とみどりさんにも一緒にいてもらいたいので」
ぼくは、決めていたことを言った。
何の罪もない彼女たちふたりを巻き込むかどうかでずいぶん悩んだのだが、いずれはわかってしまうのだから、と思って聞かせることにしたのだ。
それに、考え方によっては、彼女たちもまた被害者なのだから。
「わかったわ。じゃ、出ましょ」
みどりさんが、不思議そうな顔をしながらフロントの横のガラスの引き戸を開けた。この外らしい。
3人が出るのを確認してから、ぼくも出た。
ぼくたち4人は、テラスにある白い唐草の透かし彫りの丸テーブルを囲んで座った。
ぼくの向かいに今日子さん、右に真理、左にみどりさん。
「……ぼくには信じられませんでした。あなたに、あんな恐ろしいことができるなんて」
ぼくは今日子さんを見つめ、そう切り出した。
思った通り、話を聞いた3人が3人とも、不可解な表情でこっちを見る。
「どういうことかしら」
今日子さんがたずね返すが、その口調が白々しいことに、ぼくはすでに気付いていた。
「心からあなたを愛してくれた小林さん――彼の愛情を利用して、自らの手を汚さずに殺人を犯すことですよ」
……奇妙な静寂が訪れた。
いつ去っていくかと思ったが、一向にその気配がないので、ぼくはさらに続けた。
「今日子さん。……『草薙博之』という人を知っていますね?」
「ええ、私の兄さんよ。今はもういないけど……」
今日子さんが答え、真理とみどりさんもうなずく。どうやら彼女たちふたりも、名前くらいは知っているらしい。
「では、その草薙博之さんが、今から2年前、『田中一郎』と名乗って『シュプール』にやってきたことも、ご存じのはずですね?」
「何ですって!?」
大声を上げたのは、みどりさんだった。他のふたりは、呆然とした表情を見せているだけだ。
「……今日子さん。あなたは、ぼくと小林さんと美樹本さんの4人で、あの田中さん――いいえ、博之さんと呼ばせてもらうことにして、彼の部屋を調べたときに、彼の身元がわかるような物をみんな隠したつもりだったんでしょうが、ぼくはその前に彼の免許証を見ていたんですよ。たまたまそれを他のみなさんに報告するのを忘れていたことが、2年も経ってからこんな形で役に立つなんて、思ってもみませんでした」
そうだった。「田中さん」が2年経った今も身元不明のままなのは、あのときこの今日子さんが免許証などを隠したからに違いなかった。
ぼくと小林さんと美樹本さんが、「田中さん」……つまり博之さんの死体を見て、殺され方についてあれこれ話していたとき、彼女はクローゼットのカーテンを開けて彼の荷物を見ていた。おそらく、ぼくたち3人が話に夢中になっているスキを突いて隠したのだろう。
あのタイミングなら、例え物色しているのを見つかっても、「調べていた」とでも言えばごまかせる。最大のチャンスだったはずだ。
「……あなたと博之さんの兄妹は、ご両親を自殺に追い込んだ詐欺師を、殺してやりたいほど憎んでいた。でも、自分たちの手を汚すのはいやだった。そこであなたたち兄妹は、小林さんを陥れて代わりに復讐をさせる作戦に出た」
自分の方が恐ろしくなってしまうような推理を、ぼくは語り始めた。
「あなたはあらかじめ、小林さんに『両親を自殺に追い込んだ詐欺師が憎いけど、その相手がわからない』という話をしておく。実際には問題の詐欺師が徳永一族の誰かであることはとうの昔にわかっていたんでしょうが、自分たちが疑われないようにするための手段としては重要なことですからね。そして、博之さんは秋に『自然散策が好きな男・田中一郎』として『シュプール』に行き、気さくなキャラクターで小林さんと親しくなり、さらに自分が探偵であることを彼に話す。小林さんは彼に調査を依頼する。……あなたたちは、徳永一族壊滅のために、まずは一族の中でたまたま小林さんの知り合いで『シュプール』にもよく来る春子さんを殺してもらおうと企んだ。彼女が香山さんと一緒に『シュプール』に来る日が決まり、予約が入ると、あなたはそれを博之さんに伝える。彼は香山夫妻と同じ日に再び『シュプール』をたずね、調査報告書を小林さんに渡す。小林さんは逆上し、あなたのために……あなただけのために、春子さんを殺す。……そうでしょう?」
誰も答えない。
「……でも、ぼくにはわからないことがただひとつだけあります。それは、なぜ陥れる相手に、あなたをあんなに愛してくれた小林さんを選んだのか、です。他の人ならいいという問題ではないですし、一番利用しやすいというのは理解できますが、あまりにもひどい話じゃないですか」
ぼくが話し終えても、まだ長い沈黙は続いていた。
――が、今度は何を言って促そうか、と考え出した矢先、今日子さんはついに口を開いた……。
「……あなたはやっぱり頭がいいわね。その推理は半分くらい当たってるわ。私は確かに、兄さんと協力して、あの人を……二郎さんを陥れた。もちろん殺人を犯させるために」
両側の真理とみどりさんが、ハッと声を出して震え始めた。あまりの恐ろしさのためか、口を押さえている。
「でもそれは、春子さんを殺させるためじゃなかったの。あの人を殺人犯にするのが一番の目的だったわ」
「どうして……どうしてそんなことを!」
真理が声を上げた。小林さんと血のつながりがある彼女にとって、その告白はやりきれないものだったに違いない。
しかし今日子さんは、恐ろしい内容とは裏腹に、悲しい顔をしつつ話し出した。
「……真理ちゃん。あの人がどうしてあの若さでペンションなんかを持てたのか、知っているでしょう?」
「う、うん……あたしのお祖父さんから遺産を受け継いで……」
「そのお祖父さんがそれだけのお金を手に入れるのに、どれだけの人が犠牲になったのか、わかっているの!?」
今日子さんの悲しみの叫びが上がる。
――それでぼくは、だいたいの想像がついた。
「じゃあ今日子さん、あなたのご両親を自殺に追い込んだのは……」
「そうよ。……徳永一族じゃなくて、小林一族。あの人の父親――私の義父に当たる人よ。両親が自殺して、兄さんとふたりで残ったときからわかっていたわ。そして、そのときから許せなかった」
「すると、小林さんと結婚したのも、復讐の機会をうかがうため……?」
「決まってるじゃない。私も兄さんも両親と一緒に死んだのよ。その後の人生なんて、犠牲にしても関係なかったもの。あの男のふたりの息子のうち、独身だった方の二郎さんにすぐ近づいていったの。今から22年前、18歳のときだった……。両親が自殺して――いいえ、あの男に殺されてまもなくよ。いつか利用することを考えて、兄さんの存在はずっと伏せておいたわ。でも……あの男は、私たちが何もしないうちに病気で死んでしまった。私と兄さんの復讐の矛先は、二郎さんに向くしかなかった……」
……怖い話だったが、今日子さんを「悪女」と呼ぶことはためらわれた。
そんな若いうちから復讐だけに身を焦がし、イバラの道を歩くことを強いられた彼女には、せめて似たようなニュアンスでもっと語感のいい、別の称号をあげたかった。
でも、適切な単語が浮かばない。
「二郎さんは、私にとても優しかった。両親を亡くしたことはすぐ話したから、『私が君の家族になろう』とまで言ってくれたわ。これがプロポーズの言葉になったのよ」
今日子さんはそこで、ぼくの頭上のあたりを遠く見やった。
「でも……二郎さんは、私たちの両親を自殺に追いやったのが自分の父親だっていうことに、とうとういつまでも気付いてくれなかったの。気付いてくれれば、そして私にそれを謝ってくれれば……私は兄さんの存在を彼に話して、そこで復讐なんかどうでもよくなれたわ。だから、いつか気付いてくれるんじゃないかと信じて、気付いてほしくて祈って――そして、20年も経ってしまった」
20年――彼女が苦しみつつ生き抜いた、長い長い年月。
「……20年が限度だって、前々から兄さんと話をしていたの。だから、20年経った年――2年前のあの日、私たちは計画を実行したわ。そうするしかなかったのよ!!」
今日子さんは、今までで一番大きな叫びを上げた。
わかるわけないのに、彼女の気持ちがわかるような気がしてしまい、自分の軽率さを恥じる。
「……兄さんは、復讐と一緒に消えたわ。まさか二郎さんが殺すなんて思ってもみなかった。私はショックで倒れた。覚えているでしょう?」
そういえばそうだ。春子さんの死体が発見されたときはそれほどでもなかったのに、その後の博之さんのときは、彼女はその場に卒倒して小林さんに抱き起こされていたっけ――。
「でも私は、その後で別のショックに気付いたの。それは――兄さんが殺されたというのに、悲しみも、二郎さんに対する怒りも、ほとんどなかったこと……。両親を自殺に追いやられたときは、こんな20年がかりの復讐を計画するほどだったのに、どうして兄さんのときはこんななんだろうって考えた。考えて、その答えもわかったけど……私は、それを受け入れていいのかどうか、わからない」
……ぼくにも、その答えがわかったような気がした。
彼女は小林さんの妻として暮らしていくうちに、彼の優しさに触れ、いつしか彼を愛するようになっていた。
しかし彼女は、彼に傾いていく自分を認めたくないのだ。
彼女にとって彼は、最も憎い人物の息子だし、復讐のために形式的に夫にしただけの男のはずだったのだから、それも無理のないことだろう。
今の彼女が「草薙」という旧姓を名乗っているのも、そんなジレンマに押されてのことだと思う。
でも――現実は拒めない。
彼女は確かに小林さんを愛している。ぼくはその激しさを強く感じる。
「今日子さん」
ぼくは彼女の名を呼んだ。彼女が視線を下に動かし、ぼくの顔で止める。
「……その答えを、受け入れてあげてください。そうでないと、あなた自身が気の毒でなりません……」
自分が他人の人生に介入していいのかどうかわからない。また、介入したことになるのかどうかもわからない。
でも、そう言うことしかできなかった。
今日子さんはそっとうなずき、そして決意を述べてくれた。
「……私、警察に行って、自分のしたことをみんな話すわ。そうすれば、二郎さんの刑が、今からでも少し軽くなるかもしれないもの」
「そうですよ」
ぼくは、ここに来てから初めての笑顔を見せた。
自首することで、小林さんの刑が少しでも軽くなれば――彼女が選んだその道は、たくさんの重荷をふたりで分け合って背負うという、完全な協力の形となっていた。
小林さんと今日子さんは、立派な夫婦なのだ。
今までも、これからも。
ふと思い出して両側を見ると、真理もみどりさんも、微かに涙を流しながらぼくの方を向いていた。
そして、ぼくが気付くのを待っていたかのように、みどりさんが今日子さんを振り返り、口を開いた。
「……あたしが車を運転するわ。それでいいでしょ?」
「ええ。あなたたちの職場を壊しちゃって申し訳ないけど……」
今日子さんが心配そうに言うと、みどりさんは途端にふっと悲しそうに微笑み、いいのよ、と小さく口にした。
続いて、真理も笑顔を見せる。
「じゃあ、車を出してくるわね」
みどりさんは椅子を立ち上がり、駐車場の方へゆっくりと歩いていった。
彼女に続いて真理が立ったので、ぼくもそうした。
そして最後に、今日子さんがそっと立ち上がる。
「22年は、長かったわ……」
誰に向けてか、そうつぶやきながら。
ペンションの表、玄関ポーチの前には、もうすでに車が出されていた。
送迎用と思われる少し小さめのワゴン車で、全体が水色に塗られ、『Blue
Zephyr』のロゴも入っている。
運転席には、しっかりシートベルトを着用したみどりさんが座っていた。
今日子さんがその助手席に乗り込む。そして、同じようにシートベルトをしっかりと締めた。
逃げ出すようなことは絶対にないだろう、とぼくは確信した。
「……じゃあ、真理ちゃん。電話とかあるかもしれないから、後はよろしくね」
「わかったわ。行ってらっしゃい!」
窓の向こうに揺れているポニーテールに向かって、真理は明るい大きな声を上げた。
車は出ていった。
その姿が完全に見えなくなるまで、ぼくたちはふたりとも玄関の前から動かなかった。
ぼくと真理は、ペンション内のプレイルームでみどりさんの帰りを待っていた。
やっと積もる話のできる時間になったが、ぼくたちは互いに何も口にしなかった。
話すなら、みどりさんが戻ってきて落ち着いてからにしたかったのだ。
おそらく、真理の方も似たような考えだったのだろう。
……5分ほど経って、フロントに置かれた電話が鳴った。
真理が立ち、取りに行く。
「はい、『ブルーゼファー』です。はい……ええっ!?」
真理は奇妙な声を上げると、いきなり受話器をその場に落とし、放心状態となった。
ぼくは、何が起きたのか把握できないままフロントまで飛んでいき、落ちた受話器を慌てて拾い上げて耳に当てた。
「もしもし! 代わりました! 何があったんです!?」
――すると、受話器の向こうの男性は、途切れ途切れに繰り返した。
「いえ……だから、おたくの車が、崖から湖に落ちるのを見たんですが……」
ぼくは、目の前が真っ暗になった。
「崖!? 事故なんですか!?」
「いや、事故というよりは自分でガードレールを突っ切ったように見えましたが……」
「自分で!?」
ぼくが叫ぶと、真理がそれに反応して腕をひっぱってきた。
「みどりさんが……!」
ぼくは彼女に答えるべく、受話器をたたきつけるように置いて振り返った。
「だって……だってみどりさんたちは、警察に向かったはずじゃ……」
「一番近い警察まで、車で10分はかかるのよ。だから、帰りじゃないはず……」
話がかみ合っていない。が、互いの言わんとすることはわかった。
――そうだった。
みどりさんは一度も「警察に行ってくる」とは言わなかった。
それに、出ていく前も「電話とかあるかもしれないから、後はよろしくね」とだけ残して――。
「そんな……どうして、そんなことをしなきゃいけなかったんだ?」
「俊夫さんよ……」
真理は、やりきれない瞳でつぶやいた。
「きっと、彼が犠牲になったのを、ずっと許せないでいたんだわ……」
ぼくは今になってようやく、みどりさんの2年前の言葉を思い出していた。
『あたしは絶対に犯人を許さない。例えどんな事情があったとしてもね』――。
「みどりさん……」
ぼくの口は、ただ名前をつぶやくことしかできなかった。
その他にぼくにできたのは、届かないメッセージを心に響かせることだけだった。
……あなたは、本当にそれでよかったんですか?
そうすることを、俊夫さんが望んだとでもいうんですか?
答えてください、みどりさん……。
――耳の奥を、パトカーのサイレンが突いた。
幼い頃、あの音を誰かの泣き声と間違えたことを思い出した。
でも、ぼくは泣けなかった。
ただ、例えようのない空虚な気持ちが、ぼくの胸の中身をすべて奪ってしまっているのを感じるだけだった……。
完