真理――ぼくが大好きだった人。いや、まだ過去形で語りたくはない。
しかし……今のぼくが彼女に対して持っているのは、疑問ばかりだった。
ぼくがあの事件に関与するきっかけとなったのは、もちろん彼女がぼくをスキーに誘ってくれたことだった。
が、彼女はどうして、それほど親しいわけでもなかったぼくをわざわざ誘ったのだろう?
ぼくのことを好きだったから――そんな希望的観測をしたいのはやまやまだが、それはありえない。
もしぼくのことが好きだったのなら、事件後、あんなにすぐにぼくの前から消えたりしないはずだ。
彼女は本当にあっさりとぼくの前から姿を消し、それ以来連絡のひとつもくれない。
すると……最も可能性が高いのは、やはりこういうことになってしまう。
真理は、あの事件に一枚かんでいたのだ。
ぼくを連れていったのは、いざ自分が事件との関与を疑われたときアリバイ証明の手段に利用するか、あるいはぼくに罪をなすりつけるかどうかするためだったのだろう。
小林さんが「真理の協力があった」などと一言も言わなかったところから推測して、彼自身も彼女の企みを知らなかったのだと思われる。
そう……真理は何か意図があって、小林さんをそそのかして殺人を犯させたに違いない。
――ぼくの頭を、絶望と混乱が駆けめぐった。
なぜだ。なぜ真理がそんなことをしなければならなかったのか――。
ぼくは、真理に会ってその真偽を確かめなければと思った。
が、彼女を探し出すのは容易なことではないだろう。
日本は狭いくせに人口密度だけは高いし、そんなことを計画したくらいの彼女なら、今頃は海外に逃亡しているという可能性もあり得る。
忘れてしまえ――。
結局ぼくはそんな結論を出したが、それは「いつの日か真理を探し出してやる」という意思の上に成り立ったもので、その「いつの日か」までのつなぎでしかないのだと、自分でもわかっていた。
しかし、その「いつの日か」は、意外に早くやってきた。
それから半年後、ぼくの家のポストに1枚のハガキが届いたのだ。
それは、青木湖の『ブルーゼファー』というペンションのもので、真理からのメッセージが書かれていた。
懐かしい、ふたりの名前とともに。
『お元気ですか?
私は今ここで、今日子叔母さんとみどりさんと3人で、ペンションを経営しています。
よければ遊びに来てね。 真理』
ぼくは自分の目を疑った。なぜ今になってこんな物を……?
不思議に思いつつもぼくは、もう一度文面を見た。
今日子さんとみどりさんも一緒らしい。そういえば今日子さんは、ペンションを経営しながら小林さんとの再会の日を待つと言ってたっけ。
……まさか。
ひょっとしてあの事件は、真理と今日子さん、そしてみどりさんの3人の陰謀だったのではないだろうか?
彼女たちは協力して小林さんを陥れて事件を起こさせ、彼の不動産を処分して3人で暮らしているのでは……?
そんなことは信じられないし、信じたくない。
しかし……そう考えないと、真理がぼくをスキーに誘ってくれた理由の答えが出ない。
信じるしかなかった。
ぼくはそのハガキを、しばらく虚ろな瞳で眺めていた。
心がひとりぼっちになっていくのを強く感じながら――。
6月下旬。
夏シーズンにはまだ早く、梅雨も明けていない。
そのため、湿った空気の青木湖はひどく寂しく、ぼくの心を見事に浮き彫りにしていた。
湖畔に建つ『ブルーゼファー』は、白い壁にブルーの屋根が特徴的な、真新しい建物だった。
男がひとりで来るような雰囲気ではなかったが、もともとペンションとは全般的にそういった場所ではない。
それよりもぼくは、「この建物は小林さんから奪い取った財産でできているのだ」ということばかりを考えてしまい、どうもいい気分になれなかった。
駐車場に車を入れ、玄関ポーチの階段を上ってドアを開ける。
すると、懐かしい3人が、温かい笑顔で迎えに出てきた。
「うわあ、久しぶり! 元気にしてた?」
と真理。髪をショートカットにしているので、あの頃の印象はもう薄くなっている。
いや……印象が変わったのは、ぼくの気持ちのせいなのかもしれない。
「あ、ああ……久しぶり。招待してくれてありがとう」
「あら、招待なんかしてないわよ。ちゃんとお金はいただきますからね」
いたずらっぽく答える真理に、両側の今日子さんとみどりさんが笑いかける。
そんな3人を見ていると、とても彼女たちが小林さんを陥れたなどとは思えない。
しかし――自分の推理が外れたなどと認めたくない気持ちも多少あるだろうが、やはり彼女たちの陰謀があったと考えないことには、謎は解けないのだ。
「まあまあ。とにかく上がってちょうだい。今日のお客さんはあなたひとりだから、遠慮なく振る舞ってくれて結構よ」
「それはどうも……」
ぼくは頭を下げ、3人の誰の顔も見ないようにして、ペンション内に足を踏み入れた。
部屋は立派だった。
ツインのベッド、テレビ、電話、冷暖房、そしてバストイレつきだ。
壁は白、床は水色で、材質はどちらもよくわからない。
どこからどこまで木でできていた『シュプール』より都会的な感じはするが、ぬくもりには欠けると思った。
荷物をクローゼットの中に置き、着ていたウィンドブレーカーを脱ごうとして、ふと窓の外に目が行った。
誰もいない湖畔――重要なことを問いただすには申し分のないシチュエーションだ。
気は重いが、それが目的で来たのだから仕方がない。
ぼくは着替えず、そのまま部屋を出た。
1階に下りると、ひとまず玄関脇のプレイルームに行った。『シュプール』で言えば談話室のような場所だ。
ここで待っていれば、きっと従業員の誰かが来てくれるだろう。
そしてその思惑通り、3分ほどすると、相変わらずポニーテールに緑色のエプロン姿のみどりさんがやってきた。
「あら、下りてきてたの。何か飲む? コーヒーか紅茶か……ビールはまだ時間が早いわね」
みどりさんというと、どうも俊夫さんを失ったときのあのリアクションを思い出してしまう。あれだけはどうしても演技だとは思えない。
それを考えると、彼女だけは妙な計画に荷担してないのかもと思ってしまうが、知らないうちに他のふたりに乗せられていた可能性もなくはない。
どちらにせよ、つつくのは彼女ではなく、真理か今日子さんにした方がいいだろう。
「じゃあ……紅茶をください」
「はーい」
「……それから、後でぼくのところに来るように、真理に言っておいてくれますか?」
ぼくは真理を選んだ。今日子さんより彼女の方がつきあいが深かった、という理由で。
もしかしたら、彼女と話をしたい気持ちに耐えきれなくて――。
「わかったわ。それじゃ、紅茶は真理ちゃんに持ってきてもらうようにするね」
何ひとつ疑うことなく、みどりさんはそう残して戻っていった。
真理が紅茶を持ってやってきたのは、プレイルームの壁にかかったかわいいからくり時計が4時を示す頃だった。
「お待たせ。はい、どうぞ」
「……どうも」
やたらと丁寧に紅茶をテーブルに置く真理を見ていると、決意も鈍りそうになる。
だからぼくは視線を彼女からそらし、さっさとシュガーポットから角砂糖を取り出してカップに入れた。
「ねえ、あたしに何か用があるんでしょ? 何?」
弾むような声につられてつい彼女を見上げると、満面の笑顔が待っていた。……これも演技だというのか?
「……ちょっと、後で湖畔まで一緒に来てくれないか」
「え? いいけど……。じゃあ、着替えてくるからちょっと待ってて」
彼女は不思議そうな声を上げたが、特に理由にこだわることなくぼくをひとり残し、プレイルームを出ていった。
……ぼくは、彼女の背中を目で追いながら、カップの中身を空にした。味なんか全然わからなかった。
湖畔で真理にどう話を切り出そうか、そればかり考えていたのだ。
しばらくすると、エプロンを外した真理が、みどりさんと一緒に戻ってきた。
「さ、行きましょ」
「……ああ」
ぼくはソファーから立ち上がった。
「行ってらっしゃい!」
デートに誘ったのだとでも思ったのか、みどりさんは、持ってきたお盆にシュガーポットと空のカップを乗せながら、冷やかすように明るい声を出した。
……そんな彼女を見ていると、本当に悲しくなった。
大好きな人を疑っている自分と、それを知らずに笑顔を見せる彼女との、心のギャップのために――。
ぼくたち3人はプレイルームを出た。
そして、ぼくと真理だけが玄関に下りて靴をはき、今にも雨が降り出しそうな外に、一歩を踏み出した。
「ねえ……透。何か変よ。何があったっていうの?」
1分ほど歩いて湖畔に着くと、真理の方からそう話しかけてきた。
ぼくは彼女の方を向かず、暗い湖面を見つめながら重い口を開いた。
「……ぼくには信じられなかったよ。君たちにあんな恐ろしいことができるなんて」
「えっ? ……どういうこと?」
ぼくの話を聞いた彼女の第一声は、バレてしまったという感じではなく、本当に何が何だかわからないといったタイプのものだった。
が、そんな態度に流されるわけにはいかない。
「小林さんをそそのかして殺人犯に仕立て、彼の持っていた財産をみんな自分たちの物にする……そういうことさ」
「ちょっと……何バカなこと言ってるのよ! あたしたちが叔父さんをそそのかしたですって? そんなことあるわけないじゃないの!」
真理はぼくのウィンドブレーカーの肩のあたりをつかみ、激しく揺すりつつ叫んだ。演技にしてもおかしな感じだ。
もしかして、ぼくの解釈は間違っていたのでは……?
そんな一抹の不安が胸をよぎったが、ぼくはそれをかなぐり捨ててさらに続けた。
「……どんな事情があったのかも、どうやって小林さんを陥れたのかもわからないけど、彼が殺人を犯して捕まれば、彼の個人財産は今日子さんの物だ。君と今日子さん、あるいはみどりさんも仲間かもしれないけど、とにかく君たちはそうして、自分たちの手を汚さずに小林さんの財産を手に入れたんだ。違うとは言わせないぞ。このぼくが計画に気付いた以上は……」
「ひどい!!」
――しかし、彼女が発したその叫びは、もともと土台が不安定だったぼくの自信をいとも簡単に崩壊させた。
「いったい、どこからそんな話が出てきたっていうのよ!」
が、意地になる性格は変わらないぼくは、後悔ではなく、とことん追い詰めてやろうという気持ちがそこで生じてしまった。
具体的な証拠はないものの、話す内容には不自由していなかったことが、それに追い打ちをかけた。
「まずは君がぼくをスキーに誘ったことだ。君とぼくは恋人同士でも何でもなかったのに、どうしてそんなことをしたんだ? それは、ぼくがいれば自分たちは無関係なようにカムフラージュできるからじゃないのか?」
ぼくは真理に背を向け、湖を見つめつつ言った。
「違うわよ! あたしは……あたしは……」
「あたしは何なんだ? 答えられないじゃないか! それに話はまだ終わってない。第二の疑問点は、君がここで働いてることだ。今日子さんはあの事件の犯人の奥さんなんだから、世間体を気にしてぼくの前から消えたような君が、理由もなく彼女と一緒に働くなんて思えない。その理由はと考えると……君と今日子さんがグルだったってことくらいしか残らない」
ためらいなど、もうどこにもなかった。
今のぼくは、真理を愛しているひとりの男ではなく、犯罪者を追い詰める探偵か刑事だった。
少なくとも、そっちの気持ちの方が強い。
しかし――。
肩の後ろあたりからすすり泣きが聞こえたのに反応して振り返ると、そこでは、大きな瞳に涙を一杯ためた真理がぼくを見上げていた。
それをぼくが認めたのと、彼女が大声を上げたのは、ほとんど同時だった。
「違う! あなたはあたしの知ってる透じゃない! せっかく来てくれたと思ったのに、そんな人に変わっちゃってたなんて……!」
涙とともに吐き出される彼女の叫びを聞いて、ぼくはほんのわずかの後悔を感じ、そして自分の推理の大きな穴に気付いた。
せっかく来てくれたと思ったのに――彼女はそう言った。
ぼくがここに来るきっかけとなったのは、彼女がペンションの案内のハガキを送ってきてくれたことだが、彼女はどうしてそんなことをしたのだろう?
計画が成功し、小林さんの財産を手に入れることができた時点で、ぼくはもう用済みのはずだ。
それどころか、ぼくがこうして陰謀に気付くことを多少なりとも警戒するだろうから、ぼくにペンションの場所なんか教えても、彼女たちに有利なことなど何ひとつない。
するとやはり、そんな陰謀は存在しなかったということになってしまうのだろうか?
……いや、そうすると真理がぼくをスキーに誘った理由がわからなくなる。
それを彼女が答えてくれない以上、ぼくの推理は間違っていないはずだ――。
「最低!」
そんな声が耳に届き、ようやくぼくは我に返った。
――真理は、涙の奥から暗い波動をぼくに向けていた。
その正体は、嫌悪感よりは悲しみに見えたが、それは自分にばかり都合のいい解釈というものだろう。
彼女は突然顔を両手で押さえ、ぼくにくるりと背中を向けて、ペンションの方へと駆け出した。
体は彼女を追うように動こうとしたが、心がそれを引き留めてしまう。
追ってはいけない。ぼくは正しいのだ。あれだって演技のひとつに違いない――ぼくはそう思っていた。
……いや、無理に思い込もうとしていたのだ。
真理の無実を信じたい気持ちより、推理が外れてたまるかという意地の方が強かった自分に気付き、ぼくはどうしようもなく悲しくなった。
変わってしまったのは、彼女ではなく、ぼくの方だ――。
真理が消えてまもなく、雨が降り出した。
こんな気分にこんな天気。できすぎたシチュエーションだ。
ぼくは傘を持っていなかったが、ペンションに戻るのはためらわれた。
今あそこで行われているだろうことを想像すると、戻るのが怖かった。
想像はふたつあった。
ひとつは、陰謀計画者である真理と今日子さん、もしかしたらみどりさんが、どうやって逃げようか、あるいはどうやってぼくの口を封じようか、と相談しているパターン。
もうひとつは、ぼくの言葉にひどく傷ついた無実の真理が、泣きながら今日子さんやみどりさんにすがりついているパターン。
……どちらの可能性が高いのかはわからない。どちらなら自分で納得がいくのかもわからない。
ただ、どちらであっても、ぼくは悲しみに暮れるばかりだろう……。
――次々と湖に落ちる雨粒を見つめつつそんなことを考え、濡れていくまま10分ほど経ったとき、ふと後ろに人の気配を感じた。
振り返ると、そこにはみどりさんが立っていた。
ライトグリーンの傘を差し、もう1本、閉じられた青い傘を持っている。
「そんなとこで雨ざらしになってたら風邪ひくわよ。はい」
彼女はぼくに、その青い傘を差し出した。
あの明るさがないところから、ぼくと真理の間にトラブルがあったことは知っているのだろうが、それを責めるような態度を取ることはなかった。
みどりさん――。
今のところ『ブルーゼファー』の3人の中では、一番信頼が置けそうな人だ。
彼女がここにいることには、身寄りがなくてもともと『シュプール』に住み込んでいたから、という正当な理由があるわけだし、俊夫さんのことも大きい。
「……どうもすみません」
ぼくは傘を受け取ると、差した。
「透くん。……あたしが事情を話すわ」
真理の口から聞けなかったことを、みどりさんは話してくれるらしい。
ぼくはそっとうなずき、少しかげりのある彼女の顔を見下ろした。
「……真理ちゃんはね、あなたのことが好きなのよ。だからあの頃、スキーに誘ったの」
「そんな! そんなはずは……」
ぼくは慌てた。予想外の答えが返ってきたせいか、自分の解釈の誤りを認めたくないせいか、それとも実は喜んでいるのか……わからない。
「信じてくれないの?」
「いや、そういうわけじゃないですが……だって、真理はあの事件の後、あっさりぼくの前からいなくなっちゃったし……」
「……それは、彼女の家族の強制だったそうよ。彼女自身は、どうしてもあなたと離れたくないって嫌がったのに」
「でも……じゃあどうして真理は、ここで働いてるんですか?」
「このペンションができたのは去年の秋なんだけど、彼女はそれを知るやいなや、あなたに会わせてもらえないならこんなうちにいたくない、って家を飛び出して、ここへ逃げてきたのよ。それで、そろそろお仕事にも慣れたってことで、今月になってハガキを出したの。あなたから予約の電話があったことを伝えたら、飛び上がって喜んでたわ」
――ぼくは、目の前が闇に沈むのをはっきりと感じた。
何ということだ。真理はぼくを利用しようとしたのではなかった。ぼくが強く望んでいた気持ちを胸に、楽しいスキー旅行に誘ってくれただけだった。
それなのに……それなのに、ぼくは……!
「真理ちゃんも今日子さんも、あなたが考えてるような人じゃないわ。今日子さんは確かに、犯人だった彼が警察に捕まったことでこのペンションを建てられたわけだから、疑われてもしょうがないのかもしれないけど、彼女は彼から財産を奪い取ったんじゃなくて、こういう形で財産を保ちながら、彼にまた会える日をずっと待ち続けているのよ。その気持ちも、わかってあげて……」
みどりさんの言葉に偽りはなさそうだった。ぼくは自分を、ひどく恥じた。
これから先、真理とどう向かい合えばいいのだろう――。
あの日、小林さんが今日子さんに対して感じていた気持ちが、痛いほどわかった。
「待って。ひとつ言っとくけど、あたしはあなたを責めてるんじゃないのよ」
しかし、そこでみどりさんは細くつぶやいた。
「……実は、あたしも時々そんなことを考えちゃうの。俊夫くんを殺した犯人の妻と姪だから、本当は何か裏工作があったんじゃないか、なんて疑って……。そんなときあたし、自分が許せなくなる。何も信じられないのがすごく悔しくて……」
何も信じられない――そうだ。ぼくも同じだった。
真理がいなくなってしまい、その空白のあまりの大きさに揺らいだぼくは、つかまる場所を求めて必死に手を伸ばした。
しかし、手の届く範囲には、すべてを預けられるだけの物が何もなかったのだ。
そしてぼくは転倒し、混乱し、最も愛する人を最も疑わしい人と思い込んでしまった――。
「……あたしは今でも犯人を憎んでるわ。でも、それ以外の人には罪なんてないじゃない。いくら近いところにいた人でもね。だから、透くん……」
みどりさんは自分の傘を少し動かし、顔が見えないようにしてから言った。
「真理ちゃんを信じてあげて」
彼女に言われるまでもなく、ぼくは真理を信じるつもりでいた。
自分の負けを認めることを最大の恥と思っていたぼくは、今日をターニングポイントにする。
真理を信じることによって、自分が歩んできた間違った道の償いをするのだ。
ぼくはうなずくと、ペンションに向かって歩き出そうとした。
が、足が止まった。やはりまだ、ためらいがある。
「……戻って、いいですか」
ぼくがつぶやくと、みどりさんはまた傘を動かし、ぼくを静かな笑顔で見上げた。
「いいに決まってるじゃない。さ、体が冷えないうちに」
どういう意図があるのか、彼女はぼくに手を差し出した。
握れという意味ではなさそうな気がしたし、またそうするのも気がとがめたので、ぼくは彼女の横を通り過ぎるような感じで歩き出した。
終