みどりさん――かわいそうな人だった。
俊夫さんを亡くした後で彼を愛していたことに気付き、自分に住む場所と仕事を提供してくれていた人が犯人だった。
……そんなやりきれない気持ちをたくさん抱えた彼女は今、どこで何をして、何を信じて生きているのだろう?
何をしているか、についてはだいたい想像がつく。
今日子さんはペンションを経営しながら小林さんを待つと言っていた。2年も経った今ならそのペンションもオープンしていると思うから、おそらくみどりさんもそこで一緒に働いているのだろう。
いくら俊夫さんを殺した犯人の奥さんがオーナーとはいえ、そうして暮らしていると考えるのが一番自然だ。
……しかし、何を信じて、と考えると重いものがある。
人の心を勝手に推測してそれを真実と思い込むのはよくないが、何かぼくには、彼女がいまだに俊夫さんを殺されたショックから抜けきれず、誰も信じられないままに生きているような気がしてしょうがないのだ。
もし、もう一度だけでもみどりさんに会うことがあれば――ぼくは考えた。
もう一度会えたとき、彼女はどう変わっているだろう。
過去をきっぱりと忘れて元気に生きていればそれでいいが、もしそうでなかったら、何かの形で助けてあげたい。
心から、そう思った。
――しかし、思ったはいいが、それを実行するにはみどりさんに会わなければならない。
彼女を探す方法がどこかにないものだろうか。
ぼくは少し考えたが、いい方法は浮かばなかった。
どうやら、運命にまかせるしかないようだ。
……それとも、彼女に干渉してはいけない、という天のサインなのだろうか。
が、それから半年が過ぎたある日……。
ぼくの心を叶えるきっかけとなるだろう、1枚のハガキが届いた。
裏は写真になっていて、少し寂しげな湖の横に、白い壁に青い屋根の建物がある。
青木湖にオープンした『ブルーゼファー』というペンションの広告のようだった。
差出人は真理。
そして、そこに書かれている文章から、このペンションが今日子さんの例の「小林さんの夢をつなぐもの」であること、彼女だけでなく真理とみどりさんも共同オーナーになったこと、などがわかった。
ここに行けば、みどりさんに会える。
それがわかっただけでぼくは、行ってみようと決めた。
もちろん真理との再会も楽しみだし、今日子さんにも会いたい。
ぼくは、今月末すぐに行く計画を立てた。
他に客がいないシーズンオフなら、彼女たち3人もそうたくさんの仕事に駆られず、ぼくに接してくれるだろう。
6月下旬――。
ぼくは、梅雨の明けていない青木湖にひとりでやってきた。
まるで失恋の痛手をいやすために来たかのようなシチュエーションだ、と密かに思った。
駐車場に車を停め、荷物を持って下りる。
ペンションの構造そのものは、『シュプール』と大して変わらないように見えた。
今日子さんのこだわりなのかもしれないし、あるいは彼女と小林さんの間に何らかの約束があるのかもしれない。
玄関ポーチの階段を上ってチャイムを押す。
すぐに「はーい」と聞き覚えのある声がし、ドアが開けられた。
現れたのは、髪をショートカットにした真理だった。
「うわあ、懐かしい! いらっしゃい!」
彼女はぼくに顔を近づけ、あの変わらない笑顔を見せてくれた。
「久しぶり。元気にやってるみたいだね」
ぼくは、他のふたりの様子を探るような意味も込めて、そうあいさつを返した。
「まあね」
真理が余裕を気取るような顔をぼくに向けたとき、奥からそのふたりがやってきた。
今日子さんとみどりさん……髪型はふたりとも、2年半前と変わっていない。
……みどりさん、か。
彼女は何を思い、何を感じて生きているのだろう。
ここで暮らすようになって、何か変化は訪れただろうか――。
「まあ、いらっしゃい。よく来てくれたわね」
今日子さんの柔らかい声が聞こえてきたので、ぼくは考えを途中で切って顔を上げた。
「あ……どうも。お世話になります」
ぼくは、そこにいる3人全員に向けるつもりで頭を下げた。
そうしつつ……いつのまにか、みどりさんが声を発するのを待っている自分に気付いた。
話し方ひとつからでも、彼女の現況を知りたくて。
が、彼女はぼくに優しい笑顔を向けてくれてはいたが、何も口にしなかった。
その事実が、やはり彼を忘れきれていないんだな……と脈絡のない想像をさせる。
「さ、とにかく上がってちょうだい。今日のお客さんは透だけだから、うんとサービスしてあげるね」
「あ、うん。わかった。ありがとう」
真理が手を伸ばして促したので、ぼくは『シュプール』に似た玄関に足を踏み入れた。
ついにみどりさんは、何も言わないままだった。
通された部屋は、湖を正面に見据えるところだった。
きっと、客がぼくだけなので、一番眺めのいい部屋を使わせてくれたのだろう。
荷物をクローゼットにしまい、ベッドに寝そべっていると、ノックの音がした。
「はい。開いてますよ」
3人のうち誰が来たかわからないので、ぼくは答えつつベッドから起きて立ち上がり、着ている物を少し整えた。
ドアのすきまから顔をのぞかせたのは、真理だった。
「あ、真理か」
「ねえ、いろいろと話がしたいんだけど、入っていい?」
「もちろん、いいよ」
ぼくの方にも積もる話をしたい気持ちがあったので、すぐにそう答えた。
真理は部屋に入ってくると、ツインのベッドの、ぼくが寝てなかった方に腰かけた。
ぼくも、さっきまで寝ていたベッドに再び座る。
「……ありがとう、来てくれて」
真理は、そう話し出した。
「あたし、透にどうしても来てほしくてあのハガキ出したんだけど、それでもやっぱり、来てくれなかったらどうしよう、って考えちゃった。本当に嬉しい」
「いや、お礼なんて言わないでくれ。……それにしても、みどりさんが今日子さんのペンションで働いてるかもっていうのはだいたい想像がついてたけど、君までそうだったなんて意外だな」
「それなんだけど、実はあたしね、家を飛び出してきたのよ」
「……えっ?」
「うちの親ってば、叔父さんがあんな事件起こしたもんだから、完全に叔父さんとの縁を切っちゃってね。あたしはやっぱり叔母さんのこととかいろいろ心配だったから、そんなことしないでって言ったのに、それも聞いてくれないんだもん。それでケンカしちゃって……ほとんど勘当寸前でここへ逃げてきたってわけ」
……明るく話してはいるが、その姿がかえってとてもいたいけに見えた。
これ以上この話を続けない方がいいということは、ぼくにだってわかる。
新しい話題を頭の中で探す。
――だが、まわるのは緑色の記憶と悲しみばかり。
離れていた2年半の間もずっと愛し続けた相手がすぐ目の前にいるというのに、他の女性のことが気になるなんて、不健全な話だ……。
「……透、何考えてるの?」
真理がつぶやくように言う。
「あ、いや、別に何も」
「本当かなあ……何も考えてないような雰囲気じゃなかったわよ。そうだ、何考えてたか当ててみせるわ」
「当てられるもんなら当ててみな」
ぼくは、意地悪っぽく笑いながら言った。真理の表情が明るく戻っていたのに安心したのと、まさか本当に当てられるとは思っていなかったためだ。
だが。
「みどりさんのこと、でしょ」
「……」
鋭い。
「さっき玄関でもみどりさんの方ばっかり見てたし、彼女がここで働いてることをあらかじめ想像してたりとか、いろいろ手がかりはあったしね。でも、弁解はしなくていいわよ」
「いやその……大前提が誤解なんだ。やっぱり弁解させてくれよ。ぼくはただ、君たち3人の中でも彼女はとりわけ気の毒だと思ってたから、それで気になってただけなんだよ。本当だよ……」
「あら、そうだったの。優しいのね」
「まあね」
やっとわかってもらえたか、とぼくは気を緩めたが、そこで真理はにっこりと笑顔を見せた。
「あ、前言撤回。自分でそんなこと言うようじゃ大きな減点よ」
こういうところは昔のままだ。ぼくはその懐かしさに押され、同じように笑った。
これが他の人だったり、真理でも2年半のブランクがなかったりしたら、また意地になって何か言い返していたところだろうけど。
ぼくはふと、真理の後ろを見た。
窓があり、そこから静かな湖が一望できる。
「……ちょっと、湖畔に散歩にでも行ってこようかな。一緒に行かないか?」
誘うと、真理は残念そうな顔で答えた。
「行きたいとこだけど、そろそろ夕食の準備を始めなきゃいけないのよ。叔母さんがお料理苦手なもんだから、食事はあたしの領域なの。みどりさんを連れてったら?」
「いや、だからそういうんじゃなくて……」
「わかってるわよ」
真理はうなずき、そして小声で続けた。
「……ねえ、みどりさんの力になってあげてくれる? 彼女、やっぱり今でも例のことを引きずって生きてるから」
「あ、ああ。わかった」
また誤解されるのではという不安もあったが、本来、ぼくがここに来た目的はそれだったのだ。ぼくは承知した。
「よかった。じゃあね。玄関はフリーパスだから、自由に出入りして結構よ。でも、6時には食事になるから、それまでには帰ってきてね」
「どうも」
真理が出ていくと、ぼくは再びベッドに寝そべり、いろいろと考えた。
やはりみどりさんは、過去を捨てきれていなかったようだ。真理にも言われたように、ここはぼくが助けてあげないと。
……といっても、ぼくにどれだけのことができるかわからない。逆に彼女を悲しませるようなことになってしまったら、取り返しがつかない。
が、このまま見て見ぬふりをして放っておくわけにもいかないだろう。
ぼくは窓の外を見た。
横になっているため湖は見えず、目に入ってくるのはグレイに曇った空だけだ。
梅雨時だからだろうが、ここしばらく青空を見ていなかったことを思い出した。
……湖畔に行こうか。
でも、ひとりで行くのも何か虚しい。
真理の言う通り、みどりさんを連れていこうか。
……いや、愛していた人を亡くして悲しんでる人にそんなデートまがいの誘いをかけるのは失礼だ。
しかし、そうでもして彼女と言葉を交わさないと、「彼女を助ける」というぼくの目標は達成できそうにないし……。
考えた末、ぼくはひとりで行くことにした。
みどりさんと話すチャンスは、これからいくらでもある。
一度脱いだ白いウィンドブレーカーをまた着ると、ぼくは部屋を出た。
1階に下りたところで、みどりさんを誘おうかどうしようか、もう1回だけ考えた。
が、結局誘わないことに決め、ひとりで玄関を出た。
30秒ほど歩いて湖畔に来たところで、ぼくは息を飲んだ。
そこでは、ジージャンにジーパン姿のみどりさんがぼくに背中を向け、湖面をじっと見つめていたのだ。
まるで、水鏡の中に亡き彼の姿を求めるかのように――。
声をかけていいものかどうか少し迷い、呼んでみることにした。
もし彼女が今見ているものが悲しみの世界だとしたら、それから目を背けさせなければならない。
「みどりさん」
彼女は驚いたように振り返り、ぼくの姿を見つけて再び驚いた。
「透くん……? どうしてここへ?」
「散歩に来ただけですけど……あなたは?」
会ったのは本当に偶然なのだから(いや、もしかしたらここに来るように真理が言ったのかもしれないが)、聞いてもいいはずだ。
「……あたしもよ」
みどりさんは答えたが、口調には元気がなかった。
そして、その理由も明確だった……。
俊夫さんの話を切り出すかどうかで少し考えていると、彼女はそっとつぶやくようにたずねてきた。
「透くん。……真理ちゃんに会えて、嬉しかった?」
「ええ。それはもちろん……」
ぼくは、答える途中でハッと言葉を切った。彼女の質問の裏を、思いがけなく見てしまったからだ。
真理はぼくが来て嬉しかったと言ってくれた。
今日子さんも、ペンションを経営するという形で小林さんを待ち続けている。
しかし、みどりさんは……彼女だけは、いつになっても決して帰ってこない人を待っているのだ――。
「よかったね。懐かしかったでしょ?」
ぼくはその質問には答えられなかった。
俊夫さんの話をして沈んでいる彼女より、つらい気持ちを押し込めて笑顔を作っている今の彼女の方が、ずっとずっと痛ましい――そう思えたのだ。
「……みどりさん。無理して笑わないでください。何か困っていることがあるなら、ぼくに話してください」
押しつけがましいセリフになってしまったが、それよりもこれに彼女がどう反応するかということの方が気になった。
みどりさんはぼくの言葉に少し戸惑ったようだったが、やがて口を開いた。
「でも、あなたに話しても……」
「いいんです。さっき真理に今のあなたの話を聞いて、それで何か役に立てればと思っていましたから」
実際には来る前からそう思っていたのだが、この場合、真実を告げることは彼女のプレッシャーになる。黙っていよう。
「ありがとう……」
彼女は本物の微笑み(のようにぼくには見えた)を少し見せ、そして話し出した。
「……あたし、やっぱり今でも犯人を許せないの。もちろん許す必要なんかないし、無期懲役になったのもわかってるんだけど、何の罪もない今日子さんや真理ちゃんに時々その許せない気持ちが向いたりして、それがたまらなく悔しいのよ」
当然ぼくにみどりさんの気持ちがわかるわけはないが、納得のいく話だった。
「あきらめの悪い女だなんて思わないでほしいんだけど、今でもよく考えるの。もし俊夫くんが生きててくれたら……って。俊夫くんがそばにいたら、彼のことを好きだってずっと気付かないかもしれないし、あたしって素直じゃないから、気付いてもそれをちゃんと自分で認められるかどうかわからない。……でも、今となっちゃそんなことは些細な問題だわ。生きてさえいてくれれば、時間はかかっても、いずれはお互いの気持ちを確かめ合って恋人同士になれたに違いないのに。そうすれば今頃、あたしたちは結婚くらいしてたかもしれない。……そこまで考えちゃうほど、好きなのに……」
彼女は目頭に手を当て、現在形で語った。
――しかし、彼女の話を聞いても、ぼくにはどうすることもできそうになかった。
話を聞こうとしたまではよかったが、その後どう対処するかの具体的なプランをまったく考えていなかったぼくは、今さらながら自分の無責任さを痛感するはめになってしまった。
ふと気がつくと、雨が降り出していた。
大した降りではないが、これから強まりそうな気配だ。
「……戻りましょう。風邪をひきますよ」
ぼくはみどりさんを促した。しかし彼女は首を横に振った。
「ごめんね。あたし、もうちょっとここにいたい」
ぼくは困った。このまま彼女を置いてひとりで戻るなんてわけにはいかないし、かといってふたりでずっとここにいたら、ふたりとも本当に風邪をひく。
少し考えた末、ぼくは着ていたウィンドブレーカーを脱ぎ、彼女の頭から背中にかけてかぶせた。そうしてあげたかったのだ。
「ありがとう。……俊夫くんと、同じことしてくれるのね」
が、彼女が発したその言葉に、ぼくはドキッとした。
「俊夫さんと、同じ……?」
「そう。あの事件の半年くらい前――ちょうど今から3年前になるけど、ただ1回だけ、彼に誘われてふたりで散歩に行ったことがあるの。その途中で滝みたいなひどい雨に降られて、傘がなくて慌ててたら、彼は黙って自分のジージャンをあたしにかけてくれたの。すごく嬉しかった……」
ぼくは、濡れるままに彼女の話を聞いた。
「それで急いで帰ったんだけど、結局俊夫くんだけが風邪ひいて、ひどい熱を出して寝込んじゃったの。あたし、それがいつまでも心残りで、もし今度彼に何かあったら絶対力になってあげる、って決めてたのに――」
彼女は雨と涙で濡れた顔を上げ、ぼくを見据えた。
その瞳には激しく切実な何かがあり、それがぼくをぐっととらえた。
それを受けたぼくは、静かに言った。
「……みどりさん。ぼくは俊夫さんじゃありません。同じことはしたかもしれませんけど、どうやっても彼にはなれません。かなわないんです。背も肩幅も勇気も、あなたを守ろうとする気持ちの強さも。……だから、そんな目で見ないでください」
すると彼女は、ぼくのウィンドブレーカーを少し深くかぶり直してつぶやいた。
「俊夫くんになってほしくなんかないわ。久保田俊夫はただひとり、彼だけだもの。でも……時には現実の誰かに甘えて、うんと泣きたくなる日もあるのよ」
……そしてぼくは、きっと生涯で一番生意気で、一番キザなセリフを言うのだ。
「泣けばいいじゃないですか。泣いていいですよ。……ぼくの前でなら、いつだって」
直後、彼女はぼくの胸に飛び込んできた。
――そしてそこに顔をこすりつけ、激しく声を上げる。
ぼくは彼女の背中に腕をまわし、思いっきり抱きしめた。
例え彼女がぼくを俊夫さんの代わりだと思っててもいい。
彼にかなわなくてもいい。
ただ、ここでぼくが彼女を守らなくてどうするんだ、という気持ちだけが強かった……。
終