美樹本さん――彼の生前の行動には、不可解な点が多い。
彼はバスルームの天井裏の通路を見抜き、それを小林さんに問いただして殺されたが、そのとき小林さんに「無関係な人たちがかわいそうだから自首してください」とか言ったらしい。
しかし、正直なところ彼は、そんなことを言いそうなタイプではなかった。
あれこれと推理を出し、事件解決へと導こうとする努力はぼくにもうかがえたが、その推理も結構いいかげんなもので、当たっていたのは「田中さんと春子さんは殺されてから顔を切り裂かれた」というやつくらいだ。
そんな彼が、正義感たっぷりに小林さんに「自首してくれ」と懇願したというのか?
それに、やはり夜中にあのペンション内を堂々と歩きまわれたというのはおかしい。
よほど小林さん犯人説に自信があったのだろうか?
そうだ……。
ぼくはひとつ考えついた。
美樹本さんはカメラマンだった。
彼はもしかして、犯人が小林さんだとわかった時点でその証拠のひとつを写真に撮り、それをネタに小林さんを脅したのではないだろうか?
つまり、そのことで一儲けしようと企んだ彼は、わざわざ危険を冒して夜中に出歩き、証拠を集めたというわけだ。
しかし、自業自得というか、彼は本性を現す前に殺されてしまった……。
――この推理は、かなり納得のいくものだった。
それだけに、それが真実かどうかを確かめたくてしょうがなくなった。
確かに、これはもう過去の話だ。
美樹本さんは死んでしまったわけだし、小林さんは逮捕された。
でも、小林さんが今日子さんのために涙を飲んで犯した殺人を金儲けのために利用しようとしたなんて、ひどい話だ。
もちろん美樹本さんはそんな事情は知らなかっただろうが、ぼくはそれでも彼を許せない。
今からでも遅くない。ぼくなりに、あのときの彼の身辺を探ってやろう。
……と意気込んだはいいが、ぼくにはそのための手段など何ひとつない。
せめてあのとき、彼がひとりではなく誰かと一緒に『シュプール』に来ていたなら、その人を追うこともできただろうが……。
ん?
ぼくは、ひとつ思い出した。
美樹本さんが疑われたときや殺されたとき、無関係とは思えないほど感情的になっていた女の子がひとりいた。
可奈子ちゃん――。
彼女はひょっとして、以前から彼を知っていたのではないだろうか?
例えば、カメラマンとしての彼のファンだったとか……。
可奈子ちゃんなら、名刺をもらっているから連絡先がわかる。
……よし、決めた。
彼女に連絡して、美樹本さんについて聞いてみよう。
次の日曜日の朝、ぼくは可奈子ちゃんの名刺を持ち出し、電話をかけてみた。
「……はい、渡瀬です」
何やら元気のない女性の声が返ってきた。誰だろう?
「あの……すみません。ぼくは矢嶋透と申しますが、可奈子さんはいらっしゃいますか?」
「透さん!?」
電話の向こうの女性は、素っ頓狂な声を上げた。どうやら可奈子ちゃん本人だったようだ。
「そうです。可奈子ちゃん?」
「そうよ! ……ああ、連絡してくれたのね! お久しぶり!」
彼女はどうしてか、とても安心したような口調でそう吐き出した。
「お久しぶり。……実は、ちょっと聞きたいことがあって連絡したんだけど」
「何? 何でも聞いてちょうだい」
「……カメラマンの美樹本洋介さんについて、教えてくれるかな」
ぼくはゆっくりとたずねた。その後の彼女の答えがとても重要だ。
もし「そんなこと聞かれたってわかんないわよ」と返ってきたら、彼女は美樹本さんとは何の関係もなかったことになる。
でも、それ以外だったら……。
いろいろと考えていると、彼女は電話の向こうでつぶやいた。
「美樹本さん……」
「わからなければいいよ」
「ううん、わかるけど……」
そこで彼女はちょっと間を置いて、そして言った。
「……ねえ、午後からでも会ってくれない? 言いたいことが多すぎて、とっても今ここでじゃまとめられないから……」
言いたいことが多すぎて――確かに彼女はそう行った。これで新しい道が開ける。
「いいよ、会おう」
「ありがとう……」
可奈子ちゃんは小さく言い、銀座のフルーツパーラーを指名した。
ぼくはその場所をメモすると、「また後でね」とできるだけ優しく言って電話を切った。
午後にそのフルーツパーラーに行くと、可奈子ちゃんが待っていた。
2年前の派手な印象は完全に消え、彼女は意外なほど質素になっていた。
濃かった化粧は薄く、ソバージュだった髪はストレートになり、服もボディコンではなく、グレイのセーターとダークグリーンのロングスカートだった。
「……あたし、変わったでしょ」
注文をすませると、彼女はそう切り出した。
ぼくはそれにうなずき、彼女の話の続きを待った。
「変わったのはファッションやヘアスタイルだけじゃないのよ。……公一さんがいなくなってから、あたしの中のすべてが変わったわ」
可奈子ちゃんは窓の外の人混みに遠い目を向け、そうつぶやいた。
「公一さん……美樹本さんのことだね」
「そうよ」
美樹本さんは、本名を「三木公一」という。事件直後に報道で知った。
しかし、可奈子ちゃんが彼をその本名で呼んだ以上、彼女と彼との間には何らかの特別な関係があったことになる。
それを聞こうとしたが、彼女はぼくがたずねる前に話してくれた。
「……あたしは、公一さんのモデルだったの。彼はたまに写真展を開いたりしてたんだけど、そこに展示される作品の中に、高層ビル街をテーマにした『都会派計画』ってタイトルの連作があって、そのモデルがあたしだった。だからあたしはあの頃、それに相応しい色気を身につけなきゃいけなくて、本来は好きじゃないくせに、普段から派手なお化粧したりボディコン着たりしてたのよ」
「恋人同士だと思ってたんだけど、そうじゃなかったんだね」
可奈子ちゃんと美樹本さんにつながりがあったことがわかり、しかも彼が殺されたときの彼女のあのリアクションを見ていれば、ぼくでなくてもそう思っただろう。
しかし。
「……恋人に近かったかもしれない。あたしは彼を愛してたし、彼もあたしを大切にしてくれたもの。あの旅行だって、最初はふたりだけで行こうって話してたのよ。でも、いくら何でも年が違いすぎるじゃない。だから旅行も結局、あたしは亜希と啓子を連れて、彼はひとりで、別々に行ったのよ。誰にも関係を知られたくなかったから、そこで初めて会ったように演技してね」
「年の差を気にしての演技だったわけか」
「そう。せめて亜希と啓子にくらい本当のことを話しておくべきだったと、今は思うけど……それもできなかった。あたしたち、本当の意味での友達なんかじゃないのかもしれない……」
そんなことないよ。君が美樹本さんを亡くしたとき、彼女たちは懸命に慰めてくれたじゃないか――。
ぼくはそう言おうとしたが、安易な気休めは言わない方が無難かもしれないと思い直して、別の質問をした。
「でも、演技だなんて……そんなことしないで堂々と恋人宣言したいとは思わなかったの?」
「公一さんはどうだったかわからないけど、あたしは内心そう思ってたわ。別に彼は既婚者ってわけじゃなかったんだから、そんな不倫関係みたいな後ろめたい気持ちになる必要なんかないんだし。だけど……やっぱり10代の女と30代真ん中の男じゃ、まわりから変な目で見られるじゃない。あたしはお金目当てで彼にくっついてるんじゃないかとか、彼はロリコンなんじゃないかとか……そういう世の中なんだもの」
世間の目が気になって、したいこともできない――事件以降の真理と同じだ。
「でも……公一さんはもう帰ってこないわ。こんなことになるなら、もっともっと一緒にいればよかった。亜希と啓子なんか連れてかないで、ふたりだけで行って、同じ部屋に泊まればよかった。そうすれば、夜中に出歩いたりさせなかったのに……」
――彼女は視線を店内に戻すと、おしぼりを手にして少し泣いた。
ぼくはそれに流されそうになったが、「夜中に出歩いたり……」という彼女の言葉で本来の目的を思い出したため、かろうじて泣かずにすんだ。
「……ところで、彼は事件の前あたりにお金に困ってたりしなかった?」
「ううん、それはなかったけど……どうしてそんなこと聞くの?」
「これはぼくの推理なんだけど、彼が夜中に出歩いてまで事件の証拠を探したのは、後で犯人を問い詰めるためだったんじゃないかと思うんだ」
犯人を脅すため、とストレートに言うのは当然のように避けたが、それに効果がないと気付くのには時間はかからなかった。
「お金に困ってたりしなかった?」と事前に聞いてしまっていたからだ。
「ちょっと! それって……それって公一さんが犯人に『ばらされたくなかったら金を出せ』って脅しをかけようとしたって言いたいの? そんなことあるわけないじゃない!」
案の定、可奈子ちゃんは傷ついた表情を見せ、ぼくをきっとにらみ返した。
「あるわけないって、どうしてわかるんだ?」
しかし、ぼくはそう返した。
せっかくの推理をそんな感情だけで振りまわしてほしくなかったのと、ぼく自身、元来謝るのが嫌いなタチであるためだ。
「だって……だって! あなたは知らないかもしれないけど、公一さんはすごく正義感の強い人だったんだもの!」
「彼が……正義感が強い?」
大いに失礼なことではあるが、ぼくは疑わしげな声を上げていた。
「そうよ! 彼はみんなを殺人犯から守ってくれようとしたのよ! それなのに……」
そんなのは君の勝手な解釈じゃないか――。
ぼくはそう反論しようとして口をつぐんだ。
ぼくが主張している推理だって、ぼくの勝手な解釈にすぎないのだ。
それに、ぼくは思い出していた。
美樹本さんが小林さんに言ったという、懇願の言葉を。
『どんな事情があったのかわかりませんが、このままでは無関係な人たちがかわいそうです。みんなに真実を話して、自首してください』――。
……よく考えてみれば、脅迫する前にこんなことを言うはずはない。
本当にその通り小林さんが自首する気になってしまったら、計画が台なしになるからだ。
ああ……そうだ。
きっと美樹本さんは、立場上そばにいてあげられない可奈子ちゃんを、何とか守ろうとしたのだろう。
あんな危険を冒して、そして自分の命を失うまで――。
ぼくは、今までの自分の解釈のひどさに、心から腹を立てた。
そして、可奈子ちゃんと美樹本さんに対して、本当に申し訳なく思った。
「……ごめん。ぼくが悪かった」
最後にこう言ったのはいつだっただろう――思わずそう考えてしまうほど久しぶりに、そのセリフが出てきた。
可奈子ちゃんは、ぼくがそう言ってもしばらく悔しさが消えない様子でうつむいていたが、やがて口を開いた。
「……公一さんの話をさせて。あなたには全然関係ないあたしの想い出話になっちゃうけど、したくてしょうがないの」
「いいよ。話してくれ」
ぼくは言った。聞いてあげることが、ほんの少しの謝罪になるかもしれない。
――彼女は、それから1時間ほどしゃべり続けた。
一緒に山に登って、疲れたけど楽しかった話。
街の真ん中で撮影をして、ヤクザに絡まれてふたりで逃げた話。
遅く帰って彼女が親に怒られたとき、美樹本さんが土下座して謝った話……。
そのどれにも、もう彼には会うことができないのだという、皮肉な現実が込められていた。
「……これを、持ってってくれないかしら」
話が一区切りすると、可奈子ちゃんは持っていた大きな紙袋から何やら本を取り出し、ぼくに差し出した。
それは、さっき話していた『都会派計画』の写真集だった。
今ぼくの目の前にいる彼女とはまったく違う、派手に彩られた彼女が、表紙を飾っている。
しかし、なぜこれをぼくに持っていってくれなどと……?
考えていると、彼女は小さくつぶやいた。
「あたしが持ってると、きっといつまでも引きずられてるままだと思うから……」
それを聞いて、ようやくぼくは理解した。
可奈子ちゃんは、過去を捨てようとしているのだ。
話せる限りのことをぼくに話し、一番の想い出をぼくに託し、彼を忘れてしまおうと――。
「わかった。受け取っておくよ」
ぼくはそれを、しっかりと手に取った。
ぼくの手元に悲しい想い出が残ってしまうことになるが、当事者である彼女に持たせておくよりは、遥かにいいだろう。
「ありがとう。……透さん」
彼女は、ふとぼくの名前を呼んだ。
そして、静かに微笑む。
「……あたし、しっかり生きるわ。公一さんにひっぱられないで……」
「元気でね……」
ぼくも同じ顔で、そっとつぶやいた。
終