田中さん――そうだ。彼はあまりにも謎だらけだ。
探偵であった彼が小林さんに依頼を受けたのは、秋に『シュプール』に行ったのがきっかけだった。
そして、その目的は「自然散策」だったということになっている。少なくとも、小林さんはそれしか知らなかった。
しかし……それならなぜ彼は、名前や住所を偽って泊まる必要があったのだろう?

かつて、ぼくも考えたはずだ。
彼が秋に『シュプール』に行ったのには、自然散策以外の別の目的があったに違いないと。

……田中さんは、本来は何のために『シュプール』に行ったのだろう?

真っ先に浮かぶのは、『シュプール』の内情を調査するためだったという説だ。
誰かの依頼があって、例えば小林夫妻の仲のよさとか、経営状態とか、みどりさんや俊夫さんが『シュプール』で働くことになった経緯とか、そういったのを調べていたと考えられる。

……しかし、この説には大きな穴がある。
田中さんは自分から「私は探偵だ」と小林さんに言ったらしいが、調査に来た探偵がそんなことを言うはずはない。
それに、別件になるはずの小林さんの依頼を承諾したというのも変だ。

するとやはり、ただの自然散策だったのか?
身元を偽ったのは、自分が探偵である以上、どんなときも素性を明かさないようにしただけなのだろうか?
それも不自然な気がする……。
わからない。本当に田中さんは謎の男だった。

……ん?
そのときぼくは、ふと不思議な点に気付いた。
警察も、あの事件を報じたマスコミも、いまだに彼を「身元不明の通称田中一郎さん」と呼んでいることだ。

ぼくが彼の「田中一郎」という名前を本名でないと知ったのは、彼が持っていた免許証を見たためだった。
詳しいことは覚えていないが、あれには確かに本名や本籍、現住所が書いてあり、しっかり本人の写真がついていたはずだ。
あの事件からもう2年も経ったというのに、どうして警察は彼の身元を確認できないでいるのだろう?
ぼくでも見つけられたほどの免許証を、なぜ警察は見つけられないのだろう?

捜査がまともに行われたなら、見つからなかったはずはない。
ぼくが調べたときと同じ条件で、あのままあそこに残っていたとすれば。

――つまり。
ぼくが見た後から、翌日警察が来るまでの間に、あの免許証を隠した誰かがいるのだ。
そして、それは当然、あのときペンションにいた人ということになる。
いったい、誰だ……?

田中さんの部屋を調べたのは寝る前だったから、あの後、夜中にこっそり隠すことはできただろう。
しかし、何人もの人が殺された後の夜中に、犯人以外の人物がそう簡単にペンション内を歩きまわれたとは思えない。
そう考えると小林さんではということになるが、それはないと見ていい。彼は警察の取り調べに実に素直に応じた。免許証を持っていたとしたら、とっくに出しているはずだ。
すると、小林さんを問い詰めるために部屋を抜け出した美樹本さんだろうか?
……いや、これも違う。
彼は夜中に殺されてしまったのだから、免許証を持ち出すことはできても、それを警察の目の届かないところに持っていくことはできなかったのだ。

どういうことなんだろう……。
しばらく考えていると、重要なことに気付いた。

あのときペンションにいた人の中の誰かが田中さんの免許証を隠し、彼の身元をわからなくした――。
それは当然、その人物もあの事件に何らかの形で関与していたということになってくる。そうでなければ、そんなことをする必然性がない。
それも、小林さんは取り調べの際、共犯者はいないとはっきり供述したらしいから、彼が気付かないうちに裏で糸を引いていたようなタイプの関与だ。
そう……あの事件には「黒幕」がいたという可能性が、ここになって浮上してきたのだ。

あの事件は、まだ未解決だった――。
ぼくはそれを悟ると、免許証を隠した人物を特定しなければという使命感に強く駆られた。
警察の知らない情報を持っているぼくが行動を起こさなくてどうするんだ、と思って。

さて……。
まず何をさておいても、免許証を隠した人物が誰であるかについての推理を始めた。

警察が来た時点で『シュプール』に生きて残っていたのは、ぼく自身と、殺人事件の犯人であった小林さんを除くと、7人になる。
真理、今日子さん、みどりさん、香山さん、そしてOL3人組の可奈子ちゃん、亜希ちゃん、啓子ちゃん。
この7人の中に、免許証を隠した人物(便宜上、ここでは「犯人」と呼ぶことにしよう)がいるはずなのだ。

小林さんを裏で操るようなことができたのは、前々から彼と知り合いであった人に限られる。
姪の真理、妻の今日子さん、住み込み従業員のみどりさん、元上司の香山さんの4人がこれに該当する。
もちろん、OL3人組の中の誰か、あるいは全員が実は以前から小林さんと知り合いだった、という線も考えられなくはないが、前者の4人と比べると可能性はぐっと低くなるだろう。
そういうわけで、OL3人組はとりあえず除外しよう。

では、残りの4人のうち、免許証を隠すような時間的余裕のあった人は?

殺人事件が立て続けに起こったことで脅えたみんなは、俊夫さんの事件以降、夜中以外は誰も単独行動はしなかった。
しかし、夜中はほとんどの人がバラバラになり、互いの姿を見ていない。
それを考えると、犯人が免許証を隠したのは夜中と断定していいだろう。
そしてそれは、4人全員に犯人の可能性があるということをも意味する。

真理――彼女はぼくと一緒にいた。
しかし、ぼくはぐっすり寝てしまったので、あの後こっそり自分だけ起きて出歩くこともできたはずだ。
彼女を疑いたくなどないが、そう考えられる以上、仕方がない。

今日子さん――彼女は当然、小林さんと一緒に寝ていた。
寝たふりをしていて、小林さんが美樹本さんを殺して戻ってくるまでの間に出歩いたとは考えにくい。彼に見つかってしまうからだ。
彼が戻ってきて眠ってから、と考えても無理は残る。
人を殺した後でそうぐっすりとは眠れまい。根っからの悪人じゃない小林さんならなおさらだ。
それを考えると彼女は違うか……いや、彼女に不利な条件もある。
田中さんの部屋には当然鍵がかかっていただろうし、マスターキーはもちろん小林さんの部屋にあったはずだから、それを持ち出してドアを開けられたのは彼女だけなのだ。

みどりさん――彼女は自室で寝ていた。
彼女の部屋は裏口の前だったが、そこであった小林さんと美樹本さんの争いに気付かなかったところから、相当ぐっすり寝ていたのだろう。泣き寝入りをしていたのかもしれない。
が、彼女が犯人だとすれば、もちろんそのとき寝ていなかったことになるし、さらにさかのぼれば、俊夫さんが殺されたときの態度も演技だったことになる。
そして彼女なら、小林さんが戻ってくるのを見計らって部屋を出て2階に行くくらいの余裕はあったはずだ。
田中さんの部屋をどうやって開けたかだけが問題だが、『シュプール』の従業員だった彼女なら、あらかじめ別の鍵をこっそり作っておくことも簡単にできたのではないだろうか。
……あの涙や強さが演技だったとはとても思えないが、彼女もまた犯人リストから消せない。

香山さん――彼は自室で春子さんが殺されたため、どこかの部屋を用意してもらってそこで寝ていた。
もちろん夜中に彼はひとりだったので、小林さんが美樹本さんの死体を部屋に置いて1階に下りた後で出歩くことは充分可能だ。
鍵の問題も、社長だった彼ならお金の力を使って誰かに協力させて……などと考えれば解決できてしまう。

……考えてみると、4人とも怪しい。
いや、4人ともとても犯人だとは思えないのに、誰かを犯人だと断定しなければならないから迷うだけなのか?

推理に詰まったぼくは、別の視点から考えてみることにした。

犯人は田中さんの免許証を隠し、身元をわからなくした。
なぜ、そんなことをする必要があったのだろう?
このあたりが、田中さんが身元を偽って『シュプール』に来たこととつながりそうな気がするのだが……。

ぼくは必死で考えた。
――が、わからない。
漠然と何かが浮かぶのだが、形にならずにすぐに消えてしまうのだ。

……だめだ。
20分ほどして、ぼくは自分の頭で考えるのをあきらめた。

そうなると、今のぼくにできることはひとつしかない。
田中さんの免許証を見ていたという事実を、警察に報告するのだ。
彼の本名も、住所の細かい数字も覚えていなかった。一度しか見ていないので無理もない。
ただ、本籍と現住所が両方とも横浜市だったということは記憶に残っていたので、せめてそれだけでも報告しておいた方がいいのかもしれない。

……やはりぼくは無力だった。
いつもいいところまで行くのに、最後の最後で負けてしまう――ぼくには昔からそういった傾向があったが、それでもこれほど自分の力のなさを痛感したことはなかった。
負けてなるものか、という意地も、所詮は空威張りにすぎないのだとわかり、急激に虚しくなった……。

 

 

翌日。
ぼくは警察に行き、報告をした。
もう解決したとされている事件だからあまり真剣に受け入れてはくれないだろうと思っていたが、意外にもそうではなかった。
警察側はぼくの話を興味深そうに聞き、「情報をありがとう」と言ってくれた。

そしてその通り、警察はぼくの一言で動き出したようだった。

 

 

――2ヶ月後。

田中さんの身元が明らかになり、ぼくの知っている人物が逮捕された。
話によると、警察も密かにその人を疑っていたそうだが、はっきりした証拠がなかったらしい。
それが、ぼくの報告でその人と田中さんの関係がわかったということだった。

ぼくの推理は、ある程度までは当たっていた。
その人物は、ある事情から小林さんを陥れ、彼に殺人を犯させたのだった。

ただ――。
事件が完全に解決したというのに、そして自分がその役に立てたというのに、ぼくは自分を誇らしくは思えなかった。
逮捕された人物が人物だけに、とてもそんな気分ではなかったのだ。

ぼくの心は、2年前、自分で推理を積み重ねて小林さんにたどり着いたときと同じ状態になっていた。
とても犯人だとは思えないし、思いたくない人が実は……という、あの絶望感だ。
もちろんこれも小林さんのときと同じように、7人のうち誰が逮捕されたとしてもそういった気持ちになっただろうが、真実だけがとりわけ想像より悲しい気がして、ぼくはひどくつらかった。
警察はぼくのこんな心をわかってくれず、手柄だと表彰しようとしたが、当然ぼくはそれを断った。

ぼくの胸にあったのは、こんな想いだけだった。

……もう一度、もう一度だけでも真理に会いたい。今ならその望みも叶えられる。
とても悲しいことだけど――。

 

 

 

終 


読むのをやめる