ぼく――そうだ。ぼく自身こそが、最もわからない存在なのだ。
あの事件以来、ぼくは変わってしまった。

ぼくは今、こうして生きている。
何人もの人が殺されるのを見たのに、その犯人と同じ屋根の下で眠ったというのに、生きている。
記憶から消せないのは当然としても、あまりにも何もなかったように生きているのだ。

そして、何よりも、真理がいなくてもごく普通に暮らしていけている――その事実が、ぼくを最も深く考え込ませた。
……ぼくにとって真理は、そして真理にとってぼくは、必要な人間ではなかったのだろうか?

 

 

春も間近になったある日、自分の気持ちに誘われるまま、ぼくは答えを求めて旅立った。
人里遠く離れた信州の山の中――そう、今はもう誰もいないあの場所へ。

 

 

車を降りると、そこには悲しみだけが落ちていた。
景観を損ねないようにと小林さんが考えた建物は、ただの木片となってそこら中に散らばっていた。
たくさんあったガラス窓も、今はぼくの足元で密かにその存在を主張しているだけだ。
ブルドーザーが壊したというよりは、支えていた人間を失って倒れたという表現の方が、適当だと思った。

ここが、ぼくと真理の最後の場所だ。
そして今ここは、ぼくたちの関係と同じように終わりを迎えてしまっている――。

ぼくは、木片もガラスの破片も気にせず、想い出の中へと一歩を踏み出した。
記憶と現実をオーバーラップさせながら、足をその通りに動かしていく。

……玄関ポーチの階段を上ってチャイムを鳴らすと、中から小林さんが出てきて、温かく迎えてくれる。
吹雪で凍えきったぼくと真理は、飛び込むように中に入り、雪をはたき落として上がるのだ。

談話室の階段を上って――物理的に不可能なので心だけを飛ばして――2階に行く。

着替えて下りてくると、真理が香山夫妻やOL3人組に囲まれて楽しそうにしていた。
あのときはまだ誰も――そう、小林さん以外誰も、あんな惨劇が起きるなんて思っていなかった。

夕食が終わったあたりから、歯車が狂い始める。
春子さんが倒れたのだ。

彼女が2階で休んでいると、やがて美樹本さんが到着する。
それから1日と経たないで命を落とすことになるとも知らず、ひげ面に明るい笑みを浮かべて――。

そうだ。みどりさんと俊夫さんはコーヒーを持ってきてくれたんだ。
片方が自分の気持ちに気付いていなかったために、結ばれることがなかったふたり。
その気持ちに気付いたとき、みどりさんはおそらく、今のぼくなんかよりずっとずっと悲しかったことだろう――。

……ぼくは、記憶を追うのをやめた。
真理と一緒に過ごし、一緒に眠った場所を歩いて彼女を想っているというのに、その悲しみはどうしてもみどりさんにはかなわない。

ぼくは目を閉じたまま、記憶の中の『シュプール』の玄関を出た。
そして振り返り、目を開けると、小さい木片のひとつを拾った。
しかしぼくは、それに込められた、外見からは想像もつかないような重みを感じてためらい、それを再び元にもどした。

……忘れてしまおう。
『シュプール』も、事件も、その悲しみも、そして真理のことも、すべて忘れてしまうのだ。
そのためには、記憶を呼び起こすような物を持っていてはいけない。

 

 

ぼくはすぐ車に乗り込んだ。
そして、人混みの中に戻るために、その場を去った。

人波に流されれば、記憶のひとつやふたつなど、簡単にかすれてしまうだろう――。

 

 

 

終 


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