至福の瞬間
 バイクに乗っていると、至福の瞬間がある。それは一年に一度か二度、あるいは二年に一回しか訪れない、全く気まぐれな瞬間である。「至福」と言ったら、コーナリングが完璧に決まった時とか、フルスロットルで加速する時なんかを思い浮かべるかもしれない。でも、この「至福」はそうじゃない。逆に、バイクの存在が意識から消え去ってしまう瞬間だ。
 バイクに乗っているのに、バイクが消えてしまうなんて妙な話かもしれない。しかし、実際そうなのだから不思議だ。何の変哲もない道を時速60kmくらいで流している。気候は暑からず寒からず、ヘルメットの隙間から流れ込む風は、まるで春のそよ風のように心地よく頬を撫でる。ふと、キンモクセイの香りが鼻腔をくすぐる。すうっと息を吸い込み、軽く目をつぶると、もうバイク乗っていることを忘れ、ただただ風の中を漂う存在になっている。目を閉じると言っても、ほんの数秒のこと。だけどこの瞬間が、頭の中にまでそよ風が吹き込んで来るような至福の瞬間なのだ。
 その時は滅多に訪れない。様々な条件が揃う必要があるようだ。自然条件が整わないと見られないオーロラや蜃気楼と同じ類のものかもしれない。僕は今日も、至福の瞬間が訪れないかと期待しながらバイクを走らせる。

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