「成蹊大学?」
「なにそれ?成城大学じゃなくて・・・?」
「”蹊”?”渓”じゃないの?」
いまいちマイナー大学の感がぬぐえない成蹊。
ここで皆さんに、「成蹊大学」の名の由来をご案内します。

「成蹊」という名は、司馬遷が「李将軍列伝」(史記)において
「李廣」の人物を述べるため引用した諺、「桃李不言下自成蹊」
(桃李もの言わざれども下おのづから蹊を成す)から採ったものです。
桃李というのは、桃と李(すもも)のことです。
ここで、道とか建物とか何も無い野原に
桃や李の木が立っているところを想像してみてください。
桃や李は自分からは当然話をすることはありません。あたりまえです。
でも、桃や李は春にはきれいな花を咲かせ、夏には木陰をつくり、
秋にはたくさんの果実を実らせます。
すると、人々は木が呼んだわけでもないのに美しい花を見るために、
また、その果実を得るためにその木の下に自然と集まってきます。
その営みが年々繰り返されるうちにその木の下に自然と小道、
「蹊(こみち)」ができるというのです。

ここで言う「桃」や「李」は、人格のある人のたとえで、そういう徳行のある人には、
その徳を慕って自然と人々が集まってくるということです。
「そのような人物になるように」、「その人々が集う場所が成蹊大学たれ」という願いが
「成蹊」という大学名にあるようです。
勿論、フェローズ会員も例外ではありません。


※「李廣」について
文帝・景帝・武帝の三代に仕えた将軍。上背に恵まれ腕が長く、天性の弓の名手であった。
狩に出て、草むらにある岩を虎と見間違えて矢を射かけたところ、
岩に矢が突き刺さったという話が伝えられている。
北方の異民族匈奴との戦いにしばしば出撃して勇名をはせ、匈奴から「漢の飛将軍」と恐れられた。
一方、部下に対しては思いやりが深い人物であった。行軍中、飢えと渇きに苦しんでいるとき、
たまたま泉を発見しても、部下が全員飲みおわるまでは、自分は決して飲まなかったし、
食糧も部下全員にいきわたるまでは、手をつけることはなかったという。
このため部下も心から李廣を慕い、李廣のためなら喜んで死のうとするものばかりだったという。
晩年、対匈奴戦に出撃した際、李廣は別働隊を率いて迂回路を進んだが、
途中で道に迷い戦闘に間に合わなかった。
そして李廣はその責任をとって、自らの首をはねた。
部下の将兵はもちろん、直接李廣を知らない者までも、涙を流してその死を悲しんだという。
桃李不言下自成蹊