航空母艦 天城型(天城 赤城)


 アメリカ合衆国のダニエル計画に対抗するため、日本海軍は八八艦隊計画を策定し、計画に基づいて戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を中核とする100隻余の艦艇の整備に乗り出した。このとき巡洋戦艦の第一陣として建造が開始されたのが天城型である。主砲として40センチ連装五基10門を備え、最大速力30ノットを発揮し、加えてジュットランド沖海戦の戦訓を考慮して長門型を上回る装甲を備えた、いわば高速戦艦として計画された。

 しかし、一番艦天城が進水する直前の1922年11月11日、ワシントン海軍軍縮会議が開かれ、当時建造中だった陸奥以降の戦艦群は全て破棄することになった。そのため、天城型もまた他の戦艦と同様に廃棄されるはずだったが、個艦排水量33000トンの範囲内であれば戦艦や巡洋戦艦を4隻(合衆国は2隻)まで航空母艦に改装できる、との特例が定められていたため、この条項にしたがって天城型の中でもとくに建造が進んでいた2隻(天城・赤城)と加賀型2隻(加賀・土佐)は航空母艦に改装されることになった。

 航空母艦への改装が決まったとき、天城と赤城は共に防御甲板まで完成しており、特に天城はいつでも進水できる状態であった。そこで、船体はそのまま残してその上部を大幅に改正することになったため、天城の改装工事は横須賀工廠の艤装岸壁で行なうこととし、1923年8月31日に進水式が行なわれた。翌9月1日に関東大震災が発生、天城を建造していた横須賀工廠の第三船台も損害を受けたが、天城はすでに進水していたため事無きを得た。仮に進水していなければ天城もまた大きな損傷を受けていたはずで、関係者の間では幸運艦ともてはやされたものである。

 だが、当時は世界的に見てもいまだ確固たる運用方法が確立していない艦種であり、日本海軍もわずか7500トンの鳳翔しか建造経験がなかったため、いきなり30000トン級の航空母艦を設計することは困難を極めた。それでも1924年8月にはどうにか設計案がまとまり、同年9月から天城は横須賀工廠で、赤城は呉工廠でそれぞれ改装に着手した。天城型の建造は、海軍休日のさなかにしては比較的急ピッチで行なわれ、およそ2年後の1926年末には両艦とも竣工した。

 天城型の特徴として、雛壇型に配置された三段式飛行甲板が挙げられる。これはイギリスの航空母艦フューリアスに倣ったものであり、3つの飛行甲板を使用する事で発着艦作業を同時に行なえるとの発想で採用されたものである。しかし、格納甲板の前方を滑走甲板に充てていたため、格納庫の容積が削られて排水量の割に搭載機数が少なく、戦、攻、偵合わせて60機しか搭載できなかった。また、20センチ砲を装備していたことも大きな特徴である。羅針艦橋直前の二段目飛行甲板上に連装砲塔が一基ずつ両舷に配置され、艦尾よりの中甲板にも単装砲が三基配置されていた。片舷5門合計10門という重武装であり、万一敵巡洋艦と遭遇しても対抗することができるよう考慮されていた。対空兵装も当時としては充実しており、12センチ連装高角砲が片舷三基、計六基装備されていた。なお、羅針甲板は上部甲板の下に設けられており、いわゆる平甲板型の航空母艦になっている。機関は巡洋戦艦時に予定されていたものを流用し、技本式ギヤードタービン四基計132000馬力だったが、排水量が巡洋戦艦時の計画に比べて29300トン(基準)とかなり軽くなったため、最大32.5ノットの発揮が可能となっていた。ただし、対外的には基準排水量26900トン、速力28.5ノットという控えめな数字が公表されている。

 天城と赤城のもっとも大きな違いは、煙突の装備方法である。天城では煙路を右舷中央に導き、飛行甲板下で斜め下方に傾斜させた大型煙突と、そのとなりに直立させた小型煙突の二本が設置され、一方の赤城では、煙路を左右両舷に分け、艦尾まで誘導してそこから排煙を排出する形式を取った。これは、鳳翔のような直立煙突では、排煙が飛行甲板上の気流を乱すとして問題になっていたため、天城型ではまったく別な方式を採用することになっていたのだが、模型による実験ではなかなか妙案を得ることができなかった。そこで実際に建造して検証することになったものである。

 竣工後は公試運転が行なわれた後に聯合艦隊に配備されたが、ほどなく赤城の誘導煙突方式は問題が多いことが明らかになった。着艦時に排煙の影響を避けるための誘導煙突方式だったが、実際には排煙がかえって艦尾付近の気流を乱す結果となり、逆に着艦が難しくなった。加えて、煙路付近にある準士官室ではその熱気で室内が蒸し風呂状態になるなど居住性が悪化したため、関係各所から不評を買うなど、完全に失敗であった。また、短時間で多数の機が発艦できるとして採用された三段式飛行甲板も、実際に使用してみると、二段目のいわゆる砲塔甲板は実用性に乏しく、かつ甲板どうしの連絡が煩雑で、かえって発艦作業に手間取ることになった。

 そこで、不具合を解消するために、比較的良好な実績を収めていた加賀型に順じた改装が行なわれる事になった。予算の都合からなかなか実施されなかったが、1934年に入ってようやく改装に着手した。改装は天城が佐世保工廠で、赤城が函館工廠で、どちらも同年5月に開始され、両艦とも1年後に完成した。なお、函館工廠は当時拡張工事が完了したばかりであり、40000トン級の修理用船渠が完成したことから、同工廠の技術力の向上を狙って改装工事を実施したものである。

 改装の結果、両艦ともに加賀型のような全通式の一枚飛行甲板となり、同時に格納庫も拡張されて搭載機数がほぼ90機となった。これに伴って第一甲板前縁の羅針艦橋が廃止され、代わりに飛行甲板上に小型の塔型艦橋が設けられた。なお、艦橋の位置は天城と赤城で違っており、赤城は右舷側煙突直前に、赤城は左舷側中央部に配置された。この違いは加賀型に倣ったもので、改装後の天城型の明確な識別点となっている。また、同時に第二甲板上に配置されていた20センチ連装砲塔も撤去された。この時艦尾付近に配置されていた20センチ単装砲六基はそのまま残されており、改めて増備されることもなかったため、20センチ砲は計6門に減少した。高角砲は門数こそ変わらなかったが、それまでの12センチ高角砲を12.7センチ高角砲に換装しており、近接防御用に25ミリ三連装機銃一四基が新たに装備された。天城の直立した小型煙突や不評を買っていた赤城の誘導煙突も廃止され、加賀型と同様の右舷側より外側下方に湾曲させた大型の誘導煙突が装備された。これは、ボイラーが重油専焼缶に換装されたことで煙突面積を縮小できたためでもある。これらの改装によって基準排水量が36500トンに増大したが、機関出力は以前のままで変わらなかったため、最大速力が31.2ノットに減少した。




新造時
第一次改装後
第二次改装後
基準排水量
26900t
33000t
33000t
公試排水量
34364t
42765t
42765t
全長
249m
250.4m
250.4m
全幅
31.3m
31.3m
31.3m
機関出力
131000hp
133000hp
133000hp
最大速力
31.5kt
31.2kt
31.2kt
航続力
8200海里/16kt
8200海里/16kt
8200海里/16kt
兵装
50口径20センチ連装砲2基単装砲6基
40口径12センチ連装高角砲6基
航空機60機
50口径20センチ単装砲6基
40口径12.7センチ連装高角砲6基
航空機/常用66機、補用25機
65口径10センチ連装高角砲6基
航空機/常用72機、補用18機


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