乙型巡洋艦 最上型(最上 三隈 鈴谷 熊野)


 1931年、ロンドン海軍軍縮条約によって補助艦艇の保有量が制限され、当時加熱しつつあった補助艦艇の建艦競争にひとまず終止符か打たれた。しかし、この条約の結果、日本の甲型巡洋艦の保有量は108400トンに制限され、この枠は当時建造中だった高雄型を最後に一杯になってしまった。この当時日本が保有していた甲型巡洋艦は古鷹型に始まって8隻であり、これに高雄型を加えても12隻でしかなく、総排水量180000トン、つごう18隻分の建造枠を確保し、多くの新造艦を建造しうる状況にあったアメリカ海軍に対して劣勢に立たされる事が予想されていた。

 その一方で、軽巡洋艦の保有量は138000トンを確保しており、条約締結段階で39550トンの建造枠が残っていた。さらに旧式巡洋艦利根、筑摩の廃棄量8160トンを加え、これに天竜型2隻の6400トン、球磨型4隻(大井除く)の廃棄量20680トンを加味すると、1936年末までに着工できる建造枠は74790トンとなる。一方、当時日本海軍が保有していた甲型巡洋艦はそのことごとくが第二艦隊用の戦力と規定されており、第一艦隊にあって戦艦を護衛し得る大型巡洋艦の不足が唱えられていた。そこで、第一艦隊護衛用の乙型巡洋艦でありながら、条約型重巡洋艦とほぼ同等の性能を有し、アメリカの条約型重巡洋艦にも対抗し得る性能を備えた10000トン級中型巡洋艦の建造計画が軍令部より提出された。なお、可能な限り同じ性能の艦を多数そろえる目的から、74790トンの排水量をほぼ当分に8分割し、まずは9500トン級の艦を4隻、ついで保有量を確保次第9150トン級の艦を4隻建造する事とされた。

 この新型巡洋艦の建造計画にあたって軍令部から提示された性能は、9500トンの船体に6.1インチ砲三連装四基12門、三連装魚雷発射管四基の兵装を備え、装甲は対8インチ砲弾防御を施し、最大速力37ノット、巡航18ノットで10000海里の航続距離と過大ものであった。この6.1インチ砲は、この仮称第一中型巡洋艦級用に新規開発された高角砲仕様の長砲身砲である。また、有事には主砲を20センチ連装砲に短期間で換装できるよう、砲塔は互換性を持った設計が要求されたが、基準排水量9500トンではとてもこの性能は満たせない、との意見が艦政本部側より提出され、これに関してはすぐに取り下げられている。ただし、かわりに主砲塔をもう一基追加する事が求められており、このため当初前後に二砲塔を背負い式で振り分ける予定だったものを、一番砲塔の前方に砲塔を一基追加する事になった。

 こうして完成したのが最上型である。兵装については軍令部の要求どおり主砲15.5センチ三連装五基15門、高角砲12.7センチ連装四基8門、三連装魚雷発射管四基となった。なお、竣工後に主砲打撃力の不足を深刻視する向きがあったが、主砲の三年式六〇口径15.5センチ砲は単位時間あたりの投射弾量が大きい上に散布界も小さく、かつ操作性も高かった事から砲術関係者からも好評で、この件に関してはさほど問題とならなかった。その一方で、装甲については排水量の関係もあって要求を満たすことができず、対6.1インチ砲弾防御を施すことが精いっぱいであった。もっとも、当時竣工していた列強各国の甲型巡洋艦にしたところで完全な対8インチ砲弾防御を備えていたわけではなく、それを実現するには後の伊吹型やアメリカのボルティモア級のように14000トンほどの排水量が必要であったことを考えると、むしろ条約型巡洋艦として妥当な攻防性能を備えていたと見るべきであろう。速力については、37ノットの発揮には150000馬力の確保が必要であるとの試算が出たため、とてもそれだけの出力は確保できないとして138000馬力の機関を搭載し、最高速力は35.7ノットにおさえられた。搭載燃料も計画に比べていくらか削減されており、航続距離は18ノットで9000海里となっている。

 しかし、当時の日本艦艇全般に見うけられるように、本型もまた重心位置が高く、復元性に欠ける傾向が設計段階から見られた。建造中に発生した友鶴事件はその問題点を浮き彫りにし、最上型においても建造途中に艦橋の小型化やバラストの搭載などいくつかの改正が実施されている。しかし、公試に入ると更なる問題点として主防御部以外の強度不足が明らかになり、特に艦首外板に凹凸が発生したのである。ことは関係者にとって大きな衝撃であった。また、推進器付近の外板や肋材にも亀裂が発生し、竣工直前にこれらの補強が実施されている。どちらの問題も主に設計上の理由であると結論付けられ、軽量化を図るあまりぎりぎりまで薄く設定されていた艦首尾部の船体甲鈑を張り足し、舷側にバルジを設けて復元性と浮力の確保を行なっている。

 竣工後は第七戦隊に配備されたが、昭和10年の海軍大演習では全艦が第四艦隊の所属となり、この演習時に三陸沖で強力な台風に遭遇することになった。この時最上型の損害はそれほどひどくはなかったが、やはり重心位置が高めであることが判明した。また、当時の建艦技術から鑑みるに溶接構造は問題があるとの指摘がなされたため、改めて外板の一部交換や補教材の追加などが行なわれた。これらの改装の結果、排水量は10320トンに増加し、速力もいくらか減じて35ノットとなった。これらの改装が終了したのは1937年末のことである。

 満ソ開戦時には最上と三隈が第七戦隊籍にあり、南遣艦隊の中核として主に南支那海の航路の護衛にあたっていた。しかし、満ソ開戦の重大事にあたって南遣艦隊は急遽遣支艦隊と名を変えることになり、東支那海の制海権維持にあたることになった。その後、戦略の転換からソ連に対して積極策を採ることになり、呉鎮守府籍にあった鈴谷と熊野を加えて最上型4隻の編成となった第七戦隊は第五艦隊に編入され、ウラジオストク上陸作戦に参加した。

 作戦後、舞鶴に寄港して物資を補充した本型は、兵装の換装を受けるために横須賀と呉に回航された。この時の改装は対空兵装の充実が目的で、ナホトカ沖海戦において出撃した扶桑型や古鷹型、青葉型といった旧式艦がソ連軍機に苦しめられたことをうけてのものである。この改装の結果、高角砲はそれまでの八九式四〇口径12.7センチ連装砲から新型の九八式六五口径10センチ連装砲に換装され、加えてボフォース社が開発した40ミリ四連装機銃が四基、艦橋と後檣の左右に追加装備された。

 戦時中はその有効な兵装によって機動部隊の護衛から敵軽快艦艇部隊との砲撃戦まで幾多の海戦に参加した本型だが、その最も大きな功績は、艦艇建造における溶接技術の確立に多大なる貢献を成したことであろう。最上型自体は竣工後に溶接部の強度不足に寄るさまざまなトラブルに見舞われたが、艦政本部はその代わりに溶接技術に対する充分な経験を得たのである。条約時代にこそ間に合わなかったものの、無条約時代に入ってから計画、建造された艦艇には溶接工法が多用される事になり、艦艇の軽量化と建造期間の短縮に関して大きな影響をもたらした。




新造時
第一次改装後
基準排水量
9500t
10320t
公試排水量
10900t
11020t
全長
200.3m
200.3m
全幅
18m
19.1m
機関出力
138000hp
138000hp
最大速力
35.7kt
35kt
航続力
9000海里/18kt
9000海里/18kt
兵装
60口径15.5センチ3連装砲5基
40口径12.7センチ連装高角砲8基
61センチ3連装魚雷発射管4基
60口径15.5センチ3連装砲5基
65口径10センチ連装高角砲8基
61センチ3連装魚雷発射管4基


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