高速戦艦 近江型(近江 駿河)


 ワシントン海軍軍縮条約は、締結後10年間、戦艦の新規建造を凍結することになっていたが、それ以降は艦齢が20年を超える戦艦について代艦の建造が認められていた。そこで、摂津と金剛型の代艦として計画されていたのが近江(この当時は河内代艦と呼ばれていた)型である。排水量の関係から、5隻の戦艦を破棄する替わりに合計4隻の建造が予定されていた。この規定は後のロンドン海軍軍縮条約によって戦艦の建造禁止期間が更に5年間延長されたことから抹消されたが、同時に各国の戦艦保有隻数が決定され、各国が保有する戦艦戦力の関係から、日本のみ特例で摂津と金剛を破棄する代わりに2隻の戦艦の新造が認められた。そこで、近江型も建造数を2隻として、一番艦近江の建造は摂津の代艦建造が可能になる1932年7月の着工が予定され、それに向けて設計案の検討が始められる事になった。

 近江型の設計が開始されたのは1929年である。当初は藤本造船大佐を中心とする委員会によって検討が進められ、公試排水量39250トン、機関出力78000馬力で速力26ノット、主砲40センチ砲三連装三基9門、副砲15.5センチ砲連装六基12門といった性能が計画されていた。

 しかし、設計を審議する技術会議において平賀造船中将が全く独自に設計した私案を提出、これに軍令部の一部将官が興味を示したことから、それまであまり無理の無い設計方針で進められてきた会議がここに来て混乱を見せる事になる。平賀案では、公試排水量39200トン、機関出力80000馬力で速力26.5ノット、主砲40センチ砲三連装および連装各二基計10門、副砲15センチ砲連装四基および単装八基計16門という要目で、上部構造物を切りつめて主防御部を集中させることが図られていた。数々の要素を限界まで圧縮する事によって攻撃力・防御力をともに増強したこの平賀案は、とりわけ海軍上層部からかなり幅広い賛同を集めた。そのため軍令部や艦政本部でも平賀案をあからさまに無視する事ができず、最終的に、基本的な設計ラインは藤本案をとり、そこに平賀案の構想を盛り込むという玉虫色の方針が決定されて今一度要求性能の見直しが図られる事になった。

 もっとも、こうした軍令部、艦政本部の見解は半ば以上表面的なものである。最終的な軍令部要求は、基準排水量が条約を超えざる事、砲力16インチ9門以上、速力30ノット以上、というもので、これに応えて艦政本部が提出した設計案はヴァイタルパートの短縮以外、平賀案の影を感じさせないものであった。全長227メートル、全幅30メートル、公試排水量39000トンで、機関は計画時に比べて技術が進歩し、重量をおさえつつより高出力を発揮する機関が開発されたことと軍令部が30ノット以上の速力を求めたことから、152000馬力の高出力の機関を搭載することになり、最大速力が30.8ノット、航続距離も18ノットで9000海里となった。ただし、対外的には機関出力110000馬力で速力28ノットと、いくらか過小な値が示されている。主砲は八九式40センチ砲三連装三基9門であり、副砲を全廃して両用砲12.7センチ連装砲八基を備えていた。また、35000トンの排水量では十分な対40センチ砲弾防御を施すことは不可能で、一部を対36センチ砲弾防御でしのいだ。これは長らく近江型の欠点といわれてきたが、実際には比較的少ない工数で装甲を追加できる部分を削ってあり、有事の最には簡単な工事で十分な装甲が備えられるよう設計段階から考慮されていたものと思われる。替わりに水密防御はかなりの充実が図られており、それまでの戦艦とは一線を画すものとなっていた。これは、水密防御についてはあとから手を加えることが難しいためでもあろう。このほか、乙巡最上型の実績を踏まえた上で主要部以外には電気溶接が多用され、船体の軽量化に貢献している。

 なお、副砲が全廃されたのは、防御力との兼ね合いに加え、軍令部から追加された速度増加の要求によって機関部の容積が増加したことが原因である。用兵側はこの点を不満としたが、駆逐艦に対しては12.7センチ砲でも十分な威力があり、巡洋艦級の艦艇に対してもある程度有効であったため、現実にはさほど問題とはならず、かえって大戦中急速に威力が増大した航空機に対して大きな威力を発揮した。戦後になって、当初から航空機に対抗する目的で副砲を廃し、高角砲のみとしたかのような説が唱えられたが、現実には偶然の産物で、次善の策がたまたま最善になっただけのことである。アメリカの条約破棄後に建造された大和型が副砲を備えて竣工したことから見ても、設計段階から航空機への対応を考えていたわけではないことが理解できよう。

 海軍休日中に建造された唯一の戦艦である本型は諸外国からも注目されており、ポストワシントンクラスといわれる条約失効後に各国で建造された戦艦の目安とされた。各国で建造された戦艦の要目が近江型に似ているのはそのためである。

 戦艦の建艦が制限されていたため、技術を維持する目的もあって、本型二隻の建造は比較的時間をかけてじっくりと行なわれた。アメリカが条約失効を通達してきた後には建艦速度が速められたが、その時は両艦ともすでに艤装がかなり進んでおり、竣工したのはともに1936年のことだった。

 本型は、後に建造された大和型に見られる特徴がいくつか現われている。たとえば、主砲の八九式四五口径40センチ砲は新しい素材で鋳造されて強度を増してあり、新型の重量砲弾の射出にも耐えられるようになっている。また、戦艦で三連装砲塔を採用したのも本型が最初である(ただし、日本の艦艇全般では近江型が最初ではなく、軽巡洋艦の最上型が初めて装備している)。また、塔型のすっきりした艦橋や集中防御方式も本型以降の特徴であり、これも大和型に受け継がれている。

 竣工後は、主に横須賀鎮守府や第一戦隊に配備され、満ソ戦争開戦時には横須賀にあったが、対米関係の悪化から戦闘には参加せず、1940年9月、対米戦を睨んで第一次改装が両艦同時に行なわれた。これは、様々な事情から竣工時には間に合わなかった各種儀装を改めて施そうというもので、戦時下とあって工事は急ピッチで進められた。竣工時には省略されていたバルジを第一砲塔下部から第三砲塔下部までの舷側全てを覆うように追加装備し、これによる艦幅増加から最大速力が多少低下して30.2ノットとなった。高角砲は新型の九八式六五口径10センチ連装高角砲に換装され、同時に高射装置も新型の九四式に換装されている。なお、長10センチ高角砲を装備したのは、大和型に続いて本型が二番目の戦艦である。このほか、艦尾船体内に航空機格納庫を追加するなどの工事も実施された。




新造時
第一次改装後
基準排水量
35000t
35000t
公試排水量
39000t
40650t
全長
227m
227m
全幅
30m
31m
機関出力
152000hp
152000hp
最大速力
30.8kt
30.2kt
航続力
9000海里/18kt
9000海里/18kt
兵装
50口径40.6センチ3連装砲3基
40口径12.7センチ連装高角砲8基
50口径40.6センチ3連装砲3基
65口径10センチ連装高角砲8基


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