第一次大戦後、急速にその打撃力を発達させていた航空機に対し、対空射撃を主眼に置いた護衛用小型艦艇として計画されたのが秋月型である。秋月型の前進となったのは、第二次ロンドン海軍軍縮条約下において建造が予定された艦隊直衛艦計画である。本来、その目的として計画されたのが初春型であったが、条約の制限から1400トンの排水量でまとめようとした同型はその設計にあたって各部に無理が生じたため、この排水量を増じて船体に余裕を持たせることが計画の主眼となっていた。第二次ロンドン海軍軍縮会議において日本海軍は駆逐艦の基準排水量制限を1500トンから1800トンへと引き上げるよう要求することになっており、事前に進められていた予備交渉においてはイギリスとの間で折衝が続けられていた。仮に条約が成立していた場合、白露型から予備魚雷を撤去、もしくは魚雷発射管を1基減じ、代わりに艦前部に単装砲塔を1基追加した1700〜1900トン級の艦が建造される予定であった。
しかし、アメリカの軍縮条約脱退から無条約時代を迎える事になり、情勢の変化に伴う艦隊整備計画の大幅な変更から、直衛艦計画もその性格を大きく換える事になった。それまで第一艦隊用の駆逐艦迎撃用として計画されていた直衛艦は、新型の高速戦艦と航空母艦で構成される前進部隊の対空護衛艦として建造されることになったのである。航空戦における経空脅威の排除を目的としたことから、それまでの「高角砲の代用」としての砲装備ではなく、完全な対空砲を装備することが求められるようになり、同時に前進部隊として長距離の進出に耐える必要から長大な航続距離を備える事が必須とされた。
最終的に軍令部から出された要求は、高角砲8門以上、高射装置二基、航続距離18ノットで10000海里と言うもので、純粋に防空用直衛艦としての性能を求めたものであった。これに対し、艦政本部は10000海里の航続距離を発揮するには3000トンを越える船体が必要であるとしてこれを8000海里に抑え、かわりに燃料搭載量を確保するために巨大化した船体を利用して魚雷発射管を一基搭載する案を提出した。後に「防空艦としての特異性を損ねる」として批判の対象になったこの発射管搭載だが、これはいざ空母機動部隊が敵大型水上艦艇に襲われた場合の対抗手段として必要性が認められたものであり、空母機動部隊が高速水上艦艇に襲われる危険性が考えられていた当時においてはむしろ真っ当な発想の下で行なわれた決定であったと言える。
設計案の決定を見て、秋月型は1938年の第三次海軍艦艇補充計画追加計画において2隻、翌1939年の第四次海軍艦艇補充計画において10隻の建造が計画された。また、1940年策定の海軍艦艇戦時補充計画においてもさらに10隻の追加建造が認められ、翌1941年の第五次海軍艦艇補充計画においてはさらに24隻の追加建造が計画されている。もっとも、秋月型として着工したのはこの24隻のうちの10隻であり、残る14隻はさらに追加された海軍艦艇緊急補充計画の24隻を加えて改秋月型となる北風型として建造された。
秋月:新造時(1940年)
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基準排水量
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2700t
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公試排水量
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3470t
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全長
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134.2m
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全幅
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11.6m
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機関出力
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52000hp
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最大速力
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33kt
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航続力
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8000海里/18kt
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兵装
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65口径10センチ連装砲4基
61センチ四連装魚雷発射管1基 |