ワシントン海軍軍縮条約の結果、魚雷戦備を艦隊整備の中核に据えた日本海軍は、妙高型甲型巡洋艦の雷装強化と共に雷装を兵装の中心とした高雄型甲型巡洋艦、遠洋での航海にも耐える特型駆逐艦を建造し、その拡充を推し進めていた。一方で艦隊決戦時における魚雷戦術の研究も行なわれていたが、その戦備が拡大、統制するべき艦船数が増大するにつれてその統制指揮の問題も唱えられ始めた。そうした問題に対応するために、火力支援も兼ねた第二艦隊旗艦用の大型艦として研究が開始されたのが超甲型巡洋艦計画である。もっとも、夜戦における統制魚雷戦の火力支援艦としては最古参の金剛型戦艦が高速戦艦へと改装される事になり、指揮機能については高雄型甲型巡洋艦が充分な能力を有していた事から、超甲型巡洋艦計画は概念研究の段階に止め置かれていた。現実問題として日本の10000トンを越える大型戦闘艦建造枠についてはロンドン海軍軍縮条約によって戦艦9隻と決まっており、そもそも着工する事が不可能な状況であった。1933年にはドイツが新型の装甲艦ドイッチェラントを竣工させ、フランスがそれに対抗して戦艦ダンケルク級の建造を開始するなど、このクラスの艦船が登場するようになるが、両艦とも欧州に配備される戦闘艦であって日本海軍が交戦する可能性は少ない事、仮に対峙する事になったとしても既存の戦艦戦力で対抗は充分に可能である事から、建艦計画に反映される事はなかった。
こうした状況が変化するのは、海軍休日最後の年となった1936年の事である。アメリカ海軍がドイツで着工したシャルンホルスト級巡洋戦艦対抗のために大型巡洋艦の建造を計画している、との情報が日本にもたらされたのである。この時はソヴィエト海軍の依頼によってアメリカで起工することになったクロンシュタット級巡洋戦艦の建造計画を誤認したものであったと後に判明したが、日本海軍においてこれは大きな脅威となり得るものであった。翌1937年アメリカ議会で成立した両洋艦隊法によってアラスカ級大型巡洋艦の建造計画が承認されるに至ると日本海軍でもこれに対抗する必要が生じ、それまで続けられていた超甲巡計画が建造計画へと正式に格上げされる事になる。
阿蘇型の設計にあたってもっとも混乱をきたしたのは、その主砲口径をどのクラスにするのか、という部分であった。予備研究時に考えられていた第二艦隊への火力支援という目的だけであれば一般的な条約型巡洋艦を上回る22センチ砲で充分であったが、これでは当然ながら12インチクラスの砲弾に対応した防御を持つクロンシュタット級巡洋戦艦や合衆国の大型巡洋艦に対抗する事は非常に困難であった。かといってこれらのクラスと同様に31〜33センチクラスの主砲を搭載した場合、30000トン超という金剛型戦艦並の排水量になると試算され、建造費やその維持にかかる手間を考えると、これでは費用対効果の低い艦となってしまうことになる。そこで、ここまで排水量が増大するのであればいっそ戦艦への対抗も考慮して金剛型のように14インチ砲を積んでしまってはどうか、という事になり、最終的にはこの意見が採用されることになったものである。この頃には機動部隊の前衛として計画されていた超戦艦計画が、主に機関技術の制限と航空機の急速な発達から構想通りの戦力として建造する事が不可能であるとの報告が行なわれており、その代替戦力として33ノット超の速力発揮が可能な超甲巡に期待が集まったこともまた主砲口径増大の一員となったものである。その意味において、主砲口径14インチというのは必要最低限のものであった。
なお、この時装備する14インチ砲も五〇口径と砲身長を伸ばして近距離での打撃力を向上させた物を開発する案が軍令部の一部から出されているが、新規開発にかかる手間が嫌われて見送られた。当時は海軍の一大拡張期にあたっており、主力ではない艦の主砲開発に予算も人員も策余裕はない、というのがその理由であった。実際、四五口径砲であっても打撃力にそれほど不足があるわけではなく、また四五口径14インチ砲であれば金剛型のみならず扶桑型、伊勢型でも採用されていて予備砲身数に余裕があるなど、調達の容易さ等も考慮されたようである。なお、このクラスの主砲をつんでしまってはもはや甲巡ではなく、巡洋戦艦と呼ぶにふさわしいものであったが、情報秘匿の意味もあって艦種類別は当初の予定通り超甲型巡洋艦(Large Cruiser)とされた。
主砲配置は連装砲塔四基を前部二基、後部二基と振り分けて長門型のように背負い式に搭載するもので、これを35000トンの船体に収めている。なお、この連装砲塔の設計には伊勢型のそれが流用され、設計作業の短縮に一役買っている。艦橋は近江型以降標準となった塔型のものが採用され、高角砲も新式の長10センチ連装砲を片舷四基、計八基搭載した。速度性能を重視したために船体の縦横比は大きく、全長240メートルに対して全幅28メートルと巡洋艦並みのほぼ8:1の船体比がとられている。これに186000馬力の機関を搭載し、最大速力は34ノットを発揮、航続力も18ノットで9800海里に達した。
特徴的なのは防御力に対する考え方である。舷側装甲は最大でも210ミリしかなく、金剛型(改装後)はもちろん、アラスカ級やシャルンホルスト級といった他国の同級艦に比べてもいささか劣勢であったが、代わりに水平装甲が160ミリと非常に厚く取られていた。同級以上の艦との水平弾道による砲撃戦を想定していなかったかのような印象を受けるが、これは、夜戦における火力支援艦としての性格が重視された事から、大型艦同士における近距離での砲戦をそれほど重視していなかったためである。それに、薄いといわれる舷側装甲も傾斜して取り付けてあり、実際の装甲厚以上の防御力を持っていたことから、実際の戦闘において重大な支障をきたす事はなかった。また、敵空襲下での突撃艦としての性格もあった事からとりわけ水雷防御が重視されており、バルジ内部に水密鋼管層を備え、舷側装甲内部には二重の防水区画、応急注排水区画を設けるなど非常に充実したものであった。
超甲巡の建造は、1939年度の第四次海軍艦艇補充計画で2隻が予定され、同年中に函館海軍工廠と横須賀海軍工廠でそれぞれ起工した。同年アメリカで起工したクロンシュタット級巡洋戦艦2隻がウラジオストクに回航されてソヴィエト極東艦隊に配備され、加えてドイツのポーランド侵攻に伴って政府が対独宣戦布告を行なうなど国際情勢の変化に対応し、建造が急がれることになった。 合衆国との関係が悪化していた事から長門や新鋭の近江型はそちらに備えなければならず、改装を終えた金剛型もそのうちの2隻(金剛、榛名)が遣欧艦隊の中核として欧州に派遣されるに至り、北方海域で活動を開始したクロンシュタット級を始めとするソヴィエト艦隊に対応できる大型の高速打撃艦が比叡、霧島のわずか2隻のみという事態に陥った。そのため、超甲巡の必要性が急激に高まり、建造中だった2隻はかなり高い緊急度をもって建造が進められ、当時策定中だった海軍艦艇戦時補充計画でも、第五次海軍艦艇補充計画で予定されていた同型艦4隻の建造計画が急遽繰り上げられた上で組み込まれた。元々夜戦部隊の指揮支援艦として計画された超甲巡だったが、その巡洋戦艦としての性格は高速戦艦である大和型よりもむしろ使い勝手が良く、大戦中はその全期間を通じて前線で活躍を続けた。
その当初の目的に比べて過剰な打撃力を有し、本来の目的であった補助艦艇に対する手数という意味での打撃力が減少した本型だが、合衆国が性能的に中途半端なアラスカ級をもてあまし、ドイツでもシャルンホルスト級は主砲打撃力の不足によって大戦中苦戦を強いられた事を考えると、その主砲選択は非常に正しかったわけである。むしろ、合衆国の戦艦アイオワ級と比較されてその打撃力の不足をうたわれる事が多いが、国力に劣る日本にあっては、逆に国力にみあった妥当な高速打撃艦であったといえよう。
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基準排水量
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34900t
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公試排水量
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44580t
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全長
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240.2m
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全幅
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27.85m
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機関出力
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186000hp
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最大速力
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34.2kt
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航続力
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9800海里/18kt
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兵装
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45口径35.6センチ連装砲4基
60口径10センチ連装高角砲8基 |