戦艦 扶桑型(扶桑 山城)


 日本海軍が河内型に次いで建造した弩級戦艦の第二陣で、金剛型によって得られた技術をもとに、日本海軍が始めて設計、建造した超弩級戦艦である。金剛型と対になる戦艦として、明治43年度艦隊補充計画において同型艦8隻の建造が計画された。

 扶桑型は、14インチクラスの主砲を積む戦艦としては当時世界最多の12門を搭載し、これを連装砲塔六基に収めていた。設計案作成時には三連装砲塔四基や四連装砲塔三基といった案も存在したが、交互撃ち方を主砲射撃法として採用していた関係もあって連装砲塔の採用になったものである。なお、日本が独自に設計した戦艦としては初めてこれら六基の主砲塔を全て艦の中心線上に配置し、全砲塔を左右両舷に指向出来るようになった。しかし、ただでさえ場所を食う砲塔を六基も搭載した事で、上部構造物の配置は非常に窮屈なものとなった。第一、第二煙突の間に第三砲塔を配置した事も設計上の制約となっており、機関室の配置を制限したのみならず、機関部や砲塔弾薬庫の防御にいくらかの不安を抱える事になった。もっとも、これは当時各国で建造された多砲塔搭載艦全てに共通する問題であり、扶桑型においても後の艦で改善されることが早々に決定されている。副砲は金剛型にならって英国式の四一式五〇口径15センチ砲を片舷8門、両舷16門が装備されたが、この6インチ砲は砲弾重量が45キロあり、当時の日本人の体格では重くて扱いにくいものであった。また、水中発射式の53.3センチ魚雷発射管が片舷三基、計六基水線下の舷側底部に装備されている。機関出力は当時の戦艦としては標準的な40000馬力であり、これによって速力は最大22.5ノットを発揮し、航続力は巡航14ノットで8000海里となっていた。

 一番艦扶桑は1912年3月11日呉海軍工廠で起工、二番艦の山城は1913年11月20日に横須賀海軍工廠で起工されたが、当時国会における与野党対立の余波から建艦予算が削減され、さらにシーメンス事件による政局混乱も手伝って、扶桑型の建造計画は大きく遅れる事になった。そこで、予定されていた三番艦以降については設計を見直すことになり、扶桑型は二隻で打ち切られる事となった。

 扶桑の竣工は1915年11月8日だったが、翌1916年6月に勃発したジュットランド沖海戦によって、弩級戦艦が中遠距離砲戦に対応していないことを露呈した。そこで、予算の都合から竣工が遅れていた山城ではすぐさま対策が執られる事になり、砲塔上の測距儀を扶桑の4.5メートルから6メートル型に換装、前檣トップの観測所には日本戦艦として初めてとなる方位盤照準装置が装備された。また、当時急速に性能を向上させていた航空機に対抗するため、完成直後に三年式四〇口径8センチ単装高角砲が四基装備され、これも日本戦艦初である。これらの改良を受け、山城は1917年3月31日に竣工した。一方、それ以前に竣工していた扶桑については、包囲盤照準装置の追加が1917年中に、高角砲は翌1918年に装備されている。

 第一次世界大戦においては第一艦隊第一戦隊に配備され、太平洋戦域における連合軍の制海権維持にあたった。開戦時にはドイツ海軍東洋艦隊(装甲巡洋艦2、巡洋艦4)があったが、同艦隊は開戦直後に有力な連合国海軍を避けて南米経由で太平洋から脱出したため太平洋における海戦は発生せず、青島やマーシャル諸島への上陸作戦において上陸支援にあたるにとどまった。

 扶桑型に対してジュットランド沖海戦で得られた戦訓による改装が施されたのは、駆逐艦などの補助艦艇建造予算が縮小された第一次大戦終結後の事である。増大した砲戦距離に対応するため主砲仰角がそれまでの最大20度から30度に増加し、同時に、中遠距離での甲板面への被弾に備えるために砲塔の天蓋装甲が追加された。また、砲戦などの指揮が複雑化した事から、主砲測的所、主砲指揮所、高所測的所などといった各種兵装に関連する設備の改良や追加が行なわれ、前檣に設置された。この時、それまで吹きさらしであった羅針艦橋のエンクローズド化も行なわれている。主砲塔の改良は戦後すぐの事だったが、前檣楼の改装については扶桑が1924年から1925年にかけて、山城は予算成立の都合からそれより遅れ、1927年に実施された。なお、扶桑については、この時に砲塔上の測距儀を山城と同じ基線6メートルのものに換装している。

 その後、第二次ロンドン条約下において第二次大改装が予定されたが、同会議が流会になった事から改装計画が変更され、最も旧式の金剛型や長門型の改装が優先されて扶桑型、伊勢型の改装は一時凍結される事になった。1938年代後半に再度改装計画の話が持ち上がるが、この時には国際情勢、特に対米関係の悪化から新造艦艇の建造が優先されて予算が下りず、結局、扶桑型は1920年代の状態のままで第二次世界大戦を迎える事になった。ただし、この間も何度か小規模の改装を受けており、戦術の変化から魚雷発射管が全て、1936年に撤去されている。

 1938年に入り、アメリカで改装されたソヴィエト海軍のガングート級戦艦2隻がウラジオストクに回航されて太平洋艦隊に配備されると、これに対抗するため、扶桑型2隻は第五艦隊の中核として舞鶴港に配備された。1940年の日ソ開戦後は積極的に日本海の制海権維持に動き、第二次世界大戦における日本海軍初の海戦となった浦塩沖海戦ではソヴィエト太平洋艦隊と熾烈な砲撃戦を演じている。この海戦で大きな損害を受けた扶桑は舞鶴海軍工廠で応急修理を受けた後、本格的な復旧作業のために佐世保港へと回航されたが、その後結局破棄が決定され、戦後になって大神海軍工廠で解体された。なお、無事に残った4基の砲塔は、同工廠で建造中だった阿蘇型超甲型巡洋艦五番艦高千穂の砲塔に転用されている。

 一方、浦塩沖海戦を軽微な損害で切り抜けた山城は修復後伊勢、日向と共に第三戦隊に編入され、アメリカの参戦後はウェーク上陸作戦の支援任務にあたった後、マーシャル海戦に参加した。この時はさすがに大破の損害を受けた山城だが、内地へと引き上げると、損害回復とあわせて第二次改装が行なわれた。以前より不足が叫ばれていた水平装甲を増強するとともに機関の換装も行ない、最大速力25ノットを発揮するに至った。長門型や近江型、新型戦艦の大和型といった当時の日本主力戦艦群は30ノットで走り回る高速戦艦であり、伊勢や扶桑も速力をそのレベルまで引き上げることが求められたが、新型の高出力機関を必要とする艦艇が当時ひしめいており、予算の都合などもあって中速で我慢する事になった。なお、戦時中にあってなおかつ機関の改装が行なわれたのは、前線にあって石炭を必要とする艦艇が扶桑型、伊勢型を除いて存在しなかったため、艦艇燃料の重油への統一を求められたからである。旧式であることから解体も検討されたが、1943年当時は大型戦闘艦艇が圧倒的に不足しており、扶桑にもそれなりの働きが期待された事も改装が実施された理由であった。

 改装後は第八艦隊に編入され、豪州方面へと配備、同方面の制海権維持にあたった。




新造時
第一次改装後
第二次改装後
基準排水量
29300t
30250t
34700t
公試排水量
30600t
31500t
39154t
全長
205.13m
206.5m
212.75m
全幅
28.65m
30m
33.1m
機関出力
40000hp
40000hp
85000hp
最大速力
22.5kt
22.3kt
25kt
航続力
8000海里/14kt
8000海里/14kt
9800海里/18kt
兵装
45口径35.6センチ連装砲6基
50口径15.2センチ単装砲16基
53センチ魚雷発射管6門
45口径35.6センチ連装砲6基
50口径15.2センチ単装砲14基
40口径12.7センチ単装高角砲8基
45口径35.6センチ連装砲6基
50口径15.2センチ単装砲10基
40口径12.7センチ連装高角砲6基


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