高速戦艦 長門型(長門)


 弩級戦艦の建艦競争に乗り遅れた日本海軍は超弩級巡洋戦艦金剛型の建造によってその遅れを一挙に取り返し、その後も相次いで扶桑型、伊勢型といった超弩級戦艦群の建造に着手していた。しかし、仮想敵であるアメリカ海軍の建艦ペースはそれを上回るものであり、これに対抗するため、日本海軍ではそれまでの14インチ砲艦を凌駕する16インチクラスの主砲を搭載した戦艦の量産計画に踏み切る事になった。この第一陣が長門型である。世界的に見てもジュットランド海戦の戦訓を取り入れた戦艦としては最初期のクラスで、かつ世界で初めて40センチ(16インチ)砲を搭載する戦艦であった。なお、この16インチ砲搭載戦艦の量産は計16隻が予定されており、戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を中心とするこの建艦計画は八八艦隊計画と呼称された。

 長門型の建造予算については、1915年に一番艦長門のみが承認され、二番艦以降四番艦までの予算成立は翌1916年となった。これはシーメンス事件による政局の混乱や第一次世界大戦勃発に伴なって国際情勢が変化したことによるもので、この遅れを利用して三番艦、四番艦については設計を改良が図られ、二番艦陸奥のみが長門型として、他の2隻は加賀型として建造される事になった。一番艦(長門)の着工は1917年、二番艦(陸奥)の着工は1918年のことである。しかし、着工後も駆逐艦をはじめとする護衛用小型艦艇の建造が優先されたことから建造は遅々として進まず、長門の竣工は着工から4年も経った1921年の事であった。

 竣工時の長門は、基準排水量33800トン、全長215.8メートル、最大幅28.96メートルの船体に最大出力80000馬力の機関を備え、最大速力26.8ノット、航続距離16ノットで5500海里となっていた。もっとも、26.8ノットの速力は巡洋戦艦に匹敵するものであり、列強各国から脅威と見られることは避けられなかったため、対外的には最大速力23ノットと控えめな数値が発表された。この船体に主砲三年式四五口径40.6センチ砲連装四基8門を備え、副砲として三年式五〇口径14センチ砲を20門、左右両舷の最上甲板と上甲板に2段、ケースメイトで装備していた。また、新造時より四〇口径8センチ高角砲が4門装備され、前部煙突両側のシェルター甲板に配置されていた。しかし、気流の関係から前檣楼に第一煙突の排煙が逆流するという事態が生じ、この解消に苦労することになる。

 こうして竣工した長門だったが、二番艦の陸奥は結局竣工する事はなかった。1921年に開催されたワシントン海軍軍縮会議で建艦競争の抑制が図られ、建造中の戦艦は全て破棄されることになったためである。同型艦の不在は戦術機動を行なう上で不利ではあったが、これは当時急速に充実しつつあったアメリカの戦艦建造を抑止できた事からむしろ必要な犠牲であったと判断されている。結果、長門は日本海軍唯一の40センチ砲搭載艦となり、海軍休日時代の日本を代表する戦艦として、また世界の軍事バランスをになうビッグファイブの一隻としてすごした。この間、海軍の積極的な情報開示策も手伝って、日本海軍の象徴として国民からも親しまれ、近江の就役まで一貫して聯合艦隊旗艦を勤めた。ただし、この間にも不具合を解消するための小改装がいくらか施されており、特に排煙の逆流問題を解決するため、前部煙突を後方に大きく湾曲させていたのは、この時期の長門の大きな特徴である。

 やがて近江型が竣工すると、長門も本格的な近代化改装工事に入った。このときの改装では完了がロンドン条約期限切れになる事もあり、機関や主砲の換装を含んだ大規模なものが予定され、日本海軍が保有していた前条約型の戦艦に対する改装としては高速戦艦へと改装された金剛型をも上回る最大のものであった。このような大規模な改装になったのは、長門を本来の高速戦艦の姿に戻し、近江型とともに戦隊を組むことが予定されていたためである。

 改装工事に入ったのは1936年12月のことで、横須賀工廠で行なわれた。完成は1939年3月のことである。

 改装の結果、主砲がそれまでの(大正)三年式四五口径40.6センチ砲から近江型と同様の八九式四五口径40センチ砲に換装され、これを加賀型用に用意された主砲塔と組み合わせて仰角を43度としたものが装備された。また、副砲も仰角を35度に引き上げ、最大射程が20000メートルとなった。高角砲はすでに八九式12.7センチ連装高角砲が二基、艦橋左右に装備されていたが、後檣左右に二基が追加され、計四基となった。このとき高角砲を新型の九八式10センチ砲に換装する案も存在したが、肝心の10センチ砲は生産が開始されたばかりで必要数を確保できないことから見送られた。このほか、射出機の位置が根本的に改められ、それまでの第三砲塔上から後檣と第三砲塔の間に変更された。前檣楼にも改正が加えられ、トップに九四式方位盤照準装置が備えられた。機関関係もすべてが換装され、ボイラーがそれまでの混燃缶21缶から専燃缶8缶となり、機関も艦本式ギヤードタービンとなって出力は145000馬力となった。これらの改装によって基準排水量が39500トンに、公試排水量が43000トンに増大したが、機関出力の強化と艦尾の延長工事によって最大速力は30.5ノットとなり、航続距離も重油搭載量が増えたことに加えて機関の燃費も向上したため、18ノットで8950海里と伸びている。

新造時
第一次改装後
戦時改装後
基準排水量
32730t
39900t
39900t
公試排水量
33800t
43000t
43000t
全長
215.8m
227m
227m
全幅
29m
34.6m
34.6m
機関出力
80000hp
145000hp
145000hp
最大速力
26.5kt
30.5kt
30.5kt
航続力
5500海里/14kt
8950海里/14kt
8950海里/14kt
兵装
45口径40.6センチ連装砲4基
50口径14センチ単装砲16基
40口径8センチ単装高角砲4基
53センチ魚雷発射管8門
45口径40.6センチ連装砲4基
50口径14センチ単装砲16基
40口径12.7センチ連装高角砲4基
45口径40.6センチ連装砲4基
50口径14センチ単装砲16基
65口径10センチ連装高角砲4基


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