第一章 最近の国策化学

第八節 ゴ    ム


 今日ゴム生産の大部分(80%)は栽培ゴムによっているのである。天然ゴムが南アメリカアマゾン河の流域に発見されて以来、ブラジル政府は此の天恵が他の地に奪い去られる事を恐れ、厳重なる看守を行ない法令を発し此れを取り締まり、港を出る船の如きは船底迄ゴムの種子或はゴムの幼目の一つでも隠される事を心配した。

 然るに此の網を破って印度に此れが移される迄には一つの物語がある。英国の山林官吏、ウィックハムWickhamが手を廻してブラヂル政府より、アマゾン川上流2,000kmの奥地にゴム栽培の専有権を得た。此処に栽培を試み労働者に対し極度に厚遇を与え人身を求め置き、遂に数年にして7萬粒のパラゴム種子をブラジル国外に積み出した。之をロンドンに運び、Kew植物園に於いて栽培し、遂に其の内2,800本のゴムの木を得た。之を快速船に依ってインド、セイロンに運んだ。現今500万エークルの耕地に青々と繁って英国の富の一つを作っておる樹は、斯くの如くして出来たのである。この間1870年前後二三十年間の事である。

 セイロン島に遊ぶ客はうち続くゴムの林の間に密生している、茶とコーヒーに目を驚かすのである。

ゴムの価格(1キロに対するマーク)

年号
価格
年号
価格
年号
価格
1820
 4.20
1830
6.51
1840
 4.09
1850
 4.52
1860
5.73
1870
 7.82
1880
 8.39
1883
10.65
1890
 8.75
1900
 9.48
1901
8.34
1902
 7.23
1903
 9.46
1904
11.05
1905
12.26
1906
11.82
1907
9.89
1908
 9.25
1909
15.43
1910
18.60
1911
11.10
1912
10.40
1913
6.19
1914
 6.00
1915
 5.60
1916
6.42
1917
 6.33
1918
 5.49
1919
4.49
1920
 3.21
1921
 1.52
1922
1.61
1923
 2.74
1924
 2.42
1925
6.79
1926
 4.45
1927
 3.46
1928
2.05
1929
 1.93
1930
 1.11
1931
0.55
1932
 0.32
1933
 0.42
1934
0.64
1935
 0.68
1936
 0.88
1937
1.16

 1904年コーヒー及び茶に計らざりき流行病が伝播し、殆んど全ての茶とコーヒーはたおれてしまった。此の時ブラヂルに於いて大パニックが起こり、ゴムの価は上がったが為印度に於けるゴム栽培は急に発展した。遂に1907年において1,000噸のゴムを初めてインドより世界市場に送った。ゴム栽培はインドよりマレイ半島に移り煙草や米は何時の間にかゴム樹に次から次へとかわった。1910年より1912年の間に100萬エークルの耕地を見るに至り、次年来2−30万エークルの割合を持って進み来たった。

 今日アマゾン流域に於ける天然ゴムの産額は世界全産額の1〜2%と言う小額に過ぎない。

世界栽培ゴム産出額

年号
栽培ゴムトン数
年号
栽培ゴムトン数
1900
      4
1901
       5
1902
      8
1903
       21
1904
     43
1905
      145
1906
    510
1907
    1,000
1908
  1,800
1909
    3,600
1910
  8,200
1913
   47,168
1922
355,000
1925
  482,000
1930
800,800
1933
  833,500
1934
999,900
1937
1,105,000

 栽培ゴムが盛となるに及び、此処に資本勢力の大きな渦が起こった。即ち英国資本団のステフェンソンの勢力は、昔のブラジル政府の持っていた世界ゴム市場独占の権利を、更に大きくして英国へと持ち去って行った。世界大戦争の時に於いてはゴム全生産額の五分の四は彼の掌中に握られていた。斯くて英国は世界ゴム価格の支配者となった。1921年より1925年の間に四・五倍の価格の騰貴したのも全く此の財団の意のままに動いたのである。

 世界戦争はゴム需要の急激な進歩を見せたが、其の後著しく価格が低落した。此の時英国財団はその資本力2−3億ポンドの資本を要して、ゴム耕地の拡大を止めてしまった。(当時の日本ゴム業者の凋落も思い起こされるのである)この謀は果たして其の後価格の昂騰を見た。英国財団に介在してオランダの資本があった。彼は其の耕地を拡大する事は出来なかったが、ジャバの植物園に於いて研究を重ね、当時1ヘクターよりゴム収穫5−10樹齢の樹より平均300kgなりしを倍にする方法を案出した。其の方法はゴムにアンモニヤを加えてゴムの利用率を増す方法であった(55頁参章)

 ゴムの樹より得たる汁は煙によって燻し、煙の中の酢酸の作用に依って汁の中にあるゴム製分を凝固せしめると共にその水分を去ったのである。之を薄い板とし市場に送っていた。然るにオランダの方法はアンモニヤをゴムの汁に加えゴムの空気に依って変質する事を防ぎ其のままタンクにつめて他の地に之を運ぶ事が出来た。其の後此の方法はラテックス(75%の水を含む)1リットルに5瓦のアンモニヤをまぜてる。

 此の方法についでハウゼルの新しい方法はラテックスに其の乳状を損ぜざる様に保つ薬を加え水分を蒸発してゴム成分70−80%のものとしたる後之を他に運び、製造地に於いて再び水を加えれば天然のゴム乳液の全く同一なるものを得て之をゴム原料として使用する事が出来るようにし大に運賃を減じた。

 オランダは此れ等の研究に依って耕地を殖やす事無しに自家のゴム収益を5割も増す事が出来、英国の財力によく抵抗したのである。ゴムの事業の此の成功は同時に科学の権威を示すものであって、次に述べんとするゴムを繞っての戦争は科学の勝利を完全に語るものとなるのである。

 オランダのゴム事業は初め100エークルに過ぎなかったものが、急速に進歩して遂に世界の40%を生産するようになった。1932年に著しく価格が下がった時、英国とオランダは所謂国際ゴム計画を樹てゴム栽培地の拡大を1938年まで禁止した。1934年に於ける英国は世界産額の八割を占め、世界はこの勢力の下に恐怖を感じてきた。自動車、飛行機の発達は増々此の念を深くし、殊に米国は世界に於ける56%を消費する国として真剣に之を考えなければならなかった。之に次ぐものは原産地より遠くして且つ海の便利の悪いドイツとロシヤであった。

ゴムの生産率(1937年度)

英領
52.0%
蘭領印度
37.9%
印度支那
3.8
シャム
3.1
ブラジル
1.6

ゴムの消費量(1937年度)

米国
50.0%
英国
10.6%
独逸
9.1
日本
5.9
フランス
5.4
加奈陀
3.3
ロシヤ
2.7
其の他
13.0

 英国財団及びオランダの協定によって、1キロ1シルにまで低落したゴムは、4年を待たずして7シルに近付いたのである。此の商策に対応して米国では、先ず耕地の開発に努力し、又学会に対し政府は5億ドルの奨励金を与え、1924年に某社は99年に100萬エークルの耕地を計画し、25萬噸の産出を企てていた。ボードの如きもブラジルのタパヨ流域を開き、360萬エークルの地を開拓せんとした。ドイツもまた73,000噸の年需要の自給を満たさんには、50萬エーカーの地を求めねばならない。植民地の無いドイツとしては此の点でも少なからず業を煮やしていた事と思われる。ソ連はドイツ以上にこの資源には苦心していた事であった。然し此れ等の三国が共に、轡を揃えて合成ゴムの陣営堂々たるは、学会の偉観として将に賞賛を惜しんではならない事であろう。

 ゴムの筆を執っている念頭に南支の油田として名のあった広西省の事が浮かぶ。後藤新平男の努力と、大日方技師との調査によって支那当局孫文との話は順調に運んだものが僅かの事から破れた。此の後を受けてアメリカ資本国は地方の官吏に賄い此の地の権利を得たとかいう。其れだけなら別に只今年頭に浮かびだす何物もないが、此の後此の油田は全く破壊し尽くされて再び採油の目的とならぬものと為されたとの事である。之は商策としては許されるとしても、天恵を素直に楽しんでいる吾等にとっては心外な事であった。(放送で聞いた話からである)

 ゴムの供給力を計る為に耕地の開拓は第一の要件である。其の生産量からも価格からも、その他のものは未だ及ばざる遠きである。然し其の遠きものにも、時あっては頼みを掛けなければならない。其の頼みの第一はゴムの再生である。アメリカは最も早く此の方に留意し、弾性化したゴムの屑を水蒸気で扱うか、又は溶剤に処理して之を天然産出状態のゴムと化し、普通の如く顔料などと共に硫黄を加えて形を作り、最後に圧力と温度を以って和硫し弾性を有するものとなすのである。此の作業で繊維などに織り込まれた屑物は処理の最も困難なるは思い当たることでせう。

 此れによってアメリカでは37萬噸の屑ゴムより1937年に18萬3,000噸の再生ゴムを作り、需要の30%の供給を充たしている。

 ドイツでも此の法を行なってはいるが、原料たるゴムの性質の粗悪なるが為か、再生率は著しく劣る。数%にすぎない。


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