日付 | 聖書箇所 | 説教題 | 説教者 |
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2015/01/04 | マタイ4:17 | 天の御国が近づいたから。 | 尹秉甲 牧師 |
旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、救い主イエス・キリストを顕わし、救いの道を教え、信仰と生活の唯一絶対の規範である。
神は霊であって、唯一全能の主である。神は永遠に父と子と聖霊の三位一体であって、その本質において同一であり、力と栄光とを等しくする。父なる神は、永遠のみ旨により万物を創造し、その造られたものの絶対主権者であられる。
はじめに人は、神のかたちに創造され、神と正しい関係にあった。しかしサタンに誘惑され、神の意志に反逆して罪を犯し、神のかたちを毀損した。それゆえ、すべての人は、罪と悲惨のもとに生まれ、その思いと言葉と行為とにおいて罪ある者である。自分の努力によっては、神に帰ることも、また、そのみ旨に適う善行を行うこともできず、永遠の滅びに至る。
主イエス・キリストは、父なる神のひとり子であって、聖霊により宿り、処女マリヤより生まれた。真の神にして真の人である。主は我らの罪を贖うために十字架にかかって死に、葬られ、三日目に甦り、永遠の生命の保証を与えられた。主は大祭司として父なる神の右に座し、我らのために執り成したもう。
聖霊は、恵みによって、我らに父と子を示し、罪を認めさせ、赦しを与え、我らを新たに生まれさせ、神の子となしたもう。人が義とされるのは、自分の行為によるのではない。主イエス・キリストが身代わりに死んでくださったゆえに、彼を信じるただその信仰によるのである。さらに、聖霊は、信じる我らの中に住み、我らを聖化し、我らにみ旨を行わしめ、助け主、慰め主として世の終わりまでともにあり、我らをキリストの共同の相続人となしたもう。
教会は、聖霊によって召し出されたキリストの体であって、キリストはそのかしらである。贖われたものはみなその肢体である。地上の教会は、再び来たりたもう主を待ち望みつつ、聖書の真理に立ち、礼拝を守り、聖礼典を執行し、戒規を重んじ、すべての造られた者に福音を宣べ伝える。
終わりの時に、主イエス・キリストは、みからだをもって再臨し、生ける者、死せる者を審判したもう。主は、すべてのものを新たにし、み国を父なる神に渡したもう。
牧師 | 当教会在任期間 |
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尹秉甲 | 1994年4月-現在 |
川島 茂典 | 1987年4月-1994年3月 |
松下 きみ子 | 1984年4月-1987年3月 |
高橋 真治 | 1979年4月-1984年3月 |
2011年11月 | 東日本大震災の復興工事が終了する。 |
2007年7月 | 教会名を日立めぐみキリスト教会から、ひたち光教会に変更する。 |
2007年6月 | 新教会堂を建築する |
2006年9月 | 石名坂町2丁目の現在地を取得する。6150.64m2(約1970坪) |
1994年4月 | 尹秉甲牧師が就任する。 |
1994年3月 | 川島茂典牧師は、山梨県にある櫛形キリスト教会に赴任する。 |
1992年7月 | 久慈町6丁目の土地を取得する。 |
1990年4月 | 南部伝道所から日立めぐみキリスト教会を設立し、日本同盟基督教団の第二種教会となる。 |
1987年4月 | 川島茂典牧師が就任する。 |
1987円3月 | 松下きみ子師は、結婚し辞任する。後に、沖縄県名護市にある名護聖書教会の牧師夫人となる。 |
1984年4月 | 松下きみ子師が就任する。 |
1984年4月 | 高橋真治牧師は、大阪府高槻市にある高槻聖書教会に赴任する。 |
1981年4月 | 石名坂町1丁目に木造2階建ての一軒家を借り、南部伝道所を移転する。 |
1979年4月 | 高橋真治牧師が大沼町の木造2階建ての牧師館の2階に日立福音キリスト教会の南部伝道所を開所し、牧師として就任する。 |
1978年4月 | 高橋真治牧師が日立福音キリスト教会の牧師として就任する。 |
授洗の恵みにあずかり、教会員となるためには、聖書入門クラスと信仰入門クラス(授洗準備クラス、6ヶ月コース)、そして、聖化入門クラス(授洗後クラス、6ヶ月コース)を受講することを原則としています。この原則は、転入会の希望者にも同じく適用されます。
神さまは、救われる人々を起こし、またともに働くべき新しい仲間を私たちの群れに加えてくださいました。
<洗礼式>1995年 | 3月26日、11月26日 |
1996年 | 4月28日、11月24日 |
1997年 | 11月30日 |
1998年 | 12月20日 |
2000年 | 3月12日 |
2001年 | 4月15日、10月28日 |
2002年 | 11月10日、11月24日 |
2003年 | 1月19日、3月30日、4月20日、12月14日 |
2004年 | 7月11日、12月12日 |
2005年 | 4月10日、12月25日 |
2006年 | 10月15日、12月10日 |
2008年 | 7月20日、12月14日 |
2013年 | 12月27日 |
1995年 | 10月10日 |
2000年 | 2月11日 |
2002年 | 10月20日 |
2004年 | 4月18日 |
2006年 | 12月10日 |
2007年 | 6月17日 |
すべての建物は、教会員一人一人が信仰によって喜んでささげられた献金によって必要のすべてが豊かに満たされ、あふれる喜びと感謝の中で、献堂されました。
<献堂式>1994年 | 12月11日 | 日立めぐみキリスト教会堂を建築し、献堂する:久慈町 |
1999年 | 11月28日 | 教会墓地を建立し、献堂する:日立市鞍掛山霊園 |
2001年 | 12月16日 | 牧師室カナを建築し、献堂する:久慈町 |
2004年 | 6月6日 | 事務室を建築し、献堂する:久慈町 |
2007年 | 7月1日 | 新教会堂を建築し、移転する:石名坂町 |
2007年 | 10月8日 | 新教会堂を献堂する:石名坂町 |
2008年 | 5月15日 | 牧師館竣工:石名坂町 |
2008年 | 7月13日 | 教会シンボル塔(悔い改めの塔)風見鶏 |
2010年 | 12月12日 | 光バラ園 |
2011年 | 3月11日 | 東日本大震災に見舞われる |
2011年 | 11月27日 | 震災復興報告会 |
1994年 | 11月28日 | ピアノ購入:レーニッシュ(ドイツ製) |
1996年 | 8月25日 | ハンドベル購入(3 Oct):マルマーク(アメリカ製) |
1996年 | 12月28日 | リードオルガン購入:ヤマハ(日本製) |
2000年 | 11月28日 | クワイヤチャイム購入:マルマーク(アメリカ製) |
2004年 | 10月31日 | パイプオルガン奉献:(株)マナオルゲルバウ(日本製) |
2004年 | 12月4日 | パイプオルガン奉献記念コンサート |
2005年 | 1月16日 | ハンドベル購入(4oct高音部):マルマーク(アメリカ製) |
2005年 | 12月10日 | クリスマスパイプオルガンコンサート |
2010年 | 12月5日 | クリスマスパイプオルガンコンサート |
2011年 | 10月21日 | グランドピアノ設置 |
2011年 | 12月25日 | クリスマスミニコンサート |
2012年 | 12月23日 | クリスマスピアノ・パイプオルガン |
1997年8月26日(火)-29日(金):第一回 |
1998年8月25日(火)-28日(金):第二回 |
2002年8月12日(月)-16日(金):第三回 |
2005年8月15日(月)-19日(金):第四回 |
1996年3月17日(主) | めぐみの泉創刊 |
1997年4月21日(月) | インターネット伝道開始、教会ホームページ開設 |
1998年4月12日(主) | 教団の第一種教会として承認される。 |
2003年4月13日(主) | 健康管理機器設置 |
2004年1月1日(木) | 聖書通読表(年間) |
2004年2月1日(木) | 木曜祈祷会(とりなし)を新設 |
2005年1月23日(主) | 熱交換給排換気機器設置 |
2005年3月24日(木) | 食器洗浄器(業務用)設置 |
2005年4月1日(金) | 祈りの輪新設 |
2006年6月11日(主) | プロジェクターシステム運用 |
2008年4月22日(火) | 発芽栽培器設置 |
2009年7月1日(水) | 光健康教育院開設 |
2009年7月12日(主) | 新伝道紙(ひたち光教会、ひたち光教育院) |
2009年9月 23日(水) | 浄水器設置(2台) |
2010年4月4日(主) | 落穂拾い運動スタート |
2010年5月9日(主) | 光健康室オープン |
2011年5月9日(主) | 光健康チャリティ開催(震災孤児支援企画) |
2012年6月 | 光健康朝市オープン |
2012年6月 | 伝道の三本柱の働きスタート |
現在の教会名である「日立めぐみキリスト教会」は、南部伝道所から教会を設立した1990年4月以来使って来たものです。
ここに、いままでのあふれるばかりの祝福の土台の上、
1.地域性:ひたち
2.霊性:光
1)神は「光」である。
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。(Iヨハネ1:5)神さまが光であられるとは、神さまの本質をまるで虹の7色のようにあらわしているものであると言えます。特に、神さまが「聖である方」(レビ11:44-45、Iペテ1:15-16)であることを強調する時に多く用いられていると言われています。その現われを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。(Iテモ6:15-16)神さまが光であられるとは、唯一の神さまを最も良くあらわしているものです。
2)イエスは「光」である。
(1)まことの光すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハ1:9-13)御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 (コロ1:15-17)御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブ1:3)イエスさまは、まことの光、創造主なる神さまであられ、私たちの唯一の贖い主、救い主、助け主です。(コロ1:13-14、ローマ8:33-34)
(2)世の光
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハ8:12)神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(ヨハ3:16-21)イエスさまは、この世の光として来られ、私たちにいのちの光、永遠のいのちを持たせる唯一の方です。イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハ14:6)イエスさまは、私たちの唯一の道であり、唯一の真理であり、唯一のいのちの源です。これを信じる者がこの世でも、あの世でも父なる神のみもとで永遠のいのちを持つ者として生きるのです。
3)私たちは「光」である。
(1)光の子ども
イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。(ヨハ12:35-36)
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。-光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。-そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。『眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。』 (エペ5:8-14)
「光」であられるイエスさまを信じる者に与えられるのが、光の子どもとなる祝福(ルカ16:8、-テサ5:5)、神の子どもとされる特権です(ヨハ1:12)。
(2)世界の光
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタ5:14-16)
光の子ども、世界の光である私たちに命じられているのが、光の子どもらしく歩むこと、私たちの光を人々の前で輝かせ、人々が私たちの良い行ないを見て、天におられる私たちの父なる神さまをあがめるように導くことです。
***私たちの使命、義務***信仰義認----信行一致福音宣教
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 (マタ28:18-20)
*神のみこころ:伝道・宣教
わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 (ヨハ6:38-40)
三本柱
聖なる生活神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。(-テサ4:3-8)あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。(-ぺテ1:15-16)
-感謝する生活すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(-テサ5:18)
-殉教する生活もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。 (-ぺテ3:17)ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。(-ぺテ4:19)
とりなしあなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。(コロ1:9下-12)
神のみこころに関する真の知識に満たされ、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれますように。
あらゆる善行のうちに実を結び、
神を知る知識を増し加えられますように、
あらゆる力をもって強くされて、
父なる神に喜びをもって感謝をささげることができますように。
信行一致光の子どもらしく歩みなさい、私たちの光を人々の前で輝かせ、と命じられている目的は、神の栄光をあらわすためです(イザ43:7、21、エペ1:4-14、-コリ10:31)。
1)神の国とその義とをまず第一に求める生活
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(マタ6:19-24)
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタ6:31-34)
2)霊的な礼拝をささげる生活
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:1-2)
-この世と調子を合わせない生活-神のみこころをわきまえ知り、自分を変える生活
3.神さまの導き
1)2006年、新年礼拝:起きよ。光を放て。
起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。(イザ60:1-3)
†起きよ。光を放て。†
神さまのこの命令に従うために、
過去の自分を覚え、
現在の自分を悟り、
未来への約束を信じ、
2006年!神さまは、このみことばを通して私たちが歩むべき道を示してくださいました。神さまはどの年よりも、私たちが奮い立って光を放つ生活をして、確実な実を結ぶことを望んでおられます。ですから、今までよりももっと、
ドレスアップ(DressUp):正しい行ないをする生活、
シャワーアップ(Shower):悔い改めの生活、
ギブアップ(Give Up):へりくだり仕える生活、
トーク、スピーチアップ(Talk、Speech):みことば、言葉の区別の生活
起きよ。光を放て。神さまのこの命令に従い、沢山の実を結びましょう。
2)2006年、伝道プログラム:HIKARI(光)運動学び会と実践いままでの教会の中心プログラムは、「教育」でした。今年度から本格的な「伝道」プログラムを始めることにして、まず、HIKARI(光)運動の学びと実践をしています。
この教会名を
私たちの信仰の対象としての神さまと
神さまと私たちの関係と
私たちとこの世との関係と
私たちに与えられている使命、義務をあらわし
私たちの子孫に信仰の遺産として与えるのに
2006年第2回教会臨時総会決議事項(11月12日、主)、2007年第17回教会定期総会決議事項(3月4日、主) の実行報告をします。財団法人茨城県建築センターによる完了検査(建築物、工作物)が2007年6月28日(木)に、消防検査が2007年6月29日(金)に行なわれ、合格判定を受け、2007年6月30日(土)から新教会堂に引っ越し、2007年7月1日(主)から新しい教会名を使っています。神さまは私たちが1990年4月から約17年間使って来た日立めぐみキリスト教会の教会名を取り上げ、ひたち光教会という新しい教会名を与え、この地域の霊と肉の救いの箱舟としてふさわしく働き、さらに、地の果てにまで主の光を放つことを望まれました。新しい教会名の意味(2007年度第17回定期総会資料p.18-p.24)をよく理解し、この教会名を
私たちの信仰の対象であられる神さまと
神さまと私たちとの関係と
私たちとこの世との関係と
私たちに与えられている使命、義務をあらわし
私たちの子孫に信仰の遺産として与える
ものとして、最もふさわしい名として正しく用いましょう。
1998年11月24日:鞍掛山霊園自由墓所購入(抽選にて)
1999年1月3日-11月26日:教会墓地委員会15回、教会墓地懇談会が3回開かれる。神さまが兄弟姉妹に与えてくださったさまざまな賜物、アイディア、プランが十分に活かされ、工事完成に至る。
1999年11月26日:役所審査、許可
1999年11月28日:教会墓地献堂式
イエスの十字架と復活を信じる信仰が、復活のめぐみにあずかれる唯一の道である。
イエスさまが大能と輝かしい栄光を帯びて、天の雲に乗って来られる時 (マタ24:30、黙1:7)、この墓に眠っている兄弟姉妹はよみがえり、空中で主と会い、いつまでも主とともにいることになる (-テサ4:13-18)。
天に上げられ、雲に包まれて見えなくなった復活の主イエスさまの昇天する時の衣やその様子と聖徒たちの復活の時の様子をイメージしたものである(使徒1:9-11、ピリ3:20-21)。
祈っている手のイメージと、再び来られると約束された主イエスさまへの信仰をあらわす。『「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。』(黙22:20下)
聖書を形どった部分には、みことばが刻まれており、聖書信仰、復活信仰、再臨信仰を告白しています。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。 テサロニケ人への手紙4章14節
周りを縁取る黒い枠は、死の分離、断絶性をあらわしています。
そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。 創世記3章23節-24節
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 エペソ人への手紙2章1節
すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」 ルカの福音書9章60節
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」 創世記3章19節
ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。 伝道者の書12章7節
こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」 マタイの福音書25章46節
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 へブル人への手紙9章27節
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。 ヨハネの黙示録20章11節-14節
礼拝堂の講壇の形をそのまま再現して、生きている時も、眠っている時も、みことばによって生かされていることをあらわす。300人以上の納骨が可能。
1.講壇形前部:散骨槽(聖書が置かれているところ。)
2.講壇形後部:骨壷用の棚
3.講壇形後部:地下散骨槽
4.十字架形:自然散骨槽
新教会堂建築一周年を記念して、教会のシンボル塔(悔い改め塔)を建立しました。
新教会堂建築一周年を記念して、皆が力を合わせて建てた、教会シンボル塔の意義を確かめましょう!
この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイの福音書4章17節)
イエスさまの本格的な公生涯の第一声は、「悔い改めなさい。」の命令でした。これは、イエスさまがこの世に来られた目的が、罪人を招いて、悔い改めさせるためであること(ルカ5:32)を教えるものです。イエスさまを受け入れ、天の御国を得る秘訣が「悔い改め」です。
23 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
24イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。
25こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。(マタイの福音書4章23節-25節)
イエスさまの主な御わざは、
1.教え:聖書の講解
2.宣ベ伝え:御国の福音--悔い改めと福音受容のメッセージ(マコ1:15)
3.直し:あらゆる病気、あらゆるわずらい
1.「教え」の中心内容は、「悔い改め」です。
1私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、
2あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、
3あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。(申命記 30章1節-3節)
教えとは、あなたが主に立ち返り、御声に聞き従うなら、あなたの前に置いたのろいを祝福に換えてくださるとの神の約束を教えることです。それ故、みことばをもって責め、戒め、また勧めることによって(-テモ4:2)、罪の赦しを得させる「悔い改め」(ルカ24:7)に導くことが教えです。ですから、教えの中心内容は、「悔い改め」です。
2.「宣ベ伝え」の中心内容は、「悔い改め」です。
12 こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、
13 悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。
(マルコの福音書6章12節-13節)
イエスさまの弟子たちが宣ベ伝えていた内容の中心は、悔い改めでした。
36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。
38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
39なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。
41そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。(使徒の働き2章36節-42節)
宣ベ伝えとは、あなたがイエスさまを十字架につけ、殺した罪人であることを教え、「悔い改め」によって罪を赦していただき、その結果、神である主が約束された聖霊を受ける恵みにあずかるように導くことです。これが御国の福音、すなわち、イエスの十字架と復活(-コリ15:1-8、ローマ10:8-17)を宣ベ伝えることです。ですから、宣ベ伝えの中心内容は、「悔い改め」です。
3.「直し」の中心内容は、「悔い改め」です。
あらゆる病気、あらゆるわずらいの主な原因は罪です。
13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。
14 あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
15 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブの手紙5章13節-16節)
直しとは、悔い改めの祈りと、神さまによって備えられているいやしの方法を用いることによっていやされることです。ですから、直しの中心内容は、「悔い改め」です。
霊の福音、肉の福音は、このように同時に教え、宣ベ伝え、直すべきものです。
救いを得させる悔い改めと信仰は、みことばを聞く時に(ローマ10:8-17)、聖霊さまの働きによって(ヨハ16:8-9)、与えられる神からの賜物です(使徒5:31、11:18、エペ2:8)。
決して、人間の行ないによるものではありません(エペ2:9-10)。
この霊的祝福は、ただ神さまの恵みによるものです(エペ1:3-14、使徒2:39)。
このように悔い改めと福音信仰は、不可分の関係にあるものです(使徒20:21)。
天の御国を得させる救いは、悔い改めと信仰によるものです。
神の愛、恵みによる救いは、さらに私たちの日々の悔い改めと信仰によって、生活の中で天国を築き上げ、天国を味わい、確実に御国の福音を宣ベ伝える力になります。
18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28章18節-20節)
イエスさまの宣教命令は、人々をイエスの弟子とすることが目的です。
イエスの弟子とは、イエスさまが命じておいたすべてのことを守り行なう者を言います。日々の生活の中で「悔い改め」の聖い実を結んでいる者、聖なるものになるために日々みこころにかなった歩みをしている者(コロ1:9-12)がイエスの弟子です。すなわち日々、聖別ある生活(日の区別、物質の区別、食物の区別、言葉の区別)をして(-テサ4:3,-ペテ1:15-16)、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝している者(-テサ5:16-18)、さらに殉教生活をしている者(-ペテ3:17,4:19)を言います。人々をイエスの弟子とするための方法が
1.行くことです。
「あなたがたは行って」とは、あなたが地の塩、世の光として、人々の前で聖い生活の光を輝かせること、人々があなたの生き方、生活を見て、天におられる父なる神さまをあがめるように導くこと(マタ5:10-16)を意味します。これがイエスの弟子たる者が宣教のために働くべき第一のステップです。「宣ベ伝え」は、生活が伴う時に確実な実を結ぶものになります。
2.バプテスマを授けることです。
主の御前に導かれている人々、主のみことばを聞き入れている人々をよく教え、「悔い改め」による救いの確信を持って、バプテスマの恵みにあずかるように導くこと、これがイエスの弟子たる者が宣教のために働くべき第二のステップです。
3.教えることです。
バプテスマの恵みにあずかっている者をさらに、イエスさまが命じておいたすべてのことを守り行なうように教え、地の塩、世の光として、人々の前で聖い生活の光を輝かせるように養育すること、これがイエスの弟子たる者が宣教のために働くべき第三のステップです。
人々を主の弟子とする宣教は、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束されたイエスさまの御わざであり、私たちがインマヌエルの恵みを日々の生活の中で活かす時にできる働きです。
「悔い改め」によって、賜物として聖霊を受けている救いの確信、すなわち私たちのからだが、私たちの教会が「神の神殿」であり、「神の御霊が宿っておられる」救いの確信(-コリ3:16-17)、神から受けた聖霊の宮であり(-コリ6:19)、聖なる宮、御霊によって神の住まい(エペ2:21-22)になっている救いの確信、神さま、イエスさま、聖霊さまと一体となっている(ガラ2:20)確信を持って、聖霊に満たされる生活をする時にできる働きが、宣教です。ですから、聖い霊であられる聖霊さまの助けを得るために、日々の「悔い改め」は救われている私たちにとって何よりも大事なことです。助け主なる聖霊さまの助けを得る秘訣(ヨハ14:14-17)、その土台が日々の「悔い改め」です。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(ヨハネの手紙第一1章9節)
このみことばは、悔い改めの恵みを得て、救われている私たちにとって、第二の福音であると言えるほどのすばらしい恵みの約束です。日々の生活の中で、みことばに親しみ、祈りに励み、賛美をささげる時、私たちは聖霊に満たされ、神さまと一つになっている確信を得ることができます。この一つ一つの土台となるのが「悔い改め」です。神の栄光をあらわし、天国を味わい、天国を築き上げる力を得る礼拝の土台は、「感謝」(詩50:14)と「悔い改め」にあるのです。
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51篇17節)
1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ人への手紙12章1節-2節)
悔い改めが基になっている礼拝こそ、神さまに受け入れられ、天国の祝福を得ることができるものです。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタ4:17)
悔い改める者に天の御国は近づきます。この地上でも日々天の御国を味わう祝福された生活ができます。しかし、この地上で天の御国を完全に自分のものにすることはできません。天の御国は「すでに」(Already)私たちの所に近づいているものですが、「まだ」(notyet)この地上で完全なものとして得ることはできないものです。私たちの罪が、この地上の暗闇の力が、私たちが完全なる天国を所有することを拒んでいるからです。主イエスが再び来られるその日、私たちは復活のからだ、御霊のからだを頂いて天国を完全に自分のものにすることができるのです(ピリ3:20-21、ヘブ9:27-28、-デサ4:13-18)。霊と肉の福音の完成が、主の再臨の日にあるのです。ですから、主イエスが再び来られると約束されたその日を待ち望みつつ生きる者が、悔い改めている者です。
「悔い改め」は、常に私たちの信仰生活の中心に置くべきものです。「悔い改め」は、心の転換から来る行ないの180度の方向転換を意味します。神々に従っていた者が、神に立ち返り、御声に聞き従う者になること、この世の流れに従い、自分の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、この世と調子を合わせて生きていた者が、神のみこころをわきまえ知り、自分を変え、神が望んでおられる通りに良い行ないに歩む者になること(エペ2:1-3,10,ローマ12:2)、この世にあるものを求め、この世に望みを置いて生きていた者が、天にあるものを求め、天に望みを置いて生きる者になること、お金に命をかけてこの地上に蓄えるために生きていた者が、福音に命をかけて天にたくわえるために生きる者になること、富を愛し、富を重んじ、富に仕えて生きていた者が、神を愛し、神を重んじ、神に仕える者になること(マタ5:24)、自分を人生の主人として生きていた者が、イエスさまを人生の主として生きる者になること、自分を愛して生きていた者が、神と人々を愛して生きる者になること(マタ22:36-40)、地獄に向かって歩んでいた者が、天国に向かって歩む者になることなど、これが悔い改めている者のしるしです。
それでは、「悔い改め」とは何か、その実例を見ましょう。
14 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
15 こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
16 そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。(マタイの福音書26章14節-16節)
ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。(ヨハネの福音書12章4節)
1 さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。
2 それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。
3 そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、
銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
4「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。
しかし、彼らは「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
5それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。
そして、外に出て行って、首をつった。(マタイの福音書27章1節-5節)
17ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。
18(ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。
19このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所は彼らの国語でアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになった。)(使徒の働き1章17節-19節)
イエスさまの弟子のひとりとして数えられていたイスカリオテ・ユダは、この世の神である富(マタ6:24)、お金を愛し、イエスさまを裏切り、後悔はしたものの、改めることなく首をつって、惨めに死にました。彼は、悔い改めることなく、永遠なる罪人になってしまったのです。しかし、同じくイエスさまを裏切ったペテロは「悔い改め」の実を結び、永遠のいのちを得たのです。
69 ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。
「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」
70 しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。
71 そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」
72 それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。
73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。
74 すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
75 そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。
そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。(マタイの福音書26章69節-75節)
ペテロはイエスさまの一番弟子でありながら、自分を愛し、自分の命のためにイエスさまを知らないと三度も否定した裏切り者でした。しかも三度目は「そんな人は知らない。」と、自分にのろいをかけて誓うほどでした。しかし、彼は「悔い改め」の恵みにあずかり、一番弟子としての地位が取り戻され(ヨハ21:15-19)、一生涯を通して主に仕え、殉教という最高の祝福を得たのです。言い伝えによりますと、ペテロは、鶏が鳴く時には、いつもイエスさまを裏切った罪を思い起こし、泣いたそうです。彼の日々の悔い改めが主のために勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通す力になったのです。
鶏は、ペテロの悔い改めのシンボルです。教会のシンボル塔を「悔い改めの塔」と命名して、大風見鶏をメインとするデザインにして建てたのは、私たちの信仰が「悔い改め」の土台に立つためです。
教会シンボル塔を見る度に、
1.救いの恵みを覚えて感謝すること、
2.自分が今向かっている方向、生き方を確かめること、
3.「悔い改め」に導かれ、「教え」、「宣ベ伝え」、「直し」の力を得ることができますように。
教会シンボル塔の意義をしっかり覚え、日々の生活の中で、みからだなる教会を建て上げ、天国を味わう者になりましょう!
ようこそひたち光教会へ!ご不明点はお気軽に
御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。 詩編66編2節
2004年、旧教会堂を建築、献堂てから10年目を迎える年になりました。10年間、神さまは、日々私たちの信仰を成長させ、あふれるばかりの祝福を与えてくださいました。教会墓地、牧師室カナ、事務室を建築し、献堂するように導いてくださり、神さまを賛美するようにと、ピアノやハンドベル、リードオルガン、クワイヤチャイム等の楽器を与え、また、信仰生活のために必要なあらゆるものを備えてくださいました。そして、何よりも毎年救われる人々を仲間に加えてくださいました。このように、数え切れないほどの恵みの中で導かれている、今の教会員の約90%以上が、現教会堂建築の恵みにはあずかっていませんでした。そこで、久慈町においての伝道宣教10年目を迎え、10年目の信仰決算と新しい出発のための祝福の器を作るために、皆が心を一つにしてささげる一生涯の聖具としてパイプオルガンを購入することにしたのです。
Manual C-g" 56鍵 |
1.Gedackt8’ |
2.Prinzipal4’ |
3.Rohrflote4’ |
4.Waldflote2’ |
PedalC-f’30鍵 |
5.Subbass16’ |
ストップ数5個 |
パイプ総数254本 |
カプラーI/P |
アクションメカニカルキーアクション |
メカニカルストップアクション |
高さ:約3.2m 幅:約1.58m 奥行き:約1.4m ペダル鍵盤を含めて:約1.95m |
ケース:オークワックス仕上げ |
手鍵盤ナチュラルキー:グラナディラ |
半音キー:ローズウッド牛骨張り |
ペダル鍵盤ナチュラルキー:オーク |
半音キー:オークグラナディラ張り |
2003年12月21日(主) | 責任委員会にて、パイプオルガンの購入を検討する。 |
2004年01月18日(主) | 責任委員会にて、パイプオルガンの購入を検討する。 |
2004年01月 | ヤマハ(株)との電話相談 |
2004年01月29日(木) | ヤマハ(株)日吉センター内ショールーム見学:PO-103F,PO-103P,1M3S168池田宅見学:ドイツ・ラウコフ社製、2MP4S216(参加者:9名) |
2004年02月 | 須藤オルガン工房、辻オルガン工房、山野オルガン工房、(株)マナオルゲルバウ、波崎キリスト教会(同盟)等の資料検討と電話相談 |
2004年02月10日(火) | 須藤オルガン工房と電話相談 |
2004年02月12日(木) | 筑波バッハの森見学:2MP19S1206,1M4S204(参加者:大人16名、子ども5名) |
2004年02月17日(火) | 須藤オルガン工房、(株)マナオルゲルバウ、原町田教会(日基)を見学、相談(参加者:尹牧師他1名) |
2004年02月18日(水) | パイプオルガンの貸出しを受ける:(株)マナオルゲルバウ製の1MP4S224(H:1.05m,W:1.28m,D:1.45m) |
2004年02月19日(木) | (株)マナオルゲルバウより、パイプオルガン見積を受ける。1MP4S224(H:2.66m,W:1.58m,D:1.50m)1MP5S254(H:3.00m,W:1.58m,D:1.90m) |
2004年03月07日(主) | 第14回教会定期総会において、教会員全員一致の賛成でパイプオルガン製作設置を決議する。
目的礼拝や祈祷会等においての賛美の聖具として
購入方針
|
2004年03月08日(月)-12日(金) | パイプオルガン選定のため韓国出張:尹牧師 |
2004年03月28日(主) | パイプオルガン講演会:講師【中里威兄】 |
2004年04月18日(主) | 教会懇談会:パイプオルガン(1MP5S254)の選定、購入設置決定 |
2004年05月14日(金) | パイプオルガン売買契約:(株)マナオルゲルバウ |
2004年06月13日(主) | 教会懇談会:パイプオルガンの製作状況報告 |
2004年09月19日(火) | (株)マナオルゲルバウ訪問:製作状況及び設置日程の確認等、相模中央キリスト教会(日バプ)見学(参加者:4名) |
2004年09月26日(主) | 教会懇談会:パイプオルガンの製作状況及び設置日程の報告等の後、パイプオルガンの設計、製作、設置に関するビデオを観る。 |
2004年10月03日(主) | パイプオルガン奉献記念コンサート準備委員会発足 |
2004年10月21日(木) | パイプオルガン設置完了 パイプオルガン保守契約を締結:(株)マナオルゲルバウ |
2004年10月31日(主) | パイプオルガン奉献式 |
2004年12月04日(土) | パイプオルガン奉献記念コンサート |
神さまのくすしい導きと、兄弟姉妹の信仰によって、パイプオルガン奉献のために必要な費用の約2倍の献金がささげられました。パイプオルガン奉献に至るまでの一歩一歩の中で、兄弟姉妹一人一人が神さまの恵みをもう一度深く覚えつつ、自分の祝福の器を確実に作ることができたことは、何よりも感謝にあふれるあかしになるでしょう!ハレルヤ!
マルマーク(アメリカ製)
ハンドベルは正式名称をイングリッシュハンドベルといいます。16世紀にイギリスで時を告げる教会の塔の鐘(カリヨン)の練習用に考案されたのが始まりと言われています。欧米を中心に教会音楽(讃美歌など)用として発達し、400年以上の歴史を持つ楽器です。ピアノのように一人ですべての演奏をするのではなく普通1人が2個-4個のベルを受け持ち、数十人が一体となって演奏します。私たちの教会では大抵十数人で演奏します。一人が欠けても演奏できないという独特の演奏形態は互いの音をよく聴きあうこと、調和させ、リズムを揃え、お互いに補いつつひとつの楽曲を作りあげていくこと、互いを認め合い、支えあい、分かち合う、思いのつまった演奏をぜひ聴きにいらしてください。
当教会が所蔵するハンドベルはマルマーク社製で、37個4オクターブの音域を持っています。ハンドベルの製造メーカーとして著名な会社は4社あります。日本でよく知られているのはマルマーク社、シューマリック社です。マルマーク社は華やかで澄んだ艶のある(低音が少ない)音が、シューマリックは鐘の音らしい伝統的でハリのる(倍音が多い)音がそれぞれ特徴えす。また、英国のホワイトチャペル社、ジョンテイラー社は、ともにタワーベルの製造メーカーとしても有名です。
当教会ハンドベルクワイアによる特別讃美は、クリスマス、イースター、母の日等特別な記念日に行われます。
マルマーク(アメリカ製)
チャイムは、ハンドベルの普及の過程で生まれた楽器です。アルミニウム製のチューブに、ハンドベルと似た構造のクラッパーを取り付けたこの楽器は、軽量で使いやすく、演奏も簡単な事と何よりもその柔らかく美しい音色が魅力です。ハンドベルと比べると楽器自体が軽く、取り扱いが簡単です。しかし、ハンドベルの単なる代用楽器としてではなく、独自の機能を備えた新しい楽器といえるでしょう。さらに、ハンドベルとの相性もよく、互いに調和してハンドベルの音色に新たな響きを加えることができます。「ハンドチャイム」のほか商標上の関係で「トーンチャイム」「メロディチャイム」「クワイヤチャイム」などの名前で呼ばれています。当教会で使用するチャイムはマルマーク社製です。
久慈町6丁目の日立めぐみキリスト教会の教会堂献堂の時、神さまを讃美する楽器として、アップライトピアノ(レーニッシュモデル118)が、他の教会の兄弟から献品として与えられました。その後、リードオルガン、ハンドベル、クワイヤチャイム、パイプオルガンなど、讃美のための楽器は全て私たちが購入いたしましたが、ピアノだけは献品のままでした。 2007年、ひたち光教会の建築にあたり、讃美のための楽器として、グランドピアノを購入したいと言う兄弟姉妹の祈りの中で、一部の兄弟姉妹から献金が捧げられたことがありましたが、諸事情により購入には至りませんでした。 2011年3月11日、東日本大震災において教会堂が大きな被害を受け、教会堂復興工事の必要性が生じました。教会の新しい出発として、復興計画を進めるなか、7月31日の震災復興のための教会懇談会(臨時教会総会に準ずる)において、グランドピアノの購入が確定されました。 それに伴い、インターネットなどでグランドピアノの検索を始め、楽器の検討のために2011年8月10日(水)に柏の楽器屋、8月13日(土)に古河の楽器屋と、それぞれ訪問致しました。この訪問により、購入するグランドピアノの種類を絞り込み、2011年8月16日(火)、アサヒピアノ東京ショールームにおいて、ピアノの試弾を行い、購入の最終決定を致しました。そして、2011年10月21日(金)、グランドピアノを礼拝堂に設置致しました。 震災を通して、4年前の教会堂献堂の時に出来なかったグランドピアノの購入が、神さまの豊かな恵みと導きの中で進められ、震災前よりはるかによい讃美の環境が整えられたことに心から感謝致します。
製作 | Wendl&Lung(ウェンドルアンドラング)社(ドイツ) |
ハンマー | ドイツFFW社製ハンマーフ |
鍵盤 | 白盤 アクリライト、黒鍵エボナイト艶消樹脂8鍵(7オクターブ1/4) |
鍵盤蓋 | ソフトグリッドシステム |
3本ペダル | ソステヌートペダル |
光室での賛美に用いられています
ピアノ:レーニッシュ(ドイツ製)
光室に設置されています。少人数での賛美に用いられています
ヤマハ製
アグラフ方式
寸法143x52x111.5開閉時130(wxdxhcm)
鍵盤88鍵盤
イースターとクリスマスの主日の午後、賛美祝会が開かれます。聖書のみことばを聞き、賛美にあふれる時間です。
2012年12月のピアノコンサートには、11月に水戸芸術館でコンサートを開かれた日立市出身のピアニスト鈴木範之さんをお迎えしました。
2010/12 オルガニストの浅井美紀さんをお招きしてクリスマスパイプオルガンコンサートを開催しました。
KDKDの働きによって、神さまの栄光を現わし、神さまに栄光を帰する教会を目指しています。
尹 秉甲
それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通りすぎようとしておられたからである。 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。 人の子は、失われた人を捜して救うためにきたのです。」 新約聖書 ルカの福音書19章1節-10節
幸せになりたい!これは、人間誰もが求めることです。そのため、人間は、一生涯知恵知識を求めたり、お金を追い掛けたり、名誉、権力を求め続けます。
しかし、千辛万苦を重ね、これらのものを得たとしても、そこにあるのは、幸せであるとは言えないことが多いのです。
聖書の中には、箴言という書物がありますが、このようなことばが記されております。
一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。箴言17:1
野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。箴言15:17
争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。箴言25:24
持っていることが幸せではなく、心の喜びと平安が幸せのもとであることを教えているみことばですが、いくらお金があっても、権力が、名誉があっても、心の中に喜びと平安がなければ、幸せとは言えないのです。
けさ、私は、皆さんに心の喜びと平安を得、最高の幸せな人になったザアカイという人を紹介致します。そして、彼に最高の幸せ、まことの幸せを与えてくださった方を紹介致します。この時間の学びを通して、皆さんがザアカイのように最高の幸せを自分のものにして、これからの人生の歩みが喜びと平安と感謝に満ちたものになりますように願います。
それでは、本文1節をご覧ください。
ここを見ますと「イエス」という人の名前があります。この方こそ、私たち人間にまことの幸せ、最高の幸せを与えてくださることができるお方です。
皆さんは、この時間、このイエスさまに出会うことになります。
本文1節のみことばには、このイエスさまがエリコという町を通り過ぎるところだったと言っています。
エリコという町はいまから約2000年前の当時、かなり大きい町でした。ロ-マ帝国の植民地の中でも、香料の産地があったりして、多くの税金が入る重要な町だったのです。そのエリコの税務署の署長であったのが、いま皆さんに紹介しようとしているザアカイという人です。
本文2節をご覧ください。
ザアカイという名前は、「きよい人」あるいは「義人」という意味です。しかしザアカイは、この名前のようにきよい人でもなく、義人でもありませんでした。彼は、イエスさまに出会う前はきよい人でも義人でもなかったのです。
2節にありますように、彼は取税人のかしら、税務署長でした。
いまも大きい事業を営んでいる人が一番恐がるのが税務署であると言えますが、当時の税務署長も、かなりの権力を持っていました。自律的に税金を徴収する権力を持っていたので、徴収した一定の額をロ-マ政府に収め、その他はいくらでも自分のものにすることができる、不正徴収や背任行為ができる立場にあったのです。
当時、ロ-マ政府の税金取り立ての仕事をしていたザアカイは、とりわけ権力をふるっていた人でした。
2節では、ザアカイが金持ちであったとあります。ザアカイは権力とお金は持っていましたが、名前のような、きよい人、義人ではなく、むしろ人々から、泥棒、強盗のように憎まれていた人でした。親がザアカイにこのような名前をつけたのは、人々に憎まれるような人生ではなく、きよい人として、義人として生きることを望んだわけでしょう。
私たちの親も、色々な願いをこめて私たちの名前をつけたと思います。いま、私たちは、名前にふさわしく生きているのでしょうか。
ザアカイのように親が名前をつけた時の願いとは正反対の生活をしているのではないでしょうか。
さて、ザアカイは、いまの殆どの人々が求めているような、ものすごい権力とお金を持っていました。しかし、彼は、決して幸せな人ではありませんでした。心の中は、いつも喜びがない、平安がない、満たされない欲で苦しんでいたのです。周りの人々から罪人とされていたからです。
その時、彼はあるうわさを聞いていました。
イエスという幸せを与えてくれる人がいると、その人に出会う人は誰でも幸せになると。悪霊につかれて苦しんでいた人は悪霊が追い出され、いかなる病気の人もいやされ、また、目のみえない人は目が開かれるのだと。いかなるわずらいもイエスと出会う人は、そのわずらいが取り除かれ、幸せになるのだと。
それで、ザアカイは、権力でもお金でも、満たされないこの心の苦しみを解決してもらいたい、そのため、そのイエスという人に会いたいと、願っていたところでした。
ちょうど、その時彼は、自分の町エリコにその方が来られたと聞いたのです。ザアカイは、一生涯の問題を解決する時が来たと思いました。それで、彼は急いでイエスさまに出会うために出かけました。
3節をみましょう。
ここで、「イエスがどんな方か見ようとした。」とは、ただ見物のように一度見ようとしたとの意味ではありません。(未完了、不定過去型)もともとの意味は、見ようと続けて努力した、つまり、「見ようと必死になった」との意味です。
ザアカイはイエスさまに会いたいと必死でした。しかし、見ることができなかったとあります。その理由を二つあげています。
一つは「背が低かったので」、つまり、親の所為だと言っているのです。私たちは、人生の深刻な問題にあった時、よくぶつぶつつぶやくのです。背が低い、顔のせい、頭が悪いのは生れつきのものだ、家が貧しかったせいだ、家の環境があだ、こうだ、生まれ育ってくれたことに対する感謝より、生まれた環境のせいに自分の不幸を結びつけるのです。幸せになれないのは、すべて、親のせい、環境のせいにしてしまうのです。
もう一つは、「群衆のため」とありますように、他人のせいにすることです。あの人がいるから自分がこうだ、あの人のせいで自分の人生が変わった、この世が悪い、社会が悪い、この世の制度が悪いんだと。不幸の原因、自分が幸せになれないのは、すべて、他の人が悪いからだとつぶやくのです。
私たちはどっちのタイプでしょうか。両方でしょうか。
しかし、幸せになれないのは、決して、親のせいでも、環境のせいでも、他の人のせいでもないのです。すべてが自分のせいなのです。これを悟っている人は、幸せになるのです。なぜなら、周りの人に感謝の心を持つことができ、ものごとを否定的ではなく肯定的に考えるようになるからです。
すべてのことを自分の所為にすることができる人は、その解決策を見つけることができるからです。
ザアカイは、このことを知っていたので、自分に来たチャンスを逃がすようなことはしませんでした。
4節を読んでみましょう。
ザアカイは、背が低かったため、群衆のため、イエスを見ることができなかった時、決して人のせいにするようなことはしないで自分の苦しみが解決される最善のチャンスを十分に生かしました。彼は、ずっと先の方に走って行き、道端にあったいちじく桑の木によじ登り、イエスさまを待っていたのです。
まことの幸せを求める人は、人のせいにしないし、また、人の目を気にしません。ザアカイは、まるで、子供のようになったのです。権力も、お金持ちであることも、名誉も、すべて捨てて、人が、何と言おうかなど、考えないで、ただ一つのことだけを考えていたのです。
私たちは、あまりにも人の目を気にする生活をしています。
他の人に意図的な迷惑をかけるようなことをしてはいけませんが、しかし、人の目のおりの中に入って、いつも、あの人が、この人が見ると、どのように思うかばかり気にする人は、幸せにはなれないのです。
誰にも必ずその人生の中に幸せになるチャンスが来ます。チャンスであると知りながらも人の目を気にしてそれをつかむことを諦める人は、幸せになることを諦めることになるのです。ザアカイは、そのチャンスを逃がさずつかみました。
チャンスをつかんだザアカイに幸せの声が与えられました。
5節を見ましょう。
「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」
このイエスさまのおことばは、幸せを与えてくださるための招きのおことばです。イエスさまがエリコに来られたのは、ザアカイの家に泊まるために、つまりザアカイに幸せを与えるためだと言っておられます。大勢の人々、群衆の中でたった一人、ザアカイのために来られたと、言っておられるのです。
ザアカイがイエスさまを呼んだのではありません。イエスさまが、神さまが、彼を知って彼のところに来られたし、彼の名前を知って先に呼んでくださったのです。私たち一人一人の名前を知っておられ、その名前を呼び、語りかけて下さるのが幸せの神さま、イエスさまです。
6節を見ますと、ザアカイは急いで降りて来て、そして、大喜びでイエスを迎えたとあります。イエスさまを迎えるのは、躊躇すること、ためらうことではありません。イエスさまの招きがある時には、名前が呼ばれた時には、すぐ急いで受け入れなければなりません。「きょう、泊まる」とありますようにそれは「いま」しなければならないことです。最高の幸せ、心の喜びと平安を得ること、それはイエスさまの招きがある時、すぐ応じることです。
しかし、7節を見ますと、
これをみて、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。とあります。
イエスさまを信じ迎え入れることは、この世の人々、信者ではない人々には、あまり良く見られることではありません。簡単に認められるものでもありません。イエスさまを受け入れるためには、非難される事さえ覚悟しなければならないのです。
8節を見ましょう。
ザアカイは「罪人」でした。彼は、いまイエスさまを迎え入れ、イエスさまを主と呼び、誓約しています。
私の財産の半分を貧しい人たちに施します。
また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。
「四倍にして返します」と言っているのは、当時の法律、律法によると、盗んだ物を返す時には4倍、5倍にして返すように定められていたからです。(出エジプト22:1、IIサムエル12:6)
ザアカイがこのように誓っていたのは、罪に対する悔い改めを意味します。彼の心が変わったのです。本当の悔い改めは、神の恵みを受けた者がする自発的行為です。人間そのものが変わることです。イエスを迎え入れることは、その人が別人に生まれ変わることです。
イエスさまを受け入れ、最高の幸せを持つ秘訣は、罪を悔い改めることです。そうすると、イエスさまからの救いの宣言、最高の幸せが与えられるのです。
9節を見ましょう。
「きょう、救いがこの家に来ました。」このイエスさまのおことばは、罪人に最高の幸せを与えられることばです。
罪人:ザアカイのように人間は、最高の幸せのもとである神さまを離れ、物質と名誉、権力を求め、一生を走り回っているのです。すべての苦しみの原因、それは、神ばなれから始まったのです。すべての人は罪人だと聖書は教えているのです。心が罪によって暗くなっているので苦しむのです。心を明るくするためには、心をきれいにして、幸せのもとである神さまのもとに戻る方法しかありません。心をきよくする方法、義人になる方法、神さまの御前に戻る方法それは、ザアカイのように悔い改め、イエスさまを主と告白し、迎え入れることです(ロ-マ10:9-10)。
ザアカイは、イエスさまを主と告白し、信じて義と認められたのです。彼の名前の意味通り、罪が赦され、ザアカイはきよい人になり、義人になったのです。これを、救われた、つまり、最高の幸せな人になったと言います。
本文10節を見ましょう。
人の子、イエスさまが来られたのは、この最高の幸せを失った人々を捜して救うため、最高の幸せを与えられるためなのです。
皆さんは、いま、皆さんの前に来ておられるイエスさまを迎え入れたのでしょうか。いま、皆さんの名前を呼び求めておられる主イエスの御声に、耳を傾け聞いていたのでしょうか。
自分の家のことで、他の人の目を気にして、いま皆さんに与えられているチャンスを逃がしてはなりません。
ザアカイのように、イエスさまを迎え入れてください。大喜びの中で、迎え入れてください。「きょう、救いがこの家に来ました。」と主イエスに言われる最高幸せを皆さんのものにしてください。明日でもあさってでもありません。きょう、いまです。何より大事なのは、自分の幸せ、永遠のいのちだからです。
いま、全知全能の神さまは、皆さんが最高の幸せの中で、主と共に永遠に生きることを望んでおられるのです。
願わくは、ザアカイの救いの祝福「きょう、救いがこの家に来ました」のイエスさまの祝福のおことばが、皆さんと共にありますように!
尹 秉甲
「だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」 新約聖書 マタイの福音書5章37節
イエスさまはこのみことばを通して、私たちが神さまの前でも人の前でも真実であることを教えておられます。
私たちの言葉はどうあるべきでしょうか。偽りの誓いの罪を犯さない方法は、「あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい」の命令にあります。
『はい』と『いいえ』とは
第一に、偽りを言わないための命令です。
私たちの言葉は、単純、明瞭でなければなりません。
真理は、単純、明瞭なものです。複雑な弁明も言いふらしもないものです。何を言っているのか分からないようなあいまいな言葉は、人々を惑わすために用いられる方法です。
『はい』『いいえ』と言えば簡単に終わるものを、弁明することにより難しい、複雑な問題にしていく場合が多いのです。
『はい』と『いいえ』とは、単純な言葉使いです。ありのままのことを、そのまま話すことは、簡単で単純です。しかし、偽り、うそをつくと、どんどん複雑になっていくのです。ですから、『はい』と『いいえ』とは偽りを言わないための基本になることばです。
『はい』と『いいえ』とは
第二に、妥協しないための命令です。
私たちに求められているのは、真理である神のことば、与えられている神のみことばに対して、いかなる場合にも『はい』と言えること。また、みことばに反することに対しては、いかなる場合にも『いいえ』と言うことです。
今の私たちはあまりにも簡単に『はい』と『いいえ』をすり替えてしまう時代の中に住んでいます。絶対的真理である神のみことばを、相対的真理であるこの世のことばにあまりにも簡単に替えてしまうのが私たちです。
『はい』と言うべきものを『いいえ』と、『いいえ』と言うべきものを『はい』と、自分の置かれている状況によって替える場合が多いのです。
自分のためなら、神さまの真理のみことばを知っていても、この世と妥協するためにゆるめたり、正反対のものに替えてしまうのです。しかし、『はい』と『いいえ』ということばは、この妥協を許さないためのことばです。
この世の中が日々腐っていくのは、不義を見ても、犯罪を見ても、『いいえ』を大胆に言えないところにあるのです。
イエスさまが罪がないと知りながら、自分のために『いいえ』ができなかったピラトは、イエスさまを殺すという、取り返しのつかない罪を犯し、永遠の呪いに定められたのです。しかし、『はい』と言うことがはっきりとできたバプテスマのヨハネ、そして、イエスさまは、永遠の栄光を受けたのです。
この世での『はい』と『いいえ』の言葉使い、不義と妥協しない信仰が、永遠の幸せへと、私たちを導くものです。
『はい』と『いいえ』とは
第三に、責任を負うためのことばです。
『はい』と言ったなら、『いいえ』と言ったなら、それに対する責任を負わなければなりません。神さまの前で『はい』と答えたことに対しては、必ずその誓いを果たさなければなりません。また、人との約束も必ず守らなければなりません。自分の都合によって、『はい』と『いいえ』の約束を守らない人は、必ずその言葉に対する言い開きをしなければならない時が来ます。
悪口、誹謗、中傷、人を自分の思いのために引き立てたりして、自分の立場が悪くなりそうになると、平気で逃げてしまう人は、必ずその責任を負う日が来ます。
イエスさまは、偽りを言われたことも、みことばに妥協したことも、責任から逃げることも、一切ありませんでした。文字通り、『はい』と『いいえ』のことを、私たちにその一生涯を通して教えられました(-ペテロ2:22-23、マタイ4:1-10)。ですから、『はい』と『いいえ』の原則を守れないことは、悪いことの始まりになるのです。それはもはや、イエスさまの教えに従うことではなく、悪い者に惑わされていることになるからです。
偽りの誓いをすることは、自分に対して、人に対しての信頼性がないことを意味します。ですから、信じさせるためにその手段として「誓い」というものを用いるのです。自分自身のことばに自信がないから、人が自分を信じてくれないから、「誓い」という方法を用いるのです。
真実性に欠けている人が、むしろ口では強気で言うし、大げさな身振りをします。
誓いは完全な世界、信頼の世界ではいらないものです。なぜなら、そこではすべての人が真実であるから、偽りも悪もないからです。クリスチャンとして、天国のように真実である世界を作り出すように、互いに信頼し合う、そのような世界を作り出すようにと、イエスさまは、「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい」と、命じられているわけです。
いま、私たちは、互いに真実であるのでしょうか。信頼できることばを使っているのでしょうか。
『はい』と『いいえ』。ことばは簡単でも、実際には本当に難しいことばかもしれません。しかし、救われている私たち、イエスさまの御跡に従う私たち、すでに天の御国の民となっている私たちは、聖霊の助けによって、この命令を現実の生活の中で生かしていかなければなりません。そこに、天国を味わう道、栄光の道、まことの祝福の道が備えられているからです。
「私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、『はい。』を『はい。』、『いいえ。』を『いいえ。』としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。
新約聖書ヤコブの手紙5:12
『はい』と『いいえ』だけを言えることは、さばきに会わない、幸せな道を歩む方法です。『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』。このことばの原則を守り、神と人に認められ、真実なる者として、天の御国を建て上げる働きに励みましょう。私たちの幸せを、日々置かれているその場で作っていきましょう。
尹 秉甲
ヤロブアムはエフライムの山地にシェケムを再建し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを再建した。 ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。 この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」 そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」 それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。 このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンにまで行った。 それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。 そのうえ、ヤロブアムはユダでの祭りにならって、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でいけにえをささげた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえをささげた。また、彼が任命した高き所の祭司たちをベテルに常住させた。 彼は自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえをささげ、イスラエル人のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえをささげ、香をたいた。 旧約聖書 列王記-12:25-33
【導入】
人生には、二つの道があります。
神のために生きる道と、ほかの神々のために生きる道。この二つの道がすべての人間に定められている道です。神の栄光をあらわすために、特別に神のかたちに造られたのが人間です1
それ故、人間が神との人格的な交わりの中で生きる時、約束されているのが、いつも喜びと平安の中で生きる「最高の幸せ」「永遠のいのち」への道です。
しかし、人間が造られた目的どおり「神のために」生きる道を歩むのではなく、自分のために「神々のために」生きる道を歩むのなら、そこにあるのは「目の涙」と表現される死と悲しみ、叫び、苦しみの中で生きる「永遠の滅び」の道です。2
このようにすべての人生の前には、常に神のみことばの約束を信じて、その命令に聞き従い神のために生きる祝福の道と、まことの神と、みことばから離れ、ほかの神々のために生きるのろいの道が置かれているのです。3
いま私たちは、いつも喜びと平安のもとで生きているのでしょうか。それとも、いつも悲しみ、叫び、苦しみの中で生きているのでしょうか。
神のために生きる最高の幸せへの祝福の道、永遠のいのちへの道と、ほかの神々のために生きる苦しいのろいの道、永遠の滅びへの道。
この二つの人生の道。神の道と、神々の道のうち、いま、私たちが選び、歩んでいる道は、どちらでしょうか。
【解説】
けさの本文のみことばは、私たちが自分のために、ほかの神々のために生きる道が、どのようなものであるかを具体的に教えています。
このみことばの学びを通して、いま私たちが歩んでいる道がどちらの道であるかを確かめ、そしてもう一度、永遠の幸せへの道に進む力を得たいと願うものです。
本文25節には、「ヤロブアム」という人物の名前があります。彼は、北イスラエル王国の初代王になった人です。
イスラエルの国は、神のみことばの約束を信じ、一生涯神の道を従い通したダビデによって、一つの王国としての土台が置かれ、繁栄の道に入ったのです。彼は、一生涯を終え、この世のすべての人が行く道を行こうとしている時、息子のソロモンにこう言いつけました。
「あなたの神、主の戒めを守り、モ-セの律法に書かれているとおりに、主のおきてと、命令と、定めと、さとしとを守って主の道を歩まなければならない。あなたが何をしても、どこへ行っても、栄えるためである。」4
何をしても、どこへ行っても、栄える秘訣が、主の道、神の道を歩むことであると教えているのです。この遺言を守り、神の道を歩んだソロモンによってイスラエル王国は、黄金時代をむかえることになります。
神の道を歩んだソロモンに神さまは、みことばの約束どおり歴史の中でいままでにもない、そしてこれからも有り得ないような知恵と富と誉れの祝福を与えて下さったのです。5
しかし、彼は自分の父であるダビデのようには、この最高の祝福の道である神の道を守り通すことができませんでした。ソロモンは、神さまによって禁じられていた外国の女を多くめとり、彼女たちを愛し、離れませんでした。それ故、彼が年をとった時、彼女たちによってほかの神々の道、偶像崇拝の道を歩むようになったのです。
このソロモンの罪悪の罪の故に、イスラエル帝国は南ユダと、北イスラエルの二つの王国に分裂し、ソロモンの子レハブアムが南ユダの王になりました。6この時、神さまによって、北イスラエル王国の初代王として選ばれたのがヤロブアムです。
しかし、彼はこの神の恵みを踏み躙り、ほかの神々の道を歩んだ典型的な人になったのです。
彼、ヤロブアムは、預言者であるアヒヤを通して、ソロモン帝国が分裂した原因が、ほかの神々に従ったソロモンの偶像崇拝の罪に対する神のさばきであることを知らされていました。7それなのに、彼はほかの神々への道を歩んでしまったのです。
彼、ヤロブアムによって、北イスラエルの国は、永遠の滅びの道を走るようになりました。それでは、このヤロブアムが歩んだ神々の道がどのようなものであったかを具体的にみましょう。
神々の道の第一は、自分の思いに生きることです。
ヤロブアムは、ソロモン王の家来の身分でした。8神さまは、彼を北イスラエルの王として選び、みことばの約束を与えられました。開いてみましょう。
わたしがあなたを召したなら、あなたは自分の望むとおりに王となり、イスラエルを治める王とならなければならない。もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行なったように、わたしのおきてと命令とを守って、わたしの見る目にかなうことを行なうなら、わたしはあなたとともにおり、わたしがダビデのために建てたように、長く続く家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与えよう。
旧約聖書列王記-11:37-38
ヤロブアムは、このみことばの約束を信じないで、王になってからますます自分の思いのまま、自分のための道を歩みました。
彼が王になって最初に行なったことは、シェケムとペヌエルを再建することでした。
ヤロブアムはエフライムの山地にシェケムを再建し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを再建した。
旧約聖書列王記-12:25
ヤロブアムは、当時の北イスラエルにおいて宗教と政治の中心的な役割をしていた町であるシェケムを9再建して首都としました。そして、その首都を守るためにペヌエルを軍事基地として要塞化したのです。10
つまり、ヤロブアムは彼がダビデのように神の道を歩むなら、神さまが彼の家を守り建てて下さると、みことばの約束を与えてくださったのにもかかわらず、自分の思い、自分の力で自分の家、国を守ろうとしたのです。
しかし、このように軍事力が整えられていたのにもかかわらず、彼は不安に陥って恐れていました。
ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はタビデの家に戻るだろう。
この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」
旧約聖書列王記-12:26-27
エルサレム神殿礼拝を通して一つの神に仕え、一つの国の民として生きて来た彼の民だったので、再び北と南が一つになろうとするかも知れないと、不安に陥ったのも、また自分が殺されるかも知れないと恐れたのも、彼にとっては当然のことだったかも知れません。
ヤロブアムは、一家来の身分から一躍一つの国の王となって権力をふるう成功をおさめているのにもかかわらず、このように心の不安と心配、死への恐れを取りのぞくことができませんでした。
これが自分の思いどおり生きる、神々の道の限界なのです。
私たちはどうでしょうか。使徒パウロが言っているように、救われ、王である祭司11になっているのにもかかわらず、いまだにヤロブアムのように心の不安、心配、死への恐れの中に生きているのではないでしょうか。
救いの恵み、みことばの約束を忘れている時、人間は高慢になり、自分の思いに生きるようになるのです。そこには、感謝の心はなく、不安、心配だけがあるのです。
何か問題がある時、神さまに祈り求めるのではなく、自分の思い、自分の知恵、自分の力で解決しようとする時にヤロブアムの恐れがあるのです。
使徒パウロが言ったように、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。肉の思いは神に対して反抗するものであり、神のみことばに服従することができないのです。」12
心の不安、心配、恐れがある時、いま自分が神の道ではなく、自分の思いに生きているのだと悟らなければなりません。
自分の思いに生きること、これが苦しみの道である神々の道です。
神々の道の第二は、自分のために偶像を造ることです。
そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」
それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。
旧約聖書列王記-12:28-29
心配と不安、死への恐れを解決するために、ヤロブアムが自分の家来たちと相談して、考え出したのが、金の子牛を二つ造り、それを、神として信じさせることでした。彼は金の子牛を二つ造り、一つはベテルに、そしてもう一つは、ダンに安置しました。
彼がベテルとダンを選んだのは、地理的、宗教的理由でした。ベテルは、南ユダとの国境近くに、そしてダンは北の国境近くにある町でした。また、二つの町とも古くから宗教の中心的な町でした。13
こうしてヤロブアムは、国民に言いました。「ここに、あなたの神々がおられる。」ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられるのだ。つまり、これがあなたの救い主である神だと言っているのです。
また、「もう、ここにあなたの神がいるのだから、わざわざ遠いエルサレム神殿まで行く必要はない、そこまで行くのは大変でしょう。これらを造ったのは、あなたのためですよ」と言っているのです。これが、彼のたくみな口実でした。
聖書は、ヤロブアムが「手腕家であった」と記しています。14
つまり、彼は非常に有能な人だったのです。ですから、彼は自分のためのこのような政策を、国民にそのまま信じさせることができたのです。神さまのために使いなさいと、与えられている賜物を自分のために使う時人間はますます罪の中を歩むようになるのです。
本文30節は、ヤロブアムのこの行為が罪となったと記しています。自分のために偶像を造るのは、大きな罪になるのです。
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
旧約聖書出エジプト記20:3-4
十の戒め、十戒の第一と第二の戒めですが、ほかの神々があってはならない、そして、自分のために偶像を造ること、いかなる形をも造ってそれらを拝み、仕えてはならないと厳しく戒めているのです。この罪に対するさばきは5節に記されているように子にまで報われ、三代、四代にまで及ぼす厳しいものです。ヤロブアムはまさに、自分のためにこの罪を犯したのです。
金の子牛を造り神として拝み、神さまによってさばかれた事件がイスラエルの民の歴史の中に記されてあります。
シナイ山で、神さまがモ-セに律法を授けられている時、その留守の間、アロンとイスラエルの民が犯したのがこの金の子牛を造り拝んだ罪でした。
その時、イスラエルの民はさばかれ、三千人が殺され、民全体が苦しんだのです。15
ヤロブアムが金の子牛を造ったのは、この歴史的な事件をたくみに利用したかも知れません。あるいは、ある神学者が言ったように彼はイスラエルの歴史に無知だったのかも知れません。16いずれにしても、歴史を知らない、また歴史を歪め自分のために利用する人とその民族は、滅ぼされることを悟るべきです。
ヤロブアムは、神さまの厳しい命令である十戒を破り、自分のために、二つの金の子牛を造り、しかも、神さまが礼拝の場所として選んだエルサレムを無視しベテルとダンを選び、民全体を偶像崇拝に陥れたのです。17
私たちは、いまヤロブアムのように金の子牛を造ってはいないと言えるでしょうか。
神さまより大事にするもの、神さまのみことばより優先するものは、すべて偶像になるのです。それが、知識であれ、富であれ、誉れであれ、金の子牛です。時には親、妻、夫、子供、といった家族、親戚、友人が金の子牛になるかも知れません。(コロ3:5)
ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
新約聖書コロサイ人への手紙3:5
いま私たちはどれ程の金の子牛を造って、拝んでいるのでしょうか。自分のために偶像をつくること、これがのろいの道、神々の道です。
神々の道の第三は、自分のためにみことばをかえることです。
ヤロブアムは、自分のために、神の命令とおきてを勝手にかえました。
彼は、神さまが礼拝の場所として選び聖別されたエルサレム神殿のかわりに金の子牛を礼拝するために高き所に宮を建てました。さらに、祭司は必ずレビの子孫から任命するようにと定められている神のおきてを無視して、一般の民の中から祭司を任命したのです。18
それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。
旧約聖書列王記-12:31
また、ヤロブアムは、神の恵みを覚え、最高の喜びと感謝の中で守るように定められた仮庵の祭りの日を、第七の月の十五日19から第八の月の十五日にかえたのです。
そのうえ、ヤロブアムはユダでの祭りにならって、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でいけにえをささげた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえをささげた。また、彼が任命した高き所の祭司たちをベテルに常住させた。
旧約聖書列王記-12:32
月だけをかえたことに彼の悪賢さを見ることができるのです。20
33節では、このような彼の宗教政策を「自分で勝手に考え出した月」であると表現しているのです。
彼は自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえをささげ、イスラエル人のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえをささげ、香をたいた。
旧約聖書列王記-12:33
彼が神さまの定め、おきてを勝手にかえ、自ら公然とそれを守り行なったことは、明らかに神への挑戦を意味するのです。神のみことばである命令、おきてと定めを勝手にかえることは、最悪の罪になるのです。
エデンの園においてエバが、神さまが命じられたみことばに勝手につけ加えたり、減らしたりして、サタンの誘惑に負け堕落して以来、神のみことばを勝手にかえるこの罪は、もっとも赦されない罪となっているのです。
ですから、モ-セは、イスラエルの民に対して、神の命令、おきてと定めを守ることを命じる時、「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また減らしてはならない。」(申4:2)と強調したわけです。
そればかりではなく、このことは、聖書の最後の戒めとしても命じられているのです。黙22:18、19を一緒に読んでみましょう。
私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。
新約聖書ヨハネの黙示録22:18-19
このように厳しいさばきが与えられるのが、自分のために知っているみことばを勝手にかえることです。
私たちはどうでしょうか。神さまのみことばを自分の都合にあわせて、勝手に解釈しているのが、私たちではないでしょうか。私たちの罪深い性質の故に、自分も知らないうちにこの罪を多く犯しているのが、私たちではないでしょうか。
自分のために、知っているみことばを勝手にかえること、これが永遠の滅びへの道である神々の道を歩むことです。
ヤロブアムは、自分の思いに生き、そして、自分のために偶像を造り、さらに自分のためにみことばをかえ、神さまに公然と敵対する者になったのです。このように罪はどんどんエスカレ-トするものです。
ですから、私たちは、悪はどんな悪でも避けなさいと命じておられるみことばに、耳を傾けなければならないのです。21
自分のために、神々の道を走ったヤロブアムの家は、神さまのさばきを受け、悲惨な終わりを告げたのです。22
そして、ヤロブアムが北イスラエルの民にもたらしたこの神々の道の故に、北イスラエルの歴史は罪悪に満ち、再び神の道に戻ることができず、民全体が滅ぼされたのです。
聖書は、北イスラエルのすべての王が「ヤロブアムの道」を歩んだと記しています。23「ヤロブアムの道」、彼が歩んだ道、それがそのまま神々の道だったのです。
【結び】
私たちは、いま、ヤロブアムの道を通して、神々の道がどのようなものであるかを学びました。
私たちは、いま、ダビデの道である神の道とヤロブアムの道である神々の道の、どちらを歩んでいるのでしょうか。
私たちの人生の中で、常にあるのは、ヤロブアムの道への誘惑です。
自分の思いのままに生きる時。
自分のために金の子牛の偶像を造る時。
自分のために知っているみことばを勝手にかえる時。
ここに聞こえて来るのがヤロブアムのささやきです。
「ここに、あなたの神々がおられる。」
このヤロブアムのささやきに勝つ秘訣は、自分の思いではなく神の思いである神のみことばをそのまま信じ従い、自分のためではなく神のために、神の栄光のために生きることです。
私たちは、このみことばを心に刻んでおかなければなりません。
ヤロブアムがそうであったように、特に立てられている者は、ヤロブアムの道を歩まないように、このみことばを心に刻むべきです。
願わくは、皆さんが、いつも主の御声に聞き従い、神の道を歩むことによって約束されている最高の幸せのもとで生きることができますように!
TOINDEX
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注
1.創1:27、イザ43:7、-コリ10:31、エペ2:10
2.黙21:4
3.申11:26、27.28:1以下
4.I列2:1-3
5.I列3:3-4
6.I列11:1-13
7.I列11:33
8.I列11:26
9.I列12:1、創33:18-20、ヨシ20:7
10.JohnGray,1King.ACommentary,Trans.AnByung-mu(Chonan:KoreaTheologicalStudyInstitute,1992),pp.466-467.
11.Iペテ2:9
12.ロマ8:6、7
13.Byung-doKang.ed.AchokmahCommentaryonthefirstbookofKings,(Seoul:ChristianWisdom,1989),p.316.
14.I列11:28
15.出32:1-35
16.ThomasL.Constable,TheBibleKnowledgeCommentaryonthe1Kings,2Kings,Trans.Tyrannus(Seoul:tyrannuspress,1989),p.81.
17.H.D.M.SpenceandJosephS.Exell,ed.ThepulpitCommentaryVolume5I&IIKings(Michigan:Wm.B.EerdmansPublishing,1962),p.272.
18.出29:9、民3:10
19.レビ23:34
20.C.F.KeilandDelitzschF.,commentaryontheOldTestamentKings,Trans.ParkSoo-arm(seoul:KoreachristiancultureAssociation,1987),p.219.
21.Iテサ5:22
22.I列14:7-11
23.I列15:34
※聖書各巻を示す略語は、「聖書・新改訳」のあとがきの略号表による。
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参考文献表
服部嘉明「列王記」『新聖書注解旧約2』いのちのことば社、1989年。
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Spence,H.D.M.andExell,JosephS.ed.ThepulpitcommentaryVolume5.I&IIKings,Michigan:WmB.Eerdmanspublishing.,1962.
Barlow,George,ThePeacher'sCompleteHomileticCommentaryonthefirstBookofKings.TranslatedbyHongSeoung-Hwan.Seoul:ChristianLiteraturepress,1985.
Constable,ThomasL.,TheBibleKnowledgeCommentaryonthe1Kings,2Kings,Tr!anslatedbytyrannus.Seoul:tyrannuspress,1989.
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Keil,C.F.andDelitzsch,F.,commentaryontheOldTeslamentKings.TranslatedbyParkSoo-arm.Seoul:KoreachristioncultureAssociaton,1987.
尹 秉甲
『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』 新約聖書 ヨハネの福音書14:6
私たちは今、1年の最初の日、最初の時間を神さまにささげようとしている。
『イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。』
旧約聖書出エジプト13:2
新年礼拝-神さまに喜ばれるもの。
儒教:「孝」全て地上の親が第一。
キリスト教:(1)父なる神(2)地上の父の順番。
今、多くの人々が初詣をしている。しかもそれは「自分の思いどおりになるように」がポイントである。しかし、年の終わりにどれだけ叶うであろうか?
今日の聖書の本文は、確実に願いが叶う秘訣である。よく味わい、受け止めよう。
本文の「わたし」「道」「いのち」=イエス・キリスト
イエスさまの自己宣言(アイデンティティ-)である。
イエスさまの自己宣言の内容とは?
(1)ご自身が「道」である。
『愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。』
新約聖書ペテロの手紙-2:11
『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』
新約聖書ヘブル人への手紙11:13
地上の道:戻る道がある。
人生の旅の道:完全な一方通行。
人生の道は正しい道を選ばないと迷い、苦しんで、喜び、感謝のないものとなる。
ことばの通じない外国旅行をすることを考えてみよう。良い案内人が共にいるとしたら、全てをまかせて従うだけで、旅を楽しむことができる。明日の分からない不安な人生も、人生の全てを知っている案内人がいるとしたら、幸いであり感謝である。
人生の案内人=イエス・キリスト
(2)ご自身が「真理」である。
『そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』
新約聖書ヨハネの福音書8:31-32
旅先で、良い案内人が得られたとしても、従わなければ、全くいないのと同じであるように、人生に於て、イエスさまという案内人に従わないなら、会わないことと同じである。
イエスさまに従う=自由になる条件
「もしみことばにとどまるなら」は「自由」になる絶対条件である。
神の子とされていながら、なおも不安や苦しみの中で生きてはいないだろうか?
自分の思いどおりではなく、みことばに耳を傾け、イエスさまのみこころどおりに生きよう。
(3)ご自身が「いのち」である。
イエスさま=「全き人間」「全き神」=4福音書に明らかである。
イエスさまは「死んだ人」を「生き返らせた」のである。それ故、葬式を行なわれた記事がない。
イエスさま=「いのち」
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
新約聖書ヨハネの福音書11:25-26
イエスさまを信じる時、罪と罪過の中に死んでいた私たちも、復活される。
復活された者は永遠に生きる。
本文の「わたしを通してでなければ」とは?
こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
旧約聖書創世記3:24
神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。
旧約聖書創世記2:16-17
アダムは、この祝福の命令を破った=エデンの園から追放された。
クリスチャンの人生の旅路=エデンの園へ戻るための旅路。
創世記→ヨハネの黙示録=クリスチャンの道。
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。
新約聖書ヨハネの黙示録22:14
自分の着物を洗う=イエス・キリストを信じる=永遠のいのち、幸福を得る。
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。
新約聖書ヨハネの黙示録21:4
人生の出発はみな同じ
イエス・キリストに従う=着物を洗う→天国
イエス・キリストに従わない→地獄
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
新約聖書使徒の働き4:12
寺、神社のお札、お守り=人の作ったもので、力がない
イエス・キリスト=「道」:イエスさまに出会うことが本当の人生の出発
イエス・キリスト=「真理」:イエスさまに従うことが祝福の源、人生の歩み
イエス・キリスト=「いのち」:イエスさまのところに行くのが人生の終点
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
新約聖書マタイの福音書7:13
幸せを願うなら、自分を捨て、イエスさまに従う決心を新たにしよう。
尹秉甲牧師
人間が動物、獣と区別される根本的な違いは何だと思いますか。
霊の世界を知っている、宗教心がある、礼拝が出来る、言葉が使える、良心がある等、色々あると思いますが、その中の一つが、「恥を知る」ことです。ですから、恥を知らない人を獣に例えたりします。
しかし、この恥に対する考え方が、東洋人と西洋人は違うと言われています。
アメリカの著名な社会学者であるベネディクトという人は、東洋人の倫理意識を「恥の倫理」であると言っています。
この「恥の倫理」では、他の人にどのように見えるかが倫理と道徳の基準になるのです。日本の文化は恥の文化と言えるほど「恥=いのち」の公式が成り立つ時代もありました。
いまを生きる私たち現代人にとっても同じことが言えるでしょう!
他人にどう思われるのか、どう見えるのかが、多くの人の行動の基準になっているのです。他の人の目、耳を意識して、そのおり(檻)の中に入って、苦しい生活をしている人が沢山いるのです。
恥が倫理の基準になっていることは西洋人も同じですが、その基準が違うようです。西洋人の恥は、他人ではなく、絶対的基準が提示されている「罪の倫理」であると言われています。この恥の基準は、人間生活に大きな影響をもたらすものです。
皆さんの恥の基準は何でしょうか!
聖書が教えている「恥」の基準は何か、そして、恥を見ることのないためにはどうすれば良いのかを、本文を中心にして確かめてみましょう。
あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうが私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください。
《本文旧約聖書詩篇119:73》
本文は、ヘブル語10番目のつづり字「ヨード」で始まる詩篇119篇の第10の段落です。
詩人は、ここでまず、神さまを創造主なる方であると告白しています。人間が恥を見ることのないために絶対的に必要なことは、
第1に、創造主なる神を認めることです。
詩人は「あなたの御手が私を造り、私を形造りました。」と告白しています。ここで「造り」とは、天地万物、人間を含めすべてのものを創造されたことをあらわす時、使われる単語です。つまり、詩人は、神さまを天地万物のすべてのものを造られた創造主であると告白しているのです。そして「私を形造りました。」と告白していることは、自分が「神に似るように、神のかたち」に造られたことを自覚していることを意味します。(創1:26-28・2:7)
神のかたちに造られ、生きものになった人間は、動物と違って霊的存在となり、神さまとの交わりの中で、神さまによって造られたすべてのものを支配することができる、万物支配権が与えられている存在です。しかも、永遠に生きる可能性が与えられている唯一の存在として造られたのが人間です。
それなのに、人間が動物から進化したものであるとか、また、偶然にできた産物に過ぎないと言っていながら、まことの神、創造主なる神を認めず、人間の手によって造られた被造物を、神として信じ拝む者は、当然、恥を見るようになるのです。
偶像に仕える者、自分の力で生きると過信する人々は、みな恥を見るようになります。
偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。
だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。
見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。
《旧約聖書イザヤ書44:9-11》
見ることも、知ることもできない、何の役にも立たない、偶像を造り拝む者に定められているのが、恥を見ることです。(詩篇97:7)
創造主なる神を認めること、これが恥を見ることがない秘訣です。
詩人は、創造主なる神さまを告白し、さらにこう祈っています。「どうか私に、悟りを与えてください。」「私があなたの仰せを学ぶようにしてください。」
天地万物、また、自分が神のかたちに造られたことを確信している人は、その神さまをもっと知るために、また、自分をもっと知るために、当然のように、上よりの霊的知恵と理解力、悟りを求めるようになるのです。そして、「あなたの仰せ」つまり、みことばをもっと知りたいと思い、みこころに関する真の知識を求めるようになるのです。
あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。私が、あなたのことばを待ち望んでいるからです。
《本文旧約聖書詩篇119:74》
詩人のように創造主なる神さまへの確信を持って、みことばを学ぶことに努力する人は、当然のように同じくみことばに真実な信仰者たち、つまり、神を恐れる人々の喜びとなるのです。そして、詩人のような信仰者は、他の真実な信仰者たちにとって大きな励ましになるのです。
いまの私たちはどうでしょうか。創造主なる神への確信を持っているのでしょうか。自分が神のかたちに造られたすばらしい傑作品であるという自覚を持っているのでしょうか。万物の支配権が与えられていること、神の義によって生きるべき存在であること、永遠に生きる存在であることの確信を持っているのでしょうか。兄弟姉妹の励ましになる生活をしているのでしょうか。
どうか、みことばの学びにもっと励み、詩人のような確信のもとで生きることができますように、いまの私たちの信仰を確かめてみましょう。
人間の手で造られた神々ではなく、造り主なるまことの神さまを認めることが、人間が恥を見ることのない第1の秘訣です。
人間が恥を見ることのないために必要なことの、
第2は、さばき主なる神さまを認めることです。
主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。
《本文旧約聖書詩篇119:75》
詩人は、いま苦しみの中で、その苦しみが自分の罪に対するさばきであることを告白しています。その苦しみが神さまの真実の故であること、それ故、神のさばきが正しいことであると告白しているのです。
「あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。」
詩人のように苦しみの中で神の愛のむちを悟る人は幸いな人です。神さまは、罪に対して必ずさばきを与えられる、さばき主です。そのさばきは、私たち人間とは違って正しいものであり、真実をもって行なわれるものです。
神のさばきは、二つあります。
神の民、神の子に対する懲らしめと、そうでない者に与えるさばきがあります。
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
《新約聖書ヘブル人への手紙12:5-11》
神さまは、私たちが罪の中にいるとき懲らしめます。愛のむちが与えられるのです。また、もっと幸せにしてくださるために様々な訓練の中に私たちを入れられるのです。いずれにしても自分の身に起こったすべてのことを通して、その苦しみが真実なる神さまからのものであることを悟り、詩人のように、神に帰り、神にすべてを委ねる人は幸いな人です。
どうか、あなたのしもべへのみことばのとおりに、あなたの恵みが私の慰めとなりますように。
私にあなたのあわれみを臨ませ、私を生かしてください。あなたのみおしえが私の喜びだからです。
《旧約聖書詩篇119:76、77》
神が悩まされたことの意味、自分の苦しみの意味を悟っている人は、詩人のように神のめぐみのもとで慰められることを信じ、祈ります。人間の苦しみが取り除かれ、生かされる道が、ただ神のあわれみにあることを信じ求めるようになるのです。その人は、必ずみことばの中で真の慰めを得て生かされる方法と力が与えられるから、詩人のように神のみことばを喜びとして告白することができるようになるのです。
しかし、神を知らない人、神のみことばに従わない人は、みことばによるめぐみを得ることができない故に、罪の中で神さまのさばきを受けるようになるのです。そのさばきは永遠の恥につながるものです。
地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。
《旧約聖書ダニエル書12:2》
世の終わりの日に、神さまをさばき主として信じている人は、永遠のいのちに、つまり、天国で永遠に幸せに生きるようになるし、そうではない者は、「そしりと永遠の忌みに。」つまり、地獄へとさばかれるのです。
これを新共同訳聖書は、こう翻訳しています。「ある者は、永久に続く恥と憎悪の的となる。」
永久に続く恥の的となるさばきが、神さまを唯一の正しいさばき主として認めていない人に定められていることです。ですから、神さまが真実をもって自分を悩まされる正しいさばき主であること、イエスさまをさばき主として信じることが、恥を見ることのない第2の秘訣になるのです。(ヨハネ5:24-29)
人間が恥を見ることのないために必要なことの、
第3は、高ぶる者どもにならないことです。
どうか高ぶる者どもが、恥を見ますように。彼らは偽りごとをもって私を曲げたからです。しかし私は、あなたの戒めに思いを潜めます。
あなたを恐れる人々と、あなたのさとしを知る者たちが、私のところに帰りますように。
《本文旧約聖書詩篇119:78・79》
「高ぶる者ども」とは、神さまを信じない不信仰者、みことばから迷い出る者を言います。この高ぶる者どもは神さまのみことばを喜びとし従う詩人を、かなり苦しめたのです。
その方法は、偽りでした。詩人を倒すために彼らは、偽りをもってひどい誹謗、中傷をしたでしょう。
詩人を信じていた人々が、詩人を疑い、彼から離れて行くほどのものだったのです。
いまも同じように、みことばに従う者が、従わない者の偽りごとによって誹謗、中傷を受け、苦しめられ、皆から変な目で見られ、一人ぼっちになる場合があるのです。いまも真実を見極めずに、うわさに耳を傾け、惑わされ、罪の中に陥る人たちがいるのです。
とんなに立派な人の話しであっても、どのような人の話しであっても、他の人を苦しめ、殺すようなことについては、耳を傾いてはいけません。また、自分に関係のあることについては、必ず自分の目で確かめたことだけを信じなければなりません。
偽りごとに惑わされ、高ぶる者の仲間になる罪を犯さないためには、必ず両方の話しを聞くこと。そして、資料等、自分の目で確かめ、判断すること。特に、みことばに照らして判断することが大事です。(申19:15-20、-テモ5:19-20)
人の巧みな言葉に惑わされ、正しい人、みことばに従う人から離れたり、また、高ぶる者の仲間になると、必ず恥を受ける日が来ます。
詩人は、いま、高ぶる者どもが恥を見るようにと祈っています。詩篇では、自分を苦しめる者が恥を見るようにと祈り求めているところがあります。(詩篇35:4、26、83:17)
このように自分を苦しめる者が恥を見るように祈ることは、神の正しいさばきを信じていることを告白する意味があるのです。(申28:1-7)
偽りごとをもって、みことばに従う人を苦しめる者は、必ず神からのさばきが与えられることを信じ、詩人のように苦しみの中においても、もっとみことばに思いを潜めること、つまり、みことばを口ずさむ生活に励みますと必ず勝利を得る日が来るのです。
そうすると必ず主を恐れる人々、主のさとし、みことばを知っている者たちつまり、真実な信仰者たちは、自分を認め、自分のところに、自分の仲間として帰るようになるのです。
誹謗、中傷の苦しみ、仲間が離れ、淋しい、恥じ入る苦しみからの勝利の秘訣は、みことばにもっと従うことにあるのです。
偽りごとをもって、みことばに従う人を苦しめる高ぶる者ども。
彼らは必ず、恥を見るようになるのです。ですから、私たちは、高ぶる者どもにならないように、また、その仲間にならないように、常に注意しなければなりません。
どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに全きものとなりますように。それは、私が恥を見ることのないためです。
《本文旧約聖書詩篇119:80》
詩人は、自分が恥を見ることがないように、自分の心が主のおきてのうちに全きものとなりますようにと祈っています。
詩人は結論的に、
みことばから自分の心が迷い出ないように、心が分かれて二心をもつことのないようにすること、これが恥を見ないで生きる道であると告白しているのです。
人間に恥が入ったのは、神のみことばに従わない、不従順の故でした。
そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。
《旧約聖書創世記2:25》
ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった最初の人間アダムとエバは、サタンの偽りの誘惑に負けたことによって、善悪の知識の木から取って食べ、その時に恥を知るようになったのです。
このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
《旧約聖書創世記3:7》
他人に対して感じる恥、これが人間、恥の第1段階であると言います。
疑い、恐れ、隠れる、そして、人の所為にする罪の性質の始まりがここにあるのです。
そして、第2の段階は、他人から自分自身が感じる恥です。偽り等罪意識を自分自身の心の中で感じる恥です。
第3の段階は、神の前で感じる恥です。
神の前に自分の罪を告白し、みことばに従うその時、すべての恥は神のめぐみによって取り除かれ、新しい人生の歩みが出来るのです。
みことばを知れば知るほど、神の前の罪意識は大きくなるのです。それ故、その人はもっと神さまの前に自分を聖別する生活ができ、みことばに従うようになるのです。
みことばに従うこと以外には、みことばへの不従順によって、人間の中に入ってきた恥を取り除き、最高の幸せの道に戻る方法はありません。
詩人のように恥を見ることのないように、自分の心が主のおきてのうちに全きものとなりますように。すなわち、主のみことばを疑わず、そのまま信じ従うことができますように。その信仰を求め、日々祈ることが大事です。
いま、私たちは、神の前で恥じ入る者でしょうか。それとも、人の前で恥じ入る者でしょうか。
詩人の告白が、いま私たちの告白となりますように。詩人のように恥を見ることのないため、みことばだけに聞き従う信仰者になりましょう。
どうか、「私の心があなたのおきてのうちに全きものとなりますように!」
人は、科学の発達によって、多くのものを目で見ることができるようになりました。しかし、人の心の世界を見ることが出来るものはありません。人の心の世界を見る方法は、人間の力を超えたところにあります。私たちの心の中と霊の世界は、聖霊さまの助けをいただいて聖書を読む時、詳しく写しだされます。本文の19節をお読みします。本文の前の段落の〈ガラテヤ5:16〉で、「御霊によって歩みなさい。」これが肉の欲望に打ち勝つ方法であることを学びました。私たちの心の中にある肉の欲望、肉の願いは、隠すことができません。これらは、肉の行ないを引き起こして、必ず明らかにされます。そして、欲がはらむと、罪を生み、罪が熟すると死を生みます(ヤコブ1:15)。神さまから最高の幸せのために与えられた力が、人間の不従順の罪によって、苦しみの原因である欲となってしまいました。
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」創世記1:27-28
28節の「祝福し」は、「力を与えた」の意味になります。人間には、幸せになるために、神さまから与えられた使命を行なうための力が誰にも与えられています。しかし、人間は、神さまから与えられた祝福である幸せになるための力を、自分が神のようになりたいという願いのために、自分のために使うようになってしまいました。これが、不従順の罪、「肉の行ない」です。「行ない」のギリシャ語「エルガ」は、いま私たちが使っている「エネルギー」の元になったことばです。人間のエネルギーの原点は、神さまが与えられた祝福、その使命を果たすための力を意味するのです。今、人間の祝福のもととなったエネルギーは、ただ人間の欲望を満たすものになってしまったのです。ですから、肉の行ないは、いくら一生懸命働いても、決して幸せになるための実を結ぶものにはならないのです。ですから、私たちが幸せになるためには、苦しみの原因が何であるかを、本文の罪のリストによって見つけ出し、ひとつひとつ取り除いていくことが必要です。今日は、「不品行・汚れ・好色」の性的罪について見ていきます。この「不品行・汚れ・好色」は、神さまと自分自身、他の人に対して同時に犯す罪であり、また、すべて-罪の土台になる罪であると言えます。〈-コリント6:13-20〉を見ますと、私たちの体は、聖霊の宮であり、神さまの御栄光を現すためのものです。性を欲のために用いると、自分、他人、神さまを汚す罪を犯すことになります。
私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。エペソ人への手紙5:30-32
神さまとの正しい関係の中で、夫婦が一体になるために与えられているのが性というものです。
性的罪である「不品行・汚れ・好色」のそれぞれの意味を見てみましょう。「不品行」は、神さまによって結ばれた正式な結婚関係によらない、すべての性的行為を言います。「汚れ」は、行ないによる性的罪だけではなく、心の中の性的欲望による罪を指します。「好色」は、性的罪の罪意識がなく、どんどん性的罪に溺れていくことです。性的罪は、神さまを知らない人たちの特徴の一つとなっています。
というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。ローマ人への手紙1:21-27
みことばから確認してみましょう。
神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。テサロニケ人への手紙第一4:3-8
性的罪の結果は、神さまによる滅びです。
また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。ユダの手紙7
神と人と自分に対して犯す罪となる「不品行」は、神さまから厳しい裁きを受けることになります。これらの性的罪によって苦しみに会うことのないように、いつも神さまのみこころである、聖い区別ある生活をして行きましょう。
では、私たちが、性的罪を犯さないためには、どうしたら良いのでしょうか。三つの方法があります。-聖書の教えている正しい性の意味、正しい男と女の意味について学ぶことです。性は、正しく用いれば、神さまから与えられた素晴らしい祝福のものですが、間違って用いれば、苦しみ、滅びの原因になります。性は汚れたものではありません。汚れたものにしているのは、人間の罪です。-不品行を犯しうる場所を避けることです。〈-コリント6:18〉で、「不品行を避けなさい」と命じられているように、性的罪、不品行の罪は、他の罪と違って、避けることによって勝つことが出来るものです。
それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。テモテへの手紙第二2:22
牧師であるテモテに対しても、避けるように命令されています。特に、若い時の情欲は、避けなければならないほど強いものです。
彼はヨセフの手に全財産をゆだね、自分の食べる食物以外には、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、美男子であった。これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」と言った。しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。創世記39:6-12
ヨセフは必死で誘惑の場所を避けました。不品行の罪が、いかに大きな悪事であるのかを悟っていたからです。-性的罪に陥る可能性があることは、口にすることさえしないことです。
あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者--これが偶像礼拝者です。--こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。エペソ人への手紙5:3-5
今の時代は、テレビ、ビデオ、映画、本など、性的誘惑であふれています。私たち自身も、服装や言葉づかい、又、不道徳な友人などに気を付け、聖い歩みをして行きましょう。原罪は、イエスさまによって赦されていますが、罪によって、汚染されている心の中の罪の性質は、もう一人の助け主である聖霊さまの助けを得なければ取り除くことは出来ません。日々、聖霊さまの助けをいただいて、心の中の罪を取り除き、苦しみから解放され、幸せな歩みをしていきましょう。
私たち人間が生涯を通して、あまり聞きたくないことばのひとつに「罪人」ということばがあります。理由はどうであれ、法を犯して服役すれば「前科者」というレッテルが貼られ、生涯、人に対して良い印象を与えません。また、この世に於いて、道徳的、倫理的に正しいとされる生活をしている人にとっても「罪人」ということばは気持ちの良いものではなく、出来れば聞きたくないものです。聞いて怒る人もいます。しかし、聖書では神のことばとして「すべての人は罪を犯した」(ローマ3:23)「全ての人が罪人である」と宣言しています。これは、この世と聖書の「罪」に対する概念の違いから来るものです。本来「罪」というものは、「人に対して」「自分に対して」という倫理、道徳的なものが基準ではありません。「罪」のもともとの意味は「神に対して犯すこと」を言います。従って、人に対して、自分に対して、どんなに立派な生活をしたとしても、この「神に対して犯した罪」を解決しない限り、神の前では全ての人が永遠に「罪人」なのです。主イエスさまは「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」(ヨハネ16:9)と教えられました。つまり「神、イエスさまを信じない事が罪の-ととなる」と教えて下さったのです。人間の苦しみ、不幸の原因は、言うまでもなく、神に対する姿勢、態度から始まったものです。この神に対する罪が、私たちの心の中に罪の性質をもたらしたのです。この「心の中にあるもの、肉の行ない、欲」が口から出て、私たちを汚したり、或は行ないとなって表われたりし、これらによって私たちは苦しむのです。「欲」がはらんで「罪」を生み、罪が熟して「死」「苦しみ」を生みます(ヤコブ1:15)。ですから、私たちの心の中の問題を解決しない限り、人間は決して幸せにはなれないのです。その為に、私たちは自分自身の心の中を良く知る事が必要となります。科学技術の発達した現代、その技術を駆使して、私たちは、人間の体の隅々まで写し出すことが出来、見えない宇宙も、潜水不可能な深海の海底も見ることが出来ます。しかし、私たちの心の中を見る機械はまだ存在しません。しかし、私たちには、「聖霊」の助けによって心の中を撮ることのできる機械が、神からの賜物として与えられているのです。それが「聖書」です。この「聖書」に私たちの心を照らして撮影する時、私たちの心が精密に写し出されるのです。前回は、本文19節のみことばにより、第一枚-の心の写真を写し出し、「不品行」「汚れ」「好色」という性的罪が全ての罪の土台となるものだということを確認しました。また、「性的罪」とは、神に対して、他人に対して、自分に対して犯す、恐ろしい罪であり、聖書では「クリスチャンが決して犯してはならない罪である」と言っていること、さらに、その重大な罪を犯さない方法を学びました。今回は第二枚目の写真を撮り、私たちの心の中の罪の性質を確認しながら、罪を犯さない、新たな決心をしたいと思います。
さて、本文19-21節には約15種類の代表的な心の中の罪が記されていますが、今回は20節に記されている「偶像礼拝」と「魔術」について考えてみたいと思います。この「偶像礼拝」と「魔術」とは人間が神に対して犯す罪の性質を表わすことばです。
まず「偶像」について考えてみましょう。「偶像」ということばは、もともと「無いもの」「悲しみの原因」を意味しています。直接的には「礼拝、拝むために造られた神の形をしているもの」という意味です。
彫刻師の刻んだ彫像や鋳像、偽りを教える者が、何の役に立とう。物言わぬ偽りの神々を造って、これを造った者が、それにたよったところで、何の役に立とう。ハバクク書2:18
人によって造られたもの、物言わぬ偽りもの、何の役にも立たないものとして宣言されているのが偶像と言われる神々です。まことの神以外のものを自分の神とし、自分の幸せを願って拝み、仕えること、これが偶像礼拝です。それが物体であれ、思想であれ、自分にとって第一のものとして拝み、仕えることを聖書では「偶像礼拝」と言っています。学者たちの研究によれば「偶像礼拝」ということばは、聖書とキリスト教の文献以外には使われていません。ですからこの「偶像礼拝」ということばは、私たちクリスチャンに対する戒めのことばになります。また、私たちの生き方の土台をなす「神との関係」を保つための深い意味があることばなのです。肉の行ないとしての「偶像礼拝」ということばは、まことの神を信じ、神の民、神の子となっている私たちの心の中にも、未だに、この「偶像礼拝」の罪の性質があることを前提にしていることを表しています。これは悲しい現実です。
では、「偶像礼拝」とは具体的にどのようなものであるか、聖書で確かめてみましょう。
1.形あるものを造って、神として信じ、拝み仕えることを偶像礼拝といいます。
あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。申命記4:15-18
初めに「あなたがたは十分に気をつけなさい」と言っている理由は、神の子どもとなっている私たちの心には、未だに「偶像礼拝」の罪の性質があり、常に充分気をつけなければ、いつでも罪を犯し得ることを、前もって示すためです。15節はまこと??神の本質を表わしています。太字の「主」は、自ら存在しておられる、永遠不変で絶対唯一の神、救い主なる、すべてを超越している神を表わすことばです。物言わぬ神々(ハバクク2:18)に対し、私たちの信じている神は、「生きておられ、話ができる、交わりができる神」つまり、「人格を持つ神」なのです。しかも「火の中から話しかけられたが、何の姿も見なかった」とあるように、見ることも触れることもできない神、つまり、物ではなく、「霊である神」なのです。ですから、いかなる形でも、物を造り、それを自分のために拝み、仕えることが偶像礼拝になります。16節に「堕落して」とありますが、「堕落」とは、偶像礼拝の罪に陥ったこと。まことの神との交わりの中で幸せに、しかも永遠に生きる存在であった人間が、永遠に生きることができなくなったこと。神の栄光のために生きるべき存在であった人間が、まことの神から離れて、自分の欲のために-きる存在になったことを意味します。18節までのみことばには、人のつくった神々の実態が示されており、まさに現在、私たちの周りにある色々な宗教に見られるものです。このような環境の中に生活している私たちは、情に流されて、結果的に、偶像礼拝の罪を犯してしまう危険性が多くあります。例えば、墓に花を献げたり、香をたくこと、クリスチャンであることや教会であることの印にすぎない十字架そのものを拝んだり、お守りにしたり、カトリック教会に於けるマリヤ像や聖人の像を拝む事などの危険性です。
2.自然にあるものを神として信じ、拝み仕えることを偶像礼拝といいます。
また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。申命記4:19
日、月、星、木、石、海、地、山等々。これらは、拝む対象ではなく、私たちの生活の助け、生活の必要として与えられたものにすぎません。今も、あらゆる物の中には、霊が宿っていると信じ、神として拝んでいる人が後を絶たないのが現実です。また、クリスチャンは、区別ある生活のために、偶像に供えたものを食べないように注意すべきです。なぜなら、偶像にささげた物を食べる事は、悪霊と交わることになるからです(-コリント8章-10章)。何となく犯してしまう可能性があるので、偶像礼拝の罪を犯し得る場所は、区別し、避けることに気を配らねばなりません。
3.むさぼりを偶像礼拝といいます。多くのクリスチャンが犯している罪です。
ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。コロサイ人への手紙3:5
心の中の罪の性質は、全て「むさぼり」つまり「欲」が原因です。「むさぼり」「欲」がはらんで「罪」を犯し、罪が熟すると「死」「苦しみ」を生みます。欲に従うため、自分のために、神よりも大切にするものは全て「偶像礼拝」につながるものです
だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。マタイの福音書6:24富(マモンの神)に仕えながら、まことの神に仕えることはできません。富、物質、名誉を、神よりも重んずることが偶像礼拝であり、また、夫、妻、子、父、母を神より大切にすることも同様です。何を第一とする生活をするのか、自分の欲のために切に求めていることが偶像になります(マタイ6:31-34)。別の見方をすると次のようになります。何も持たずに来た私たちに神は、生きるために「衣、食、住」を与えて下さいました。これだけが私たちに許されているものであり、死ぬ時はまた裸で帰ります。自分のものとして永遠に残るものは、自分の使った「衣、食、住」、一体となっている「夫又は妻」、霊的には一体となった「キリスト・聖霊」だけです。あとの物は全て神のものです。従って「衣、食、住」「夫、妻」「キリスト、聖霊」以外のものは管理するために私たちに預けられたものであって、所有するために与えられたものではありません。管理するためのものまでも所有したいとする心の欲、「むさぼり」が偶像礼拝となり、結果として自分を苦しめるものとなります。従って、この「欲」「むさぼり」を捨てる、否、殺すところから、心の中の喜びと平安を取り戻すことができるのです。私たちは、皆、このむさぼりによって偶像礼拝に導かれてしまうのです。この心の欲を取り除く生活が信仰生活であり、私たちは今、恵みによって神の前に呼ばれ、「むさぼり」を殺す方法を学んでいるのです。「むさぼり」を殺し、与えられているものを、神と人のために使う。これが、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という命令、すなわち、幸せの秘訣になります。
4.魔術を信じ、行なう事を偶像礼拝といいます。本文20節の「魔術」とは、ギリシャ語で「ファルマケイア」と言い、英語の薬局(pharmacy)ということばのもとになったものです。この「魔術」とは「薬を製造するもの」「薬を使う者」という意味があります。当時の魔術を行なう者たちは、人々をだますため、また、だます力を得るために悪霊の力を借りようとして薬を作り、それを使っていました。このようにして、魔術と薬とが密接に関係していたのです。今で言えば、麻薬、酒、薬などを使って力を得たり、人をだましたり、悪霊の力を借りたりして、自分の欲を満たすことを意味します。
あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。あなたが占領しようとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきたのは確かである。しかし、あなたには、あなたの神、主は、そうすることを許されない。申命記18:9-14霊媒や口寄せのところにおもむき、彼らを慕って淫行を行なう者があれば、わたしはその者から顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。レビ記20:6
魔術、占いは悪霊に従うことなので、神はそのような者を「その民の間から絶ち」「追い払われる」とおしゃっています。実に厳しい戒めです。
ではなぜ、これほどまでに神は「偶像礼拝」を厳しく戒めているのでしょうか。その根本的原因をみると、偶像礼拝は、創造主の神と救い主イエスを否定する、2つの不信仰の罪につながるからです。つまり、偶像礼拝は、-全てのものの創造主である神を、ただの造られたものに格下げして信じ、拝むことによって、神を否定することになります。-神に対して犯した罪を解決し、喜びと平安に満ちた本当に幸せな生活へと、救いの道に導いて下さる救い主は、イエスさまお一人なのに、それを否定し、他の所で、自分の欲に合わせて形ある物をつくり、その偶像に救いや幸せを求めて礼拝するからです。
それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。出エジプト記20:1-6
これが、神が私たちに命じられた「神を愛する」秘訣です(十戒の第一、二の戒め)。私たちの人生に於ける祝福とのろいの全てがこの戒めにかかっています。本文21節に記されているとおり、偶像礼拝をする者は、決して神の国を相続することはできないのです。このことは、聖書の中に繰り返し示されています。
あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者--これが偶像礼拝者です。--こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。エペソ人への手紙5:5
しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」黙示録21:8
これらは裁きの宣言です。
犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。黙示録22:15
偶像礼拝の罪を犯す者は、ついには天国の外に出されてしまうのです。今、聖書というカメラにより、私たちの心の中をもう一度写してみました。この2枚目の写真には、どんな心が見えたでしょうか。私たちの心を写し出す、聖書によって写し出された「肉の行ない(心の欲・むさぼり)」を、神の賜物である聖霊の助けによって悔い改め、とり除き、殺し、「御霊の実」に変えて、まことの神の御前にあって、天国を相続する者としての真の喜びと平安の中を歩みたいものです。
聖書に記されている神さまの最初の御声は、「光よあれ。」であり、また人間の最初の声は、アダムがエバに会ったときの愛の詩でした。この言葉は、男と女、夫婦関係を教えると同時に、広く私たちの人間関係のあり方を教えるものでもあります。人間と人間は、お互いにこのように愛し合うべき存在、助け合うべき存在であり、従って、人が他の人と会ったとき、喜び、平安があるのが本当の出会いであるといえます。しかしながら、今現在は私たちの罪によって、このような喜び、平安のある出会いや人間関係がなくなり、かえって、それらが苦しみとなっているのです。心の中にある肉の願い、私たちの肉の欲望を満足させようとする明白な肉の行ないが、私たちの人間関係をこのように壊してしまいました。
肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。ガラテヤ人への手紙5:19-21
私たちは、この本文のみことばによって心の中の写真を撮ってきました。聖書のみことばによって、聖霊さまの助けによって、私たちは初めて心の中の状態を知ることができ、それを明確に映し出すことができるのです。一枚目の写真に写されたのは、性的な罪の性質である、不品行、汚れ、好色。二枚目の写真に写し出されたのは偶像礼拝、魔術の罪でした。今回は本文のみことばによって三枚目の写真を撮ります。「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」が今回私たちの心の中から映し出される写真の内容です。この八つの罪は社会的な罪、兄弟愛の喪失から来る罪で、他人に対する罪の中の代表的なものといえます。それでは、一つ一つ詳しく学んでいきます。
まず、第一番目に記されているのは「敵意」です。ギリシャ語原文では、この単語は複数形になっており、これが、他人に対する罪の根本になっているということを教えています。「敵意」という単語の意味は、「愛」の正反対の意味であるといえます。お互いに愛し合うべき存在として造られた人間でしたが、罪によって愛の性質を失ったときに敵意が心の中に入ってきました。愛する者に裏切られたときに生じる憎しみ、恨みは数倍にもなり、さらに心の中の愛がなくなれば、敵意は大きくなっていきます。この憎しみの心を持つと、その人はさらに自己中心的になり、自分自身を見ることができなくなります。「自分は正しい。悪いのは相手だ。」という心を持つと、相手の言葉、他の人の言葉に耳を傾けず、高慢な者になってしまいます。
憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。箴言10:12
愛は人の罪をおおいます。つまり、人の罪を赦すことができます。しかし、敵意はすべての苦しみの原因を他人のせいにします。ですから、他の人の罪を赦せず、人を憎むようになります。最初の人間アダムも罪を犯したとき自分のせいにせずに、その妻のせいにしました。愛がなくなるとこのようなことになってしまうのです。敵意の源になっているものは、自己中心的な考え方です。自分が善し悪しの判断基準になっていて、自分が良いと思えば「良し」、気に入らなければ「悪い」というように決めつけます。相手も自分をこのような目で見ているわけですから、人間同士が愛し合い、一体になるということはあり得ないことになってしまいます。逆に、すべての苦しみの原因を自分のせいにし、悔い改めるときに私たちは、愛を表すことができるし、神さまからの祝福によって、喜びと平安を保ち、心の中から敵意を取り除くことができます。神さまに救われていることを信じる私たちは、まず、この兄弟に対する憎しみを取り除かなければなりません。
光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。ヨハネの手紙第一2:9-11
兄姉を憎む者は、神さまを信じている者ではないのです。兄弟を憎む者は真っ暗な闇の中にいて、自分がどこに行くか分からず、苦しむことになります。神さまを愛する者は、苦しみの原因が、自分の兄弟を憎む罪によるということを悟り、また、兄弟は愛すべき存在であると悟るべきなのです。心の中の敵意、憎しみを取り除くことが、本当の幸せへの出発点なのです。
第二番目の人に対する罪は「争い」です。人に対する敵意は、まず、心の中に争いを引き起こします。人を憎む心の中には争いがあります。その争いは自分の苦しみとなります。憎しみは相手を苦しませ、またそれ以上に自分を苦しませるのです。
違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、テモテへの手紙第一6:3-4
神さまのみことばを信じない人の心は高慢であり、人に敵意を持ち、争いなどの罪を起こすようになるのです。まず、心の中の争い、ことばの争いにならないように注意しなければなりません。人に対する憎しみは心の中に争いを生じさせ、次に言葉となって外に出ていきます。
たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。おき火に炭を、火にたきぎをくべるように、争い好きな人は争いをかき立てる。陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。箴言26:20-22
心の中に争いがある者は、人の悪口、陰口をたたくようになり、争いを引き起こします。私たちは自分の口から人を中傷するようなことばが出てきたとき、自分の罪が、「敵意」からすでに「争い」に移ってきていることを悟らなければなりません。人に対する陰口悪口は美味しいもので、人はそれを受け入れ、それが新たな争いを生むからです。うわさ話が大好きな人間は、人の悪口を聞きたがり、それがあちこちに争いを生んでいるのです。ですから私たちクリスチャンは絶対に人の悪口を言ってはいけないし、またそれを聞くこともしてはいけないのです。自分を苦しめ人を苦しめ、また人を殺す罪になるこの罪を、私たちは犯してはいけないのです。
人に対する罪の第三番目は「そねみ」です。その意味は、自分の憎しみの原因になっていると思われる相手のものを熱心に求めることです。相手を何とか自分の思い通りにしようとする具体的な欲がそねみです。これは、相手に対する憎しみから来ることもあれば、コンプレックス、劣等感から来ることもあります。相手の持っているものに対する欲が出てきたとき、相手を思い通りにしようと思ったとき、私たちは自分の心の状態がかなり悪くなっていることを悟り、注意しなければなりません。
第四番目の罪は「憤り」です。そねみが大きくなると爆発します。またそれは、第五の罪「党派心」につながります。憎しみが爆発して、憤りになると、人は具体的な行動に出るようになります。一人では何もできない人間は、憤りを理解し、共有してくれるところ、そのようなところ、群に無条件に加わるようになります。それが「党派心」です。自分が憎んでいる人を同じく憎んでいる者、群があるならば、無条件に加わり一体になるのです。そのような状態になれば、その群がどのようなことをしているか客観的に判断することもできなくなります。自分の憎しみが解決されれば他のことはどうでも良くなり、また、その相手のことや立場は全く考えなくなります。
第六、第七の罪は「分裂」「分派」です。当然のことですが、党派心を持った者は群を分裂させ、また分派を形成します。自分の益のためにならない人を排除し、分裂させ、自分の益によって人を集め分派を形成するのです。人間社会の中では、それぞれの目的、益によって集まる群がたくさん存在し、分裂、分派を繰り返しています。
第八の罪は「ねたみ」です。さきほどの「そねみ」が相手のものを熱心に求めることならば、「ねたみ」は積極的にそのものを奪おうとする罪です。最終的にこの「ねたみ」はその人を殺すところまでつながります。
人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。創世記4:1-8
これが、人類最初の殺人です。憎しみから憤りに発展し、ねたんで弟を殺す大きな罪につながりました。ねたみは相手を滅ぼし、また、自分自身を苦しめ滅ぼすことにつながります。ねたみは殺人につながる罪です。人を愛すべき者がその愛を失う時、その結果は、人を殺すことになるのです。敵意はねたみにつながり、殺人の罪を生むものです。
私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。ヨハネの手紙第一3:14-15
神さまに救われて永遠のいのちをいただいている者は、兄弟を憎むことができないはずです。ですから、この憎しみ、敵意を聖霊さまの助けによって取り除いていく生活が、私たちに望まれているのです。人を憎む者は人殺しです。これが私たち人間に対する神さまの宣言です。この人殺しの罪「敵意」を取り除き、和解させるためにこの世にこられたのがイエス・キリストです。
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。エペソ人への手紙2:14-18
「敵意」を取り除くために来られたのがイエスさまです。十字架のみわざがこの「敵意」を取り除きました。ですから、私たちは聖霊さまの助けによって「敵意」を取り除くことができます。また、そのような生活をしなければなりません。私たちは、まず敵意を取り除く生活、争い、そねみ、憤りをおさえる生活をしなければなりません。憤りによって、党派心、分裂、分派を生じさせ、ねたみによって、殺人の罪を犯すようなことにならないためです。ここに示された八つの罪がこの順番通りに引き起こされるものではありません。しかし、この順番を覚えていることによって、自分の心の中を調べるとき、その心の状態がどのような段階まできているかを悟ることができます。罪であることを悟ることは、その罪を犯さないようにすることにつながり、私たちを幸せに導く力になるのです。今回撮った三枚目の写真には、心の中のどのようなものが写っていたのでしょうか。このみことばによって、私たちはいつでも心の中の罪の状態を探っていかなければなりません。今何も写っていなくても、ある時は八つすべて写されているかもしれません。なぜなら、これらの罪の性質は私たちの心の中に潜んでいて、私たちすべての人間-持っているものだからです。今、聖霊さまの力によってそれらの罪を押さえるだけではなく、取り除いていただきましょう。日々、心の中の敵意を取り除き、兄弟を愛する生活をするとき、神さまの祝福は私たちのものになるのです。隣人に対する愛を持ち、深め、主からの喜び、平安を得ましょう。兄弟愛を失うと、私たちは決して天の御国を相続すること、喜び・平安を保つことはできないのです。人を造り、人を出会わせる神さまのみこころを深く悟りましょう。それは、私たちが愛し合うことです。助け支え合うことです。今、私たちが心の中の喜び・平安を持って新しく歩むためには、心の中の罪を取り除く以外に方法がありません。日々罪を悟り、取り除く信仰を求めて祈りましょう。
人間の本能的な肉の欲は、3つあります。食欲、睡眠欲、性欲です。特に食欲と睡眠欲は人間が生きるために必要なものです。この3つの欲を如何にコントロールするかによって、人間は動物と区別されるのです。今回は食欲、特にお酒が、私たち人間の肉の行ないとどのような関係があるのか、そして、信仰者としてお酒とどのような付き合いをすべきであるのか、また、肉の行ないを全体的に確かめ、私たちの信仰を見つめましょう。
私たちは、本文を通して、私たちの心の中に潜む肉の行ないを引き起こす罪の性質を確かめています。心の中を写すことができるのは、聖書のみことばだけです。私たちは、聖霊さまの働きを通して私たちの心の中を、一枚一枚写真に写してきました。一枚目は性的な罪でした。この罪は、神さまに対してまた他人に対して、自分に対して犯す罪で、非常に重い罪です。すべての罪の土台になるものなのです。二枚目の写真は宗教的な罪でした。つまり、偶像礼拝、魔術です。これは、神さまに対して犯す罪です。三枚目の写真が社会的な罪で兄弟愛に欠けたことによる罪でした。この罪は他人、第三者に対して犯す罪であり、最後に殺人を犯すようになる罪です。
今回は、4枚目の写真をとってみましょう。中身は、「酩酊、遊興」についてです。これは、自制心を失ったことによって犯す罪であり、自分自身に対して犯す罪のことを言います。聖書本文の「酩酊」は、泥酔、深酔いのことです。また、「遊興」は酒宴、お酒のパーティーでドンチャン騒ぎをすることで、当時(2千年前)では、お酒の神バクス(バカス)をほめたたえる人々がお酒に酔って騒ぐ行列を表すことばでした。聖書では、私たちを心の内側から支配するものを二つ教えています。お酒と聖霊さまです。聖霊さまに支配されるかお酒に支配されるかで、クリスチャンになるかノンクリスチャンになるかが決まります。神さまを信じない人が支配される代表的なものが、お酒であると聖書は教えています。
あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。ペテロの手紙第一4:3
私たちが救われる前に行なっていたことが記されています。お酒に酔うということはお酒に支配されているということですが、箴言には、お酒に酔った状態が詳しく記されています。
わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。ゆえなく傷を受ける者はだれか。血走った目をしている者はだれか。ぶどう酒を飲みふける者、混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。あなたの目は、異様な物を見、あなたの心は、ねじれごとをしゃべり、海の真中で寝ている人のように、帆柱のてっぺんで寝ている人のようになる。「私はなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが、知らなかった。いつ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ。」箴言23:29-35
お酒に酔うと、口と体が言うことを聞かなくなり、そして無感覚になります。自分自身が誰かわからなくなり、そしてなおも飲みたくなるのです。お酒と人間との関係は、最初は人間が支配してお酒を飲んでいますが、酔ってしまうと、そのお酒がお酒を飲ませるようになります。これが重なるとアルコール中毒になり、最終的にはお酒が人間を飲んで、人間を堕落させてしまうのです。〈箴言23:29〉のみことばを見ますと、わざわい、嘆き、争い、不平、傷つきなど人間を不幸にすること、苦しみの源になることがお酒に酔うことだと言っています。クリスチャンになってもお酒を飲みたい人は、酔わなければ良いと言い訳をします。使徒パウロは、弟子のテモテに胃の治療のためにお酒を少量用いるように言っています。しかし、ここでは、お酒を見ることもいけないと書かれているのです。これがお酒に対する聖書の結論です。その理由は〈箴言23:32〉です。ですから、お酒は飲まないことが一番良いのです。聖書では、お酒に酔って人生をだめにした人の記事が多く載っていますが、代表的なものは、ノア(創世記9:21-25)とロト(創世記19:32-38)のことです。人はお酒を飲むと動物と同等になってしまいます。
機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。エペソ人への手紙5:16-21
18節を見ますと「酒に酔ってはいけません」とあります。お酒に酔うのは私たちが異邦人であった時のことであり、その時はお酒を楽しんでいたのです。お酒は、人を一時的に肉の快楽で満たし、放蕩させます。人を動物のようにしてしまうのです。お酒に酔うと、一時的な喜びがありますが、そのあとには二日酔いなどの苦しみがあります。それに対して聖霊に酔うこと、満たされることは、私たちクリスチャンに命じられ、しなければならないことです。聖霊に完全に支配されることは、一時的な喜びでなく、永遠の喜びと平安を得ることです。そして、肉を満たすことではなく霊を満たすことになります。聖霊に満たされるためには〈エペソ5:17〉にあるように、主のみこころを悟ること、つまり、みことばを正しく知りそれを行なうことです。みことばに従うことです。そして、〈エペソ5:19〉以降にある通りに、祈りを正しく知り、それを用いることです。また、賛美を正しく知り、常に賛美することです。
彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、ルカの福音書1:15
主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。男または女が主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはならない。彼のナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。民数記6:1-4
ここでは、聖霊に満たされる条件として、お酒を口にしないことが挙げられています。人間は弱いものであり、お酒やタバコなど目に見える習慣をやめることが出来ないものです。その習慣に支配され、打ち切ることが出来ないものは、神さまからの大きな恵みを頂くことが出来ないのです。聖書に、「それをやめなさい」と、命令のみことばがあるということは、祈りをもってやめる力を求めていけば、神さまが必ず、その力を与えてくださるということなのです。まず自分を支配するこの世的なものから自由になることです。新しい恵みの世界、聖霊さまに自分のコントロールをゆだねる時、私たちには本当の自由が与えられます。まことの喜びと平安の世界に入ることが出来るのです。今私たちは、自分の心の中にある、肉の行ない・罪の性質の、4枚目の写真を撮って詳しく分析してみました。お酒を飲むことは神さまを離れることであり、信仰を離れ自分の肉の願いに従って生きる生活の代表的な印となります。使徒ヨハネは「目に見える兄弟を愛せないものは、目に見えない神さまを愛することは出来ない(-ヨハネ4:20)」と言っています。同じように、目に見えるお酒を止めない人が、目に見えない神さまの教えを守れるはずはないのです。本文では、「お酒に酔っている人は、神の国を相続することができない」と、大変厳しく書かれています。つまり、本当の喜びと平安を得ることが出来ないと言うことです(ローマ13:13、-コリント6:9-11)。今まで、私たちは心の中にある15種類の罪の性質・肉の願いを、4つの罪に分けて確認をしました。不品行の性的な罪、偶像礼拝の宗教的な罪、兄弟愛に欠けた他人に対する罪、そして自分自身を自制することができないお酒に支配される罪について学びました。私たちクリスチャンは、不品行の罪につながるお酒は避けなければなりません。聖書を読まないこの世の人々に対して、聖書を読む私たちは、「歩くみことば」としての自覚をもち、この肉の行ないをしないよう努力をしなければなりません。聖霊に満たされれば、このような肉の行ないは犯しません。この世の人々が、厳しい目を持って私たちを見つめていることを自覚しましょう。この世の人々が、私たちを、一つ一つ読んでいることを自覚し、神さまのみこころを行なう真の聖書になりましょう。そして、私たちの行ないを見て、この世の人々が神さまをほめたたえるように努力して行きましょう(マタイ5:16)。
収穫の秋は、豊かさを象徴する実りの季節です。生き物は実を結ぶことによって、その存在の目的を表しているといえます。万物が実を結ぶことによって、存在価値を表しているのなら、私たち人間は、何によってどんな実を結ぶべきでしょうか。神のかたちに似るように造られた万物の支配者、万物の長として造られた私たち人間が結ぶべき実は、この世の知恵・知識に基づくものではなく、神を信じる信仰の上に結ばれなければ、その意味がありません。キリスト・イエスの人格の上に結ばれた実、聖霊さまによって結ばれた実だけが、神さまに認められ、永遠に残るものになるわけです。それでは、本文のみことばを通して、私たちの結ぶべき実について学んでいきます。
私たちはガラテヤ人への手紙5章19-21節のみことばを通して「肉の行ない」について詳しく学びました。まず、私たちの心の中にあるものは何でしょうか。私たちの心の中にある、自分の欲によって生きる人生は、いかに立派な働きをしても、それは、ただの行ない、働きで終わってしまうものです。つまり、神さまの前では、実を結ぶものにはなりません。しかし、御霊の助けを得る人生は、ただの働き、行ないで終わるものではなく、必ず、実を結ぶものになります。神さまの前で生きることは、「行ないで終わる人生になるか」それとも、「行ないによって実を結ぶ人生になるのか」によって分けられ、永遠の幸せにつながるか、永遠の苦しみにつながるか、この世での生活によって決められるわけです。「肉の行ない」はギリシャ語原文では複数形で表されております。私たちの心の中の罪が複雑な形で秩序なくあらわれ、くり返される。これが「肉の行ない」というものだと教えていただきました。それに対して本文22節では、「しかし御霊の実は…」というふうに言い出しています。つまり、「肉の行ない」とはまったく異なる性質のものが「御霊の実」であると強調しています。「御霊の実」はギリシャ語原文では、単数形で記され、御霊なる神さまによる統一された実であると教えていただきました。私たちは、心の中にある「肉の行ない」の行ないの性質を一つ一つ取り除き、その所に、行ないの実として満たして行くものが、「御霊の実」というものなのです。本文には、9つの御霊の実が記されていますが、今日は第一番目の「御霊の実」である、「愛」の実について詳しくその意味を学んで行きます。ギリシャ語では、「愛」という言葉を、4つの単語によって、別々に表されています。1番目は、エロース。これは異性の愛、一般に男と女の自然の愛、恋愛、性的愛を表すものです。2番目は、ストルゲー。これは肉親の愛、骨肉の情、家族愛を表す言葉です。聖書にはエロースとストルゲーの「愛」は、記されていません。3番目は、フィリア(名詞)、フィレオー(動詞)。これは、人情、友愛、好きなこと、兄弟愛をあらわす愛で、聖書に出てくる言葉です。4番目は、アガペー(名詞)、アガパオー(動詞)。一般的に神さまの愛といわれる愛であり、聖書に記されている愛のほとんどを示す言葉です。本文での「御霊の実」として記されている愛も、ギリシャ語原文ではこのアガペーという単語で記されており、アガペーの愛、神の「神的愛」を表しています。聖書全体は、神さまの愛を私たち人間に表したものであり、その神さまの愛に応えてゆくことによって、私たち人間が、救いという最高の幸せの中で生きる道を教えているわけです。神さまの愛を受け入れる者が、どのように、その神さまの愛に応えてゆくかということを教えているのが聖書です。みことばで確認してみます。
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」マタイの福音書22:37-40
「律法全体と預言者」という表現は、聖書全体をさすことばで、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」そして、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。この二つの命令、「神を愛する」ことが、信仰の本質であり、そして、隣人を愛することが、倫理道徳、人間の生き方の上での本質だと教えています。愛、神のアガペーの愛を理解することから、私たち人間は、新しい人生に入ることができるわけです。それでは、この愛の意味をみことばから確認してみます。
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。ヨハネの手紙第一4:8-11
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。ヨハネの手紙第一4:16
「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」このみことばは、神さまが愛、アガペーの愛そのものであると宣言しています。「神=愛・アガペーの愛」ということです。
それでは、アガペーの愛とはどのようなものであるか、具体的に考えてみましょう。第1番目に、アガペーの愛とは、一方的な愛です。9節に記されているように、神の愛は、ひとり子なるイエス・キリストを世に遣わすことによって表されたとあります。これは、私たち人間が要求したものではありません。私たちが、イエスさまを私たちの救い主として送ってくださいと願ったのではなく、神さまの一方的な恵みによるのです。私たち人間、苦しみの中にいる私たちの現状をご覧になって、あわれんで下さって、人間を救うため、神さまが、一方的に送って下さったのが、イエスさまなのです。神さまは、その神さまの愛を受け入れる人に、いのちを得させ、最高の幸せを与えるとおしゃっておられます。これが、神さまの愛の目的です。自分のためではなく、「利他的愛」、これが、アガペーの愛なのです(今社会問題になっているストーカーも一方的愛ですが、これは自分のエゴの愛、利己、自己愛で、自分の欲を満たすために相手を苦しめる愛で、アガペーの愛ではありません)。
第2番目のアガペーの愛は自発的な愛です。イエスさまを遣わして私たちにいのちを得させて下さった神さまの愛は、神さまのあわれみ、神さまのめぐみによるもので、私たちが要求したものではないのです。神さまの自発的な御わざです。強制ではなく、真心によって、相手の幸せのための自発的に行なう愛、これがアガペーの愛です。
第3番目のアガペーの愛は無条件的な愛です。先ほどの<-ヨハネ4:10>を見ますと、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」とあります。神さまの愛は、愛されたから愛するという条件的な愛ではありません。まず、条件なしに、相手を愛する、相手の幸せのために無条件に愛することが、アガペーの愛なのです。人々の目には、何の価値もないものを、価値があるのだ、と認めて尊重する愛、これがアガペーの愛です。
第4番目のアガペーの愛は犠牲的な愛です。同じく10節には、「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」とあります。人のために命さえも惜しまず、ささげ与える犠牲の愛が神さまの愛、アガペーの愛なのです。十字架の上で明らかにあらわれているのが、神さまの愛、アガペーの愛です。
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。ローマ人への手紙5:6-11
神さまのアガペーの愛を知らない人は、神さまを喜ぶことができません。-私たちが弱かったとき-罪人であったとき-神さまの敵であったときこのようなときにも、愛してくださり、私たちを強め、敬虔な生活ができるように、また、義と認められ、正しく生きるように、神さまとの和解のめぐみの中に入れてくださいました。つまり、天国の幸せの中で生きる者にして下さいました。これがアガペーの愛、神さまの愛です。神さまの愛は、人間の愛とは根本的に違うものなのです。人間の愛が、相対的な愛で、自分のための自己愛という性格があるならば、神さまの愛は、利他的な愛、他の人のための愛であり、絶対的な愛なのです。この神さまの愛を表すために行なうべき命令が、一般的に「黄金律」と呼ばれているみことばです。
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。マタイの福音書7:12
これがアガペーの愛の実践なのです。神さまの愛の行ないはこの命令に集約されているのです。愛はもらうものではなく、与えるものなのです。人間の愛は、もらいたいという欲から出てくる愛なのです。しかし、神さまの愛はすべて無条件で、自分から進んで、命さえ与えるような愛なのです。人に与え、人からではなく神さまにいただく、これがアガペーの愛の行ないの代価、報いなのです。そして、お互いに与える愛の実践が、神さまから私たちに命じられています。ここでの注意点は、与えることの目的をはっきりさせておくことです。何のために与えるか、それは、相手の幸せのためにという前提が必要なのです。ですから、目的によっては無条件ではなく、条件付きのきびしいものになるのがアガペーの愛なのです。このアガペーの愛は、親の愛に似ていると言えます。親は子どもの幸せのため一方的、自発的、無条件に自分のすべてを犠牲にしながら自分の子どもに愛をそそぎます。子どもが幸せになるため、不幸にならないよう守り導く責任が親にはあるわけです。時によってはきびしく、それが、神さまから親に求められている愛というものです。聖書では、私たちと神さまの関係を親子関係にたとえて教えています。これは、子どもを育てながら、親の立場で神さまのアガペーの愛を悟りなさいという、実践教育なのです。私たちの愛は、自分の中からでたものではありません。鏡が光を反射するように、神さまからいただいた、神さまのアガペーの愛の光を受けてそれを反射する生活をしなさい、これが今、私たちに求められていることなのです。御霊なる神さま、聖霊さまの助けなしには、結ぶことのできない愛の実、これがアガペーの愛です。肉の行ないの土台、罪の性質が「不品行、汚れ、好色」と-う、神さまと人に対して、そして、自分に対しての罪であったことに対して、このアガペーの愛は、すべての御霊の実の土台をなすものです。9つの実の中で8つは、この愛という土台の上に一つ一つたてられ、実るものなのです。「御霊の実」の土台は、愛です。この愛の上に「御霊の実」は実るわけです。神さまに対する愛、人に対する愛は、自分を愛すること、自分の幸せにつながるものです。愛がすべてです。神さまと隣人を、このアガペーの愛をもって愛する時に、神さまが私たちをもっと愛して下さり、幸せにして下さる。これが私たちに求めてられているアガペーの愛の実践、幸せの道なのです。このアガペーの愛によって、私たちは、キリストの人格に似たもの、失われた神さまのかたちを回復してゆき(ヨハネ13:34)、天国にふさわしい者になって行くのです。イエスさまから新しく与えられている命令は、お互いに愛し合いなさいであり、それが神さまを愛することのしるしなのです(つまり、目に見える兄弟を愛することができない人が、目に見えない神さまを愛することはできない)。アガペーの愛の実践こそが、私たちの神さまに対する信仰のバロメーターになります(-ヨハネ4:20)。まず、兄姉を愛するために、関心を持つこと、それによってアガペーの愛の実を結ばなければならないのです。今、私たちは、神さまに愛されている者として、どれほど、一方的、自発的、無条件に、又、犠牲的に兄姉を愛しているでしょうか?このアガペーの愛の実を結ばないものに対して、神さまは裁きの宣言をしておられます。「実を結ばないものを切りすてる」(マタイ7:16-20、ヨハネ15:1-6)と、きびしいことばです。今、自分の心の中を探り、このアガペーの愛の実を確かめてみましょう。
今日は、御霊の実の喜びと平安について学びます。ガラテヤ書5章22節と23節をお開きください。それでは、まず、喜びについてです。聖書は、喜びの書と言われるほど喜びという言葉が多く用いられています。旧約聖書では、名詞と動詞を合わせると247回。新約では、137回。合計約384回も使われています。この、聖書で用いられている喜びという言葉の意味は、私たちが一般的に知っている意味とは根本的に違うものです。私たちが知っている喜びとは、食欲であれ、睡眠欲であれ、性欲であれ、物質の所有欲であれ、名誉欲であれ、自分の欲が満たされた時に生じる感情を言います。しかし、聖書では、自分が神さまの前に覚えられることで感じる感情を喜びと言っています。
また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、あなたがたの全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、あなたがたは、あなたがたの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、主である。」民数記10:10
これは、自分が神さまに礼拝を捧げる民になっており、自分が礼拝を捧げることで神さまが自分を覚えてくださることによって得られるものが、喜びだと言っているのです。ですから、この喜びは、「救い」がその土台になるのです。
わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。イザヤ書61:10
ここでイザヤは、「私の神によって喜ぶ。」と、神さまの救いのめぐみを喜ぶと言っています。まことの喜びは、イエス・キリストを通して得られた、救いのめぐみから来るものです。この喜びは、神信仰、復活信仰、再臨信仰を持ち続ける時、得られるものです。ですから、救いの確信を持っている信仰者であるならだれでも聖霊の助けによって得ることができると約束されているのが、御霊の実としての喜びです。この喜びは、世にあるものでは決して得ることができないものです。
そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。ハバクク書3:17-18
このように、何もないときも主にあって喜ぶ、これが聖書で言う喜びです。何もなくても主に対する信仰の故に喜ぶことができるのです。-コリント6:8-10にも、迫害の中でも、認められないときにも、名誉が無くても、悲しいときでも、貧しいときでも、いつも喜んでいて人々を富ませる力、これが、聖書が約束している喜びです。何も持っていなくても、全てのものを持っていることを確信することができる、これが信仰者の喜びです。
あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。詩篇4:7-8
この詩篇の記者が告白しているように、神さまが私たちの心の中に与えてくださった喜びは、穀物や新しいぶどう酒のようなこの世の豊かさによってもたらされるものよりずっと勝るものです。この世的な喜びは、外側からの喜びです。外側からのものによって得られる喜びは、その外側からの影響がなくなると、喜びもなくなります。しかし、御霊の実としての喜びは、内側からの湧き出る喜びですから、どのような状況の中でも喜ぶことができるものです。ですから、聖書に記されている信仰者たちは、信じられない苦しい状況の中でも、その環境に影響されることなく喜ぶことができたのです。「いつも喜んでいなさい」(-テサロニケ5:16)。これが、神さまが私たちに望んでおられることです。この様な命令ができるのは、この喜びが外側からの喜びではなく、内側から得られる喜びだからです。この喜びは、救いの確信を持っている者が、罪から離れる生活を通して、主の教えを喜びとし、主に仕え、主を賛美し、主に感謝する時に得られるものです(詩100:1-5)。また、この喜びを自分のものにするために与えられているのが、イエスさまの名前によって祈ること、御霊によって祈ることです。
あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。ヨハネの福音書16:22-24
イエス・キリストの名前によって祈ること、これによって約束されているのが喜びです。だれも奪い去ることができない喜びが、祈りによって約束されています。しかし私たちはこのことも自覚せず、祈りをうまく用いていません。それどころか、一時的な喜びのためにはお金や時間や努力を惜しまず、コンサートや野球やコンピュータゲームのために徹夜してでも並んでいるのです。では、だれも奪い去ることのできない喜びのためにはどれほどのお金や時間や努力を使っているのでしょうか。礼拝を守るために、みことばに聞き従うために、神さまを賛美するために、祈るために、どれほどの時間を使っているのでしょうか。神さまは、私たちに努力なしに無条件でその喜びが与えられるとは約束していません。それなのに、教会に来て一年間信仰生活をしたのになぜ喜びがないのか、と神さまに問いかけているのです。神さまは喜びを得るための方法を教え、それを用いるときに与えると約束してくださっているだけなのです。御霊の実の喜びは、天国に行ったときに無条件に与えると約束されているものであって、この世においては、肉から得られる喜びよりももっと努力しなければ得られないものなのです。
次に、御霊の実の平安について。聖書で御霊の実の平安を表す言葉は、旧約聖書のヘブル語ではシャーローム、新約聖書のギリシャ語ではエイレーネーです。このシャーロームとエイレーネーという言葉は、平和とも訳されます。このことばは、繁栄とか健康とか和解の意味で使われたり、あるいは長生きすることや勝利の意味にも使われたりします。聖書で言うこの平安も、喜びと同じように神さまに覚えられることで与えられるものです。人間が作り出すものではないのです。神さまとの正しい関係から得られるものが、聖書で教えている平安です。神さまとの正しい関係を持つときに、神さまから与えられるものによって、霊的に、精神的に、また、個人的に、社会的に得られるものが平安です。私たちがまだ弱かったとき、罪人であったとき、神さまの敵として生きていたときに、神さまが一方的、自発的、無条件的、犠牲的に与えてくださったアガペーの愛によって和解させてくださったことによって得られたのが平安です(ローマ5:1-11)。イエス・キリストの十字架によって与えられたものが平安なのです。
なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。コロサイ人への手紙1:19-20
イエスさまの十字架の血によって神さまとの和解が成立された、それによってつくられたのが万物と神さまとの平和です。そして聖書は、イエス・キリストこそが私たちの平和であると宣言しています(イザヤ9:6、エペソ2:13-14)。イエスさまは、復活の主としてこの世が与えることができない平安を与えてくださいました。
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。ヨハネの福音書14:26-27
イエスさまが弟子たちに与えてくださった平安、この平安はこの世のもので得ることができないものです。それでは、御霊の実の喜びと平安の両方について学びましょう。御霊の実としての喜びと平安は、第一に神さまのめぐみによって、第二にイエスさまの十字架と復活によって、第三に聖霊さまの助けによって得られるもので、決してこの世が与えることが出来ないものです。神さまのアガペーの愛をいただき、このアガペーの愛を実践する者に約束されているものが、御霊の実の喜びと平安です。私たちがよく知っているみことばに、ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」があります。神さまが、すべてのことを働かせて益としてくださることを信じる信仰、この信仰を持っている人は、どのような状況の中でも望みを持って喜ぶことができ平安を保つことができるのです。
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。ピリピ人への手紙4:4-9これが、私たちへの約束のみことばです。《ピリピ人への手紙》には、喜びなさいという言葉が繰り返されています。しかし、これを書いているパウロは、今、監獄にいます。パウロほどこの世にあって人間的な苦しみを受けた人はありません。けれども彼は、外で自由に生活しているピリピ教会の信者たちに対して、いつも主にあって喜びなさいと命じています。パウロは、どのような状況においても心の中の喜びと平安を保つことができた人です。それは彼がこの世のものによって生きたのではなく、主にあって信仰によって生きた人だからです。つまり、まことの喜びと平安は、救いの確信、イエスさまがともにおられるという確信、聖霊さまが助け主としてともにおられるという確信、イエスさまが再び私たちのために来られるという確信、天国で永遠の喜びと平安の中で生きることができるという確信を持っている者がどのような状況においても保つことができるのです。では、私たちの心の喜びと平安を奪うものとは何でしょう。まず一つ目は、感謝を失ったことによる、不平不満です。あれも無いこれも無いとか、人との交わりにおいて、その人に無いもの間違っているものに目が行くとき不平不満に陥ります。あるも-、いるもの、良いところに目を向けましょう。そして、そこに感謝していくとき、心の中に喜びと平安を保つことができるのです。次に心の喜びと平安を奪うものの二つ目は、祈りによって、神さまに思い煩いをゆだねることができないことです。自分がやらなければならないと心配している所に、苦しみがあります。祈りを通して神さまに思い煩いをゆだねるとき、神さまを信じてすべてのことをゆだねるとき、神さまが上よりの喜びと平安を与えてくださる、これが約束です。
結び礼拝において、みことばに聞き従うとき、祈り、賛美するとき、この世が与えることができない喜びと平安が私たちの心を満たします。この喜びと平安はこの世のもので経験したことがないものです。この世の生活の中で感じたことの無い喜びと平安が心の奥底から湧き上がってきたとき、それが本当の御霊の実としての喜びと平安です。これを多く感じれば感じるほど、私たちはどのような状況においても心の中の喜びと平安を保つことができるのです。例えば、ステパノが、殺されながらも天使のような輝く顔をすることができた、これが、私たちが求めている本当の心の中の喜びと平安です。
そしてその約束をいただいている者として、私たちに命じられているのが、平和をつくる者になりなさいということです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。マタイの福音書5:10
自分の心が喜びと平安に満たされる人が平和をつくる者になるのです。福音を宣べ伝えること、人々に平和を与えることは、迫害される道です。しかし天国においての報いを信じる者は、イエスさまのこの命令通りに喜ぶことができるのです。
神さまは、今、私たちにいつも喜びにあふれる穏やかな人になりますように、そしてその喜びと平安をもって人々に福音を伝えるようにと願っておられるのです。
人間は、3つの関係の中で生きる存在として造られています。一つは神さまとの関係である対神関係。2つめは人との関係である対人関係。3つ目は自分自身との関係である対我関係です。この3つの関係が正しい時、私たちは幸せに生きることができます。私たちは、今、私たちが幸せに生きるために結ばなければならない御霊の実について学んでいます。今回は、隣人をどのように愛すべきか、隣人を自分のように愛するものに与えられる祝福である5つの御霊の実-寛容・親切・善意・誠実・柔和について学びたいと思います。
-寛容「寛容」は、他人との関係で結ぶべき一番基本的な実です。その意味は、「忍耐・耐え忍ぶこと」ですが、消極的に我慢したり逃げたりする事ではありません。積極的に向かい合って耐え忍ぶ態度を意味しています。神さまは、忍耐深く寛容な方です。みことばから確認してみましょう。
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。ペテロの手紙第二3:8-9
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。ペテロの手紙第二3:15
神さまのこの忍耐のゆえに、私たちは救われているのです。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。テモテへの手紙第一1:15-16
ここで、使徒パウロは、イエス・キリストの寛容の故に自分が救われた、そして、それは、人を救いに導くための見本とするためである、と言っています。つまり、「寛容」の実、すなわち忍耐は、救われている私たちが見本になって、新しい人々を救いに導くために必要なのです。では、忍耐は、何から生まれるのでしょう?みことばから確認してみましょう。
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。ヤコブの手紙1:2-4
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。ヤコブの手紙1:12
忍耐は、試練から生まれます。私たちの人生には、試練・テストが必ずあり、皆、嫌がります。しかし、試練に耐え、忍耐を働かせる所に、成長と祝福が約束されているので、幸せになるために、試練・テストは、必然なのです。必ずある試練を、私たちが喜ぶためには、その意味をしっかり知る必要があります。それは、ただいたずらに苦しめるためのものではなく、成長させ、幸せにするためという、はっきりとした目的のある苦しみです。試練によって、信仰が揺れ、試されますが、試練に耐えれば、忍耐が生じ、成長し、完全なものとなり、いのちの冠が約束されているのです。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ローマ人への手紙5:3-5
試練を超えた患難さえも喜ぶためには、その患難の目的を知っていなければできません。苦しみは、練られた品性を生み、イエス・キリストの人格を見出す-クリスチャンにとっての苦しみは、このようにはっきりとした目的のあるものです。忍耐によって練られた品性は、多くの人を導く福音の土台となります。このようなことから、聖書では、苦しみそのものが私たちの希望だと教えているのです。「寛容」は、聖霊によって結ぶことが出来る実です。寛容、つまり忍耐がなければ、人との交わりができませんし、特に人を救いに導くには多くの苦難があります。しかし、忍耐によって練られた品性があれば、かならず人を救いに導く事が出来ます。普通、私たちは、人が自分を苦しめると、肉の行ないである敵意を持つようになり、これが、憎しみ・うらみ・心の争いへと進みます。そして、何とかしてやろうとしてそねみが起こり、憤りで爆発します。これが、寛容の実を結んでいない一般の人の、人に対する肉の行ないです。忍耐は、敵意、つまり憎しみ・恨みを赦しに、争い・そねみをへりくだりに、そして憤りを抑え、人々との交わりの中に導き、知恵のある豊かなものにします。御霊の実、それは、神さまの私たちの罪に対する赦しのもとになる愛を覚える時、結ばれるものです(コロサイ3:13)。人々との交わりを通して、力ある者となるために、結ぶべき御霊の実が「-容」です。私たちの心の中の御霊の木には、どれほどの寛容の実が実っているのでしょうか?
-親切第2の御霊の実は「親切」です。自分にどのような苦しみがあっても、相手のために、相手を救いたいと思って寛容であったことから進んで、親切は、心から何とかしてあげたい、やさしく応対する姿勢を言います。人に対するやさしい行動・姿勢・言葉遣いは、人々を救いに導く原動力になります。
しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。テトスへの手紙3:4-5
神さまの慈しみ・慈愛-これが親切です。これが私たちを救いへと導いて下さったように、自分の欲を満たす党派心を捨てて、ただ、人々に対する親切な心をもっている時、そこに、神さまの慈しみによる救いがあります。ですから、私たちには、自分を苦しめる人にさえ、親切であることが求められています。やさしい態度・やさしい言葉一つに、神さまの慈しみ深い救いのわざが伴います。今、私たちが結んでいる親切の実は、どれほどのものでしょうか?どれほど人々に慈しみを持ち、親切な姿勢をもって、やさしくその人に声をかけているのでしょうか?まず、言葉から、やさしく変えるように努力すべきではないでしょうか?私たちの親切な言葉を通して、人々が救いに導かれる事を覚えましょう(エペソ4:32)。
-善意第3の御霊の実は「善意」です。これは、親切よりもっと積極的に善を行なう事を言います。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。エペソ人への手紙2:10
私たちは、良い行ないのために、キリスト・イエスにあって造られたのです。ですから、あらゆる善行のうちに実を結ぶことが求められているのです(コロサイ1:10)。私たちが善行をしようとする時に、すでにそれは神さまによって備えられています。ですから、備えられている善を行わないことは、私たちの責任です。
私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。ローマ人への手紙15:14
善意は、ただ飢え乾いている人々、苦しんでいる人々を助け、施しをする事だけではありません。罪や悪の中にいて神さまから離れている人々を、責め、戒め、勧めることも、私たちが行なうべき良い働きになります。むしろ、私たちに託されているのは、みことばによって、責め、戒め、勧めることです。自分の欲を満たすための欲の行ないは、分裂分派につながり、人々を神さまから離れさせるものですが、善意は、人々を神さまの前に集める働きです。人々を集め、主の御前に近づかせ、立たせる働きが「善意」です。ですから、ボランティアとは根本的に意味・目的が違います。私たちの地の塩・世の光としての良い行ないを見て、信じない人々が、神さまの御名をほめたたえるようにする事が、「善意」です(マタイ5:13-16)。許すことができない、愛する価値のない人に、大事なものを、広い心を持って与える生活こそ、良い行ないです。今、私たちはどれほど積極的に良い行ないをしているでしょうか?どれほどの善意の実を結んでいるのか、心の中を探る事を神さまは私たちに命じておられます。
-誠実第4の御霊の実は「誠実」です。この「誠実」と言う単語は、原語では神さまに対する信仰・真実と同じ単語であり、変わらない行ないと心をもって仕えることを意味します。
こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。コリント人への手紙第一4:1-2
私たちは、みことばの管理者ですから、求められているのは、忠実であること・誠実であることです。このような者に、イエスさまは、「よくやった良い忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:14-30)とおっしゃっています。誠実・忠実であることの祝福は、主と共に喜ぶこと・支配する名誉の祝福が与えられることです。ヨハネの黙示禄2章10節で、イエスさまは、スミルナ教会へ、「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」と約束されました。いのちの冠、すなわち、天国での永遠の幸せが約束されているのが、誠実な者です。小さいものに誠実でない人は、とても大きなものに誠実になれません。私たちは、小さいもの・わずかなものに、先ず、誠実であることが求められています。そして、それは、1回や2回で終わる、一時的なものではなく、死ぬまで続けることが求められています。私たちは、それぞれが置かれている場において、与えられているタラントである賜物を生かして、死に至るまで誠実に行なうことが求められているのです。隣人に対する寛容・親切・善意の実を結び続けるためには、この誠実さが求められています。今、私たちは、どれほどの誠実の実を結んでいるでしょうか?神さまは、私たちに決して大きなものを求めておられるのではなく、自分が置かれているその場所で、与えられているものを、十二分に生かすことを求めておられるのです。もっと、誠実の実を結ぶように努力をしましょう。
-柔和第5の御霊の実は「柔和」です。この柔和の実が、私たちが常にたゆまず求めつづける具体的な生活の目標であり、人と人との間で結ぶべき実の結論・結果です。柔和は、イエスさまの心であり、神さまのみこころへの従順と、真の謙遜と、みことばに対する(罪と悪)強気の3つが柔和の性質を作ります。また、柔和は、外見はものやわらかく見えても、心が人一倍強くしっかりしていること=外柔内剛です。「柔和」に寛容と親切と善意、誠実がすべて含まれます。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」マタイの福音書11:28-30
原文では「心やさしく」という単語が、柔和と同じ意味の単語です。謙遜から始まるのが柔和の性質で、それは、人々のたましいに安らぎを与えるものです。
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。ピリピ人への手紙2:3-5柔和の心は、私たちを互いにへりくだらせ、人々を自分よりすぐれた者と思うように、また、自分のことだけではなく、他人のことも顧みるように命じています。自己中心や虚栄から行なう肉の行ないは、人々の中にねたみを造りだし、結果的に人を殺すようになりますが、柔和な心は人々を生かす力になります。神さまの御前でへりくだり、神さまに従う時に、外見はやさしくなるが、心は強くなり、人々を生かす働きが出来るようになります。神さまへの絶対的従順とへりくだりによって、この柔和の実を結ぶことが出来るようなります。「山上の説教」の「第3の幸い」は、柔和な者の幸いです。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」(マタイ5:5)。柔和な者に約束されている祝福は、天国を所有することであり、また、この地においても、名誉と栄光を得ることです。私たちに求められている第一のことは、すべてのことを通して人々を救うことです。人と人との交わりの目的もここにあります。救いには、二つのものがあります。その一つは、「基本救い」で、神さまを信じない人々を神さまの前へ導くことで、これが柔和の働きです。もう一つは、救われている私たちが信仰者として成長していくようにする「聖化救い」で、これが、兄弟姉妹との交わりです。今私たちはどうでしょうか?人々を救いに導くより、むしろ自分の間違った行ないによって、人々を神さまから遠ざけてはいないでしょうか?兄姉を成長させるより、苦しめるような場合はないでしょうか?
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。テモテへの手紙第二4:2
私たちには、みことばを宣べ伝え、人々を神さまの前に導くこと、そして、寛容をつくして絶えず教える事が求められています。人を教えることは、非常に忍耐が必要です。ですから、絶えず教えるには、寛容が必要になります。ここでの「教えること」とは、ただの慰め・助けではなく、みことばによる責め・戒め・また勧めることを意味しています。これが、人々を救いに導き、また、私たちを神の人として成長させます。しかし、この働きは、アガペーの愛がなければ出来ません。つまり、御霊の助けがないと絶対に結ぶことが出来ないのが、御霊の実であり、人を救うことです。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。コリント人への手紙第一13:4-7私たちが、人々との交わりの中で持つべき姿勢は、このアガペーの愛です。アガペーの愛がなければ、寛容・親切・善意・誠実・柔和の実を結ぶことが出来ません。つまり、人を永遠の救いに導く働きは、アガペーの愛をいただいている私たちだけに出来るものです。人に対する敵意・争い・そねみ・憤り・党派心・分裂・分派・ねたみを取り除いていく中で、御霊の実である寛容・親切・善意・誠実・柔和の実を結ぶことが出来ます。私たちは、今まさに、この実を結ぶために召されているのです。
私たちが、人々との関係の中で結んでいる御霊の実はどのようなものでしょうか?それぞれの実を、どれほど結んでいるのでしょうか?アガペーの愛の実践が、この実を結ばせるようになります。今日から、今から、一方的に・自発的に・無条件に・犠牲を払うアガペーの愛をもって、人々との交わりをしましょう。ここに、人との正しい関係が出来上がり、私たちは幸せな者になります。神さまは、私たちに、この「御霊の実」を結び、幸せになることを約束され、切に望んでおられます。
一つの国を政権をもって治めることは、栄誉なことであり、またとても難しいことですが、聖書では、それよりも、治めることが難しく、すごいこと、栄誉なことは自分の心を治めることであると教えています。
怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。箴言16:32
このように、確かに私たちが自分の心を治めることは、難しいことです。神さまは、自分の心を治め、それによる実を結ぶ者に、永遠の喜びと平安、そして最高の栄誉を約束しておられます。この本文を通して、自分の心を治めること、「自制」の御霊の実について、共にめぐみを分かち合いたいと思います。
今まで8つの御霊の実について、詳しく学んできましたが、今日は9つ目の実、「自制」について、詳しく学んでいきたいと思います。「自制」は、英語ではセルフコントロールと言います。自分をどのように制するか、自分をどのように治めるかの能力のことです。ですから、自制の実は、御霊の実の9つの実を結ばせる、結論的な実であると言えます。私たちは、心の欲を満足させようとする性質のゆえに、自分の心をコントロールすることができなくなっています。これが、私たちの苦しみ、不幸の原因です。
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。ヤコブの手紙1:14-15
このように、欲からくる罪によって苦しんでいるのが、私たちの人生であると言えます。使徒ヨハネは、私たちの心の中にある欲を3つに分けて教えています。
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。ヨハネの手紙第一2:16
肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢、これらは、神さまから与えられたものではありません。神さまのために用いるべき良いものが、私たちの罪のゆえに悪いものに変えられてしまったのです。聖書から確認してみましょう。
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。創世記3:6
これは、最初の人間が、サタンの誘惑に負けて、善悪の知識の木を見た時のことです。食べると死ぬべきものに見えていたはずの善悪の知識の木の実が、「まことに食べるのに良く」見えてしまいました。これは、私たちの「肉の欲・情欲」を表す言葉です。また、「目に慕わしく」とあるのは「目の欲」で、私たちの「物質欲」を、そして、「賢くする」とあるのは、私たちの「暮し向きの自慢」で、「名誉欲」を表しています。最初の人間、アダムとエバが、サタンの誘惑に負けて以来、私たちを苦しめているのが、この3つの欲です。ですから、この3つの欲をいかにコントロールするか、つまり、自制するかによって、私たちが幸せになれるかどうかが決まるわけです。では、この3つの欲について、一つ一つもっと具体的に見ていきましょう。まず第1番目の欲である「肉の欲」について見てみましょう。「肉の欲」には、「食欲」「睡眠欲」「性欲」と3つあります。これらは、生きものが生きるために必要な基本的な欲、本能的な欲です。これらの欲は、神さまから、私たちの楽しみ・喜びのために祝福として与えられましたが、自制できないと苦しむものに変わってしまいます。食欲は、自制できないと、食べすぎ、飲みすぎ、たばこの吸い過ぎで体をこわします。また、バランスのよくない食事によっても、体をこわし苦しむことになります。睡眠欲も、コントロールできないと、旧約聖書(箴言6:6、10:4、18:9、19:15)では、なまけ者になり、貧しくなり、人々に支配され滅ぼされると教えています。また反対に不眠(詩篇127:2)も、人々を苦しめる原因になります。次に性欲について、見てみましょう。性欲は、神さまが特別に私たちに与えられた-物、祝福であると、聖書では教えています。しかし、これは、厳しい条件つきの祝福です。
互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。コリント人への手紙第一7:5
しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。コリント人への手紙第一7:9
性欲は、結婚の中でのみ認められるものであり、この世でただひとりだけのためのものであると条件がついています。ですから、結婚している人は、夫も妻も、相手が性欲によって、自制力を失い、罪を犯させないために、互いに要求に応じるべきものであることを、聖書では、教えています。性欲は、人間にとって、コントロールが難しいものなので、常にサタンの誘惑にさらされているのが、不品行の罪というものです。ですから、私たちは、聖書が教えている性の意味を、正しく知っていなければならないし、正しい夫婦関係の中で、この性欲をコントロールするようにしなければならないわけです。この性欲をコントロールできないために、若者たちは、一生涯苦しむ、乱れた性関係を持っているし、結婚している人も、不倫によって家庭をこわし、愛し合っていたはずの二人が、一生涯を憎しみあうようになります。また、エイズなどの病気になり、苦しんでいる人もいます。聖書は、特に、この不品行の罪については、神さまと他人と自分に対して犯す罪であると、きびしく戒めています。つまり、人間として最悪の罪が、この不品行の罪であると教えています。
不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買いとられたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。コリント人への手紙第一6:18-20
聖霊の宮であり、神さまに買いとられた者であり、神さまの所有となっている、私たちクリスチャンが、犯してはならない罪が、不品行の罪です。肉の欲である「食欲」「睡眠欲」「性欲」をコントロールすることができない時、私たちは、苦しみのどん底に陥るようになります。ですから、自分の体は、自分だけのもの、自分のためのものではなく、神さまに買いとられた、神さまのもので、神さまの栄光を表すために与えられていることを心にきざみ、常に覚え、忘れないようにしなければなりません。
では、次に2番目の欲である、目の欲、「物質欲」について見てみましょう。目の欲である物質は、いくらあっても足りないと思えるものです。一つが満たされればもう一つ、そしてもっと良いものと、きりがないのが人間の物質欲です。私たちは、目で見れば見るほど、良いものを持てば持つほど、もうちょっと欲しくなります。このようにきりがないのが物質欲です。物質欲に陥った者は、この「もうちょっと欲しい」という誘惑の中で、死ぬまで自分と他人を苦しめるようになります。
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。テモテへの手紙第一6:6-10
物質は、私たちが幸せになるために神さまから与えられた良いものですが、物質を愛すること、そればかりを追い求める欲に陥ることは許されていません。なぜなら、それは、自分と他の人を破滅させる、苦しめるものになるからです。ですから、私たちは、自分が裸で来て、裸で帰る存在であることを、認識することが必要です。物質は、所有するためではなく、むしろ管理するために与えられていることを覚えなければなりません。詩篇記者は、次のように告白しています。
地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。詩篇24:1
この告白が、私たちのものとなり、所有者ではなく、管理者である物質観を持つ時に、私たちは、物質欲をコントロールすることができるようになります。神さまは、物質欲をコントロールし、管理するものに、もっと管理するように、物質を与えてくださいます。そして、その物質を、自分の宝を天にたくわえることの意味を悟っている者に、神さまはもっと物質の祝福を与えてくださいます。このような物質観を私たちが持つときに、私たちは、物質欲をコントロールすることができるようになります。そのスタートライン、テストが十分の一です。
では、3番目の欲、暮し向きの自慢である、「名誉欲」について見てみましょう。人間には、人に認められたいという性質があります。それは、神さまが私たちを祝福し、地を従え、支配するように最初に命令され、天地万物を支配する最高の名誉を与えてくださったからです。しかし、これらは、自分のためではなく、神さまのために与えられたものでした。神さまの栄光を表わすために与えられた、知恵、知識、力を、人に認められたいと、自分の欲のために用いるために、私たちは苦しんでいるわけです。「賢くする」ということで、誘惑された人間が、自分が持っている自分勝手な知識をコントロールすることができないゆえに苦しんでいるのです。
その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。ペテロの手紙第二1:4-7
ここを見ますと、私たちが「神さまのご性質にあずかるものになるため」に為すべきことの中に、「知識には自制を」(6節)とあります。信仰と徳に基づいた知識が正しい知識なのです。この世で、知識があればあるほど、えらくなればなるほど、人は高慢な心がめばえてしまいます。人は持っている知識によって、相手に認められようとします。そして、知識はすぐ言葉になり、行動になり、自分の知識を、表わそうとします。自分の知識が正しいと思い、互いに相手を自分に合わせようとするために、苦しみが始まります。ですから、知識の自制は、人間関係の中での苦しみをなくすものになります。誰よりも知恵、知識を持っていたソロモンは、伝道者の書の中で、このように告白しています。
私は自分の心にこう語って言った。「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。伝道者の書1:16-18自制を伴わない知識は、むしろ、私たちを苦しめるものとなります。神のようになろうとした人間の欲が、人間に罪を犯させる決定的なものでした。人間が、自分の知識のもとに、自分が神のようになってものごとを判断する限り、人間関係の中からくる苦しみは絶えることがありません。ですから、私たちは、人の目を意識する前に、神さまの目を意識すること、つまり、人に認められたいということよりまず、神さまにすでに認められていることをしっかりつかむことが大事です。
だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。イザヤ書43:1
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。イザヤ書43:4
これが、今の私たちの状態なのです。全知全能の神さまによって自分が創られ、神さまのものになっている。その全知全能の神さまが、今のありのままの私たちを見て「高価だ」「尊い」「愛している」と、そのことのゆえに、あなたのために、この世界が存在していると教えています。私たちが、今、どのようであっても、ありのままの私たちを愛していると宣言しておられます。神さまによって、今、これほど自分が愛されていると確信していれば、人の目のおりの中に入って、苦しむことがなくなります。神さまに愛され、認められていることを確信している者は、人の目を気にすることよりもまず、神さまに喜ばれることを考えます。これが、今、私たちが苦しみから自由になるための方法です。神さまに対する知識を増し加えていけば、自分の知識によって人々を判断したり、知識を押しつけたりはしません。人を自分に合わせるのではなく、まず、自分が神さまに合せようとします。そして、他の人を見る時に、「あの人も、私と共に、神さまによって造られ、神さまによって認められているのだ。」と思うようになり、自分で判断せずに、その人のありのままを認めるようになります。また、相手の人の言葉や行動を、「神さまが、その人を通して、私を、良くするために、私のためにそうされた」と判断するならば、人々の中で苦しむことがなくなります。ヤコブの手紙の3章では、誰でも言葉に失敗すること、言葉に失敗しない者は完全な者だと、ことばの自制がいかにむずかしいものであるかを教えています。知識は言葉に表れるものですから、私たちに求められているものは、言葉の自制です。これによって、人間関-を良くすることができるわけです。特に、教会のリーダーには、自制が求められています(-テモテ3章)。人の前での自分を見る前に、神の前の自分を見る時、人は、名誉欲から自由になることができるのです
人間は、絶えず、これらの肉の欲である情欲と、目の欲である物質欲と、人に認められたい名誉欲に誘惑され、苦しむ存在です。このむさぼりの故に、偶像崇拝に走り(コロサイ3:5)、神の前に罪を犯し、自分と他人を苦しめるようになるのです。イエスさまも、荒野での40日間の断食の後、この3つの欲によってサタンに試みられましたが、みことばによって勝利を得たのです(マタイ4章)。しかし、人間は、誰でもこの誘惑に負けます。この欲望が満たされない時に、人間が用いるのがお酒や薬の力を借りることです。つまり、この世の人たちの自分の心を治める手段は、酩酊や遊興などですが、決してこのようなことでは、自分の心をコントロールすることはできません。人間は、みことばと御霊なる神さまの助けを得ないかぎり、この欲から自由になる道はありません。
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。コリント人への手紙第一9:25-27
先日、オリンピックがありました。その他のスポーツ選手たちも、私たちが想像できないほどの努力をして良い結果を生み出しています。決して偶然にできたことではありません。私たちも朽ちる冠のためには、たくさんの努力をおしまないのですが、朽ちない冠のためには、力を注いでいません。そのまま、肉の欲、目の欲、名誉欲に振り回されて、この世の人と同じように、クリスチャンも苦しんでいるのです。果たして、朽ちない冠を約束されている私たちは、どれほどの信仰訓練に励んでいるでしょうか。どれほど、自分のあらゆる欲をコントロールすることをしているでしょうか。自制の実を結ぶ者が、アガペーの愛の実践者になって、神さまを愛し、隣人を自分自身のように愛することができるのです。聖書は、「このようなものを禁ずる律法はありません」と宣言しています。日々、9つの御霊の実を結ぶことができるように、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結ぶことができるように心がけていきましょう。肉の行ないをとりのぞき、御霊の実を結ぶことができるように心がけるときに、私たちはもっと、神さまの祝福のもとに生きることができるはずです。欲を満たすことによって苦しむ-ではなく、御霊によって満たされる、御霊の実を結ぶことによって、喜びのある人生を歩む者になりたいと思います。
聖書:創世記2 章18 節- 25 節
説教題:ふさわしい助け手
司式・説教:尹秉甲牧師
ご結婚おめでとうございます。
また、ご両家のご両親をはじめご親族の皆様に、心からお祝いを申し上げます。
それでは、おふたりに聖書の教えに従い、いくつかの勧めをさせて頂きます。皆様のお手元の、プログラムの1ペ-ジに、聖書の説教本文のみことばが印刷されてありますので、ご覧になってください。
この旧約聖書創世記 2章18節-25節のみことばは、最初の人間であったアダムとエバが、神さまの導きによって夫婦として結ばれるという、とても美しい場面の記事です。
人間は、誰でも幸せになることを望んでいます。それは、私たちをお創りになった神さまが人間の幸せを望んでおられ、その性質を与えてくださったからです。人間の幸せのために、神さまによって定められたのが、結婚という制度です。
本文のみことばは、人間の幸せのために結婚制度を定められた神さまが、最初の結婚式の司式者として、結婚の意味と幸せな結婚生活を送るための方法を教えておられるところです。
私たちが、この結婚の真の意味を正しく理解し、その教えの通りに従い行なう時、全知全能の神さまの祝福によって、真の幸せと繁栄の中での人生の歩みができるのです。
それでは、神さまが教えてくださる結婚の意味と幸せな結婚生活のための方法について、いくつかのことを本文のみことばに従って確かめてみたいと思います。
第一に、結婚とは、神さまへの信頼です。
親よりも、自分自身よりも、私たち人間をよく知っておられるのは、私たちをお造りになった創造主なる神さま、私たちの霊の父である神さまです。
本文 18節を見ますと、神さまは、
と、仰せられたとあります。
神さまの目で「良くない」とご覧になったはじめてのもの、それが、「人が、ひとりでいること」でした。アダムが、ひとりでいるのが良くないことを自覚する前に、神さまは、すでに彼の状態を知っておられたのです。それで神さまは、彼をもっと良くするために、もっと彼を幸せにするために、教育を始められました。
本文 19節がその教育の方法です。
あらゆる生き物に名をつけさせるという生活現場での実践教育を通して、自分の状態を悟るように導いてくださったのが、神さまの教育の方法でした。
この教育の結果が、本文 20節に記されてあります。
アダムは、自分の前に連れて来られたあらゆる生き物の雄と雌のペアを見ながら、その中には、ひとりではなくふたりで造り出す、より豊かな世界、よりすばらしい祝福の世界があることを悟ったのです。そこでアダムは自分にもふさわしい助け手、自分の相手になる人が必ず存在しているだろうと、一生懸命に捜し続けましたが、とうとう見つけることができなかったのです。
彼は、きっと、どのようなものによっても満たされない空間が自分の心の中にあることに気づき、とても淋しい思いに陥ったでしょう。それで神さまは、彼にふさわしい助け手を造り上げ、彼のところに連れて来られたのです。
本文 21節、22節を見ますと、
こうして神である主 は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
と記しています。
このように、ふさわしい助け手、結婚相手は、人間の努力によるものではなく、神さまのご計画のもとで、神さまの導きによって与えられる祝福です。
新郎も、新婦も、決して、お互いが偶然に出合い、お互いに好きになって結婚するようになったわけではありません。自分の選びの結果ではなく、神さまのご計画のもとで、それぞれのところで生まれ育てられ、時満ちて、神さまの導きによって結ばれるようになったのです。この事実を信じ、神さまを信頼することが結婚の祝福の始まりです。
この世界の 60億を越える人の中で、唯一、自分にふさわしい助け手として、より豊かな世界、よりすばらしい幸せの世界へ導いてくださるために、神さまが選び導いてくださった存在、どのようなものによっても満たされないお互いの空間を満たしてくれる唯一の存在として、神さまがお選びになり与えてくださったのが自分の結婚する相手であることを堅く信じ、信頼する時、ふたりは一生涯、お互いによって足りないところが満たされる幸せな結婚生活ができるのです。
自分の選びを信じるのではなく、全知全能の神さまの選びであることを信じ信頼する時、神さまよって定められた幸せのための結婚は、そのまま神さまからの最高の祝福の源となるのです。自分の結婚相手が、この世の中で唯一自分にふさわしい助け手として、神さまから与えられた祝福であることを信じ続けること。いつもこの原点に戻る時、様々な人生のハードルを乗り越え、神さまの祝福を現実のものにすることができるのです。
神さまの導きへの信頼!そして、これに基づいて、お互いに信頼し合うこと!これが、幸せな結婚生活のための第一のポイントです。
第二に、結婚とは、人間の喜びです。
幸せのために捜し続けたものを見つけた時の喜び!満たされないものが満たされた時の喜び!人間最大の喜びが結婚です。
神さまのご計画と導きによって、アダムにエバが与えられた時の喜びの声が、本文 23節に記されてあります。
人類、最初の愛の告白。愛の詩がここにあるのです。「骨からの骨、肉からの肉。」、この「何からの何」という表現は、「最高のもの」を表わすヘブル語の文学的表現です。最高のものを得た時の喜びと感激の歌がここにあります。
私は、結婚のための学びの時、新郎新婦に対して、正式なプロポ-ズのことばがあったのですかと聞きました。あったということでした。プライバシ-に関する事だったのでその内容は聞きませんでしたが、どのようなものだったでしょうか。「おれについて来い」「いつも僕のそばにいてくれ」たぶんもっと素敵なことばだったでしょう。
皆様のプロポ-ズのことばはどのようなものだったのでしょうか。大事に覚えていらっしゃるのでしょうか。私のプロポ-ズのことばは、「いずれ、必ず幸せにしてあげるから」という内容のものだったと覚えています。私は、今、その「いずれ」という時の約束を守っていると、はっきりとは言えません。しかし、私の家内が神さまによって与えられた、この世界でたった一人の私にふさわしい助け手であることを信じ、神さまを信頼し、お互いに信頼しあっていること、また、「私の骨からの骨、私の肉からの肉」という愛の歌をお互いに歌っているので、そのプロポーズの約束のことばを果たす日は必ず来ると、お互いに信じています。
さて、神さまによって人類最高のプロポ-ズのことばとして認められているのが、この本文 23節のみことばです。
私は、新郎新婦に、新たにプロポ-ズをするようにと、この 23節のみことばをお互いに読み上げるように勧めました。二人は、私の前で、もう一度このみことばの通りにプロポ-ズをしたのです。私は、この新たなプロポ-ズが、牧師に言われたからではなく、あくまでも二人が、納得の上で、しかも喜びを以てのことだったと信じています。
これから、新郎は、アダムのように「新婦こそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。」と、最高のものを得た喜びを歌い続け、姉をこの世界の中で自分にふさわしいたったひとりの助け手として、最高の人として、一生涯を通して大事にしてください。
また、新婦は、新郎の喜びの歌に応えるような、ふさわしい助け手になってください。そうすれば二人は、このプロポ-ズのことば通りに、神さまの祝福のもとで、いつも喜びにあふれる結婚生活ができるはずです。
喜びだけではなく、あばら骨を取る大手術の痛みがあったのが最初の結婚式でした。あばら骨を取る手術の痛みと苦しみの末に得られたのが結婚の喜びです。
これから二人の人生の中では、いばらとあざみの道もあるでしょう。しかしその時も、今の喜び、神さまから与えられた今の喜びを覚えつつ、すべてのことを働かせて益としてくださるという神さまの約束のみことばを信じ従う時、二人はどのような事があっても、お互いに喜び合うことができるのです。
どのような事があっても、神さまの導きに感謝し、お互いに喜び合うこと。これが、幸せな結婚生活のための第二のポイントです。
第三に、結婚とは、ふたりが一体となることです。
本文 24節を見ますと、
とあります。ここに、神さまが教える結婚の三大原理が記されているのです。
結婚!それは、神さまの導きによる新しい家庭、新しい秩序への旅立ちです。
父母への依存関係から、夫婦への相互依存関係に変わり、今までとは異なる責任を持つ成熟した存在として生きるための始まりです。ですから、親がいかに子どもを離れさせるのか、また、自分がいかに親から離れて独立し、自立することができるのかが、幸せな結婚生活の大事なポイントになるのです。結婚すると、今までの親ではなく、今までの子ではなく、別の意味での新しい関係が始まったことを、親子お互いが認め合うことが大事です。
父母を離れ、妻と結び合うとは、接着剤でくっついた状態のことを意味します。絶対離れることのできない、一夫一妻の結婚の原理がここにあるのです。ふたりが一体になること、全人格、霊と肉が一体になる神秘的結合が結婚です。
本文 25節には、
とあります。
神と人との前で、恥ずかしいと思わない、神さまによって一体となるように祝福された神秘的なものが結婚です。ですから神さまは、
と、聖書のみことばを通して命じておられます。
一体となるためには、まず、相手を自分のように愛さなければなりません。元々結婚する二人はひとつのからだ「一体」であったのです。それが、神さまの導きによって再びひとつのからだ「一体」になるのが結婚です。それ故、お互いに愛し合うことが当たり前のように求められているわけです。
ふたりが一体になるために、「お互いに愛し合うこと。」これが、幸せな結婚生活のための第三のポイントです。
いま私は、幸せな結婚生活のために、神さまが教えてくださった三つのポイントを申し上げました。
お互いに信頼し合うこと。お互いに喜び合うこと。お互いに愛し合うこと。
この三つのポイントの土台になるものが、神さまとの正しい関係を保つことです。結婚とは、神さまの導きによる祝福です。ですから、まず神さまを信頼し、神さまを喜び、神さまを愛することが、幸せな結婚生活のための土台となります。
新郎・新婦!
おふたりはいままで、この土台の上に祝福された信仰生活をしてきました。この世界の中で、神さまがご覧になり、一番美しいもの、非常によかったとされたものは、夫婦一心同体になって築いた家庭です。
お互いがふさわしい助け手として、神さまと人との前で、素晴らしい証しができる幸せな家庭、愛と平和に満ちた家庭を築いてください。
これが今、神さまがあなたがたふたりに望んでおられることです。
聖書:マルコの福音書10章6節-9節
説教題:ふさわしい助け手
司式・説教:尹秉甲牧師
結婚とは、神さまが私たちに与えられた賜物の中でも最高のものであると言えます。人生の中で、一番美しい、喜びの出来事が結婚です。
今、神さまと、みなさまの前で、夫婦として結ばれた、新郎新婦に、みなさまとともに、心からの喜びを申し上げます。
おめでとうございます!
神さまは、お二人の結婚を祝福されました。それで、今聖書のみことばを通して、お二人がさらに幸せな結婚生活を営むための秘訣を教えてくださいます。
私が神さまのみことばを中心に、そのみこころを伝えたいと思います。
みなさまのお手元にあるプログラムの2ペ-ジをご覧になって下さい。説教本文のみことばが記されてあります。新約聖書、マルコの福音書10章6節-9節です。
この聖書のみことばは、新郎新婦がみなさまに送られた招待状の中に記されてあったものです。
6節には、「しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。」とあります。新郎新婦は、このみことばを通して自分たちが結ばれるようになったのは、神さまの定めと導きによるものであったことを、みなさまの前に告白したのです。
結婚とは、人間が偶然に出会い、お互いに好きになり、自分たちの意志によって結ばれるものではありません。創造の初めから、結婚する相手として、男と女とに造られ、それぞれの場所でお互いのふさわしい助け手として育てられ、そして、神さまの定められた時に出会うように導かれ、結ばれるものです。ですから、結婚とは、決して人間の働きではなく、全知全能の神さまの御わざであることを信じ、告白することから、幸せへの新しい出発ができるものです。
結婚が、自分の意志による選びだと思う人は、夫婦生活の中で何かうまくいかないことがある度に、その選びへの後悔が一生涯ふたりを苦しめることになるのです。
神さまの選びへの絶対的信頼を持つとき、結婚した二人は、一生涯相手が自分にとってこの世の中で最高の配偶者であることを信じ、告白し続けることができるのです。
一生涯悔いのない幸せな夫婦生活をするために、一番大切な告白、それが、神さまによって結び合わされたことを、信じ続けることです。
新郎新婦は、まさにこの前提の上に、お互いに神さまの最高の選びへの信頼と告白を持って結ばれたのです。
7節と8節では、結婚の原理について教えています。
「それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。」ア-メン。
結婚は、男と女が育てられた父と母のもとを離れて、新しい世界を築くことです。
父と母を離れること、これは、いかに二人が精神的、経済的に自立し、新しい家庭という、新しい秩序の中に入ることができるのかのことです。ですから、結婚する二人は、この自立への決意を新たにすることが必要です。
また、二人の親と親戚、友人、まわり人々は、この自立への旅立ち、新しい秩序を築き上げることができるように助けることが大事です。
結婚した二人が、いかに親離れをすることが出来るのか、親がいかに子離れをすることが出来るのかが、幸せな夫婦生活ができるかどうかの、大事なポイントになります。
新しい家庭という、新しい秩序を築くこと、これは、ふたりの者が、一心同体になることから始まります。
霊的、精神的、肉体的に一つになること。これが結婚の目標です。
「もはやふたりではなく、ひとり」であることの自覚を持って、さらに、ふたりがひとりになるための生活、これが、真の結婚生活の意味です。
天地万物を創造された神さまは、お造りになったものをご覧になり、よしとされたお方です。特に、男と女を創造され、ふたりの者が一心同体となった時、ふたりではなく、ひとりになったことをご覧になり、非常によかったと、仰せられたのです。
子供の幸せを見て、喜ぶ親のように、神さまは、結婚したふたりが、ひとりになることを喜ばれたのです。神さまから最高の祝福を得る秘訣、天国のような最高の幸せな夫婦生活のために必要なこと。それが、ふたりの者が日々ひとりになって行くことです。
結婚生活は、日々ふたりの者がひとりになって行くことに、真の意味があるものです。これが、神さまによって定められ、祝福された結婚の真の意味です。ですから、9節では、「こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」とあります。
結婚が、神さまの定めと導きによって結び合わされたこと、人間最高の幸せのための、神さまからの賜物であることを信じ、告白すること。これが、ふたりの者がひとりになるための出発点です。
新郎新婦。今、お二人は、もう一度神さまの定めと導きによって、最高の幸せを得るため、もはやふたりではなく、ひとりになるための出発点に、立っていることを確信し、そのめぐみに感謝しましょう。
それでは、どうすれば、さらにふたりがひとりになって行く最高の幸せな夫婦生活を送ることができるのでしょうか。
新約聖書、コロサイ人への手紙3章17節-20節のみことばに基づいて、その秘訣を教えて頂きましょう。
3章17節を見ますと、「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」とあります。
人間生活のすべての幸せは、主イエスを通して神さまから与えられるものです。
ですから、人間が幸せになるためには、このことを信じ、ことばでも、行ないでもイエスさまの教え、みことばに従い、神さまに感謝する生活が土台になるのです。
生活のすべてのことにおいて神さまの主権を認める信仰が、感謝にあふれる祝福された幸せな生活を産み出すのです。
幸せな結婚生活のための秘訣も、神さまが私たちの幸せのために命じられたみことばを信じ、従うことにあります。
それでは、具体的な教えを見ましょう。
18節を見ますと、「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。」と、妻の役割を教えています。これが、ふたりの者がひとりになる最高の幸せを得る秘訣です。
第-の秘訣は、妻が夫に従うことです。
「妻たちよ。夫に従いなさい。」これは、決して男尊女卑の男女差別を言うものではありません。「主にあるものにふさわしく」という前提条件から分かるように、神さまが主にある者として男と女を一体とされたのが結婚です。ですから、男と女は全く平等であることが前提です。ふたりの者が一体であることは、何よりも男と女、妻と夫が、神さまの前で全く平等であることを意味するのです。
妻が、夫に従うために持つべき姿勢が二つあります。
一つ目は、自分が夫にとって、この世の中でたった一人、なくてはならない一番大事な存在であることを認識することです。この世の中で、唯一自分だけがこの男にふさわしい助け手として神さまによって造られた尊い存在であることを自覚することです。
二つ目は、それゆえにこの人は、自分なくしては絶対に完全な人間にはなれない、この人の満たされない部分を満たして、幸せにして上げることの出来るのは、たった一人自分だけだという、誇りと確信を持つことです。(創世記2:18-23)
この揺れない姿勢を持つ時、妻は、心から夫を敬い従うという役割を果たすことができるのです。
夫に従うことは、家庭という組織の中で、秩序のために、神さまによって定められたものです。秩序が乱される所に平和がなくなり、苦しみがあるのと同じように、家庭の秩序が乱れている所に真の幸せはありません。家庭の平和、幸せのために、守らなければならないのが、妻が夫に従うという神さまによって立てられた秩序です。
「夫に従いなさい」という命令には、夫に一番必要なのが、家庭のかしらとして、妻に認められること、これが夫の幸せの根本土台であるという意味があるのです。
一番近い妻、一体となっている妻に、認められていない男が、他人に認められ、真の成功を収めることは出来ないものです。
妻が、心から夫を敬い従う時、夫は最高の力を発揮することが出来、家庭を幸せにすることが出来るのです。ここに神さまからの祝福が与えられるのです。
ことばでも、態度でも、夫を無視することから、夫婦の心の壁は厚くなり、自分も知らないうちにドンドンひとりの道ではなく、二人別々の道を歩むようになるのです。
新婦愛恵姉は、このことを心の板に刻み、主にあるものにふさわしく、夫に従う者としての、妻の役割を果たしてください。
女は、夫の愛によって生かされる存在。愛があれば生きることが出来ますが、男は、妻に認められること、名誉によって生かされる存在であることを覚えること。これが、ふたりの者がひとりになるための、第-の秘訣です。
ふたりの者がひとりになる最高の幸せを得るための第-の秘訣は、夫が妻を愛することです。
19節を見ますと、「夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。」とあります。夫が、妻を愛するために持つべき姿勢が二つあります。
一つ目は、自分が神さまによって立てられた、家庭のかしらであることを自覚することです。しかし、聖書で神さまが教えておられるかしらの役割は、この世の指導者のように権力をふるい、支配する者ではなく、仕える者を意味します。仕えられる者ではなく、かえって仕える者の意味です(マタイ20:25-28)。ですから夫は、決して妻を支配しても良い者、つらく当たっても良い者であると思ってはいけません。むしろ仕えるべき者として、神さまによって自分のそばに置かれたのが、妻であると認識しなければなりません。二つ目は、それ故に夫は、妻を自分よりも弱い器であり、共にいのちの恵み、天国を受け継ぐ者として尊敬する心を持つことが必要です(-ペテロ3:7)。
夫が妻に仕える方法として命じられたのが愛です。ここでの愛とは、人間的な愛ではなく、アガペ-の愛を意味します。この愛は無条件の愛、一方的な愛を意味します。ですから妻を愛することは夫の義務です。妻は、自分の気持ちによって愛しても良い、愛さなくても良い存在として与えられたのではなく、無条件に愛すべき存在です。
愛すべき条件があるから愛するのではなく、神さまが愛すべき存在として与えられたから無条件に、一方的に愛さなければならないわけです。しかしこれは、ただ義務たからとして仕方がなく愛するのではなく、自発的に愛することが求められているのです。つまり、心から愛すべき存在が、妻であるということです。さらに、この愛、アガペ-の愛は、犠牲的な愛です。妻のために一生涯を献身的に仕えること、これが、神さまによって定められている夫の役割です。
それ故に、神さまは、まず妻に、夫のふさわしい助け手として夫を生かして行くことを命じられ、夫がこのアガペ-の愛を持って、妻に仕えるようにしたのです。
妻がふさわしい助け手として夫を敬い従う時、夫はアガペ-の愛を実践することができるのです。
夫がこのアガペ-の愛を持って妻を愛する時、ふたりの者は、ひとりになることができるのです。
新郎秀郎兄は、このことを心の板に刻み、妻を愛する者としての、夫の役割を果たしてください。
男は、妻によって生かされる存在、人に認められることがあれば生きることが出来ますが、女は、夫の愛によって生かされる存在、愛があれば生きることが出来る存在であることを覚えること。これが、ふたりの者がひとりになるための、第-の秘訣です。
もうひとつ、ふたりの者がひとりになるために必要なのが、子どもとして両親に従うことです。
20節を見ますと、「子どもたちよ。すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。」とあります。
結婚とは、ふたりの者が結ばれることですが、それと共に二人の家族の結び合いの意味もあります。結婚によって新しい親が、もう一つの両親が出来るのです。結婚する二人は、義父、義母を、自分の本当の親として受け入れ、仕えることが求められています。神さまに喜ばれること、それが親孝行です。親孝行が神さまにさらに祝福される秘訣です。いままでとは違う成熟した者としての親孝行。これが、結婚する二人に求められていることです。いままでのように、ただ、頼る存在としての親ではなく、これからは自分たちが仕え、支えるための親であることを、新たに覚える必要があるのです。
新郎新婦は、このことを心の板に刻み、新しい子どもとして、新しい両親に従ってください。
ここで、ご両家のご両親と、ご親族のみなさまにお願いがあります。これから、ご両家のみなさまは、新郎新婦を本当の自分の子ども、本当の家族として受け入れてください。そして、ふたりの者がひとりになる、幸せな結婚生活ができますように支えてください。聖書で教えている神の愛は、いつも天から地に、上から下に流れる愛です。まず、親が足りない若いふたりを心から迎え、受け入れてください。そして、まず、上にある者として与える愛の姿勢を持ってください。その時、お二人も親孝行への道、家族への交わりの道に迷うことなく進むことが出来るからです。また、人生の先輩であるみなさまが、お二人を支え、導いてくださることを心からお願い申し上げます。
今、神さまは、新郎新婦がひとりになる最高の幸せを得るための秘訣を教えてくださいました。願わくは、新郎新婦が、すべての生活において神さまの主権を認め、すべてのことに感謝し、夫に従い、妻を愛し、新しい子どもとして両親に従うことによって、神さまが祝福してくださると約束しておられる、最高の幸せな結婚生活、天国のような夫婦生活ができますように祈ります。
もう一度、新郎新婦に、心からのお祝いを申し上げながら、神さまのみことばによる勧めを終わりに致します。
お祈りを致します。
聖書:エペソ人への手紙5章31節-33節
説教題:この奥義は偉大です。
司式・説教:尹秉甲牧師
ご結婚!おめでとうございます!
また、ご両親様をはじめ、家族、親戚、友人の方々、そして、お二人の結婚の証人として列席してくださいました皆様に心からお喜び、お祝い申し上げます。
おめでとうございます。
神さまは、只今、新郎新婦に「結婚」という最高の賜物を与えてくださいました。そして、さらに、兄弟姉妹が、この最高の賜物を日々の生活の中で、十分に活かし、一生涯を通して幸せな家庭を築きあげるようにと、本文のみことばを与えてくださいました。
神さまはこの結婚を「ご覧になり、非常によかった。」と喜ばれ、お二人がこれから楽園、パラダイスの家庭を築き上げるための秘訣を与えてくださいました。
聖書の本文を教えて頂きましょう!式プログラムの3ページ。
説教するみことばをみますと、新約聖書エペソ人への手紙5章31節-33節のみことばから記されてあります。
31節の「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる」アーメン。このみことばは、神さまがエデンの園において最初の人間アダムとエバの結婚式の司式者として説教された内容と言われているものです。
それ以来このみことばは、結婚の3代原理原則をなすものになっています。
神さまが教える結婚の3代原理原則の
第一は、その父と母を離れることです。
これは、自立への旅立つ事を教えるものです。
父親をかしらとして生活していた家庭を離れ、新しい家庭を築き上げるのが結婚です。
ですから、男は、親の子ともの立場から自分が家庭のかしらになり、女は、親の子どもの立場から夫をかしらとする、神さまによって定められている新しい秩序の中に入るのが結婚です。(-コリ11:3)
父と母を離れ、家庭のかしらが変わる、親と子の関係が変るのが結婚です。
ですから、結婚前の子どもには「子どもたちよ、主にあって両親に従いなさい。」(エペ6:1)と成熟した者としての関係の変化が求められているのです。
結婚後には親離れをすることが大前提になります。
また、親には子離れが求められています。結婚する二人は、早く親離れをすることが幸せになる道であることを覚えてください。
結婚後の親のポジション、立つべき位置は、結婚している子どもたちの真ん中ではなく、ちょっと離れた側です。そして、子どもたちの助けを求められた時、助けて上げることで、自ら助けようとしてはなりません。結婚後の様々な問題は、親離れ、子離れができないことから、親のポジションの間違えから来るものです。
そして、両家の親の方々にお願いいたします。
結婚しているお二人のまことの幸せを願うなら、必ず親の立つべき位置を守ってください。
神さまが教える結婚の原理原則の
第二は、妻と結ばれることです。
「結ばれる」、「結びあわれる」の元々の意味は、くっつく、すがりつくことです。結婚とは、接着剤でくっつけられたもののような関係になることを意味します。接着剤を使う時に求められる何よりの条件は、ほこりのような不純物を取り除くことです。いままでの自分とエゴ、わがまま、自己中心、自分の価値判断基準をもって相手を自分に合わせようとするのではなく、むしろこれらのものを捨て、お互いに理解のもとに、神さまを信頼していく、縋り付くのが結婚です。
なぜなら、結婚とは、神さまが結ぶ合わせたものだからです。
自分が相手を好き勝手に選び、結婚するのではなく、神さまが主権をもって世界の67億の人の中から、日本人1億2千7百70万人の中から、お互いに一番ふさわしい人を選び、結び合わせてくださったものが結婚です。この事実を信じ、信頼する時、結婚する二人は、永遠に結ばれるようになるのです。
「それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」アーメン。とイエスさまは、マタイの福音書19章6節で教えています。(プロジェクターをご覧になってください。)接着剤でくっついているものを無理矢理に引き離すと両方とも傷だけになるものです。
ですから、神によって結び合わされた結婚は、一つになる一夫一妻が原則になるものです。
神さまが教える結婚の原理原則の
第三は、ふたりが一心同体となることです。
ふたりが一心同体となる、これが結婚の最高の目的です。ふたりが一心同体となる時、これが神のみごころを成し遂げ、最高の幸せになる状態、神がご覧になり非常によかったと言われる、神に喜ばれる状態だからです。
霊の一致、心の一致、体の一致、ここに神さまに喜ばれるまことの幸せ、楽園を作り上げる秘訣があるのです。
結婚は、これゆえ信仰なしには決してできないことです。ですから、奥義になるのです。
本文、エペソ人への手紙5:32プログラム3ページ。
「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」
アーメン。
キリストと教会、キリストと信者は一心同体、一つになっている、これが信仰によってのみ分かる奥義です。この奥義を極める時、夫婦は一心同体になる最高の幸せを得ることができるのです。
そのためには、夫と妻もともに家庭においての役割、すなわち、身分、立場と働きをわきまえ知り、行なうことが求められるのです。
本文、エペソ人への手紙5:33プログラム3ページ
まず、夫の役割をみましょう。
家庭の中での夫の身分、立場は、かしらです。
神さまは、「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」(-コリ11:3)と定められました。
ですから、家庭において夫は、妻のかしらになるのです。夫は、妻のかしらである強い認識をもつべきです。
かしらは、この世の中では、支配者として支配し、偉い人として権力をふるう身分ですが、信仰の世界でのかしらは、みなに使える者、みなのしもべになりなさいと命じられています。
これがイエスさま、キリストがこの世に来られた目的であると教えています。
仕えられるためではなく、つかえるために、しかもみなのために自分のいのちを与えるためである(マタイ20:25-28)と教えています。
これをキリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた愛、神の愛
アカペーと言います。
ですから、夫のかしらはキリストですから、キリストに従うべき存在としてキリストの成し遂げたこの愛をもって、自分の妻を愛しなさいと命じているのです。このキリストの愛は、自発的、一方的、無条件的、犠牲的愛を言います。愛は、与える、仕える行ないによって成立つものです。妻が必要とする者を自発的に与え、また、もらったから返すのではなく、一方的に、そして何かの条件を付けるのではなく、無条件的に、さらに、自分のいやなことであっても犠牲を払い、与えることです。これが妻に対する夫の働きです。
それでは、罪の役割についてみましょう。
家庭においての妻の身分、立場は、夫にふさわしい助け手です。
神さまは妻を夫にふさわしい助け手として造り上げ、夫のところに導いて下さいました(創2:18-22)。
ですから、妻は、自分が神さまによって認められた唯一の夫にふさわしい助け手ある強い認識を持つべきです。
夫の足りないところ、この世の何によっても満たされない部分を満たして上げる唯一の存在として、自分が神さまによって選ばれている強い認識を持たなければなりません。
夫にふさわしい助け手としての妻の働きは、自分の夫を敬うことです。
ですから、妻もまた自分の夫を敬いなさいと命じているのです。
プログラムの6ページに記してある聖書、夫に関する教え、新約聖書エペソ人への手紙5章22節-24節には、このように命じてあります。
「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」アーメン。
「主に従うように、自分の夫に従いなさい。」アーメン。
すなわち、神さまに従うように自分の夫に従いなさいと命じています。
神さまに従うようには、尊ぶ意味です。夫が偉いからではなく、神さまによって建てられている秩序だから、神さまを信頼して従うことへの命令です。なぜなら、秩序がいる通りに平和、平安がなくなり、まことの幸せが
神さまは、夫の役割は、かしらを身分とする、愛する働きであり、妻の役割は、ふさわしい助け手とする敬うことが働きであると教えました。
ある意味においては納得のできない命令には、夫婦がエデンの園、楽園、天国を取り戻す秘訣が秘められているからです。
神さまは、最初の人間アダムとエバの結婚を通して、エデンの園で最高の幸せな家庭天国を築き上げる祝福を与えて下さいました。しかし、アダムとアバは、サタン悪魔の誘惑に負け、神さまに御前に罪を犯しました。この罪を悔い改めないで、さらに責任転嫁の罪を犯した故に、神さまにのろわれ、エデンの園から追放されてしまったのです。
この神さまのさばき、その呪縛を解ける鍵が秘められているのが、この夫と妻の役割を果たすことです。
世の中には、男は度胸、女は愛嬌と言われるものですが、男は名誉、女は愛にいのちをかける、これが神さまからののろいの結果です。
ですから、夫は妻の敬いによってそのプライドが満たされ、この世的にも人々に認められる働きができるものです。
一つになっている妻に従えない、敬まれない夫は、何をしても常に心の中には空がなっている満たされないそんざいになるのです。
また、妻は、夫に愛されていることによって、その愛が満たされ、何をしても幸せを覚えるものです。
一つになっている夫に愛されない妻は、常に心の中に空が開いている満たされない存在になるのです。
ですから、エデンの園ののろいの解け、エデンの園を取り戻す天国のような幸せな家庭を築き上げる秘訣は、夫と妻がそれぞれその役割を果たすこと、夫と妻が家庭においてこの身分と働きをわきまえ知り、行なうことにあるのです。
新郎、新婦は、この奥義を極めることによって、家庭天国を築き上げてください。
もう一度新郎、新婦に幸せになる秘訣を与えます。
エペソ人への手紙6章2節-3節のみことばです。プロジェクターをご覧になってください。ご一緒に読んでみましょう。
「「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。」アーメン。
ここに幸せになり、地上で長生きする秘訣があります。それが、父と母を敬うことです。
結婚は、敬うべき父と母が与えられていることですから、神さまから
幸せになるめぐみが与えられるものです。
神さまによってくださったこのチャンスを、ぜひ活かして、幸せになる結婚、祝福をふたりのものにしてください。
「この奥義は偉大です。」このみことばの意味を悟り、日々の生活の中で活かすことによって、家庭天国を築き上げる祝福を祈ります。
† 聖書入門クラス(Step-)†
すべての人間が一生涯を通して切に願っていることは、幸せになることです。
そして、幸せになればなるほど死にたくないものです。ですから、人間の切なる願いとは、幸せに永遠に生きること、すなわち、「永遠のいのち」であると言えます。
この「永遠のいのち」への道を教えるために、神さまによって書かれた書物が、「聖書」です。聖書が単なる人間の知恵、知識、思いによる産物ではなく、『神さまが、自分に永遠のいのちを与えるために書かれた唯一の神の書物であること』を確信するために、学ぶのが〈聖書入門クラス〉です。
自分が持っている知恵、知識による偏見の壁を取りのぞくために、ともに学んでみませんか?
†聖書入門クラス†ステップ-(授洗準備クラス)
宗教について【1】
宗教について【2】
啓示について--
聖書【-】:客観的事実からの論証--
聖書【-】:客観的事実からの論証----
聖書【-】:聖書の内容からの論証--
聖書【-】:聖書の内容からの論証--
聖書【-】:聖書の内容からの論証-
聖書【-】:聖書の内容からの論証-
聖書【-】:聖書の証言
聖書【-】:聖書が書かれた目的
聖書【-】:聖書の成立と構成
聖書【-】:外典と偽典等
†信仰入門クラス(Step-)†
聖書入門クラスの学びを通して、聖書が「自分に永遠のいのちを与えるために」神さまによって書かれた「神の書物」である確信を持つようになった者が、聖書の学びを通して信仰を得、幸せに永遠に生きる「永遠のいのち」を自分のものにするために学ぶのが「信仰入門クラス」です。
「信仰義認」
†信仰入門クラス†ステップ-(授洗準備クラス)
神について【-】
神について【-】
神について【-】
人間について【-】
人間について【-】
人間について【-】
人間について【-】
イエス・キリストについて【-】
イエス・キリストについて【-】
救いについて【-】
救いについて【-】
救いについて【-】
聖礼典について
†聖化入門クラス(Step-)†
神さまへの信仰を得、「永遠のいのち」を自分のものにした者が、この地上で天国を味わいながら、「永遠のいのち」のためにどう生きれば良いのか、その生き方の秘訣を学ぶためのクラスです。「聖書信仰による行ない」によって、自分を変える生活こそ、まことの幸せへの道です。
「信行一致」
†聖化入門クラス† ステップ-(授洗後クラス)
身分の変化-
身分の変化-
教会について
神のみこころ【-】
神のみこころ【-】
神のみこころ【-】
神のみこころ【-】
神のみこころ【-】
神のみこころ【-】
神のみこころ【-】
† 祈り†
意味----
原則---
規則-----
順序---------
応答----
形態と種類
† 来世†
死後の世界
天国
地獄
悩んでいるあなたへ!
†対人関係をよくする秘訣†:対人関係クラス
生活の中の苦しみは、衣・食・住によるものより、むしろ人間関係の中から来るものがもっと多いと言えます。
自分の心の受け皿を変える、自分の心を変える秘訣を学び、身に付けることこそ、対人関係を正しく保つ道であり、楽しい人生を送る道です。
†対人関係をよくする秘訣†:対人関係クラス
神の愛(アガペー)
聖霊に満たされるために【-】
聖霊に満たされるために【-】
聖霊に満たされるために【-】
聖霊に満たされるために【-】
聖霊に満たされるために【-】
罪の赦し合いの秘訣【-】
罪の赦し合いの秘訣【-】
罪の赦し合いの秘訣【-】
罪の赦し合いの秘訣【-】
罪の赦し合いの秘訣【-】
罪の赦し合いの秘訣【-】
悩んでいるあなたへ!
†より幸せな結婚・夫婦生活のために!†:夫婦一体クラス
結婚は、人間がより幸せになるために選ぶ道です。
天国を夢見て「愛情」を持って始めた夫婦生活が、その夢が壊され「友情」に変わり、友情にも裏切られ、いつのまにか、かわいそうだから、仕方がないから一緒に生活するのだと「同情」に変わり、人生を終えるものであると言われています。また、この過程を踏む前に別れてしまう夫婦が日ごとに増す悲しい現実があります。「仮面夫婦」、「成田離婚」ということばで表現されるほど、結婚、夫婦生活は、多くの人を苦しめるものになっています。何が原因でしょうか。
結婚の意味、目的、相手に対する人間理解等、何故結婚するのか、夫婦生活はどのように営むべきか等、本当に必要な根本的なことに関心を持って学ばずに、いつ、何を用意して、どこに住むのか等に、より多くの関心を持って結婚したことが、夫婦問題の原因であると言えます。
夫婦生活を「愛情」から始め、もっと「成熟した愛情」を持って終えるために、神さまが与えてくださった天国を味わう夫婦生活のために、人間理解、結婚前の男と女、結婚の意味、目的、そして、結婚後の夫婦生活等、夫婦一体となる具体的な方法に至るまで詳しく学びます。
†より幸せな結婚・夫婦生活†:夫婦一体クラス
神のかたち
男と女
ふさわしい助け手
その父母を離れ:親離れ。子離れ。
妻と結び合うこと
ふたりは一体となる
霊の一体(心と精神の一致):聖なる生活---
からだの一体(性の一致):聖なる生活---
夫婦の役割:妻たちよ。夫たちよ。---
結婚式説教:--
悩んでいるあなたへ!
†親が変われば子どもも変わる†:子ども養育クラス
子ども養育の責任は、学校ではなく家庭にあります。
問題児の後ろに必ず問題親があると言われるほど、教育は、親にそのすべての責任があると言えます。親の後ろ姿こそ、まことの教育の土台です。
子ども養育をどうすれば良いのか、その基本原理及び実践的な方法について学びます。
†親が変われば、子どもも変わる†:子ども養育クラス
家族の意味
父たちよ。---
原理---
思春期・思秋期
親の類
弟子訓練クラス
毎週の礼拝後には、愛餐会(昼食会)があり、みんなで食事をします。メニューは、すいとん、野菜ビビンバ、韓国式おかゆ、冷麺、うどんなど季節にあわせて変わります。最近は光健康朝市のメニューの新開発をかねた試食が多くなっています。
教会メンバーの交わりの時として、教会家族交わり会があります。今まで、ハイキング、バーベキュー、釣り大会、ぶどう狩り、海水浴などが行われました。みんな楽しみな行事の一つです。年に2回ほど行われています。
毎年、1泊2日ほどの日程で、学びと交わりのための教会修養会が行われます。その年ごとにテーマを決め、2日間で5-6時間かけて集中して学びます。昼食、夕食には特別メニューが企画されることが多く楽しみの一つです。夜には、花火をしたりします。開催場所は教会であったり、観光地、温泉地などへ出かけたりもします。寝食をともにすることで普段は見られない姿が見られる楽しいひとときです。
毎年クリスマス記念礼拝の日の午後クリスマス祝会を開催します。神さまを賛美し、聖書を読み、みことばをいただきます。最大のイベントはプレゼント交換会です。1年間お世話になった人、お世話になる人を思い浮かべて各自プレゼントを用意します。毎年恒例のひたち光教会特製ルールでかれこれ10年以上行われています。プレゼント交換会にはその年の礼拝説教を録音したCDが用意されます。箱の中のCDを1人1枚引いて、この1年特別に与えられるみことばがわかります。不思議と各人にぴったりの聖書のことばが与えられます。聖書箇所とそのみことばを読み上げたあと、CDに付いている番号と同じ番号のプレゼントが貰える仕組みになっています。また、自分が用意したプレゼントがあたった人のためには、特別に次の1年間密かに祈るルールになっています。また、CDの中の一つには特別な印がついていて最後にどのような印か発表されます。そのCDの持ち主は教会が用意した特製プレゼントがもらえ、また特別奉仕者として、特別に奉仕する役割が与えられ、ちゃんと次の教会総会で任命されます。クリスマス祝会は、終始、楽しく、賑やかで、感謝にあふれるときです。
この世の中には、色々な流派の花の生け方があります。それぞれの個性を生かした素敵なものが沢山あり、私たちの日常生活の中で心を和ませるものとして有効に活用されています。
教会の生け花は、単に生けるテクニックがあって良し、とするものではなく、むしろ花を生ける者の信仰が求められ、クリスチャンの信仰の表現の一つであるところに意義があると言えます。ですから、花を生ける時には、神さまに対する心がまえと祈りが必要です。なぜなら、礼拝をささげる人々の心がもっと神さまに向けられるように、雰囲気を演出し、心の喜びと平安をもたらせるところに、教会の生け花の目的の一つがあるからです。
そして霊的面から見ますと、生けられている花が、生きているように見えても、実はその根本から切り離されているので死んでいることと同じように、2つの目的が考えられます。
1. いのちの源である神さまから切り離され、自分の罪過と罪との中で、霊的に死んでいた私たちをただ恵みのゆえに、信仰によって救ってくださったこと(エペ2:1-10)、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められている(ローマ3:23-26)、この神さまの救いの恵みを思い起こさせ、感謝することができるようにすること【信仰義認】
2. また、花が香りをはなつように、私たちがこの地の塩と世界の光(マタ5:13-16)としての信仰と行ないの一致の生活をすること(ヤコ2:17-26)によって、キリストのかおりをはなつ(-コリ2:14-17)というクリスチャンとしての使命を、あらたに思い起こさせる【信行一致】
このような目的を基として必要なのが、基本的なテクニックです。自然のままの状態から自分の個性を活かした作品を創る技術が必要です。そのために生け花のテクニックを身につける必要があります。
教会では、毎週土曜日に、生け花の学びがあります。今、12名の方が学びながら、毎主日(日曜日)の教会の生け花を担当しています。これからも、私たち一人一人に与えられている賜物が、【福音宣教】のために、心を一つにする交わりのために、また、天の御国の完成のために、活かされることを願うものです。
地震関連の記事です。
2011年3月11日14時46分18秒(日本時間)
東日本大震災に見舞われた時間です。東北関東大震災など、各マスコミや組織・団体において色々な名前で呼ばれていたのですが、4月1日の政府閣議で、このような名称に確定されました。
日本における観測史上最大の規模でした。地震が発するエネルギーの大きさを表すマグニチュード(Mw)9.0を記録した大地震災難(日立市震度6強)、津波災難、福島第一原子力発電所の災難の脅威にさらされ、世の終わりを見るような思いの中にいた人も多かったでしょう。災難の爪痕が明らかになる中、自然の脅威の前に何もできなかった無力感に襲われた人、人間の知恵、知識、力を誇っていた愚かさを痛感した人、ただ茫然自失したままの人など、多くの人にとってこの初めての経験は、今も続いています。一生涯をかけて築き上げたことを一瞬にしてすべてを失い、人生をゼロから、否マイナスからスタートしなければならない人々、大震災の中で辛うじて生き延びたものの、これからどう生きればよいのか、途方に暮れている人々を目の前で見ながら、私たちは、生きるとは何か、どう生きるべきかを深く考えさせられました。
3月6日(主)に教会定期総会(第4回、2011年度)を通して、私たちの群れが歩むべき道が明らかに示されたその矢先に起こった大地震、想定外との言葉が流行る中、私たちはもう一度、神さまのみことばを通して、神信仰、復活信仰、再臨信仰を確かめることができました。
3月13日(主)「世の終わりには、どんな前兆が」(マタ24:1-14)
3月20日(主)「新しい天と新しい地を」(-ペテ3:8-13)
3月27日(主)「倒れないように気をつけなさい。」(-コリ10:11-13)
主日説教を通して私たちがどう生きるべきか、何に望みをおいて生きるべきか、生き方を再確認する恵みをいただきました。不幸中の幸いと言えるでしょうか、教会員の中に人的な被害はなく、家など物質的な被害はあったものの、深刻と言えるものではありませんでした。しかし、教会堂は、甚大な被害を受けました。まず私たちの力でできることから修復を始めました。照明器具の取り替え工事、プロジェクター設備修復工事、ウッドデッキ解体、組み立て・ペイント工事、地割れ修復工事などをしながら、今度の出来事の中で神さまが私たちに望んでおられることとは何か、神さまのみこころを悟るために祈りつつ、御声を聞こうと耳を傾けていました。
人的被害
死者:15,846名
行方不明:3,320名
負傷者:6,011名
建物被害
全壊:128,554棟
半壊:243,430棟
その他被害
漁船:22,000隻以上
漁港:300以上
農地:23,600ha以上
避難者:400,000人以上(ピーク時)
停電世帯:8,000,000戸以上
断水世帯:1,800,000戸以上
2006年9月7日(木)石名坂2丁目に約2000坪の教会用地が与えられ、2007年7月1日(主)に新教会堂を建築し、神さまから教会名を日立めぐみキリスト教会からひたち光教会に変更する恵みをいただきました。2007年10月8日に新教会堂を献堂し、新しい歩みが始まりました。2008年5月15日に牧師館竣工、2008年7月10日に教会シンボル塔建立、2009年7月1日(水)に光健康教育院の開設式が行なわれ、聖書的な健康法の学びと実践を始め、霊肉の福音による伝道を始めました。2010年5月9日(主)には光健康室(炭素温熱ドーム)を設置オープン、教会ビジョン研修など伝道システム、プログラムなどを整え、教会内外を整備、整頓し、伝道のための準備に励みました。
教会ビジョン研究研修(韓国)の最中、突然天に召された(11月6日、土)牧師夫人閔善植宣教師の葬式、記念礼拝では、深い悲しみの中で天の故郷にあこがれて生きる信仰を確かめ、復活の望みの故にまことの慰めをいただきました。閔善植先生の遺志もあって、光バラ園を設置し、教会ビジョン研究研修の成果を踏まえ、2011年からいよいよ教会の新しい歩みを始めようとしたところ今回の大地震に見舞われ、やむを得ず伝道プログラムを中断せざるを得ませんでした。更なる試練の中で、苦しみながら、神さまのみこころを求める日々でした。その中で悟ることがありました。教会堂の中のひび割れなど、ぼろぼろの状態が私たちの霊の状態を示しているものではないのか、口では神さまの恵みによってここまで導かれたと盛んに言いながらも、心の中では「私が」との高ぶりが芽生えているのに気付いていないことを神さまが教えておられるような気がしました。今まで以上に神さまは、私たちの群れに聖さを求めておられることに気付いたのです。私たちは、今の状況を神さまからの更なる祝福、確実な祝福をいただくためのチャンス、大きな祝福の器を作るためのチャンス、リバイバルの特別な恵みにあずかるためのチャンスとして受け止めました。専門業者による見積もりなど、単なる修復工事のためではなく、文字通りの復興のための準備に入りました。
7月7日(木)までに十字架塔、教会シンボル塔、屋根、外壁補修工事を終えました。7月31日(主)の教会懇談会(臨時教会総会に準ずる)において復興計画が決められ、8月29日(月)から本格的な工事に入り、9月24日(土)に完成させ、教会堂献堂4周年(10月8日、土)の記念行事をもって新たな出発をしたいと願っていました。ところが壁解体工事の結果、鉄骨を支える部分の損傷が思った以上に酷く、補強のための設計変更など、大幅な工事計画修正となり、11月26日(土)にやっと工事を終えることができました。11月27日(主)復興報告会を開き、神さまからの豊かな恵みを確認し、感謝をささげ、教会ビジョン達成に向けて、本格的な復興のための歩みを始めました。4年前の献堂の時にできなかったことがすべて整えられ、震災前よりはるかに良い信仰生活のための器、自分を生かし、人々を生かすための環境作りができ、感謝でした。私たちより更に甚大な被害を受けている人々のために祈りつつ、少しでも被災者を助けるために、教会員一同、炎天下の中で震災孤児支援企画、光健康チャリティー(6月26日、主・7月3日、主)、東日本大震災チャリティー(7月17日、主・7月24日、主)を行ない、東日本津波遺児支援(あしなが育英会)ができたことも感謝でした。また、主にある全世界の兄弟姉妹からの祈りと多額の義援金、支援物資、教団内外の兄弟姉妹の見舞金と祈りに支えられたこと、主にある兄弟姉妹の愛の実践を身をもって体験したことは大きな喜びでした。
兄弟姉妹の献身的な奉仕とささげものによって、すべての必要が豊かに満たされました。もう一度、主にすがる群れに与えられる神さまの祝福の豊かさを確かめる恵みにあずかりました。この復興工事を通して、さらなる礼拝環境が整えられたこと、伝道プログラムのための新しい準備ができたことは何よりの感謝です。心を一つにし、霊とまことによる礼拝をささげ、神さまの栄光をあらわし、さらに私たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の前で行なわれ、多くの人を確実に救いに導いて、神さまの御名をあがめ、ほめたたえる働きができますように!主の光を放ち、主の香りを放つ働きがここから始まり、人々が父なる神をあがめ、ほめたたえることができますように励むこと、これが今から私たちがすべきことです。
ここに、もう一度、東日本大震災を通して、私たちがいただいた恵みのいくつかを、整理して記します。
神さまのみこころを悟り、神さまの御前に近づく信仰、信仰成長の恵みにあずかりました。
主にある兄弟姉妹の愛、兄弟愛、隣人愛を確かめました。
人々の前にあかしを立て、神の愛を伝えることができました。
奉仕とささげものを通して天に宝をたくわえ、この地上の祝福の器をも大きく作ることができました。
礼拝など、信仰生活のための環境がはるかに良くなりました。
伝道のための訓練、新しい伝道システム、プログラムを確立することができました。
すべてのことを働かせて益としてくさる神さまの恵みを覚え、さらに大きい感謝の器を作ることができました。
十字架ネオン塔、教会シンボル塔補修設置工事:大森巧芸
玄関ドア、シンボル窓、十字架、フィルム工事:大森巧芸
屋根、建具、外壁補修工事:大和リース株式会社
内装、シャワールーム補修工事:大和リース株式会社
ブレス交換、内装補強工事:大和リース株式会社
天井開口、GW追加工事:大和リース株式会社
ビデオカメラ配線工事:大和リース株式会社
外構、駐車場工事:有限会社稲見舗装
ゲートボールなど、コート造成工事:有限会社稲見舗装
山砂、洗砂:有限会社赤須建材店
グランドピアノ
ビデオカメラ(礼拝室用)
物置(No.7)
バスケットボール台など
ゲートボールセットなど
玄関マット
照明器具
十字架(礼拝室壁掛け用)など
今も大きな苦しみの中にいる被災者の方々に希望の光が与えられますように祈りましょう。また、多くの人々がこの震災の経験を通して創造主なる神さまのもとに戻ることができますように、主なる神さまの導きを求め、祈りましょう。
2011年3月11日、東日本大震災において、教会堂は甚大な被害を受け、震災復興工事の必要性が生じました。復興のための工事計画を立てている中、私たちより更に甚大な被害を受けている人々のために祈りつつ、少しでも被害を助けたいという思いが与えられ、教会員一同、炎天下の中で、震災孤児支援企画・光健康チャリティー(6月26日、主・7月3日、主)、また、東日本大震災チャリティー(7月17日、主・7月24日、主)を行ない、多くの方々が教会へと足を運んでくださいました。
各チャリティーでは、「韓国食フェア」と銘うって、チャリティーに来られた方々に、チヂミ、ホットク、おでんなどの韓国食を無料で振舞い、海外の教会から届けられた支援物資の配布なども行いました。また、教会員によるパイプオルガン演奏と、演奏、一般の方々のハンドベルやクワイヤチャイム体験なども行ないました。両チャリティーを通して、東日本津波遺児支援(あしなが育英会)への募金をお願いし、集まった募金は全額、あしなが育英会に寄付させていただきました。このチャリティーのための全ての導きに心から感謝致します。
百万人の福音震災特集に掲載された記事をご紹介します。
「さあ、内は整いました。これからは外に向かって福音を伝えていきましょう!」と総会で満場一致で今年の教会目標の承認を受けた五日後のことだった。
二〇一一年三月十一日。茨城県日立市を、国内最大級の震度6強の揺れが襲った。市は海に面しているため、津波が襲い、地割れ、断水、停電など大規模な被害が発生。さらに追い打ちをかけるように福島第一原子力発電所の事故が起きた。
日立市の街と港が一望できる高台にある、日本同盟基督教団ひたち光教会も被害は甚大。教会の十字架は倒れ、駐車場は随所で地割れ。会堂内の牧師室や、礼拝堂も物が散乱。電気設備や水回りも破損した。「立っていることができないほどの揺れで、何が起きているのか理解できなかった」と現在牧師をしているユン先生。当日は牧師室で上から降ってくる大型の掛け物から「間一髪」のところで外に逃げたという。
日立市のすぐ隣の東海村は、一九九九年九月に、核燃料加工施設が臨海状態に達し、二人の犠牲者と六百六十七人の被爆者を出した日本の原子力開発史上最悪の事故が起きた町。教会の窓からも、現在も止まったままの原子力施設がはっきりと見える。今回事故を起こした、福島の原子力発電所からは百キロ程度の距離。「またか……」と嘆く住民も多いという。日立市は、いままでに経験の無い揺れと津波、そして十二年前の臨海事故の悪夢が再び住民を不安と恐怖が包みこんだ。
震災から、一年近く経つ現在も放射線量が高いポイントもあり、風評被害で漁業や農業にも大きな影響が出ている。町を車で回るとあちこちで工事や未修復の家の瓦が多く目につく。また、震災と円高などの影響で住民の八割が関係者といわれる日立グループの業績も低迷。「町全体に閉塞感が漂っている状態」とユン先生は嘆く。この町で宣教を続けてきた、ひたち光教会の一年と今後の展望を取材した。
六畳二間からのスタート
ひたち光教会は、日立市で三十年以上の歴史を持つ。現在牧師のユン先生は無牧だった教会へ、十七年前より赴任。韓国より、「私は事業を成功させ、お金持ちになることが人生の目的でした」と来日。その後、さまざまな体験と導きによって献身を決意し、牧師の道へ。「まずは福音を正しく理解してもらい、教会の柱になってもらう信徒を育てることが先決」と聖書の学びに重視をおいて牧会してきた。そんな「内向き」でスタートをきった教会だったが、自然と礼拝参加者は増えていった。「福音を正しく理解していくと、その恵みを外へ伝えずにはいられなくなるものです。ですから、聖書の学びをはじめた信徒の家族や親類、知人など比較的に関係が近いかたがつぎつぎに教会へと導かれていきました」とユン先生は語る。教会は、十七年前までは、六畳二間のアパートを賃貸していたが、契約解除。二千坪の敷地と新会堂を購入。信徒数も増えていき、聖書の学びのプログラムを何度も学ぶ信徒もいた。「信徒の信仰が強まってきているのがはっきり分かり力強かった。信仰的にも経済的にも、人的にも整ってきていました。そして、いよいよこの信徒たちと共に二千十一年四月から日立の町へ福音を熱心に伝えていこうと思っていた矢先の震災でした」
教会の思いと主の願い
「信仰が試された人はいても、揺らぐ人はいませんでした。日ごろから培っていた聖書のみことばに支えられたのでしょう」。震度六強と最大級の揺れが襲い、教会堂をはじめ信徒宅も被害を受けた中、「むしろ一致団結できた」というほど落ち着いていたという。震災後、町ではライフラインがすべて止まったが、教会員で食料を持ち寄ったり、山に真水を汲みに行ったりと全員で助け合って乗り越えた。震災二日後の礼拝メッセージでは「復活の信仰」を信徒とともに確認。その後毎週の木曜祈祷会では、聖書の語る「苦難」について学び祈りあった。「苦難は恵みのときでもあります。私たちの信仰が試され、そして成長するために必ず主が通らせる道なのです」
韓国にいるユン先生の家族や親類はこぞって「日本はもうダメだ。帰ってこい!」と再三求めたという。「家族の気持ちは痛いほど分かりました。しかしそれはできなかった。私は日立での宣教を主から任されているという確信があります。私は、この日立で骨を埋めます」と断った。
ユン先生は、なぜこのタイミングで震災が起きたのかも祈り、考えたという。「私たちの教会は順調に成長してきました。大きな敷地にキレイな会堂。信徒数も増えて、経済的にも祝福されてきていた。その中で、どこか私たちに『自分たちの力でやったんだ』という高ぶりのようなものがあったのかも知れません」という。また、「今回の震災を通して私たちの中でまだ足りない部分を主が補ってくださるため、『あと一年待て!』と出発するための充電期間を設けられたのです」と語る。
震災後すぐの六月と七月に、教会ではチャリティーイベントを数回行った。地域の人を招き、無料で韓国料理を振る舞い、集まった義援金を被災地復興へ送金した。「信徒の行動に驚きました。自分たちが被災者でもあるにもかかわらず、暑い中、汗だくで少しでも質の高い『招き』をしたいと準備していました。まさに愛の実践です」。多くの人を招くため、さまざまな配慮をした。また、信徒の中には「本場の味を届けたい」との気持ちから韓国の焼き肉店へ二日間の修行へ行ってきたかたも居たという。
「私たちは自分たちのしてきたことを決して過大に公表したり、よく見せようとは思っていません。このチャリティーイベントにしても多くの持ち出しもありましたし、信徒の苦労もあった。でも、正しいことをしていれば主から祝福が与えられるのです。私たちはそう信じてできることをしたまでです」
すべては「益」
「さあ、いよいよ外へ福音を伝える年です!」。
教会では、壊れた教会堂や周りの土地を修復するための予算を立て、段階的に修復した。修復するだけでなく、地域のかたが利用できるようにと「知恵」を出しあった。そして、まずは敷地内にグラウンドを作り、ゲートボールやソフトバレーボールなどで使用できるように整える工事を行った。また、若い世代も使用できるようにと、バスケットゴールも設置。修復されキレイになった会堂では今後ミニコンサートなども企画している。「この一年は神さまがくれた本当の意味での成長の年でした。信徒も一致でき、復活の主に信頼するということも学べた。すべては私たちの益のためだったんです」とユン先生は語る。
震災で倒れた十字架は、再び教会堂の上に建てられ日立の町を見つめている。
光健康教育院の開院に伴い、旧事務室を移設したプレハブ建屋を改装し、『光健康室』を作り、年月、温熱ドームを2台購入、設置いたしました。以下、炭素温熱ドームについての詳細説明です。
東洋・西洋医学でも治りづらいガン、アトピー、うつ、リウマチなどの病気。坐骨神経痛、五十肩、腰痛、肩こり、ひざ痛などの痛みの病気。冷え性・低血圧が原因で起こる内臓病。生理不順や更年期障害、子宮筋腫などの婦人病。高血圧、低体温、糖尿病などの生活習慣病。パソコン病、花粉症などの現代病など、これらの病気に効果があると言われています。
炭に熱を入れると遠赤外線で肉や魚の内部に熱が通り、美味しく焼けることは広く知られています。この原理を応用してつくられたのが炭の輻射体を使った炭素温熱ドームです。炭は人間の生態(炭酸化合物)と同じ有機物であるため、岩盤やセラミックなどの無機物から発する伝導熱(物と物とが接して直接伝わる熱)とはちがい、細胞と共鳴共振して伝わる輻射熱(物と物が離れていても伝わる熱)ですから、体の芯から柔らかく、しかも強力に温めることができます。
ダイオキシンや鉛、農薬などの有害物質は水に溶けず毛穴の奥にある皮脂腺の中の脂に溶け込んでいます。従って、サウナやお風呂での通常の汗(汗腺からの汗)ではなかなか排出できません。ふつうは皮脂腺からの汗をかくには30キロ近いマラソンを行う運動量が必要だといわれています。しかし炭素温熱ドームでは、30分横になっているだけで、誰にでもラクラクと皮脂腺からの汗を出し、デトックス効果を得ることができます.炭素温熱ドームでかいた汗を分析したら(1999.12.19島津テクノリサーチの調べによる)ダイオキシン、活性酸素が含まれていたそうです。岩盤浴や他の発汗法でダイオキシンが検出された結果はありません。これだけでも、炭素温熱ドームの効果が証明出来ます。
炭の遠赤外線は強力かつマイルドに体に作用するので、大量に発汗しても疲れません。むしろ使用後は、充電したバッテリーのようにエネルギーパワーを注入して気力と体力をアップすることにつながって、元気がみなぎってくる実感を味わうことができます。
現代を生きている多くの人々は、医師や病院から出されている、さまざまな薬に依存して薬づけになっている人が増えつづけています。人間は加齢とともに、腎臓・肝臓の機能が衰えます。そのため毎日、飲んだ残薬を排出できず、体内に蓄積されます。これが薬の副作用とともに、さらに体内を汚染して、症状を悪化することになります。炭素温熱ドームによる輻射温熱療法は、ダイオキシンや有害物質とともに薬による副作用の緩和や残薬をも排出して、身体を浄化してくれるという、大きな役割を果たしてくれます。
炭素温熱ドームを高温度に設定して、30-45分間入ると、大汗(玉の汗)をかきます。皮脂腺からの汗をかくことで、皮脂腺の中に溶けていた有害物質もデトックスされ、皮膚もスベスベになります。
炭素温熱ドームを中温度に設定して、30-45分程入ります。するとからだ全体があたたまり、しかもからだに溜まっていた不必要な水分が排出されるのでからだが軽くなります。疲れをとりたいときの使い方です。
炭素温熱ドームを低温度に設定して、服やパジャマを着たまま30分以上はいっていると、からだにエネルギーが注入されて、元気がみなぎってきます。また、低温度にしたまま寝ていると、起きたときには全身があたたまっていて、エネルギーが補給されたように元気になっています。ガンの方や体力が弱い方、元気がない人には最適の使い方です。
光健康教育院では、健康の維持・回復ために、西式六大法則を用いています。
海側の眺めのよい部屋(光室)と厨房&食堂(マナ室)、ウッドデッキをご利用いただけます。誕生日パーティ、語学教室、生花教室などにお使いいただいています。
どなたでもご利用可能です。ご利用の際は教会までご連絡ください。
●光室
12.7坪(約25.2畳)エアコンあり
20-50人で使用可能。
アップライトピアノ1台
ビデオやPCに接続可能なTV1台(TVアンテナなし)。
DVDプレーヤー1台
会議用テーブル6脚と食事用テーブル1脚
パイプ椅子多数
シャワー室、脱衣室、洗面台付き。
●マナ室
16.36坪(約33畳)エアコンあり
20-40人で使用可能。
・厨房スペース4.9坪(約9.8畳)、
・漬物工場スペース1.6坪(約3.2畳)、
・テーブル席スペース9.9坪(約20畳)
厨房スペース、漬物工場スペース合わせて、シンク4個、IHガス台2個、レンジオーブン1台、電子レンジ1台。
その他調理器具、食器(約50人分)などがあります。
●ウッドデッキ
眺めのいい景色が拡がります
●その他の設備
トイレ、駐車場(100台)完備
●レンタル条件
使用料、駐車場:無料。光熱費:実費。
使用可能時間:月曜日-金曜日。
注意:営利目的ではないこと。禁煙・禁酒を厳守。
施設、道具、使用料無料です。ご利用の際は
屋外パンポンコート | (2.5m×7.0m)2面、パンポン道具一式完備 |
屋外ゲートボールコート | (15m×20m)、ゲートボール用具一式完備 |
屋外バスケットボールゴール | 1台3on3等用 下面はアスファルト |
室内卓球台 | 1台 |
2012/4/29に教会メンバーで体育会を行いました。4チームに分かれて3種目で競いました。
料金は260円、時間は約20分です。
大甕駅バス乗り場の場所は-⇒改札前階段を下りてロータリーの左側の日立電鉄バスのりばです。
⇒90 太田馬場 - 大みか駅【経由】太田馬場-太田駅-はたそめ入口-真弓-石名坂-大みか駅 または、94 大みか工場 - 真弓ヶ丘【経由】大みか工場-大みか駅-南高野団地-真弓ヶ丘
にご乗車ください。
⇒路線90と94ともに"赤羽根団地バス停"です。
バスを降りてから教会まで⇒路線90と94でバス停の位置が異なりますが、どちらも教会まで約500m(徒歩6分)です。ただし少々坂道です。
90バス停から教会までの地図
94バス停から教会までの地図
⇒日立電鉄バスのHPはこちら