平成16年6月掲載
5月の穏やかな日、月遅れの花祭り法要の後、法光寺の本堂に珍しい二胡(胡弓)の音色が響きわたりました。最北端の宗谷岬より、えりも岬にやってきて下さったのは天徳寺の副住職であり、二胡奏者の山本大雲師。お話を挿んで、ギターや自作の歌も披露してくれました。

感性が鈍くなってきた私にとって、若い方のお話を聞くことは刺激になります。凛とした姿勢を見ているだけで、嬉しく楽しくなります。

山本大雲師の経歴は、お坊さんとしては変わり種。異色と言ってもよいでしょう。昭和43年稚内のお寺に生まれましたが高校を卒業後、名古屋芸術大学に進み洋画を専攻。大学時代はバンド活動にのめり込んでいたそうです。卒業後名古屋の建築デザイン事務所で働いていましたが、思うところがあって休職し、山形県善寳寺で修行。その後、復職しましたが二胡の魅力にとりつかれ夢中になって勉強。2000年末に帰郷し、僧侶として生きる道を定める一方、ボランティア活動として老人ホーム、難病患者宅や障害者施設で演奏を続けています。
端正な黒衣姿に、二胡が良く似合うエネルギーに溢れた多彩な青年僧です。

山本大雲師(前列中央)を囲んで
自身のホームページのプロフィールに、山本師はこうコメントしています。
いろいろな人との出会いを通じて、本当に多くのことを学ばさせてもらっています。人は沢山の出会いと別れをして、喜び、苦しみ、悲しみ、怒り、すべてを乗り越えて大きくなっていくものだと思っています。今、私たちがここに存在していること自身、すばらしいことなんです。時には苦しいこと、辛いことも沢山あるでしょう。でも、それも経験できること自身、すばらしいことなんです(後略)
 師の演奏を聴きながら私は考えました。現代のお寺が、人と人との出会いの場所になっているだろうか?東正寺様のように積極的な活動を行い、開かれたお寺もありますが、大部分はそうでは無いようです。建物を立派に荘厳し、仏具を整える事で嬉々としている僧侶もいます。「使うと、汚れる」と、露骨に嫌な顔をする住職や寺族さえもいると伺います。
本来は法を説くための器が、空っぽの、ガラン(伽藍)堂になっています。
良い音声、鐘の音、弦の響きが、こんなに素晴らしいのに…
そんなことを考えながら、集まったお檀家の皆さんの顔を見ると、珍しい二胡の演奏に顔を輝かせて、聴き入っています。
山本師の演奏を聴きながらもう一つ私が考えたのは、音楽の持つ力「癒し」ということについてです。

ヴァイオリニストで、ボランティアの演奏もさかんに行っている千住真理子さんが、ご自身の体験を書いています。
ホスピスでの演奏に向かおうと電車に乗っていた時「千住さんですね」と、初老の女性が話しかけてきた。「つい先日まで夫が末期ガンでホスピスに入っていた。音楽が好きなので、生演奏が最期に聴けると楽しみにしていたのに、先週逝ってしまった。それから一歩も外に出ずにいたが今日勇気を出して散歩に出たら、偶然千住さんが目の前に坐っていて、そういえば今日だ!」と思い出した。そして、「これ貰って下さい。夫の大好きだった草花です」と大切に抱えていた花束を手渡し、何度も会釈しながら去って行った。
花束を抱えてホスピスへ向かった千住さんは、演奏の前に患者さんに話をした。そして「この場において一緒に聞いてほしい」と言うと、みんなが「ああ、Tさんだ。花になって帰ってきたね。よかった、よかった。これで一緒に聴ける」と口々に言って拍手で賛同してくれた。
『聞いて、ヴァイオリンの詩』(時事通信社)の一節ですが、とても心に残っています。
どんな選りすぐった言葉も、死の床にある人の前では無力に感じられます。言葉にのせられない「想い」を、秀れた音楽は届けられるのではないでしょうか。二胡の大陸的な、それでいて何となく懐かしく優しい旋律。安らぎのひと時。
「病や老い、死の恐怖と戦う人々に、ずっとこの響きを届け続けて欲しい。」ゆったりと流れて行く時間の中で、私は山本師に密かに、エールを送っていました。