平成27年5月掲載
 <三覆して後に云へ>

 「年をとるとせっかちになる」とは、昔から言われることです。若い時は、のんびりとした性格の人でも、年を経るにつれ次第に性急になるということは、良く聞きます。元来せっかちである拙僧も、還暦を過ぎて少し落ち着くかと思えば然に非ず、愈々その性が強まったようです。「人の話をじっくり聞かない」「最後まで待たず口を挟む」と、家人にたしなめられる日々です。
 気が急いても、少しの間をとり、呼吸を調えてから行動する。言葉を出すときも、それが本当に
この場に相応しいことかどうか、確かめてからにする。そのような癖を意識的に習慣づけることが、大切なのでしょう。
 「少しの間をとる」ことによって事態が大きく変わることが多々あります。スポーツの試合を観戦していると、そんな場面に良く出あいます。相手に良いプレーが続き、逆に自分が焦ってミスを連発し集中力を失いかけたときなど、力のある選手は上手に間を取り勢いを引き戻します。
 先日亡くなったアメリカの心理学者メアリー・ヘンドリックスさんは、そのことを『革命的な休息』と、表現しました。メアリーさんは言葉にする(あるいは行動する)以前に、「心や身体と相談する間(short pause)」をとらないと、「言葉が体験を殺してしまう」と、戒めているのです。

 さて、道元禅師様はこのことについて次のようにお示しになっています。
示ニ云ク、「三覆(みたびかえそう)して後に云へ」と云フ心は、おほよそ物を云ハんとする時も、事を行はんとする時も、必ず三覆して後に言ひ行フべし。先儒(昔の儒者)多くは三たび思ひかへりみるに、三たびながら善ならば言ひおこなへと云フなり
(『正法眼蔵随聞』 五巻の八)

 「三度考え直しなさい」という意味は「幾度も考え直しなさい」ということです。
 「言葉に出す前に考え、行いにいたる前に考え、考える度に善い(と確信できる)なら、言動にうつすべきだ」というのですね。
 短慮な拙僧にとっては、耳の痛いお言葉です。
道元禅師のお弟子たちも、同じようなあやまちを犯すことがあったのでしょう。さらに加えて、
 「自分で考えることも、言葉にすることも、自分では気づかない悪いところもある筈だから、まず仏教の教えに適っているかどうか省みて、自分にとっても他の人びとにとっても利益があるかどうかを考え、よくよく反省した後に、善いことであれば行い、口にすべきである」と、仰っています。仏弟子の基本姿勢を、道元禅師様は親切に正してくれているのです。

 <一耳(いちに)は説き一耳は聞く>

 「話上手は聞き上手」と良く言われます。
しかし説法者の中には、「話上手の聞下手(ききべた)」と、言われかねない人も、存外多いのではないでしょうか?自分の言葉に過信する人は、他人の言に耳をかさない弊に、陥りがちです。
しかし、眞に優れた人は、相手の言葉に耳をそばだて、相手が欲している言葉を的確に解き明かしてくれるのです。 
 先般二十一回目の来日をし、各地で講演や法話会を実施されたダライ・ラマ法王は、その最たるおひとりに違いありません。
四月二日に御到着されると、翌三日の札幌をかわきりに、日本各地で精力的に活動を行われました。その合間に、沢山の人びとに面会され、常に愛語をもって語り掛けて下さったのです。
四月八日には曹洞宗の若い僧侶に対して講演をし、彼らの質問に答えられました。
 そして十一日には、横浜市鶴見区の大本山總持寺様で「平和へのメッセージ」と題して、お話されたのです。この日は曇りがちな天候でしたが、早い時間から熱心な方々が、そのお出ましを待ちわびていました。(拙僧も遠くからお姿を拝しました)参加を申し込まれた一般の方々は限定三百人。その他に鶴見の学生さんたちや、僧侶ほか約千名を超える聴衆が聞法され、その温かいお言葉に魅了され続けました。
 最後の質疑応答では、生と死に関わる質問が多く寄せられました。
「家の中から笑いが消えました」と沈鬱な表情で打ち明けた女性に対し、法王は即座に「チベットの薬を差し上げましょう」とお答えになったのです。この時質問をされた女性はその瞬間、雪が解けるような笑顔になったということです。

宗教の目的は、美しい教会や寺院を建てることではなく、寛容、高潔、愛といった肯定的な人間の資質を培うことにあります。
ダライ・ラマ14世『許す言葉』
         (イースト・プレス刊)