MAKOTO BOX

旅日記
趣味のことなど
写真館

心の旅
ギターのことなど

まことのお店

ディスコグラフィー

スケジュール
プロフィール
まことの写真

まことクラブ
リンク

歌声ペトラ

まこと通信
メール

ずいぶん昔のことから書き始めています。気が向いたら読んでください。
忘れられないことや忘れてはいけないことをいろいろ・・・・。
最新の掲載は 
遊ぶ会 ペトラ通り 1000曲 神様の絵の具 
永遠鉄道 生かされて HEAVENLY


音符アイコン父親を知らずに
音符アイコン母は強し
音符アイコン登校拒否
音符アイコンギターに出会って
音符アイコンブラスバンド
のほうず
ミュ−ズ
高校中退
前座&ギター教室 
旅立ち
阿佐ヶ谷北4丁目
音符アイコン仙台へ帰る
ピクニックオールスターズ
ポパイ
DJ
HANK HANTEN
レコードデビュー
音符アイコンスタジオミュージシャン
出会い
音符アイコン出会いのコンサート
音符アイコン私とキリスト
新しい歌
教会
デュオ
亜希子1
亜希子2
人に向かって
遊ぶ会
ペトラ通り
1000曲
神様の絵の具
永遠鉄道
生かされて
HEAVENLY







父親を知らずに
 私が1歳半のころに、父は仕事先からの帰りに倒れ、亡くなりました。ですから私が知っている父は写真の中の父しかありません。草原のようなところで帽子をかぶって気取っている写真を、私は気に入っています。

 父が残した不思議なノートがあります。それは、楽譜を清書したノート。父と音楽との関わりはわかりませんが、私と父とがつながっているなと感じさせられるノートです。

 父がいないことで淋しかったことを考えると一つのことが浮かんできます。それは小学校の生徒名簿の中の父親欄が空白なこと。それを見ていると自分の心の中にもこれぐらいの空白があるような感じがしたものです。

 それと運動会の時などに、他の家族の姿を見て淋しくなることがありました。T君のお父さんは身体が大きくて眼鏡をかけ、ワーゲンのビートルで息子を迎えに来ていました。なんかとってもうらやましかったのをおぼえています。

 小学校の4年生ぐらいだったでしょうか、親友のK君のお父さんが広瀬川に釣りにつれて行ってくれました。その日は嘘のようにフナが釣れて有頂天になって帰ってきたのですが、今思えばK君のお父さんが僕に一番良いポイントで釣らせてくれたことがわかります。なぜならその日は、K君もお父さんもぜんぜん釣れなかったのです。

 父親を亡くしたことで、素敵な優しさにもたくさん出会いました。
このページの最初に戻ります。
母は強し
 女性は強い、特に母は強い。私の母は今年81歳になりますが、今でも自転車に乗り、買い物にでかけます。気丈で少し茶目っ気のある母です。

 しかし女手ひとつで子供を育てるのは並大抵のことではなかっただろうと思います。何年かに1度、昔の苦労話をしてくれることがあります。男のように鉄道の工事現場で土を運んだこと、近所の家にお手伝いにいったこと、寝ずに働いたこと、僕が小学校1年の時に突然高熱が出て、毎晩暗い道を僕を背負って病院に連れていったことなど、きりがありません。

 母はいつでも私の味方でした。学校を休んでも、勉強ができなくても、問題を起こしても、いつも私の味方でした。甘やかされて育ったといわれるかもしれませんが、そのおかげで今があるなと思います。母の常識は子供に関する限り、非常識です。それは命を身ごもった女性にしかないものかもしれません。それは与えつづける愛情でした。

 今母は小さくなりました。でも胸を張って語れる人生を生きてきた母を、僕は誇りに思います。
このページの最初に戻ります。
登校拒否
 小学校4年のとき、ひとりの転校生がやってきました。彼と親しくなりたいと考えた私は、ひとつのいたずらを思いつき実行したのです。そうすれば楽しく笑い合え、友達になれるに違いないと考えたのです。

 そのいたずらとは、彼が椅子に座るときに、後ろからちょっと椅子を引くというものでした。ところが間の悪い人間はこういうところで失敗をします。だいたいいたずらをしようと考えるところがすでに間が悪いですよね。

 その友達はスッテンコロリンと床にこけてしまい、血相を変えて私に向かってきました。そりゃー彼からしてみれば、転校生に対するいじめ以外のなにものでもないですよね。その後のことは憶えていません。

 このことをきっかけにして、対人関係に恐れが生じてしまいました。人と会いたくない、他人が怖い、という精神状態です。やがて朝の登校時、家を出ても途中から引き返してくるようになり、そのうちに学校に行けなくなりました。

 家の奥にとじこっもて、一歩も家から出ない生活をするようになりました。窓も怖くカーテンを閉め切ったままの毎日。

 1ヶ月ほどして教師をしている叔母が訪ねてくれ、色々な話をしているうちに学校に行けるような気持ちになってきました。叔母から学校の素晴らしさを諭されたわけでもなく、学校に行かないと落ちこぼれになると説教されたわけでもなく、みんなが心配しているから行きなさいと説得されたわけでもありませんでした。叔母はただ私のそばで私と話をしてくれただけでした。気がついたら私の心の温度が上がり、重いものを降ろしたような気持ちになりました。そして心が溶けていったのです。

 私は学校に行くようになりました。今まであれこれ考えて怯えていたことや、心配がみごとに消えてゆきました。この叔母には今でも感謝な気持ちでいっぱいです。
このページの最初に戻ります。
ギターに出会って
 登校拒否も終わり、学校に行き始めた私へ母親がごほうびに「なんでも好きなものを買ってあげる」と言ってくれました。その時僕の頭に浮かんだのがギター。以前親戚の家に遊びに行った時、部屋の隅に置いてあったギターに興味をもち、1弦だけで音階を教えてもらったことがありました。そのとき以来僕の心のどこかにギターを弾きたいという思いがあったのだと思います。

 さてギターを買いに行くわけですが、僕の記憶の中では、母は楽器屋さんではなく仙台駅に近い大きなスーパーマーケットに僕を連れていったことになっています。野菜のわきにギターがぶらさがっていたような変な場面が頭に浮かびます。
 そのギターは「青葉」というメーカーのクラシックギターに鉄弦を張ったもので、定価は3000円だったと思います。その当時の3000円は母にとってかなり痛かったろうなと今になって思います。

 ギターを手にして自分なりに遊んでいましたが、小学4年生の手には鉄弦が痛くてたまりません。しばらくしてウクレレを手に入れ、牧伸二さんの ♪〜アーアーアアやんなっちゃった〜♪を歌ったりしていました。確かウクレレのコードブックのようなものでコードをおぼえたのだと思います。

 小学校も卒業が近くなり、ギターを弾き始めました。全て自己流です。教則本もあまりなくて、古賀政男のギター教則本を練習したものです。曲名でおぼえているのが「峠のお地蔵さん」。そんな教則本を開いているのはちょっと変な子供ですよね。

 中学になり、カルカッシの教則本で練習するようになり、ギターピースで「思い出の渚」「トルコ行進曲」「春の海」「アルハンブラの想い出」などめちゃくちゃなジャンルの曲を弾いていました。
 今でも私の作る曲には超ジャンルの傾向があります。
このページの最初に戻ります。
ブラスバンド
 中学ではどんなクラブに入ろうかと考えて、最初に入りそうになったのが卓球部。なぜそんな気持ちになったのか、考えるだけで笑えます。結局ブラスバンドに入ることにし、選んだ楽器がホルン。最初はメロホルンというホルンの入門機種。フレンチホルンよりも管がずっと短くて、音も音程も出しやすい楽器です。

 練習と言えばロングトーンといって、ひとつの音を息が続く限り長く吹くというもの。これはけっこうきつかったですね。吹奏楽器は口がちゃんとできてこないと吹けないので、このような練習を経なければ曲を吹くことは無理です。やがて音程を習い、音の切り方を習い、楽器の音が少しずつできてきます。

 ブラスバンドは行進をすることも多いのですが、マーチの場合ホルンはウンパ、ウンパ、ウンパ、ウンパ、の「パ」のところ、リズムの後打ちをします。これははっきりいってかなり苦しいのです。息をたくさん吸わずに、息をたくさん出さずに、足をあわせながら歩くのは経験したものでなければわからないつらさです。

 3年生になり、楽器もフレンチホルンに昇格し、指揮をするようになり、朝礼の壇上で校歌の指揮をしていたこともありました。

 ブラスバンドに入ったおかげで、今とても役に立っていることがあります。それは楽譜を読めるようになったことです。ほんとうに助かっています。

 高校でもブラバンに入ったのですが、楽器がトランペットになり、あんまり面白くなくなりました。僕の性格に合わないようです。しかもそのブラバンは体育会系で、「おはようございます!」と大声で言う、とか練習の準備は全て走ってするとか、その上、時々ハッパという儀式があり、1年生だけが教室の机の上に正座させられて目をつぶらされた中で、2年生がほうきの柄で机をたたき、大声で叱責する・・・・・・。完全にいやになり退部。

 いったんこうと決めたら即決行するのは今も変わらないかな。
このページの最初に戻ります。
 
のほうず
 「のほうず」とは、中学時代にブラスバンドの仲間と作った最初のバンドの名前です。
 
 男三人のバンドで、僕と荒木俊行氏がギターを弾き、3人が歌うグループ。メインボーカルをとった小野寺和之氏(デラ)は、ボーイソプラノというのか、とてもきれいな高い声が出ました。

’01/07/19に仙台でのライブの後に判明したのですが、「のほうず」は三人ではなく四人でした。この時すでにベースに菅野章君が加入していました。菅野君ごめんね。 


 僕らのレパートリーはPPM(ピーターポール&マリー)やブラザースフォー、キングストントリオなどのコピーと若干のオリジナルソング。この時代に色々な曲をコピーをする中で、フォークギター奏法では華だったスリーフィンガーピッキングに出会ったのです。最初はまったく弾けませんでしたが、練習に練習を重ねて、ある日スリーフィンガーが弾けたときは、するっと長いトンネルから抜けたような不思議な感じがしたものです。
 
 「のほうず」は高校生になっても続き、仙台のほとんどの高校に会員がいた「ATP」というフォークサークルの結成に関わりました。けっこうエネルギーがありましたよね。
 
 「のほうず」は仙台の街中の中学出身(五橋)という雰囲気むんむんで、他の中学出身のバンドを、「僕らは君達とはちょっと違うよ・・・。」という感じで見ていたのではなかったかと思っています。いやな感じだったろうな・・・・・。(実際少しはうまいバンドでしたが・・・今でも少し違うと思っているふしがあるな、いわぶちさん・・・。)

 その頃のオリジナルの詩をご紹介します。この詩は僕にボブディランを教えてくれた荒木俊行氏の詩。曲は僕がつけました。


「出発」

最後の星が流れたら
僕は出よう ひとりぽっちの旅
スーツケースを片手に
僕は出よう 想い出の町を

プラットホームに佇み
僕は乗ろう一番列車に
死んでしまったこの町に
最後の別れを告げて


見知らぬ駅に降りて
僕は歩こう 新しい町
そして心によみがえる
新たな思い

最後のため息がとぎれたら
歩き出そう新しい道を
新しいページに綴られる
新しいことば 
 


 「のほうず」私にとって最初のバンド。今でも他のメンバーとは良いお付き合いがあります。
このページの最初に戻ります。
 
ミューズ
 中学時代からのめり込んでいったバンド活動も、高校に入るとますます本格的になっていきました。

 仙台市内の高校生達が集まって設立したATP(アトプ、PTAの逆)で知り合った佐藤由美子さん(ボーカル)、同じ高校の同級生の佐瀬英之さん(作詞とギター、ボーカル)、「のほうず」でも一緒だった管野彰君(ベース、なぜか-君-という感じがする)と私の4人で結成したのがミューズというグループです。

 今思えば、ぜんぜんタイプの違う4人だったように思います。主に作詞は佐瀬君の担当、「さゆき」というペンネームを使っていたっけ・・・。彼は宝塚系の美男子でいつも首か腕にスカーフをしていました。彼はかなりの数の作詞をし、僕もずいぶん曲をつけました。

 菅野君は仙台のメインストリート、一番丁の金物屋さんの息子。彼の部屋でよく練習をさせてもらいました。今みたいに練習スタジオなんてなかったし、お金もなかったですね。彼はいつも目をクリクリさせて大きなウッドベースを鳴らしていました。菅野君の家で時々御馳走していただいた大雅というお店のチャーハンはおいしかったな・・・。

 佐藤由美子さんは仙台より北の町の出身。寮生活をしていました。はじめて歌声を聞いたとき、そのアルトの声に、これだ!と思ったものです。それはPPMのマリーさんを思わせるような声。詳しいいきさつは忘れてしまいましたが、この4人でバンド「ミューズ」が始まりました。
 この頃、東北放送の「スタジオミドリヤ7」という番組が若者達に人気でした。仙台駅前のミドリヤ7階にあるサテライトスタジオからの生放送に、みんな集まったものです。「ミューズ」はこの番組に出演する機会があり、オリジナルの「シャボン玉」という歌を歌ったところ、この歌にけっこうリクエストがあり、東北放送のスタジオでレコーディングをすることになりました。

 暗い大きなスタジオに入る・・・。少し大人の世界に足を踏み入れた感覚。すったもんだしながらレコーディングを終了。それからは「スタジオミドリヤ7」でその音が流れるようになりました。これが「シャボン玉」の歌詞です。


「シャボン玉」

いつもあなたはシャボン玉
小さな願いもあなたらしい願いだから
いつもあなたはシャボン玉
いつも吹かれるくシャボン玉

向こうがぼんやりシャボン玉
つきぬけてしまいそうなシャボン玉
こわれそうなこわれてしまった
屋根までとばないシャボン玉

作るのよそうかシャボン玉
見えなくなったシャボン玉
こわれそうなこわれてしまった
屋根までとばないシャボン玉

いつもあなたはシャボン玉
つかまえられないシャボン玉
いつもあなたはシャボン玉
そっと消えてくシャボン玉


 この頃、「高1コース」という月刊誌のグラビアに取り上げられたり、ソルティーシュガーと同じステージで歌わせていただいたりもしました。

 そのうちに本格的にレコードを出さないかという話が持ち上がってきたのですが、メンバーの意見がプロになるかならないかで真っ二つに分かれてしまい、活動にも影響がでるようになってしまいました。

 1年ほども活動したのでしょうか、やがて佐瀬君と僕の2人で歌うようになっていきました。そのグループ名がなんと「排泄物」、そしてテーマソングが「バキュームカー」。

 高校3年になり、佐瀬君が正式にミューズの解散コンサートをしようと提案し、河合楽器のホールでコンサートを開きました。超満員の高校生達に送られて「ミューズ」の活動が終わりました。

 菅野君は今は家の事情で苗字が変わり、遠藤君となって、仙台駅前近くのデパートの1階で人気のたこ焼き店を経営しています。佐瀬君は横浜にいるという情報を最後に、消息がわかりません。佐藤由美子さんは今、岩渕由美子さんになっています。
このページの最初に戻ります。
 
高校中退
 バンド活動に夢中になっていた高校生活も3年生になる頃、自分はプロになりたいという気持ちが強くなってゆきました。母親にそのことを告げると、「親戚を説得したらやめても良い」という答えが返ってきました。私の親戚のほとんどが学校の教師でしたので、そこを順番に回らせたら誰かがきっとあきらめさせてくれると母は思ったのでしょうか。 結局3年生の2学期が終わったところで私は高校を中退してしまいました。

 その年の冬、はじめて本格的なアルバイトをしたのが表札売り。その昔、家族の名前が全部入った表札があったのをおぼえていますか?あれを売り歩くのがはじめてのアルバイトでした。

 最初は仙台市内で売っていましたが、「日立でやらないか?」とさそわれ、茨城県の日立に生活の場を移して同じアルバイトをすることにしました。

 日立多賀という町の小さな旅館に逗留して表札を売り歩くというのが仕事。この町の、角を曲がると突然目の前に太平洋が広がったり、高台から見下ろすと工場の見える、そんな景色が好きでした。今でもあの時の、早い春の青空と空気、太陽の眩しさがよみがえってきます。

 ある日仕事中に、ある家のベルを鳴らしたところ、「あ!お兄ちゃん今いいところだからちょっと待って。良かったら一緒に見てゆきな」と家に上げてもらいました。お茶の間のテレビが浅間山荘事件を中継していました。警官が浅間山荘に突入しているところ。これが「今いいところ」の正体でした。

 この時代は学生運動が盛んで、私も反体制の人間だと思ってはおりました。でも私が反対していたのは、ずるずると大人になってしまうことに対してだったように思います。この時代は若者が何かに夢中になることができた、幸せな時代だったと思います。

 アルバイトの方は春で終わりにしましたが、今でも時々、日立に行ってみたいと思います。海が見える常磐線をゆっくり旅してみたいんです。 
このページの最初に戻ります。
 
前座&ギター教室
 日立から仙台に帰り、お世話になったのがNANA企画。NANA企画は仙台のニューミュージックのイベント開催の先駆者的存在の会社です。その関係で前座として出演させていただいたコンサートがいくつもありました。

 そのなかでも忘れられないのが矢沢永吉さんの前座。会場中がリーゼントであふれかえる中に長髪の私が登場。もうブーイングの嵐一歩手前。「女はひっこめ!」のやじに「私は女ではありません」とやんわり喧嘩を買った私、緊張感いっぱいのステージでした。

 ハッピーエンドの前座もさせてもらいましたが、不思議にコンサートのことは何も覚えていないのであります。

 時を同じくして、YAMAHAのフォークギター教室の先生をすることになりました。そのころフォークギターを教える教室はあまりなく、YAMAHAで新しい教室がはじまるのに合わせて私に声をかけていただいたのです。

 最初は100人ぐらいの生徒がいました。大体が未成年の私より年上のみなさんで、教室を出ると私のほうがみなさんから御馳走になっているというおかしな感じでした。

 はじめての教室は順調にスタートしましたが、やがて脱落者が出はじめます。ギターはけっこう指が痛くなったりしますので、好きじゃないとなかなか続きません。

 とりあえずの目標は1年以内にFのコードが弾けるところまでゆければ後はなんとかなるようです。

 生徒の中のSさんはギター教室との関わりの中で好きな音楽で生きてゆきたいと思い、脱サラをしました。今では各種イベント制作や音楽スタジオの経営をされています。吉川団十郎さんやハウンドドッグのデビューなどに深く関わられたようです。

 これから先、何が起きるか自分自身にもわからないような、ワクワクする時代でした。
このページの最初に戻ります。
 
旅立ち
 ビクターからレコードを出すという話があり、19才の時に私は東京へ旅立ちました。新幹線のなかった時代です。白い建物だった仙台駅に母親や友人達が見送りにきてくれました。それなりに、華々しく、特急ひばりに乗って上野を目指したのです。

 東京での生活、まずは友人の植本秀明さんの家にお世話になりました。MAKOTO BOXを隅々まで訪ねてくださった方はこの植本秀明さんの名前に見覚えがあるかもしれません。LINKの中の有限会社スパイス・コンテマンが植本さんの会社です。

 ビクターでのレコードデビューの話は、話が進むにつれてフォーク演歌の歌手で売り出そうということになりました。私はニューミュージック系でやりたいと思っていたので、結局この話を断念。しかし仙台に帰るにも帰れず、東京で生活をすることにしました。

 とりあえずはじめたのが電話工事のアルバイト。夕方に仕事がはじまり、それは翌朝まで続きます。けっこうな力仕事でしたが、僕は力もやる気も誠実さもない男だったので、ただその場で掛け声をかけていただけ、あんまり役に立っていなかったことを反省しています。

 ある日、東京湾の夢の島に工事にでかけたことがありました。真夏の夢の島は焼けるようで、すぐ上を羽田に降りる大きな旅客機が轟音を立てていました。(イメージがはちみつぱいのレコードと重なってしまう)軽い脱水症状になり、昼食をほとんど食べることができませんでした。

 この時代の私は、かなり陰険な感じの男でした。ある音楽事務所のプロデューサーの方が、私の歌を「優しい歌」と評価してくれました。でも自分の中に優しさなどないことを知っている私が「自分はそんな男ではありません」と話すと「それじゃ優しくなりたいと思ってるんだね」と言葉が返ってきました。

 今でもこの言葉を時々思い出します。それは自分のことを良く評価してもらっている時、自分がその評価に値しないことを自分自身が良く知っているからです。今の私は神様から新しい服を着せてもらっていることに感謝するばかりです。

 しかしこの若い時代、将来自分がクリスチャンになるなどとは少しも想像することができませんでした。
このページの最初に戻ります。
 
阿佐ヶ谷北4丁目
 どれぐらい植本さんの家にお世話になっていたのでしょうか。しばらくして私は自分のアパートを探し始めました。そして住みついたのが中央線の阿佐ヶ谷北4丁目の3畳のアパートです。ちなみに家賃は7000円でした。

 3畳といってもあなどるなかれ、玄関があり台所があり、窓が2面あり押入れがありトイレがあるのです。すごいでしょう。ただしトイレは隣の住人との共用。トイレのドアが私の部屋と隣の部屋に付いているのです。ですからトイレに行くのは自分の部屋のトイレのドアを開け、隣の部屋のトイレのドアの鍵を閉めるということになるのです。変わってるでしょう。もしもトイレを出る時に隣の部屋にかけた鍵を解除し忘れたら、隣の住人はトイレに行けなくなるのです。

 この部屋に住みはじめた時、何も家財道具がありませんでした。持っていたのはシーツ1枚。夜寝る時、最初はシーツを敷いて寝ていたのですが何か落ち着かず、シーツをかけて眠るようにしました。このほうが眠れました。試してみてください。

 この時代の私は髪を腰まで伸ばし、ロンドンブーツという高い靴をはき、穴の開いたジーンズをはいていました。今では想像できません。

 阿佐ヶ谷という街は「ガロ」という前衛漫画?の世界に登場してきそうな雰囲気のある街でした。時々駅のそばにある「吐夢」という小さなブルースの店に出入りしていました。

 阿佐ヶ谷での暮らしはゆっくりと僕の心を蝕んでいきました。いつも自分以上であろうとし、そうでなければ自分の価値などないと思っていました。難しい言葉を話し、難しいことを考えることにしていました。

 何人かの友人もいましたが、そこは安心できる場所ではなくなりました。時代を切り裂くように生きて、燃えて、花開くはずが、現実は大きくかけ離れていきました。心は空しく、淋しく、ひとり酔っ払う夜が多くなっていった私です。

 年末に仙台に帰ったりしましたが、そこにも自分の居場所がないように感じて、誰もいない東京へ戻って行く私でした。大雪になった日、特急ひばりが何時間も送れて、夜遅く着いた雪の東京が今でも目の前に広がります。
このページの最初に戻ります。
 
仙台へ帰る
 阿佐ヶ谷時代の終わりのほうは、半分ノイローゼのようになっていた私でした。東京に自分が居る場所を見つけることができなかった私は、仙台に帰ることにしました。大きな挫折感を抱えて帰る仙台。音楽仲間に会うのはきつかったです。仲間も帰ってきた岩渕にどういうふうに言葉をかけてやれば良いのかと重い気分になったことでしょう。

 自分の中では、ギターがうまく、歌が作れ、歌える自分は友人達の先頭を切って進んでいなければならなかったのです。自分の弱いところ、本当の自分の姿、現実を受け入れることができない自分。長かった髪を短く刈り、毛糸で編んだ緑の帽子をかぶり、人目を避けるような目線の私でした。

 仙台でもアルバイトをしながらの生活がはじまりました。今でいえばフリーターだったわけですよね。一番丁でサングラス売りをしていた時には、小学校の担任だった星先生が「まことちゃんが、こんなことをしている」と、涙ながらに心配してくれました。広瀬通りにある、そばの神田さんにもお世話になりました。立ち食いそばのお店なのですが、カウンターの中の私は中華のコックさんにしか見えませんでした。

 故郷で私は仲間に囲まれ、歌を歌いながら少しずつ元気になっていったのです。 
このページの最初に戻ります。
 
ピクニックオールスターズ
 歌いつづける中で出会った仲間で結成したのが「ピクニックオールスターズ」。メンバーはキーボードに石川望氏、ドラムに横山邦博氏、ベースが佐藤愛一郎氏です。ある意味で今のぺトラストリートに似ているようなグループでした。それは、それぞれのメンバーの音楽的ルーツや経験が違う点です。

 石川望氏は私よりも年上のクリスチャンです。こう書くと、ものすごくまじめそうなイメージになりますが、本人はまったくそうではなく、ひとことでは言えない味の持ち主です。フェンダーローズの鍵盤を叩きながら歌う、レオンラッセルの「ソングフォーユー」はなかなか圧巻でした。今思うと望(のぞみ)にはかげでいっぱい助けてもらったり、励ましてもらったりしていたと思います。しかしこのころの私はそんなことはまったく気にかけずに勝手なことばかりしていたよね(少し反省と謝罪モード)。

 横山邦博氏は「クンポ」と呼ばれ、みんなから親しまれるというか怖がられるというか、そんな人でした。まず外見がアイビー系、わかるかな?髪はリーゼントで、ジーンズは身体にぴったしのスリム。さりげなく肩で風を切って歩くその姿は、知りあいじゃなければ声はかけられないという感じの人物。叩くリズムは妙に切れ味が良かったですね。余計な音がないというか、鋭角的というか、なかなか勢いがありました。

 ベースの佐藤愛一郎氏はベースの初心者で、どこからどうして一緒にやるようになったのかわかりません。結構スパルタって感じでしごかれたよね。でも愛くるしい?マスクの持ち主で人気がありました。後にセンチメンタルシティーロマンスに迎えられて、プレイをしていたこともあります。噂ではセンチの中野督夫さんのご子息と愛一郎君のご子息が東京でバンドをやっているらしい・・・・。

 ピクニックオールスターズは上手いグループというわけではないのですが、不思議な魅力がありました。きっと身の程知らずで勇気があった(それはばかということかな?)のでしょう。ピクニックオールスターズが演奏をはじめるとはなやいだ空気になったものです。この時代、私は白いストラトキャスターを愛用していたっけ。タイトなドラムにフェンダーローズ、シンプルなフェンダーのジャズベー、と聞けばそのサウンドがおのずと想像されるのは私だけでしょうか。
このページの最初に戻ります。
 
ポパイ
 このポパイはあのポパイではありません。仙台市内の夜の町、国分町にあったライブパブみたいなお店の名前です。100人ぐらいは入れる大きなお店でした。ピクニックオールスターズはこの店で演奏をすることになったのですが、はじめるきっかけはまたもやおぼえていません。ひとつだけおぼえていることは、なんでも一度はやってみようという好奇心のようなものが旺盛だったことです。この時、愛一郎君はまだ未成年だったと思います。よくもまあはじめたものです。

 演奏曲は80%がオリジナルで残りはそのときに流行っていた歌。「いちご白書をもう一度」を歌っていたことを思い出します。ステージの合間には店内に「メリージェーン」が流れていました。時代がしのばれますよね。

 デビューシングルになった「ウイスキードライブ」はこの当時から人気の曲で、夜もふけてくるとお客さんがフロアに集まり踊りだしたものです。その主役は「コーチャン」という男性。これまたリーゼントにきめた踊りのかっこいい人でした。

 ポパイでの夕食は、楽屋というよりは倉庫というようなところに4人が肩をぶつけるような感じで座り、食べました。店からの食事はチキンカツか!と思うと笹かまぼこのフライだったりして、極限まで食費をおさえたメニューでした。

 食事が終わると愛一郎君のベースの練習をよくしていました。リズムが悪い!とか、指から血が出るまで練習しろ!とかけっこう体育会系だった時代もあるのです。

 ピクニックオールスターズはどれくらい続けていたのでしょうか。センチメンタルシティーロマンスの前座として演奏したり、いくつかのエポックはあったのですが、多分1年半ぐらいしか活動しなかったと思います。多分また私のわがままと非道なふるまいにより解散することになったのだと思います。なんだか反省文を書いているような気持ちになってしまうな・・・・。
 でもまさにそんな私だったのです。実は今でもこのメンバーには裏切ったというような後ろめたさをもっている私です。本当にごめん。

 何か「1番にならなくちゃ」というような焦りというか情熱というかが強かったりして、歌のためならば何がどうなっても良いような感覚で生きていました。そしてどんどん何かがどうにかなっていくわけです。
このページの最初に戻ります。
 
DJ
 NHK-FMの土曜日の枠にFMリクエストアワーという番組がありました(今もあるかな)。午後3時から6時までの3時間を音楽とお話でつづるというわけですが、この時間はそれぞれの地方局が独自に制作をしていましたので、それぞれの局の個性を出して番組作りができる時間でもあったのです。

 その当時の新企画として、スタジオをオープンにし、リスナー参加番組にするという計画がありました。ちょうど私がギターの弾き語りができるということでディスクジョッキーのひとりに加えていただくことになったのです。

 なにせディスクジョッキーなどまったくはじめてのことで、どうしていいのかまったくわからずのスタートになりました。3時間の枠を1時間づつの3つのセクションに分けた内容で番組スタート。メインのDJはNHK放送劇団所属の坂本益夫さん。そしてアシスタントにオリーブ(この方は中学校の同級生でした)。このお二人に全面的に助けていただいて、なんとかごまかしごまかしやっていたというのが正直なところです。

 私がひとりで受け持ったのが最後の1時間。タイトルは「岩渕まことの獣ジョッキー」。すさまじいタイトルでございます。その内容ですが、音楽的にはリクエストにお答えすることと、日本のロック、ニューミュージックの紹介。そしてこのコーナーの目玉がリスナーの詩に即興でメロディーをつけ、歌うというもの。なんせいいかげんな内容の番組(私のせい)だったので、おかしな詩がいっぱいきたっけ・・・・。私はぶっつけ本番で曲をつけていました。今思うと大した度胸です。

 番組の終わりは「ガード下の靴磨き」などに代表される日本の古いポップス。日が暮れる仙台の街に、淋しげなメロディーが電波にのって流れてゆきました。

 色々なゲストの方もキャンペーンでこられました。研ナオコさん、浅野ゆうこさん、矢野顕子さん、などなど豪華な顔ぶれでした。中でも印象に残っているのが石川セリさん(井上陽水さんの奥様)。会話の中で「本当に必要としているものだったらそれを得るようにしないといけない」というような内容のことを話されたのですが、その当時お金が無いとか時間が無いとか言って、いいかげんにお茶を濁していた自分が一括されたような気持ちがしました。

 番組は1年程続けさせていただきました。またレコーディングのお話をいただき、DJをやめて歌に専念することにしました。その後を継いだ格好でDJをされたのが「さとうむねゆき」さん。僕がいいかげんにやっていたリスナーの詩に曲をつけて歌うことを、むねゆきさんの誠実な人柄で続ける中に生まれたのが「青葉城恋歌」なのです。

 人間誠実が一番です。坂本さん、そしてオリーブ、本当にありがとうございました。焦りながら続けさせていただいたディスクジョッキーでしたが、今はラジオを本当に魅力的な媒体だと思っている自分がいます。それもこれも番組の中で助けていただいた皆様とリスナーの方々のおかげです。
このページの最初に戻ります。
 
HANK HANTEN
 「HANK HANTEN」。何のことやらさっぱりわからないと思いますが、これは半年ぐらい活動したバンドの名前です。メンバーを紹介します。キーボードは2000年に仙台で開いたライブで競演してくれた榊原光裕氏。ベースは咲村氏。そしてドラムがあの稲垣潤一氏です。今思えばけっこう大それたバンドでした。

 私はこのメンバーでデモテープを作ったり、TVに出演させていただいたり、渋谷の屋根裏などのライブハウスで演奏をしていました。ここで面白いエピソードをひとつ。

 いくつかのレコード会社から声をかけていただいていた私は、ある日、六本木にあるワーナーのスタジオでデモ録音をする機会がありました。私たちは楽器をワゴン車に積んで仙台から出ていったわけですが、楽器をエレベーターで上げている途中、ドラムのバスタムの足がエレベーターのドアの隙間から落っこちてしまいました。慌てる稲垣氏。しかし結局その足を取りに行くことはできず、椅子の上にバスタムを置いてレコーディングをしました。僕の東京での第2のスタートはこんな風に始まっていったのです。

 その後の稲垣氏の活躍は皆さんご存知の通りですし、榊原氏は仙台を基点に全国的に活躍中。咲村氏はどうしているのかなあ。若い時代にこういうすばらしいミュージシャンと出会い、演奏できたことは僕の宝物のひとつです。 
このページの最初に戻ります。
 
レコードデビュー
 いくつかのレコード会社から声をかけていただくなかで、最終的に決まったのが「日本コロムビア」。そして私のディレクターになったのが大江田信氏(現在は渋谷のアナログレコード店、Hifiのオーナー)。昨年の秋に久しぶりにゆっくりと話す機会がありました。大江田氏は会うたびに「あの頃はごめんね」と言ってくれるのですが、ゆっくり話してわかったことはお互いに若かったこと、そして私がだいぶわがままを言っていたということ。話がすすむにつれだんだん身体を縮めていく私でした。

 デビューアルバム「SUPER MOON」は、アレンジャーに鈴木茂氏と鈴木慶一氏を迎えてのレコーディング。これだけでも豪勢なレコーディングであることがわかりますよね。スタジオは赤坂にあるコロムビアの第2スタジオ。

 鈴木茂氏はハッピーエンドのギタリストで、私の憧れでした。私が今もフェンダーのストラトを使っているのは茂さんの影響が大きいのです。特に茂さんの「Band Wagon」というアルバムで展開されるボトルネック奏法は最高でした。リトルフィートのローエル ジョージのダイナミックさとは少し違った繊細なフレーズにしびれたものです。

 茂さんによるアレンジは4曲。「風に吹かれて」「ウイスキードライブ」「ムーンライトフライト」「ハニーオレンジ」。このレコーディングのために茂さんが選んだミュージシャンは第一線で活躍中のミュージシャンばかり。スタジオの雰囲気はスマートで、なにか華のある録音になりました。

 具体的にいうと、ベーシックな楽譜があり、そこにそれぞれのミュージシャンのセンスを織り込んでゆくというような感じなのですが、それぞれの音に今が旬、というような勢いがあり、かっこ良さがほとばしっていました。

 茂さんのアレンジで出来上がった音はファンキーで、「ハッピーエンド」「伊藤銀次」「センチメンタルシティーロマンス」等のロックの流れを感じさせる中にも、新しい「鈴木茂・岩渕まこと」ブレンドポップスとしてのヌケがありました(ちょっと評論家風)。「風に吹かれて」「ウイスキードライブ」共にシングルカットをされました。ちなみに「ウイスキードライブ」は放送禁止になってしまいましたが・・・・。

 一方、鈴木慶一氏の方はムーンライダースと一体となってのサウンド作りです。レコーディングのやり方は茂さんとはまったく違い、ヘッドアレンジをしながらサウンドを練り上げていくというやりかた。一晩で1曲を仕上げるというような燃費の悪いペース。何度も明け方の赤坂の街を帰ったものです(自分たちでは夜明けのスタジオと呼んでいました)。守衛さんにもらったバナナをかじったりしながら・・・・。

 ですからレコーディング全体の感じは合宿でもしているような雰囲気で、現在の「Petra Street」と似たような音作りの醍醐味を味わいました。

 特に忘れられないのが「淋しい惑星」という曲のレコーディングのこと。夜もふけた大きなスタジオの中に私とバイオリンの武川さんだけが入っての録音。それはこんな歌詞の歌でした。

「淋しい惑星」

東京湾が遠くかすんで
月の軌道が円を描く
僕はぽっかり宇宙に浮かび
君の窓に顔をのぞかす

今日は宇宙に雨が降る
光の速さで胸をつきぬけたもの
数え切れない顔が笑う
飛んでいっていってしまいたい
淋しい惑星

月の軌道に寝転んで
青い星でも数えましょう
ぽろぽろ涙流す君
回れ淋しい惑星

 この歌を歌う度に私の頭の中には、東京上空から灰色の東京湾を遠く見ているイメージが広がってきます。「僕の淋しさとはこんな淋しさだ」と言いながらどこかへ飛んでいってしまう自分が心の中でヒョコヒョコしています。

 照明を落としたスタジオの中で、僕がF、Fmのくりかえしのアルペジオを弾きはじめ、首からぶらさげたブルースハープに息を吹き込む。その、空気の流れを澱ませるような音の中を、武川さんのバイオリンが切り裂いてゆく。息のつまるような時間が過ぎてゆきます。出来上がった音に慶一氏がシンセサイザーで宇宙からの手紙のような音を重ね、深夜レコーディングは終了。今聴きなおしてもその時のライブ感がしっかりと録音されています。そんな「淋しい惑星」は私にとって大切な作品のひとつということができると思います。

 2000年の12月、新大阪から名古屋まで乗った新幹線の中で武川さんらしき方をお見受けしましたが声をかけるチャンスがありませんでした。「あの時声をかければ良かった」と今になって少し心残りな私です。

 このごろ思うことは、音楽的ベースは昔も今も同じだということ、この変わらない部分にひょっとすると自分らしさがあるのかもしれません。若い時代はそれを壊すことばかりを考えていましたが、今はそれを受け止め、楽しめるようになってきました。

 若い頃と同じように「まだまだだよ・・・」と心の中でつぶやきながら歌を書いている私です。
このページの最初に戻ります。
 
スタジオミュージシャン
 ファーストアルバムをリリースした後で、大江田氏のすすめもあり、やってみようかと思ったのがスタジオミュージシャン。とはいえ、そう簡単にはじめられる仕事ではありません。

 同じコロムビアからアルバムをリリースしていた吉川忠英さんはアコースティックのギタリストとしてもトップの方。まずは忠英さんに私の試験をしてもらってからだということで、大江田氏と共に忠英さんのお宅におじゃましてギターの腕を診ていただきました。

 忠英さんが「これ弾ける?」という感じで、いくつかのフレーズを弾き、私がそれをなぞるのがテスト。やがて「大丈夫じゃないかな」という判断。早速インペグ屋さん(色々なレコーディングにミュージシャンをアレンジする仕事)に紹介していただき、スタジオミュージシャンとしての仕事もするようになりました。

 最初のころのスタジオで記憶に残っているのが「ばんばひろふみ」さんのレコーディング。スタジオに着くとインペグ屋さんからガットギターを手渡されて、ボサノバっぽいリズムの楽曲。私はそんなのまともに弾いたことがない。レコーディングが始まってみると、どうしても合わない部分があり、難航。よくよく見ると楽譜の2小節が前後逆に書かれている所があったためと判明。スタジオミュージシャンとして初心者の私は、その弾けっこないリズムを必死で弾こうとしていたのです。今なら「この楽譜間違ってない?」と言えるのですが。そんな私に「ばんば」さんはどこまでも優しい人でした。

 それから思い出すのが「さだまさし」さんのスタジオ。確か「檸檬」という曲だったと思います。渡された楽譜に私の知らないコードが書いてあるではありませんか。なんせフォークシンガーの私は、分数コードなど知るよしもなく、コードの表記がこんなにあるのかと驚くばかりのそのころ。スタジオを見渡して優しそうな顔のミュージシャンを見つけ聞きにいったものです。町で道を聞くのに比べたら100倍は恥ずかしかったですよ。緊張している私に声をかけてなごませてくれた「ポンタ」さん、ありがとう(こういう時に優しくされたことはいつまでも忘れられない)。

 ところでフォークシンガーのくせにスタジオミュージシャンがまがいなりにもできたのは楽譜が読めたおかげ、楽譜が読めたのは中学時代のブラスバンドのおかげ、今やっていることがいつ役に立つかわからないもんですな・・・。

 しかし、スタジオの仕事は結果的に自分に合っていませんでした。納得できるまで録音ができないフラストレーションがいつのまにか溜まってしまい、それがかなりストレスになっていました。

 音楽的にいえばその当時の私はアンサンブルのことなど何もわかっていなかったのです。技術的な問題もあったと思いますが、うまくいかなかった大きな理由は、私が歌うたいであったこと。歌うたいはいざというときにすっと前に出なければ、という習性ができてしまい、本当の意味でのバックアップ、バッキングはできないと思うからです。 だいたい人とコミュニケーションがうまくできない私が、はじめての人とアンサンブルをするなど大それた考えだったのかもしれません。

 だんだん納得のいかないままお金をもらってスタジオを後にすることが増えてきました。それは私をかなり重い気分にさせてしまいました。私は器用なようでいて不器用。不器用なようで器用。ちょっとやればちょっとできるというのが1番やっかいかもしれませんね。

 後に、歌でもスタジオの仕事をするようになりました。TVを見ていると、よく自分の歌がCMソングで流れてくる時がありました。歌のスタジオは自分にとっては楽しい仕事でした。自作の歌と違ってそれは私にとって良い気分転換になりました。

 そんなCMの仕事を減らすようになったのは、自分の心に大きな変化を感じるようになってからです。それはキリストとの出会いでした。
このページの最初に戻ります。
 
出会い
 今私が住んでいる町は埼玉県狭山市。この町に住み始めて20年以上になります。最初に住むきっかけになったのが2枚目のアルバムを一緒に作った「HOBO'S LULLABY」のメンバー、尾口武氏のすすめがあったからです。大将は秋田出身のドラマー。狭山市の一角に昔米軍の人達が住んでいた町がありますが、その名もなんとアメリカ村。私がはじめて狭山をたずねた頃にはミュージシャンやデザイナーやマンガ家など、アーティストが大勢住んでいました。「細野晴臣」さんの「HOSONO HOUSE」が録音されたのもこのアメリカ村にある米軍ハウスです。現在ではその家もとりこわされて「HOSONO HOUSE」跡地になってしまいましたが・・・。

 細かいいきさつの前に「HOBO'S LULLABY」のメンバーを紹介しましょう。まずドラムが大将と呼ばれていた尾口武氏。ベースが渡辺知倫氏、キーボードが島田陽一氏です。島田氏は後に爆風スランプの「大きな玉ねぎ」の作曲をしたり、いろいろと活躍していることを風の便りに聞いています。

 このグループを結成したのは1枚目のアルバム「SUPER MOON」をつくった後です。最初は仙台を基盤に活動をしていましたが、仙台ではメシが食えないということになり、首都圏へ進出しようということに。ちょうど2枚目のアルバムをレコーディングする頃です。私にとって再び東京を基盤に活動をすることにあまり乗り気ではありませんでした。しぶしぶという気分がどこかにあったように思います。

 そして選んだのが以前大将が住んでいた埼玉県狭山市。はじめてこの町を訪れた時はもうすっかり日が暮れた夜。「なんと暗い、灯りの少ない町だ」というのが第一印象でした。とにかく完全に田舎でした。

 狭山での暮らしはメンバーが一緒に1件の家を借りてのスタート。よくやっていたな・・・。

 狭山に住んでいたアーティストのひとりに小坂忠氏(現在は牧師、ゴスペルシンガーとして活躍中)がいました。僕以外の3人が忠さんのサポートの仕事をすることになり、いっしょにツアーをしたりしていました。そのころの私はたぶんスタジオミュージシャンの仕事をしたり、歌ったりの生活をしていたのだと思うのですが、あまり記憶がありません。

 やがてメンバーそれぞれが独立して生活するようになり、私は忠さんの家のそばに住むことになりました。やがて忠さんの家を訪ねるようになり、そこで知ったのが忠さんがクリスチャンだということ。「僕、実はクリスチャンなんだよ」と言われて「いいっすね」と答えた私でした。

 忠さんがクリスチャンになったきっかけは、愛娘の火傷という痛みを通して。それからは忠さんが時々私の家を訪ねては聖書の話をしてくれました。でもそのころの私は聖書の話を真正面から聞いて反応するような心を持ち合わせてはいませんでした。

 何度か遊びに行っているうちに、忠さんから「今度自分のコンサートを手伝ってくれない?」と声をかけてもらい、私はすぐにOKしました。ところが練習をして向かった先がなんと教会。「教会だなんて聞いてないよ・・・・」と心細い心境になりましたが、そこは青森県弘前市。もう帰るに帰れません。

 その夜に1時間ほど忠さんの隣でギターを弾いたり、コーラスをしたりしてコンサートも無事終了。コンサートの後に私が感じた気持ちを言葉に表すとこんな感じでした。

 「歌を歌ってはじめて良いことをした」。この時に感じた心のうれしさが、今自分がクリスチャンであることの入口になりました。
このページの最初に戻ります。
 
出会いのコンサート
 弘前の教会でコンサートをした後、忠さんが時々声をかけてくれて、お手伝いをする機会が増えてきました。教会関係の仕事だけではなく、CMの仕事や、みんなの歌のプレゼンテーションなどいろいろでした。時には「**市民クリスマス」などという大きなイベントへの出演もあり、私にとっては初めての体験も増えました。

 忘れられないのは横浜での事。山下公園の側にあるホールで開かれた県民クリスマスが終わり、緞帳の降りたステージの上で、その夜にお話をされた方が私のほうに近づいてきて「あんたクリスチャンやないやろ、祈りましょう」と言って私の頭に手を置いて祈ってくれたのです。後でこの方が本田弘慈先生という有名な伝道者だということがわかったのですが、私としては突然の出来事に驚いてしまいました。「な、な、何が起きているんだ」という感じだったのをおぼえています。今では笑い話ですが。

 その頃(1970年代後半)日本の教会の中で歌われる賛美歌は伝統的なものがほとんどでした。従って現代的な感覚の音楽はほんのわずかに存在するという程度でした。

 忠さんがクリスチャンになったのが1975年。ちょうど「モーニング」というアルバムがリリースされ、そのスペシャルサンクスの中に忠さんが通っていた教会の牧師の名前がありました。それを愛知県新城という町のクリスチャングループ「グロリアシンガーズ」のメンバーが見つけ、早速忠さんに連絡をとり、押しかけ演奏をしたそうです。

 その出会いがきっかけとなり、クリスチャンレーベルが必要とのことで生まれたのがミクタムレコード。そして各地でホールコンサートを開いたタイトルが「ミクタム出会いのコンサート」。

 私は第2回の「出会いのコンサート」に声をかけていただき、参加したのです。そのツアーは鹿児島、大牟田、北九州の門司という順番で開催されました。門司でのコンサートの前の晩、ある教会を会場にして、コンサートの為にみんなで祈るという時がもたれました。ツアーメンバーである私もそこに参加。もちろんお付き合いというような程度の気持ちです。

 その会は、まず子供達が賛美歌を歌って始まりました。「天使にラブソング」と全く一緒ではありませんが、リズムのある熱い歌声でした。続いて会場全体が歌い出し、教会が賛美歌でゆれるようでした。

 そんな中、突然私の目から涙があふれ出しました。身体のこわばっていたところがときほぐされるような感じと、子供の頃に感じたことがあるような安堵感の中で涙が止まりません。

 やがて自分の前にイエスキリストが立っているような感じがしてきました。そして「なあ岩渕、おまえはもう私のことはわかっているだろう、これからどうする?」と声をかけられているように感じるのです。それは不思議な時間でした。

 それまで、イエスキリストはクリスチャン達が信じているというだけだったのですが、その瞬間に自分はどうなのか?と自分自身の事に変わってしまったのです。

 その夜、宿舎に帰ってこんな祈りをしました。「神様が本当にいるのなら、よろしく」。

 心の中を涙という出来事を通して一本の河が流れはじめたようなこの夜、家内に電話をしました。「俺はもう神様の存在を感じるようになった。だから明日のコンサートはただ仕事と割り切ってはできない。ひょっとしたらイエスキリストを信じるかもしれないし、信じられなければ、コンサートへの出演をやめて帰るかもしれない」。

 さて翌日はコンサート本番の日。午後になるとリハーサルがあります。夕方の少し早い夕食の時間、コンサートの司会とお話をしていた牧師のそばへ腰をおろしました。そんなつもりはなかったのですが私の口から出てきたのは昨晩の出来事。しばらく話を聞いていた牧師が「ね、じゃ今イエスキリストを信じない?」と言ったのです。そして私は「はい」と答えていました。「イエス様を信じるお祈りをしよう」と促され、私はその牧師の言葉について初めて祈りを捧げました。「イエス様、今あなたを私の救い主として信じます」、そんな祈りです。祈った後に長いトンネルを抜けたような、自分の目が少し明るくなったような眩しさを感じました。自分の中で「素直」が恥ずかしそうにしていました。
* この時の牧師が今いっしょに1000曲の賛美歌を作っている関根一夫牧師です。

 なぜ関根先生と一緒に夕食をしたのだろうと考えてみると、思い浮かぶのは「うまがあった」ということぐらい。

 先生はオーストラリアの学校で牧師になる勉強をしたのですが、その前の大学時代には東京で新聞配達店に住み込んで生活をしていました。クリスチャンでも住みこみなんてするんだ。それが僕にとってクリスチャンに対するひとつの安心材料になったことは否めません。


 その夜のコンサートも目の前が涙で良く見えませんでした。「こんな俺も生きてていいんだ」。なんだか天国におとうちゃんができたような気がして、あの有名な「アメイジンググレイス・おどろくばかりのめぐみ」の歌声が涙の向こうに聞えていました。
このページの最初に戻ります。
 
私とキリスト
 「私とキりスト」なんてたいそうなタイトルをつけたものだと思います。本当は「キりストと私」ですよね。

 私がイ工スキりストを信じた日の夜、泊めていただいていた教会に帰り、翌日の準備をしていると、なんと北九州から大阪経由仙台行きの航空券が見当たりません。私もあわてましたが、まわりのクリスチャンの人達の方がもっとあわてたに違いありません。コンサートが終わって疲れているのにもかかわらず、みんな夜遅くまで探してくれました。

 その姿を見ながら、その教会の力丸牧師がこんな言葉をかけてくれました。「今、岩渕さんがチケットを探しているように、イ工ス様が岩渕さんのことを探していたんだね」。その時は「なるほど、なるほど」と思いましたが、チケットのことがあるので上の空。結局いくら探しても航空券は見つかりませんでした。

 翌朝、航空会社に連絡をすると余席があるので搭乗は可能とのこと。力丸牧師に北九州空港まで送っていただきました。(この当時は北九州空港から旅客機が発着をしていたんですね)カ丸牧師がお土産にと博多人形をくださいました。何か不思議なとりあわせで、今でも忘れらない嬉しい思い出です。

 北九州空港は小さな空港なので機種はYS11。最近はあまり見かけなくなりましたが・・・。北九州を飛び立ってから読んでいた新聞の記事にマザーテレサのことが書いてありました。普段はあまり気にもかけない記事が目に飛び込んできたのです。私の心の変化が、興味を引くものを変え始めていました。

 窓の外は晴れ。眼下に薄い雲が点在しています。なんとその真中に海を背景にした、まんまるい虹がかかっているではありませんか。忠さんの「レインボウ」という歌に出てくる虹は、「約束のしるし」と歌われています。聖書の中、ノアの箱舟で有名な大洪水の後に出た虹を神様は約束のしるしだといいました。まんまるい虹を見ながら、「自分自身も神様と約束したんだ」などどいうようなことをぼんやりと考えていました。

 その夜は仙台で榊原光裕氏リサイタルのゲストとして招かれていました。気圧の変化でおかしくなっている耳に気づかずに、リ八一サルに時間がかかってしまいました。

 コンサートの後、打ち上げに昔の仲間達も集まりました。私の友人の中で唯一のクリスチャンだった、ピクニックオ一ルスターズの石川望氏もそこにいました。私は思いました。自分がクリスチャンになったといったら、望がどんなに喜ぶことだろう。彼のことだから、涙を流し、八グをし、ことばを失ってしまうのでは・・・、などと思いをめぐらせていたのですが、返ってきたことばは「うそ!」。そりゃ「うそ!」だよね。

 「キりストと私」の新しい1日はこんなふうにして始まり、終わりました。

 やがて自分の聖書を買って、新約聖書を読みはじめました。しばらく読み進んでいくうちに、ルカによる福音書の中のこんなことばに目がとまりまた。

「人の子は失なわれた人を探して救うために来たのです。」
ルカによる福音書19章10節

 人の子とはイエスキリストのことです。このことばの中の「失なれわた人」、これは自分のことだと感じたのです。その瞬間、門司の教会の二階で聞いたカ丸牧師のことばが思い出されました。「今、岩渕さんがチケットを探しているように、イ工ス様が岩渕さんのことを探していたんだね」。

 確かに私は「失なわれた者」だったと思うのです。だから「私とキリスト」ではなく「キリストと私」なのです。私がキりストを選んだのではなく、キリストに私が探しだされたのですから。
このページの最初に戻ります。
 
新しい歌
 聖書の中に「新しい歌」ということばがたくさん出てきます。確かにクリスチャンにとって賛美歌は欠くことのできない必需品。クリスチャンとは歌う人達といってもよいかもしれません。

 創世記4章20節から22節に、最初の三つの職業が記されています。まずは食物作りのために家畜を飼う者。道具を作る鍛冶屋。そしてこのふたつのまんなかに、立て琴と笛を奏する音楽家が登場します。聖書からみると音楽は、生活の中のアクセサり一というより、生活に欠かせない大切な柱という感じです。神様って本当に粋だなと思う私です。神様は人間にはとうてい及びもつかない芸術家。まさに創造主です。

 ところで私にとっての「新しい歌」を考える時に新しい心、内面の変化を抜きに考えることができません。

 神を信じるということのひとつは、神様は聖書の教える通りに本当に在存している。そして自分は小さな人間。神様に造られた在存にすぎないことを認めることです。そこからスタートして、やがて自分を支配している暗闇(問題の根)に気がつくとき、救い主を求めはじめるのです。

 クりスチャンとは神無しには生きられないと表明した人達、キりストによって新しい心をもらった人達です。ふー! この「新しい心」が「新しい歌」の出所です。この「新しい心」は不思議なものです。それは現実の生活の中で経験し続けるからです。

 その大きな部分は価置観の変化かもしれません。私の命も人生も神から与えられたもの、人生の中に起こる出来事のひとつひとつは私にとって最善である、と信じられるならば、不安、心配、恐れ、イライラ、焦りなどというやっかいなものから遠ざかることができるでしょう。時には、今でも不安になったり、心配をすることがありますが、帰る港が僕にはあります。今は心に羽をもらって生きているような思いがします。「新しい歌」は私の中でオ一ケストラのように響き続けています。

 もちろん私の場合、作る歌も変わってきました。空しさを歌うような、歌えば歌う前より空しくなるような曲は作らなくなりました。教会に通いはじめて20年以上になり、一歩一歩、足跡のように、今日まで歌を作り続けてきました。昨年SONG BOOKを作りましたが、自作の80曲を収めることができました。どうぞ私の「新しい歌」のページをめくってやってください。

 私には明日何を歌うのかわかりません。まさに聖書の言うように、明日のことは明日が心配するのです。自分ですべてを決めずに生きる。こんなワクワクする生き方がやみつきになってしまった私です。
このページの最初に戻ります。
 
教会
 私が通いはじめた教会は所沢にある小さな教会でした。最初は家族の中で私ひとりが礼拝に出席していました。日曜日になると、しめたこともないネクタイをしていそいそと出かけてゆくわけですが、妻は少し複雑な思いがしていたようです。

 今までは一緒にクリスチャンのことをあーだこーだと言っていたのに、ある日夫はクりスチャンになり、教会に通いはじめる。こんな大事なことまで勝手にひとりで決め、ひとりで行動する夫に対して、少なからず怒りがこみあげてきたことと思います。

 しかし、ふらっといなくなりそうな夫、いつも何かを思いつめているような夫が、少しは気持ちが楽になったような仕草を見せることは、妻として嬉しいことでした。二つの思いが交錯する妻は、複雑だったと思います。

 その教会のA牧師は70オを過ぎた明治生まれの豪快な先生でした。「フアッ、ハッ、ハッ、」と水戸黄門のような笑い声。薩摩琵琶の名人であり、マンドリンを弾き、楽譜が読めるという明治生まれにしては特異な才能の持ち主。

 メッセージで忘れられないのが雅歌のメッセージ(雅歌とは旧約聖書の中にある愛の歌の書)。

 雅歌の1章5節「エルサレムの娘たち。私はケダルの天幕のように、ソロモンの幕のように、黒いけれども美しい」というところから、「キりストと共に生きる者は、自分自身をだめな人間だとか、汚い人間だとか言ってはならない。神はキりストの十字架を通し、私達を美しいと言ってくださる」。そんなメッセージでした。 「なにも心配するな。人は死ぬまで生きるんじゃ」。と人々を励まし続けた先生でした。

 ここで不思謙な話をひとつ。私がその教会に通いはじめるずっと前のこと。クリスマスが近い12月のある夜。祈りの集いが終わった後に、A牧師がマンドリンを、もうひとりの男性がオルガンを弾きながらクリスマスの賛美歌を練習していたそうです。教会の後ろの方では何人かの婦人達が集まって話しをしていました。

 A牧師達が歌っていると、どこからともなく歌声が聞こえてきます。その歌声はA牧師達が歌った後に同じフレ一ズを繰り返すように聞こえてきます。後ろの席の婦人達かと思って振り返ると、婦人達は歌っている様子がありません。やがて歌っていた男性が「先生」と言って上を指さしたそうです。

 そう、その声は天使の声。A牧師はテープレコーダーに録音しようと何度も思ったのですが、立ち上がったらその歌声がやんでしまうのではと思い、録音することができなかったと言っていました。

 その声が本当に天使の声かどうかの判断は皆様におまかせするとして、私はその声がA牧師がいうとおり、天使の声だったと思っています。

 初めて教会に集いはじめたころ、教会のことも、クりスチャンのこともわかりませんでした。実は「イ工ス様」って照れずに言えるまで1〜2年はかかったように思います。主の祈りという有名な祈りがありますが、つっかえずに祈れるようになるまで、けっこう時間がかかりました。
 いつも暖かく迎えてくれた牧師夫妻や教会の方々の心に包まれながら、一歩一歩あるきはじめたのが昨日のことのように思い出されます。
このページの最初に戻ります。
 
デュオ
 私にとってデュオといえば「サイモンとガーファンクル」。若い頃にはずいぶんコピーをしたものです。しかし自分がデュオで音楽活動をすることになるとは思ってもいませんでした。

 忠さんがピッチャーで私がキャッチャーというような関係でしょうか。ふたりの声は違うのですがよくハモリました。二人で活動した16年間、何回のコンサートをしたでしょうか。単純に1年に100回としても1600回になります。

 その間のいろいろな旅の思い出があります。北海道の夏のこと、千歳空港から飛び立つ予定の時刻に台風が接近してきました。前日は支笏湖にいたのですが、空港へ向かう車のワイパーは全開。フロントガラスを滝のように雨が洗っていました。

 そんな状態でもとにかく空港に向かうだけ。途中であきらめたらそれで終わりなので、前進あるのみ。空港についてしばらくすると予定の飛行機が飛ぶとのこと。ほっと胸をなでおろしました。台風一過の青空の中を飛行機は目的地に無事に到着。台風関係の危機一髪は何度かありました。

 それから思い出すのはフィンランド、スウェーデンへの旅。全行程が1ヶ月半にも及ぶ大旅行でした。フィンランドはフィンランド語。スウェーデンはスウェーデン語、それぞれ発音をカタカナで紙に書いて歌ったのですが、好評でした。もちろんほんの数曲でしたが。

 フィンランドでは地方新聞に私達の記事が掲載されました。私の名前はなぜか「IWAN - BUCHI」、「イワン - ブッチー」となっていました。町を自転車で走っているとみんなが黒い髪の私をふりかえって見てゆきます。私ははじめて外人になりました。

 スウェーデンには1ヶ月あまり滞在しましたが、寝泊りは田舎の教会の半地下室。休みの日に何か気分転換をしようと思っても何もない町。私はひたすら教会の大きな庭の芝を刈っていました。

 滞在中にさし歯がこわれてしまい、歯科医に連れていってもらったのですが、言葉の通じない病院ってあんなにスリルがあるとは思いませんでした。「〇×△■◎◆。▼◇〇」、「■◎〇×△■◎◆。▼◇〇」と理解できない会話が続き、突然椅子が倒れ、治療開始。直してもらった歯は翌日に元の状態に壊れました。日本の歯科医ってすごいですよね。

 小坂忠・岩渕まことのデュオで歌いに行かなかった県は宮崎県だけだと思います。海外はアメリカをはじめ、北欧、韓国、マレーシア、インドネシア、ブルネイ、ニュージーランドなどに演奏旅行をしました。そうそうエジプト、イスラエルなども出かけました。

 私はこの16年間、忠さんと一緒に旅をしながらたくさんのことを学びましたし、いろいろな体験をしました。忠さんの歌うエネルギーを感じながら声をあわせてゆく。音楽的にも精神的にも未熟な私が足をひっぱっていることが多かったと思いますが、忠さんは気長につきあってくれました。

 90年に忠さんは牧師になり、働きの幅もひろがり、音楽以外のことでも忙しくなってきました。そして96年にデュオでの活動に終止符を打って、それぞれの働きがはじまりました。

 この16年間がなければ今の自分はありません。日本を代表するロックシンガーである忠さんと活動できたことは私の人生にとって大きなプレゼントです。
このページの最初に戻ります。
 
亜希子1
 1986年の9月の初めのことでした。その日は大阪でのスケジュールがあり、羽田へ向かいました。空港から家へ電話をすると話し中。大阪に着いて電話をしても話し中。まったく電話がつながりませんでした。

 連絡がついたのが会場に到着してからのこと。電話の向こうの妻はいつもと違う声でこう話ました。「亜希子が脳腫瘍でもう手遅れだって」。あまりに突然のことで私はことばを失いました。妻の話では、私が家を出た後に亜希子が嘔吐をし、その様子が普通ではなかったので病院に連れていったとのこと。その結果左側の脳に子供の握りこぶしくらいの大きさの腫瘍が発見されたのです。亜希子が小学一年生のことです。

 先生のお話ではすでに手遅れで、今生きていること自体が信じられないほどの状態とのこと。もう手の施しようがないとの結論でした。しかしあきらめることなどできません。八方手を尽くす中で、翌日に東京の都立駒込病院に入院することができました。

 後から知ったのですがこんなに早く入院することができたのは奇跡のようなものだそうです。この病院には当時子供の脳腫瘍の権威といわれる先生がおられました。大阪にいた私が病院へゆけたのは2日後くらいだったと思います。病院へ向かいながらも今何が起こっているのか理解できないし、信じられない気持ちでいっぱいでした。

 亜希子は1週間の検査に耐えられれば手術ができるということでした。先生はこんなふうにおっしゃったのです。「亜希子ちゃんが手術を受けて助かる確率は1%しかありません。でもこのままではもう命がありません。岩渕さんはクリスチャンだそうですね、私はその1%にかけたいので祈っていてください」。「祈っていてください」と言われた先生のことばに、手術をしていただこうという決心が生まれました。

 手術は8時間の予定ではじまりました。夕方には終わるはずでしたが終わりませんでした。夜中になっても手術室のランプはついたままです。時折輸血用の血液が運び込まれてゆきました。明け方に執刀をして下さった先生お二人が手術室から出ていらっしゃいました。その姿は髭が伸び疲れきった様子で、必死で闘ってくださっていることがよくわかりました。

 先生は頭を下げてこうおっしゃいました。「亜希子ちゃんの予定していた手術は全部終えることができたのですが、手術のために亜希子ちゃんの6人分にあたる量の血を輸血したことで、手術の最後の段階になって一箇所血が止まらないところがあり、もしも血が止まらなければこのまま手術を終えることができません」。どうすることもできない状況の中で友人達も集まってくれて一緒に祈ってくれました。

 娘はその祈りがこたえられるように手術がはじまってから27時間後に手術室から出てきました。駒込病院が始まって以来の長い手術だったそうです。集中治療室で娘の暖かな手を握ることができました。この娘がいかにかけがいのない存在であるかを思い知らされた瞬間でもありました。

 短く感謝の祈りをする私達に、麻酔から覚めかかった娘の口がアーメンとこたえていました。先生から一般病棟に戻るにはいくつかのハードルがあることを知らされました。でも亜希子はそのハードルをひとつひとつ飛び越して一般病室へ帰ってゆきました。
このページの最初に戻ります。
 
亜希子2
 病院には妻が付き添っていました。私は旅が続いていました。ある日病院のエレベーターの前でやはり子供が入院しているお父さんと立ち話になりました。「私は仕事をやめてでも息子のそばについていてやろうと思っているんです」というその方のことばが私の耳にこびりついてしまいました。

 私はどうしてあげることができるのだろう。こんな時はどうすればよいのだろう。心が揺れていました。旅に出る時は病院のある駅を通り過ぎました。本心は行きたくありません。娘の側にいたい。車窓の景色が涙で曇ることも何度かありました。

 そんなある日のこと、心にこんなことばが響いてきました「おまえの娘は私が面倒をみている。これから君がゆくところには明日をどうしたらよいかわからない人たちが待っている。どうする?」その時、私の迷いが薄れてゆきました。そして与えられていることをしてゆこうという気持ちになったのです。神に人生をゆだねることを学んだ時でした。

 ふりかえれば1年2ヶ月の入院の間、2度の手術や重大な決定をしなければならない時など、娘のそばにいなければならない時は100%、娘のところにいることができました。聖書に「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」ということばがあります。このことを実感するような闘病生活でした。

 娘は闘病中に2回の誕生日と1回のクリスマスをすごしました。クリスマスの時には病院でコンサートをしました。車椅子に乗った娘が誇らしげに見ていました。年が明けてしばらくした時、突然40度を越す発熱があり、検査の結果は髄膜炎を併発したとのこと。そのために手術をしなければならないとのこと。私達は娘を治しているのか苦しめているのかわからない気持ちになりました。

 手術を終えて帰ってきた娘は大好きだったチョコレートということばしか話さなくなっていました。「亜希子」と声をかけると返事は「チョコレート、チョコレート」と何度もくりかえすだけでした。そのことばも春になると「レート、レート」となってしまいました。

 連休の前、旅に出る時に娘のところに寄った私はこんなことを話しかけました。「アッコ、イエス様が見えるか」すると寝たきりの娘がこっくりとうなずきました。応えてくれるとは思っていなかった私は驚きましたが、イエス様が今娘の心を照らし、支えてくださっている。いや娘だけじゃなく私達の中にイエス様がいて、支えて下さっている。ということを改めて思い返すことができました。

 それが娘とことばを交わした最後になり、それからはまったく意識がなくなり、87年10月29日、天に召されていきました。

 入院中に先生がこうおっしゃったことがあります。「岩渕さんたちは強いですね」。でも自分達が強くないことは自分達が良く知っています。もしも強く見えたのだったらそれがイエスキリストという方の存在ゆえだなと思いました。
このページの最初に戻ります。
 
人に向かって歌う
  96年の夏、フリーになりました。これから先どうしようかと思案している頃、私がクリスチャンになる前に出会いお世話になった、関根一夫先生と久しぶりに会う機会がありました。(市原氏も一緒で清瀬に近い、今はないアイホップというお店でした。)「これからどうするかはまったく白紙なんです」みたいな近況を話していたら「もしも気が向くようならば、僕が関わっている学校の授業の中で歌ってみない?」と言ってくれました。ひとまず「歌わせてください」と答えた私ですが,実際のところは不安な気持ちがあったことを白状しなけれはなりません。
 
 なにが不安だったかというと、それまでも学校で歌ったことは何度もありましたが、大抵はミッションスクールか教会が関わっているなかでのコンサートだったので、聴く側にもある程度の聴く準備ができている事がほとんどでした。しかし今回は様子が違います。授業の中で、しかも聴くも聴かぬも自由というなかでのコンサート。どんなことになるのか見当がつきません。

 ここからは私の私見ですが、教会主催のコンサートには必ずしも音楽好きが集まっているというわけではないことが多いので、歌や演奏に関 してストレートな評価をいただくことが少ないように感じます。かえって歌よりも曲間のトークを評価していただくことも多かったように思います。

 そんなことが重なると歌う側もトークに気持ちが入ってしまい、気がつくと1時間に数曲しか歌わなかった。などということが起こってしまいます。コンサートが講演会に近いものになってしまうのです。

 いつの間にか私にもそんな癖がついていました。学校でのコンサートの中、必死で話している自分がそこにいました。コンサートが終わって一息ついたころ、関根先生が「あんなに話さなくてもいいんじゃない」と一言。まさにずぼしの言葉です。

 内心は悔しい気持ちがないわけではなかったのですが、そのとうりなのでそのことばを喉の奥に飲み込みました。

 翌日も別なクラスで歌ったのですが、昨日のことばが頭にこびりついています。無駄な言葉を省きながらのトーク、そして歌。結果、歌が聴き手の心に少し違った届き方をしたような空気でコンサートが終わったのです。

 フリーなってから「人に向かって歌 いたい」という気持ちが生まれていたのですが、この学校でのコンサートが私にとって最初のレッスンになりました。

 人に向かって歌うなんて当たり前のことじゃないの、と思われる方が多でしょうが、改めて言い直しているのはこんな理由なのです。

 まず教会で歌われる賛美歌は神に捧げられます。対象は人ではありません。またそれ以外にも神様のことを人に伝えるための歌があります。この場合は当然人に向かって歌うのですが、得てしてクリスチャンにとって心地よい、耳ざわりの良い曲の評価が高くなりがちです。その結果クリスチャンの評価を気にした内容になってゆくことになります。簡単に言うと内輪受けということです。

 内側に向けば向くほど、世間から遊離してしまい、ある特別な人たちというくくりで見られてしまうように思います。私の言う「人に向かって歌う」とはクリスチャンを含んだすべての人に通じる歌を歌いたいということです。

 そのための第一歩が学校でのコンサートにな りまし た。苦みの効いたアドバイスをしてくれた関根先生に感謝しています。今でも良い意味で心の重しになっています。                           
このページの最初に戻ります。
 
遊ぶ会
 遊ぶ会?これは「岩渕まことをだしにして遊ぶ会」という正式名称の会。発起人は中村裕二氏(スクエアーの初代ベーシストで現在はハワイで牧師として活躍中)。この会の趣旨は岩渕まことという歌うたいを素材に音楽的に遊ぼうというものです。しかしその本当の心は私を励ます事だったと思っています。発足の時にはちゃんと趣意書まで作成されていました。

 その呼びかけに名乗りを上げてくれたミュージシャンが市原康氏、西原悟氏でした。規約の中の大切なところは自主参加であること。これは岩渕に精神的にも経済的にも負担をかけまいとする友の心だっとと感謝しています。

 前出の関根一夫先生が当時教会として使っていた場所、その名前はペトラクラブ。ウイークデーにライブ会場として貸していただけることになり、「遊ぶ会」のライブが始まりました。

 しかしこの段階ではその後の展開は想像することもできませんでした。

 「遊ぶ会」ではなんのことかわからないので、グループ名を考えついたのが「PETRA STREET」。それはここで歌われる歌が広がって、遠い将来にはペトラクラブの前の通りが「PETRA STREET」と呼ばれるようになったら、との願いからでした。いろいろな意味で貧しい時には大きな夢を持つことをはばからないのかもしれません。

 ライブのほうも毎月開催するようになり「ペトラライブ」と呼ばれるようになりました。毎回毎回いろいろな方が詰め掛けてくださって、それはそれは私たちのほうが力をいただきました。

 そのライブにあわせて私も歌を作り続けました。思えばこの時期は人生全体を通しても大切な時だったと思っています。
このページの最初に戻ります。
 
ペトラ通り
 ペトラライブも回を重ねて来た頃、中村裕二氏が近い将来ハワイで牧師として働くということになりました。中村氏がハワイに移り住む前に「PETRA STREET」の音を残そうという話が持ち上がり、CD制作ということが頭の隅に顔を出しました。

 それからはどんなCDにするか。資金はどうするか。などいろいろと検討を重ねました。この頃には現在ビ・ブレイブとして音楽制作に携わっている楠章二氏も私たちの仲間に加わっていましたので、彼の力も借りながら計画が進行してゆきました。

 結局スタジオではなくペトラクラブで録ろう。それが自分たちの身の丈でもあるし、今を記憶させることでもあるということになりました。

 録音機材は、中村氏と楠氏のアレンジでBS&Tスタジオから格安でお借りできることになりました。この時にその後レコーディングその他で大変お世話になるジョージさんとの出会いがあったのです。

 レコーディングのための音作りにジョージさんもわざわざ顔をだしてくれました。通常スタジオでは楽器ごとに音を録れるようにブースと呼ばれる小部屋があるのですが、当然ペトラクラブにそのような環境はありません。なんとレコーディングは町からダンボールを集めてくる作業で始まりました。その集めたダンボールを使ってキッチンとの区切りを作ったりしたんです。後にも先にもはじめての事でしたが、今思えばなんだか楽しい時間でした。

 ピアノの音作りにはとても苦労しました。ペトラクラブのピアノはかなり使い込まれたアップライトでした。壁からどれくらい話せば良いか、しかもドラムと同じ場所で録らなければいけないので、音のかぶりもかなり難しい問題でした。

 ジョージさんがミックスダウンの時にふと洩らした「これってピアノの音じゃないんだよな」が忘れられません。

 またペトラクラブは地下。実は地下鉄東西線がその辺を走っています。時にその電車の音がかすかにしてきます。このかすかにはレコーディングの時にはjかなりの音になってしまいます。したがって電車が通り過ぎた時を見計らってレコーディングを始めます。でも長い曲では終わりの方に電車が来てしまうこともありました。その音のために頭を悩ませることも少なくありませんでした。

 しかしこのCD「ペトラ通り」は私にとってはかけがえのない1枚になりました。オープニングの「GOD BLESS YOU」の空気がその時の私たちそのままのような気がします。

 このCDに納められているドラマがペトラストリートとしての活動をはじめてから約1年間の現実のドラマでした。悲しみと戸惑いと深い喜びの。
このページの最初に戻ります。
 
1000曲
 ペトラライブに少し遅れて、歌声ペトラが始まりました。ある日何気なく読んだ「賛美歌聖歌物語」という本の中で、今教会で歌われている賛美歌や聖歌の作者の中には、生涯1000曲、2000曲、3000曲という作曲をした人たちがいることを知りました。毎週の礼拝で新しい賛美歌が生まれていたそうです。

 いつの間にか歌うために、レコーディングをするためにだけ曲作りをしていた自分に気づかされました。だからしっかり作る、そしてまとめる。曲作りってこんなものだったのだろうか。

 自分も生涯の生き様として歌を作り続けたい。そんな思いが湧いてきました。そんな時、関根一夫先生と会う機会があり、「賛美歌聖歌物語」のことをお話しました。話の流れで一緒に作ろうということになり始まったのが1000曲を目指しての曲作りです。関根先生が作詞、私が作曲です。1曲目は「日曜日」。やがてそんな曲たちを紹介する時を持とうと始まったのが「歌声ペトラ」です。

 7曲目の「GOD BLESS YOU」は新聖歌の中にも加えられました。歌声ペトラは月に1回ですから、生きている間に1000曲を作ることは難しいと思います。でも日本生まれの賛美歌がもっと増えたらとの願いを心に、このことを続けてゆきたいと願っています。 
このページの最初に戻ります。
 
神様の絵の具
 「ペトラ通り」の中に納めた「神様の絵の具」とういう曲は特別な出来事の中で生まれてきた曲です。

 ある日知り合いから1本のカセットテープをもらいました。それは能登一郎という牧師のメッセージが収録されたテープでした。知り合いはこのテープを誰かにあげようと思いずっと持っていたそうです。そしてそのテープが私の手に渡ったのでした。

 そのメッセージには能登一郎という牧師のこれまでの歩みが語られていました。そして彼が現在重い病に苦しんでいることが語られていました。その時、私の中に「この人に会いにいかなければ」という、いても立ってもいられないような気持ちが生まれました。

 その後、幾つかのいきさつが重なって私たち夫婦は能登さんの病室を訪ねることになりました。ちょうどギターを持っていた私は「贈りもの」と「父の涙」をその病室で歌いました。

 2度目に能登さんを訪ねた時、やわらかな日差しが差し込む病室には不思議な静けさが満ちていました。大きな窓には東京の街が広がっています。

 現実としての痛み、苦しみは確実に能登さんとその家族を襲っています。しかしもうひとつ、そんなことを意にも介さないスケールの存在が能登さんと家族を包んでいるようでした。

 そこにある安らぎはそれまで感じたことのないものでした。それはやがて私のなかで歌になりました。歌ができた時、真っ先に能登さんに聴いてもらいましたが、それは何人かの方が集まった、能登家の小さなホームコンサートになりました。

 能登さんからこの歌を歌う許可をもらい、「ペトラ通り」に収録することも決めました。しかしこの歌を録音する日の午前中、私は能登さんの葬儀に出席してこの歌を歌っていました。30数年の人生でした。

 以前病院で話をした時に、能登さんは「なぜ父の涙を歌ってくれたかがわかる気がする」と言ってくれました。この葬儀の中でこんどは私がこの能登さんの言葉の意味がわかったような気がしました。能登さんが父親であり、子供を、そして奥さんを残してゆく悲しみ。ご健在のお父様より先にゆくことへの悲しみ。そしてキリストを十字架につけた父なる神の悲しみ。

 悲しみから目をそらすことなく、その痛みを曖昧にすることなく歩き続けた能登さんの姿に、多くの人が涙し、いのちに対する理解を新たにさせられたと思います。

 やがてそのメッセージは「神様の絵の具」という本としても出版されました。

 私自身が苦しみ失望していたこの時期に、能登さんという人に出会えたことを感謝しています。そして、永遠というスパンの中での再会を楽しみにしています。 
このページの最初に戻ります。
 
永遠鉄道
 ゴスペルシンガー、ゴスペル。このことばからみなさんはどんなイメージを持たれるでしょうか。

 教会といえば高い塔、重い扉、鐘、神父などなど、普通に出てくるイメージはこんなものだと思います。確かに伝統的な歴史のある教会はこのようなイメージがあると思います。しかし現代的な教会は大分雰囲気が違います。

 私は1980年にキリストを自分の救い主として信じ、歌う歌も変わりました。それからはゴスペルソングといわれる曲を作るようになりました。もちろん黒人霊歌のようなスタイルではなく、自分自身のスタイルの音楽です。教会にはゴスペルフォークなんていう言葉もありますよ。私がフォークかどうかは微妙ですが・・・。

 「永遠鉄道」は西洋というよりはオリエンタルな、より自分の文化に近い、あるいはルーツを感じるような曲作りをとイメージして作った曲です。モンゴル(行ったことはありません)の草原を蒸気機関車が疾走しているイメージです。ゴスペルフォークというジャンルがあるならばこちらはゴスペル歌謡かもしれません。

 この頃から日本人のクリスチャンである自分への問いかけが始まったのかもしれません。教会もクリスチャンも世間からかけ離れた存在では誰かの役には立ちません。私は私の歌うゴスペルを日本文化に近づけることを模索し始めました。それはただの自己満足で終わりたくないという思いからです。

 一流のファッションに身を固めた若者に焦点を合わせたゴスペルも必要ですが、ごく普通の生活をしている人たちにふれるゴスペルも必要です。それは希望が希望となるために。ショーウインドーの中にある幸せをお茶の間に持ち帰るために。

 黄色い肌の、胴長短足のゴスペルがゴスペルと呼ばれる日を夢見て。     
 このページの最初に戻ります。
 
生かされて
 生かされる。なんていう言葉はいかにも何かを信じている人のことばなのかもしれません。でも私はクリスチャンにならなければもう歌っていなかったでしょうし、今生きていたかどうかも定かではありません。もっともっと身体を痛めつけていたことは間違いがありません。

 「ドキドキスキップ」という曲に「生かされている」という言葉が登場します。この曲はペトラストリートの牢名主のようであったフルート奏者、中谷望さんの闘病がきっかけで生まれました。中谷さんとは数年という短いお付き合いでしたが、精神的に私を支えてくれた人でした。

 「歌いたいように歌えばいいんだよ」「俺が汚れ役をやるから、あんたはかっこよく歌えばいい」こんなことばをいくつもらったかわかりません。

 歌い手っていうのは聴き手にはどんなふうに見えるのでしょうか。ほうっておいても大丈夫な人間に見えますか。実際のところは違います。言ってはいけない言葉かもしれませんが、
励ましがほしいものです。

 中谷さんは私にとって兄のような存在でした。心を汲んでくれる存在でした。

 そんな彼は癌との戦いの真っ只中にいて、手術や入院を繰り返しながらフルートを吹き続けました。その姿はいのちを吹き込んでいるという姿そのものだったと思います。

 色々な治療を試みましたが、どれも完全ではありません。4回目の転移の宣告を受けた時に、彼は私の手を握ってこんなことを言いました。「これに勝てれば大丈夫だと思うよ」。
しかし癌は彼の身体を蝕んでゆきました。

 私はそんな中でいろいろな治療に関しての本を読みあさりました。そんな中出会った一冊の本にこんなことが書かれていました。

 それは、癌と戦ってはいけない。それを受け入れることが必用。戦うということがその人の身体を蝕んでゆくことになる、という内容でした。そのことの医学的な裏づけはわかりませんが、その本には確かにひとつの生き方が示されていました。そしてそれは聖書の中で教えられていることに近いと感じました。

 その本の後半。実際病んでいる方の話が書かれていました。病気も含めて全てを感謝し始めた時に生きていることを本当に喜ぶことができた。当たり前の朝、当たり前の太陽を見ながら感謝の涙を流したというものでした。

 中谷さんはその年の秋に天に帰ってゆきました。私は今でも「くやしい」と思っています。感謝しながら生きることの意味は知っていても、本当に身につくことの遠い私。

 だからこそ「生かされている」と歌い続けるように歌をもらうのです。
 このページの最初に戻ります。
 
HEAVENLY
 「HEAVENLY」は2000年にリリースしたセルフカバーCDのタイトルです。80年代前半に作った「流れのほとり」「180度」、80年代後半に作った「父の涙」「贈り物」、そして90年代前半の「にぎやかな天国」などをセルフカバーしました。タイトル曲の「HEAVENLY」「願い」などの新曲も収録しています。

 音楽的には私一人で録音をし、ダビング(後から音を重ねる)をしないで一発で録音するというコンセプトです。その時を切り取ることができればと考えたのです。

 さあ実際に録音が始まると、言うはやすしで、そうそう良い録音が取れるわけではありません。スタジオオーナーでありエンジニアであるジョージさんが本当に良くしてくれて、好きなようにレコーディングをさせてもらいました。

 自由にわがままに録音をさせてもらう。それはやがて自分との戦いであることに気がつきます。1日に何度も一球入魂という感じで演奏できるわけでもなく、最高のコンディションが持続できるというわけでもありません。

 実のところ良い録音が録れるのは録音をし始めてからせいぜい2回〜3回歌う間なのです。その後は何回やっても「ちゃんと歌う」という気持ちのほうが勝ってしまい、良い歌にはなりません。それを過ぎるともうけんか腰の歌にもなりかねないのです。

 歌うまでのコンディションを見極める。そして今日、今の自分はここまでという見極めをすることを繰り返しながらレコーディングが進んでゆきます。

 楽器はギターとブルースハープだけ、歌は私だけ。それでも1曲ごとに曲を生かすためにマイクのセッティングを変えて最良を目指すエンジニア。こんなに贅沢なレコーディングをしたことはなかったのではないか?という思いがよぎりました。素晴らしい環境と人、そして自由という時間が与えられるということの贅沢を改めて感じました。

 このCDを聴きこんでくださった方は気づかれていると思いますが、ミックスダウンも曲ごとに違い、微妙なニュアンスとドラマを作り上げています。こんな単純な音のアルバムをひとつのストーリーにしたてる。そこにはディレクターやエンジニアの隠れた時間が積み上げられているのです。

 「HEAVENLY」は今も変わらずに売れ続けているCDの1枚になりました。
このページの最初に戻ります。