相手を傷つけてしまったら、どうすればいいのか

 私たちは日常の人間関係を悪くしないために(あえて「よくするために」とは言いません)、お互いが傷つけあわないように細心の注意を払っているはずです。 だから無神経な人は嫌われるのです。 しかし何度も繰り返してきたことですが、本当にお互いに傷つけあわないように努力すれば、傷つけあうことはなくなるのでしょうか。 私はどんなに努力しても、気配りをしても結果として傷つけあうことはなくならないと確信しています。

  その避けられないことをあえて避けようとするから、なにもできなくなるし、なにもやる気がなくなるのだと思います。 相手を傷つけないことは、とても簡単なことなのです。 なにもしなければいいのですから。 それでも、親などは子供のそのような態度を心配して傷つくでしょう。 いま若者の無気力の背景には無意識のうちにも、このよう原因があるのではないでしょうか。 

  お互いに傷つけあわないようにすることは、とても重要なことです。 でも結果的に傷つけあわずには生きられないのです。 それを避ける方法がなにもしないことなのです。 それは相手を傷つけることが怖いというよりは、相手を傷つけることによって自分が傷つくことの方が怖いのです。 問題がすり替えられているのです。  

  それによって、本当に自分も相手も傷ついていないのでしょうか。 このことこそが、自分を一番傷つけているのではないでしょうか。 自分や相手が傷ついてときにどうすればいいかを経験していないから、ますますなにもできない、なにもしない人間になっていくのではないでしょうか。 お互いに傷つけまいとすることが、自分を一番傷つけているのではないでしょうか。 どう自分を傷つけてしまうかというと、なにもしないことによって自分が無力になってしまうのです。 無力感はすべてを失う原因です。

 もし、相手を自分の意に反して傷つけてしまったときにどうすればいいかを分かっていれば、生き方はまったく違ってくるのではないでしょうか。 そんなときにどうすればいいのかが分からないので、自分の殻に閉じこもってしまうのですから、対処の仕方を分かっていれば一時的には生きることがつらくなっても、自分に閉じこもる必要もなく無力感を味わうこともなくなるはずです。 この点だけは忘れて欲しくないのです。 生きるためには現実と正面から向き合わなければならないのです。 このことだけは、どうしても忘れてはならないことです。 人生に逃げ場はないのです。

  もし結果的に相手を傷つけてしまったときは、どうするか。

知らない振りをして逃げる
言い訳して責任を回避する
誠心誠意あやまる
   (謝ることは責任回避ではない)
自分を責める
反省して、同じ過ちを繰り返さないようにする
 
  他にも方法はあると思いますが、私の考えられる方法が上記の方法です。

  知らない振りをして逃げても、自分がそのことを忘れることはできないから(本当に忘れてしまうこともありますが、それは例外です)、それが負い目になって生きることがつらく苦しくなってしまう。 逃げれば逃げるほど、生きることがつらくなる。 これがいまの若者には多いのではないでしょうか。 相手によかれと思ってしたことが相手を傷つけたという負い目が、自分をも傷つけ、生きることをつらくしてしまうのです。

 言い訳をして責任を回避する。 自分が相手によかれと思ってしたことに言い訳をするから、かえって相手の反発を買うのではないでしょうか。 

  結果として相手を傷つけてしまったことで自分を責めてしまうから、なにもできなくなってしまうのです。 自分は悪気があって相手を傷つけたのでなければ、相手に事実の説明をして相手の分かってもらうしかないのです。 相手も感情的になっているでしょうから、相手に納得してもらうことはできなくても理解してもらうことは可能だと思います。 理解することと納得することは違います。 どこかに書いたと思いますが、繰り返します。 理解することは理性の問題であり、理屈で納得することです。 これに対して納得することは感情の問題です。 感情の問題は面倒くさく、なにひとつ問題が解決していなくても感情的には納得できることもあるのです。 感情とは不思議なものだと言えます。

  自分でよかれと思ってしたことで結果的に相手に迷惑がかかっても、自分を責めてはいけないのです。 よかれと思ってしたことで自分を責めるからになもできなくなってしまうのです。 この場合は事実を説明して相手に分かってもらうしかないのです。 他にはないと思います。 間違っても自分を責め続けてはいけません。 一時的に自分を責めることは仕方のないことですが、いつまでも自分を責めてはいけません。 絶対にいけないのです。

  なぜなら、なにもできない人間になってしまうからです。

  要は反省して同じようなことを繰り返さないようにすることと、相手に誠心誠意事実を説明して分かってもらうしかないのです。 謝ることはちょっと違うことなのですが、相手に分かってもらう方便として謝ることも必要でしょう。 自分を責めて謝るのではなく、事実を説明するために謝るのです。 現実には難しいことですが、この違いを理解しておかないと自分を責めることになってしまうからです。 同じ謝るにしても、自分はどんな動機から謝っているのかが重要だと思うのです。 

  このような努力をすることによって相手に分かってもらうことが、自分に自信をつけてくれます。 この次にはその自信が支えとなり、状況は自分にいい方向に向かっていくと思います。 これが経験が自分を育てるということです。 なかにはどうしても分かってもらえない人もいるでしょうが、そんなときは相手が悪かったとあきらめるしかないのです。 世の中は様々の考えの人がいるのですから、そのすべての人にいい顔をしようとすることが無理なのです。 一体自分の人生で出会う何割の人によく思われれば、気がすむのですか。 このこともとっても重要なことだと思います。 八方美人になろうとするから、よけいな苦しみを背負うことになるのです。

  自分の人生で出会う何割の人とうまくやっていければ、自分は納得できるのか。 これはとっても重要な問題であり、自分しか決めることができない問題です。 他人は自分の考えるようには考えていないし、自分の考えるようには動かないのがあたりまえなのです。 それなのになにごとも自分の思い通りにならないと気がすまなくなれば、生きることはつらくなって当然ではないでしょうか。

  自分の人生で関わりを持つすべての人を傷つけずに、すべての人に傷つけられずに生きることはできないのです。 「相手にとってよかれ」と思ってしたことでも、ときによっては相手を傷つけてしまうこともあるのです。 人生において完全はないと思います。 ないものを求めるから生きることがつらく苦しくなってしまうのです。 このことはいくら言っても言い足りないことだと思います。

  自分が悪かったのでいくら謝っても、相手が許してくれないのなら、それはそれで仕方がないのです。 それ以上、どうすることもできないのです。 できることは、ただひとつ。 そのことを勉強と反省材料にして、同じ失敗を繰り返さないようにするしかないのです。 過去の出来事を勉強にも、反省材料にもできないから、どうにもならないことで悩み、そして苦しむのではないでしょうか。

  あきらめるべきことをあきらめられないから、自分で自分の生き方を苦しくしてしまうのだと思います。

  このことは「人生の問題はどう解決するかより、どう対処するかが重要だ」と密接に関連しています。
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