「選ぶ」とは、どんなことか

    選ぶとは → 捨てることでもある

 私たちの日常生活は「選択」の連続です。 話を分かりやすくするために、ひとつの例を引きます。 スーパーでばら売りのトマトを買う場合を考えてください。 数多くのトマトの中から一個だけ選ぶという行為は、それ以外のトマトは自分の判断基準に従って捨てているわけです。 もちろんそのようなことを意識しながら選んでいるとは思いませんが、論理的に考えてみるとこうなるはずです。 したがって、このことを私たちの生き方や考え方を選択するときに当てはめれば、様々な生き方や考え方の中からあるひとつの可能性だけを抜き出して自分の方向を決定し、残ったほかの可能性は捨てることになります。 これが「選択とは捨てること」の本当の意味です。 大事なことも、ささいなことも、選択するときには意識的・無意識的にせよ、この過程を経て自分の意志を決定しているのだと言うことを忘れてはならないと思います。

  つまり私たちはなにかを選択(決断)するたびに、ほかの可能性を犠牲にしている、あるいは捨てているということこそが重要なのです。 だからこそ後悔するときに、「ああすればよかった。 こうしなければよかった」と思うのです。 私たちは人生を振り返ってみたときに、このような生き方しかなかったのだと思いこみがちですが、それはあくまで結果論であって、その時点その時点では複数の生き方の中からひとつの生き方を選択した結果が、「このような生き方しかなかった」と言わせるのです。 私たちは選択するとか、決断するというときは人生の一大事のときにしかしていないように思いこみがちですが、毎日の生活のなかで行っているのです。 ささいなことも決断できない人には、大きな決断ができるはずがないのです。 私は若いときには、大きなことをするには「ささいなことはどうでもいい」と、大変な誤解をしていました。 そしてささいなことにも細心の注意を払う人を軽蔑していました。 「あいつは気の小さなやつだ」と。 ささいなことにこだわることはないのですが、ささいなことにも大きなことと同様の注意を払う必要があったということを、40才を過ぎてから気がつきました。

  「こだわることと注意を払うこと」とは似ているようで、内容はまったく違うことなのです。 このことを混同すると、生きることがつらくなってしまうように思います。

  どんなささいなことでも「選択する」ということは、決断です。 決断については別に書きますが、ここでひとつだけどうしても話しておくことがありま、す。 それは、ささいなことの決断をないがしろにしては、大きな決断はできないということです。  ささいなことの決断をないがしろにしてたとえ大きなことを決断したとしても、間違った決断を下す割合が高くなるでしょう。 ささいなことの決断というトレーニングが、大きなことの決断を可能にするのです。

  若いときから決断する習慣を身につけておかないと、大人になってもひとりではなにもできなくなります。 パラサイトシングルと呼ばれる人たちが話題になっていますが、そのような人たちは小さいときからなにごとも親の決めた道を歩んできた人たちだと思っています。 小さいときに自分で決断する習慣がなかったので、大人になっても自分で決断できなくなった人たちだと思います。

  生きることを苦しくしないためには、若いときから自分で決断する勇気を身につけることが必要不可欠です。 自分で決断したことには自分で責任を持たなければならないし、責任転嫁をすることもできなくなるから、自然に自分の生き方を慎重に考えざるを得なくなるのです。 決断とはほかの可能性を捨てることですから、勇気のない人に決断はできなくてあたりまえなのです。 

  他人から与えてもらった生き方には、いつも相手に責任転嫁ができますから自分に責任を持つことがないのです。 自分で決断したからこそ、自分の生き方が大切になってくるのです。 自分で決断した人生にこそ価値があるのでと思います。 いま生きることに価値が見いだせなくて悩んでいる人は、自分以外の人(多くは親)の決めた道を歩んでいるのではないでしょうか。 他人の決めた道を歩んでいるから、生きることに価値がなくなっているのではないでしょうか。

  他人の決めた人生を歩もうとしているから、生きることに意味がなくなっているのではないでしょうか。

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